95話 【VS.】気丈夫な狼の姫君 ジャハル・カラル・ランディー 2
敵の喉をついた一撃
さらにありえない箇所への一撃
卑怯
相手は女性
こいつは一応主人公
明人は、ジャハルの喉を突いた。突いたとはいっても、合わせた親指と中指に力を込めてそっと突き出しただけ。あとは相手が勝手に自爆した。
強固な筋肉の鎧ですら守ることのできない箇所、喉。つまり、先の戦でも使用したことのある内臓への直接攻撃でもあった。
「げぇ……ぐぁ、がっ……」
煙に燻されたかの如くジャハルは咽ぶ。
端正な顔だちをぐしゃぐしゃに歪めて、必死に呼吸をしようともがき苦しむ。
「どうする? つづけるか?」
これは殺し合いではなくルールに則った試合である。
明人は追撃をせず問いかけた。
「ひっ、ひっ……あぐっ……! あ、たりまえ、だっ!」
ジャハルは覚束ない足どりでよろよろと立ち上がった。
息が上がったうえに呼吸困難。となれば脳に酸素が送れなくなるため、よく効く。
「な、ぜ……! なぜアレだ、け打ち込、んだのに……ぐっ、平然と立っていられる!?」
怒りに満ちた酷く霞んだ声だった。
明人は、涼しい顔でパイロットスーツの襟元を引っ張ってみせる。
「このスーツは、流動生体繊維ってのでできてて耐衝撃性に優れてる。残念ながらボディに攻撃されてもそんなに効かないんだよ」
流動生体繊維とはプログラムされた人工微生物の集合体によって編まれた生地の総称だった。
そしてこれは方舟計画によって生み出された副産物である。ワーカーと同様、地球の人類にとってすら超過技術。データによって教え込まれたシステムで形を成し、人体の垢を食らって単一で数を増やす生き物だ。
「もとは宇宙服を考案して作られたらしいけど、今やオレたち操縦士の制服になっているんだ。こんなのでも優秀な防寒着だからね」
そして明人の認識番号840の文字は、生み出された操縦士の数と比例していた。
もとは新天地を目指して考案されたものと知らされている。が、パイロットスーツは数の少ない操縦士の命綱でもあった。
観戦していたワーウルフたちが次々罵声を飛ばす。
「この卑怯者がッ!!」
「やはりヒュームに誇りはないのだなッ!!」
「ルールを破ったのならば貴様の敗北だ!!」
いまにも飛びかからん勢だ。
有る事無い事が好き放題に飛び交う様は、滑稽なもの。
「と、言ってるようだけどどうなんだい?」
ちらりと。荒れ模様の会場を前にして震えているエルエルにむかって明人は視線を送った。
すると、エルエルはなにかを思い出したかのように眉を上げ声を張り上げる。
「あっ、武器は禁じましたけど防具の使用は禁じてませんですのよ!」
偉大なる天使による制止は、荒れ狂う狼たちのことごとくを一瞬で黙らせた。
武器を使わないという縛り。これは、鎧の着脱は含まれていない。
つまり、着込んでいても別に構わないということ。これは別に明人のはった罠ではなく、ジャハルが勝手に脱いだだけ。
「……すまないな。ふぅ……我の同胞たちが失礼を働いたようだ。確かに道理は遵守していると言える。いちおうの謝罪をさせてくれ」
地に膝をついても気高き魂は汚れずといった態度で、ジャハルは行儀よく頭を下げた。
高い位置でくくられた細い線のような頭髪が僅かにうねる。
それでも確実にダメージが残っているだろう。体中にまぶされたかの如く吹き出した滝のような汗は、傍から見ても決して調子がよさそうには見えない。
「ヒュームが……たったの1撃で、ワーウルフに膝をつかせたのか……?」
誰かが言った。おそらくはヒュームのなかの誰か。
それを聞いたジャハルは、僅かに眉をひそめて口を結ぶ。悔しさが滲みでた。
「っ、不覚……!」
男義と気高さ。つまり、プライドとは時にこうして枷となることもある。
だから明人は笑ってやることにした。それもとびっきりの笑顔で。
「いいよいいよ。それにオレはジャハルに礼が言いたい」
一方で、礼を言われる覚えがないのだろう。
ジャハルは肩を激しく上下に揺らしながら首を傾げた。
「手加減してくれてありがとう。顔を狙った最初の蹴りを何度も打たれてたら、もう負けてた」
「それは……別に、礼を言われるほどのことではないのだがな……」
ジャハルは居心地悪そうに顔をそむける。
それでも明人はつづけた。
「見せてくれてありがとう。これでようやく勝てそうだ」
そして表情を改めて引き締め、両手を上げ、構えた。
丸みを帯びた肩を引き寄せ顎を守り、ゆるく握られた拳は相手に狙いを定める。
これは牙を剥く行為にほかならぬ、攻撃の意思。見よう見まねのボクサーっぽいスタイルで迎え撃つという伝言。
一瞬の沈黙が両者の間を風と共に吹き抜けた。そこからざわりと試合場が騒がしくなった。
けたけたと。ヘルメリルは細指をむけて笑う。ワーウルフたちは怒号に似た罵声を再度飛ばす。
「……勝つ? ……勝つといったか? ヒュームが? この我にッ!」
階段を登るようにジャハルの口調から怒りの度合いが増していく。
牙を剥き出し、あまつさえ口の端から赤い線が垂れていく。
「この我に?! 勝つといったか!? 貴様ァ!!」
「ああ。というか、もうオレが勝ってる。もう……覚えた」
関の山。限界というやつか。
はたまたぷつん、と。どこかの糸でも切れたのか。
ジャハルは、その美麗な顔からまっさらに感情を消した。
見開かれた瞳。ゆるく傾いた頭。痙攣する口角。
そして、発破する。
「 1 撃 く れ た 程 度 で 図 に 乗 る な あ あ あ あ あ あ あ !!!」
滑走する。振り上げる。そして、振り下ろす。
正確な一連の動作は、怒りを体現していても体に染み付いているのだろう。その表情はまさに鬼神を描く。
「オマエもな?」
「――クッ!」
それを明人は素早く、逸らす。
つづけての打ち込まれる右の1打も逸らす。次いで左の猛撃、それも叩き落とす。僅かに甘い右の2打目は肩で受け、左の2打目は腹で受けた。
ジャハルによって放たれる猛攻の襲来。しかし、明人はただ1点のみを見つめながら、時に弾き、時に受ける。
観客の喝采が対戦者ふたりの体と鼓膜を叩き、アザムラーナの村は湧きに湧いた。
「ちぃッ!! 当たっている!! しかし、なぜだ!? なぜ倒れんッ!?」
「よっ、覚えたって言ったろ? ほっ、オマエには癖がある」
躱すついでのように明人は、答えた。
しかし、連撃の嵐は止むことはなく。無論に油断もない。
「癖だとっ!? テキトウなことを抜かすなァ!?」
ここでジャハルはあからさまな同様を見せた。
そして、同時に明人はここではじめて反撃にでる。
体を深く深く深く沈め、もはや膝すら曲げきってるまで。伸び上がりと同時に勢いの乗った拳をある部位にむかって放つ。
「ぐぁっ……!?」
殴ったのは、ジャハルの両脚の狭間にある根本も根本部分、恥骨だった。
それは喉と同様に決して鍛えられぬ部位のひとつでもある。油断を突いておこなわれる、常識を逸脱した箇所へのさらに油断を突く行為。
「あ”あ”あ”っ!?」
「男も女も、そのへんが弱点なんだ。だけど女はなんで注意がむかないんだろうな」
ジャハルの顔は苦痛に歪んで、たまらんとばかりに早々と飛び退いた。
ふかふかの尾をくるりと下に丸め、股間を抑えるようにした手を内のうちももで締める。まるで男が金的を狙われたときのように、だ。
若干引き気味の観客のなかで唯一、目に涙を浮かべてゲラゲラと笑うものがいた。
「見ろ見ろ! 最高の見世物じゃないかっ! ひぃーっ、ひぃーっ……あんな無様に攻撃するヤツなんて始めて見たぞっ!」
もはや呼吸することすら難しいようだ。ヘルメリルは悲鳴のように喘いでいる。
フリルとレースのスカートの上から膝をばしばし叩いた。
さすがの試合中の明人でも我慢の限界がある。
もとより、こんな状況においやった総本山。募る恨みは底知れぬ。
「覚悟しとけよコノヤロウ!! もう服を散らすだけじゃすまさないからな!! いいか!? 絶対だぞッ!!」
「アーッハッハッハッハッハ! ヒヒヒッ! ウフフフフフッ!」
「おいこら聞いてるのか!? しかも生きる上でそこまで笑うことあるか!?」
時を同じくして、ジャハルは額に粒の汗を浮かべながらも構えをとる。
喉に恥骨と、急所を2度も捉えられてもまだその瞳は死んではいない。逆に、爛々と怒りの炎が燃えたぎっていた。
「……どうやら私の癖を見抜いているというのは本当のようだな」
それを見て、明人も構え直す。
「ああ、オマエは力んで打つ時に耳が動く。ゆるく打つときは尾っぽがほんの少しだけ右をむくんだ」
「……まさかあの短時間で私でも知らぬことをそれほど正確な観察していたのか。……面白い」
口角を痙攣させながらもジャハルは強がるようにニヤリと、ほくそ笑む。
意識がむいているのだろう。尾っぽはピンっと張って上をむいている。それでも耳はぺたりと垂れ下がったまま。
――ま、嘘なんだけどね。
そして、明人はいけしゃあしゃあとだまくらかす。
なおこれは、この試合がはじまってから1度目の嘘ではない。
幾重にも張り巡らされた臆病者の卑怯はもはや誰も気づかぬままに対戦者と観客に絡みついていた。
試合とは技と技のぶつかり合い。しかし技の極意とは神経だけではなく脳を含む体のすべてを惜しむことなく出し切ること。つまりこれは、正々堂々とした純然たる真剣勝負という認識だった。
「まだやるのか?」
再び問う。
当然、返ってくる言葉を知っていながら。
「当然だッ!! 我は一族の代表であり、貴様はヒューム!! ここで引いたら一族の名に泥を塗ることになる!!」
「いいね。さすがは誇り高い狼の一族だ」
ジャハルは、牙を向いて唾を飛ばすように怒鳴り散らした。
1度目の嘘というのは、人がヒュームという存在に成り代わっていること。これによって序盤は油断、後半は焦りを誘う。
しかし、これはただの保険でしかない。
「それに、先ほどのですべての技を見せたと思うなよ?」
そう言って、ジャハルは顔の横で構えていた拳を胸の前に降ろす。
そして、親指を曲げて他の4指を伸ばして密着させた。手刀の構え。
「……」
「さあ、仕切り直そうか!!」
ジャハルは尾っぽの毛を逆立てながらも、しなやかな足で草を滑るようにして距離を詰める。
明人は、間合いを見計らいつつ一点に目を据えて拳を握り直した。
「フゥゥッ!」
びゅう、と。風を切って豪と速の手刀が繰り出される。
横に薙ぐ一撃は明人の頬を僅かに切り裂いて振り抜かれた。
「誤差修正……」
「ハァッ!」
つづけて鼻っ面目掛けての威力のある左の突き。
尋常ではない速度である。それを明人は叩いて逸らして、テキトウにジャブを放つ。
「せェェッ!」
ジャハルは躱し、つづけての脳天を目掛けた唐竹割りの如き一撃を繋ぐ。
それを明人は横に体を開き最小限の動きのみで躱す。両脇腹を狙った回避の難しい甘い手刀のみ甘んじて受ける。
「ッッ!」
「ちぃッ!」
この間およそ2秒ほどの出来事だった。
ジャハルは、眉間にシワを刻みながらも怒涛の攻撃をつづけた。
「なんでオレたちと同じヒュームが、ワーウルフを相手に闘えてるんだ……?」
「し、しかも互角……!」
「いや、それ以上かもしれないぞ!」
そして、観客達もおなじように、ざわざわとどよめいた。
男らは押し殺した声で呟く。その目は信じがたいものを見るように揺れ動いた。
「…………っっ!」
しかし少女だけは他の誰とも違う。
じっと手を結ぶ。決闘の行く末を瞬きすら忘れるほど真剣に見守っている。
「あの人は、ふにゅ~さんは、あなたたちとは、根本的に……ちがう」
そんなヒュームたちを前にしてキューティーはどもりつつも言い切った。
背は低く観戦の最前列にいても邪魔にはならない。
「……人?」
「そう。そして、あの人は、あなたたちよりもずっとずっと弱くて、ずっとずっと臆病。だけどずっとずっと心がキレイで、勇敢」
くりくりの栗色眼が、しっかと決闘中の明人の背中を見つづけていた。
躱し、弾き、払い、受け流し、ときどき撃ち込む。その勇敢なる姿を網膜へ焼きつけるよう。
「あの人は、わたしたちの友だち。あの人が、すべてを繋げてくれた」
キューティーは悦びに満ちた声色で、艶っぽく目を細める。
「……そんなこと……言われても……オレたちじゃ……もう……」
青年は忌まわしき廊なき檻からただ外を見つめるだけ。
踏みだせず。手すら伸ばさず。その場にとどまりつづけた。
空はとうに紫色に染まっていた。夕日は落ちきり帳が下りるのみとなっている。
「クソッ! クソォ! なぜだッ!? なぜ倒れんッ!?」
体中からしどと汗を吹き流しながらもジャハルは攻と防を交互におこなう。
もはや呼吸は乱れに乱れ、その攻撃はただ単調になっている。
「この、ヒューム如きがァッ!!」
勇猛な戦士の顔つきは、もはや砂上の楼閣。怒り以上に焦りに彩られていた。
全力ならば確実に勝てていただろう。しかしこれは殺し合いではなく、試合。ヒューム如き、すべてはこの一言に集約していた。
――ここまでだな。これ以上つづけたらこの子の名誉に傷がつく。
明人は頃合いと見定める。
ヒューム如きに負けられない。転じて、ワーウルフであるからこそ体術を使う決闘では、ヒューム如きに本気はだせない。
ヒューム如きにという単語。それは見事に油断へ繋がってくれた。だからこそ明人は人間であるという単語をひた隠しにしていた。
そして、ここまでで積み上げてきた嘘と嘘によって塗り固められた貯蓄が引きだされる。




