77話 やっぱり、平和はつづかない
「のじゃ、なのかな?」
「なのかな、のじゃ?」
枝を絡めるように生い茂った木々たちに降り注ぐ光の束。空が白ばみ、暁に染まる。
効率化された家事である掃除洗濯湯沸かし。そして、家主を風呂に放り込んで各々が趣味にふければ時刻はおおよそ昼時となる。
ルスラウス大陸はともかくとして、ここ誘いの森は間違いなく平和だった。
そしてこれは昨日まで、という内容での話をしている。
「なのかなのじゃ、なのかな?」
「のじゃなのかな、のじゃ?」
山の如しと座した老父が唐突に現れたのが今日の始まりだった。
座に着いた双腕のゼト・L・スミス・ロガーは、義手ででしきりにつららのように長い顎髭をしごく。
「あ、あの……お茶飲みます?」
恐る恐る。舟生明人は、覇気のようなものを纏った老人に語りかけた。
朝、目覚めたらそこに巨漢がいるのはなかなかにスリリング。無論、同居者も気づいたがとにかく家主を起こすことが先決と見て、今に至る。
掃除はできず、洗濯もできず。少し早い目覚めに家主も覚醒には至らず。
「断る」
老父の口から地の底より上がってくるような低音が吐かれた。
そしてまたムッツリと口元で富士をかたどった。
「遠慮しますじゃなくて断られたのははじめてです!」
明人も鬼気迫る客人に負けじと虚勢で返す。
隣でとろけている風呂上がりの家主の頬をつついて助けを求めた。
「……むぁ~」
起きる気配は微塵もなく、ほんのりと血色の良い唇を鯉のように開くだけ。
それらをよそに同居者は「ちょ、ちょちょ、ちょっととととトイレにいってくる」と言い残し、逃げた。
孤立無援とはまさにこのこと。
「ど、どういった御用向きでしょうかぁっ!」
明人は震える体の芯を力むことでねじ伏せた。
「……ワシは、ゼト・L・スミス・ロガーじゃ」
見た目に恥じぬ、しわがれた声。
ゼトが髭をしごくたびに義手の関節部がきりきりと悲鳴を上げる。
同時に明人の胃もきりきりした。
「よくご存知でございますですはいっ!」
「ほうかい」
もうやぶれかぶれだった。
ひと月ほど前にドワーフとエルフの戦争が終戦をした。100年以上という途方もない年月から見れば、出血は多く、被害も相当なものだった。
そして、何を隠そう目の前にいる男こそがある種の元凶であり英雄といってもいい。
レジェンドクラス。双腕の2つ名を持つ男。
このゼトがいたからこそエルフたちは攻めの手をこまねき、ゼトがいなければ明人は矢面に立たされることもなかったのだ。
「のじゃなのかなのじゃ、なのかな?」
「なのかなのじゃなのかな、のじゃ?」
あちらではじょじょに鈴を転がすような闘いが白熱していく。
ルスラウス大陸七不思議のひとつ、口癖。
他種多様が存在する大陸で互いに異なる文明文化を築く者たちに掛けられた翻訳という道理を超越するもの、口癖。
そのなかでもこのふたりの翻訳は訛りと形容するにはおこがましいほど癖があった。
「さっきから後ろでうるっさいわい!! なんなんだその無益な闘いは!!」
叱られふたりの幼児は、しゅんと肩を落とす。
とはいえエルフの幼女は同居者と年が近いという。しかもドワーフの幼女は100年以上生きていることが確定している。見た目のわりに、そこそこ大人らしい。
「ま、まぁまぁ。明人さん落ち着いてください」
シルルの兄、カルル・アンダーウッドは混乱して憤慨する明人を宥めるように両手を上下に動かした。
「お前さんいたのかァっ!?」
「い、いましたよっ!? ずっと双腕様の隣にいましたって!」
……………
「ワシは、孫が会いたいとせがむもんで護衛役としてここにきたのじゃ」
「私も双腕様と似たようなものですね。シルルの護衛と、普段妹がお世話になっているお礼をと思いまして」
ゼトとカルルは、ひとつのテーブルで隣り合って座っていた。
これまさに今の種としての関係を密にあらわす鏡のようなもの。利害問わずと交わされた友情の誓いは、数の少ないドワーフへの支援を約束する。代わりに数少ないドワーフは礼としてエルフに技術を与えてる契約を交わした。
持ちつ持たれつ。人の字のようにどちらかが楽をすることがない美しい関係といえよう。ちなみに、この世界に人間は、世の中を穿った眼で見ながら生きる明人しかいない。
「私は剣聖様のご飯を食べに来たのかなっ!」
「ワシは剣聖様に会いにきたのじゃ!」
ちょこんと。そんなふたりの膝上にふたりの幼女が座っていた
シルル・アンダーウッドとラキラキ・スミス・ロガーのふたりが小さな手でテーブルを叩くと、隣から小さな呻き声が聞こえた。
「うるはいれすぅ――ぐむぅ」
くだんの剣聖はこの調子だ。
明人は一切の感情をこめず、いつものようにリリティア・L・ドゥ・ティールの頬を指で押し込む。
「ふにゅぅ……」
これが日常。目覚めが絶望的に悪く、朝風呂にはいっても1時間はこうして垂れている。
ぽっ、と。上気した頬は桜餅のようで、押し込めばむにむにと弾力があって、滑らか。離せば潤った肌が指に吸いついてくる。まるでつきたての餅のようなほっぺた。
――くそぅ。ヘルメリルのときみたいに即効で目が覚めてくれれば良かったのに。
明人がこのお餅について知っていることは決して多くない。
知っていることと言えば筋肉フェチで、料理がうまくて、剣聖であるということくらいか。
「それにしても……なんど拝見しても素敵な方ですねぇ……」
頬をつぶされたぶちゃいくなリリティアを見ながら、カルルはうっとりとした目つきで長耳を立てる。
「ウム、昔からコレは美しいままじゃ。しかも気高い。背丈がデカくなければもっとよかったのじゃがな」
「あははっ、それはきっとドワーフの女性が全員小さいからそう見えるだけですよ。……まじでビビりましたからね、アレ」
すっかり打ち解けたふたりの話を耳にして、明人は戦慄に似た感情を覚えた。
明人にとって、リリティアと未だにトイレで引き籠もっている同居者は、命の恩人だった。
地球の世界からルスラウス世界に落ち延びて出会えたことはまさに奇跡で与えられたものも数多い。
「美しい……ねぇ?」
確かにもちもちしているがリリティアの見栄えは良い。
芯の入った鼻筋に凛々しくもあり優しげな目つき。そして、ふわふわもちもちのほっぺた。
しかしそれに勝るミステリアスな部分が明人の懐疑心をくすぐる。
つまり明人は、知れば知るほどにリリティアのことを女性として受け止められなくなっていた。
女性であるということは疑いようのない事実ではある。しかし、なぜか心が傾かない。
ちなみに、同居者の混血エルフも青年の心を昂ぶらせるほどに抜群のスタイルの持ち主である。しかし、男性に対しての恐怖心、心的外傷があるため恋愛には縁遠いといえよう。
「そうじゃそうじゃ。キサンには礼があったのう」
そう言って、ゆうに2メートルはあるであろう大岩が女児を手にゆらりと立ち上がった。
解放された木椅子がため息をつくように軋む。だらしなく伸びた白髪を頂点で結って、動く巨漢は無頼漢そのもの。
「戦争での目覚ましい活躍に再興の手伝い。それにあの重機というのも興味がある。だから、これをキサンにくれてやろう」
「おぉ? なにかしらくれるというのならもらっておきますけど……」
くれるものはもらう。これは明人の流儀だった。
「ほうれ。こう見えて領地内ではそこそこ女らしい身体をしとるでのう、若さに任せて扱ってみぃ」
そして眼前に突きつけられた、女性にしてはやや短めのそれでも活発的な印象をうける、もの。
その名は、ラキラキ。ゼトはあろうことか孫をこちらへ寄越そうとする。
と、ラキラキのはんでいた茶請けのチョコレートクッキーがぽろりと床に落ちた。
小鳥たちが歌い、差し込んでくる斜光は部屋に熱気をもたらし、夏の陽気は窓の景色を黄色く染めあげる。
ひとりと1人の驚きに溢れた悲鳴が丸木の屋内に響き渡った。
「ワシはイヤじゃ! もっと筋肉がほしいぞ!」
「ハッ! それには私も――同感ですッ!」
「バッカふざけんなッ先手とるなよ! あとリリティアもこのタイミングで目覚めんな! オレだって嫌だよ! もっとユエラみたいにグラマラスになってから出直してこい!」
「…………」
罵詈雑言があふれかえる。
互いに求めるものが一致しなければ恋愛には発展することは難しい。
本意であり最大の譲歩だったのだろう。ゼトはその角ばった厳つい顔にほんの少しだけ哀しみを匂わせて、むぅと唸り声を上げた。
「やっぱり私みたいに将来有望株がお好みなのかなっ!」
新緑の色合いに艶をたした女性としては短めに当たるだろう活発的な印象を他者に与える。機を見たりと言わんばかりに割って入ってくるのはもうひとりの女児。その名は、シルル。
「え? シルルってオレにそういう感情もってるの?」
「1ミリももってないのかなっ!」
即答。そう言って、満足げにカルルの膝によじ登ってチョコレートクッキーに手を伸ばす。
明人はやり場のない怒りを胸に、ある違和感に気づいて寒気を覚えた。しかも2箇所から。
「……そうなんですか。あぁやっぱり大きいほうが好きなんですねぇ。でも胸が無いのも剣を振りやすくて悪いことではないと……いえ、やっぱりなんでもないですけどねぇ……」
陽気がどこかで一転していた。
リリティアは雨を振らせたように湿った空気をまとって窓の外を眺めた。
そして開かれた扉に寄りかかったユエラがなぜか頭を抱えている。
「あーあ、私のことはともかくとして、リリティアに胸の話を聞かせちゃったのね。しばらく引きずるわよ。覚悟しておきなさい」
ゆるく首を振ると、前髪の端で結われた小さな三つ編みが左右についていく。
その限りなく平坦な胸に形の整った手を添えて、リリティアは「大きい胸……大きい胸……」という呪怨を唱える。
地雷とはどこに埋まっているかわからないもの。
――こいつらめんどくさい!
それを明人は全体重で踏み抜いたらしい。
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