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過去と未来と思い出サンドイッチ

 その女は、夜の風景がよく似合う。


「つばめ、こっち」

 薄暗い公園の片隅で、女が手を上げたので燕も軽く右手を挙げる。

 女は白いスーツをしわ一つ無く着こなしてた。背筋もピンと伸び、立ち姿も完璧だ。しかし、黒い髪は疲れたように肩の当たりで揺れている。夜のせいなのか、白い顔には薄く疲れが浮かんでいた。

 仕事帰り、外で会うなら暗がりがいい。

 女が最初に、燕に言った言葉だ。

 結局この女は、何歳だったのだろう。と燕はふと思う。半年前、道で拾われ春と夏、二つの季節を一緒に過ごした。

 綺麗な女だったが、夜には陰影が浮かぶ女だった。部屋はいつも薄暗く、精彩を欠いた。

 モノトーンの家であった。

「つばめ。はい、約束のもの」

「……」

 女が渡してきたのは大きな紙袋だ。見た目に反して、受け取ると軽い。

「たぶん、それで全部だったとおもうけど」

「そう」

 中を見ることなく、燕は言った。この中に入っているのは、女の家に残していった燕の服にノート、そしてペン。半年過ごして増えたものはたったこれだけだった。

 受け取るつもりもなかったが、先日たまたま女と出会った。燕を気遣う形ばかりの言葉とともに、今日のこの日を指定された。

 部屋に残した荷物を、引き渡すというのである。

「じゃあ」

「待って」

 受け取るなり背を向けた燕の腕を、女が軽く掴んだ。指の先まで整えられていて、まるで人形のようだった。

「帰ってこないの?」

「そっちが俺を追いだしたんだろう」

「……あれは……あれは少し言い合いというか」

 女が口籠もるように、呟く。顔がどんどんと俯く。白い指が所在なさげに髪ばかり弄っている。

「別に本気じゃないというか」

「結局、お前は俺に飽きたんだろ」

 燕は苦笑した。引き留める女はこれまでも幾人もいた。燕を追い出すくせに、本気で出て行くと寂しがる。

 だから燕は女と住むとき、必ず宣言するようにしている。

 ……女が出て行けと言ったならば、それが例え冗談の言葉であったとしても、たった一度で燕は出て行く。

「だから、出ていく。約束だろう、最初から」

 けして撤回はしない。それが燕から出す条件だった。

「そういう冷たい性格も好きだったんだけど、いざそうなると寂しい」

 女も約束を思い出したのか、苦笑を浮かべる。

「新しい女でもできた?」

「……」

「顔がきれいって、得ね」

 暗がりから虫の声が聞こえた。すっかり秋の声だ。

 今日は昼から雨が降った。そのせいか、秋が一段と深まった気がする。皮膚に当たる風も冷たい。秋の寒さは、皮膚をちりりと焼き付けるような冷たさだ。

 子供が自転車に乗って公園を横切っていく。大音量で音楽を聞いているのか、音が漏れて陰鬱な空気を振り払った。

「あ。待って」

 去ろうとする燕に、女が慌てて声をかける。

「これも、持っていって」

 彼女が続いて差し出したのは、大きな紙袋。押しつけられると、ずっしりと重い。

 小麦の柔らかい香りが、袋から漂う。

「だめね。つい癖で買っちゃった」

 それは女の家、すぐ近くにあるパン屋の食パンだ。食パン専門店といってもいいほど、壁にも机にも食パンがずらりと並ぶ店である。

 有名なレストランにも卸しているそうで、店頭では1斤売りながら人気のある店だった。

 その食パンを初めて食べたとき、燕は心の底から美味しいと思った。

 小麦がぷん、と香る。弾力があるのに、柔らかすぎない。もっちりと、歯に当たる。

 燕の見せたその表情が余程気に入ったのか、女はパンが切れるたびにここの食パンを買った。

「お前が食べればいい」

「知ってるでしょ。私、一切料理しないの」

 女は綺麗な指を目の前で大きく広げて見せる。水仕事などしたこともないような白い指。

 作り物のような指が鞄から小さな箱を取り出す。

「あと、つばめの煙草」

「捨てといて、吸わないから」

「いいから」

 女は無理矢理、煙草の箱を燕のポケットに押し込む。煙草も、燕が好んで吸ったわけではない。

 女は夜が更けるとバーに燕を連れて行きたがった。そして酔っ払うと必ず、燕に煙草をせがんだ。

 自分が吸うわけではない。煙草を吸う燕を見たいというのだ。

 昔の男が、ヘビースモーカーだったのだろう。煙草を構える燕を見て、彼女はいつも切ない顔をした。

 吸えない燕は、いつも指に挟んで吸う真似だけをした。指の間から漏れる煙だけを、見つめていた。

「つばめ。顔、落ち着いたね」

「なに」

「会ったときは酷かったけど、前より落ち着いたみたい。次の女が、そうさせた?」

「……」

「私じゃ、駄目だったんだ」

 切ない顔をして女は顔を俯ける。しかし、上げられた顔は微笑んでいた。

「じゃあね」

 薄闇の中で手を振り、女は未練もなく背を向ける。

 寂しがる風を見せて、そのくせ諦めが早いのが女の常だ。燕は何人も、そんな女を見てきたし、そんな女から捨てられた。

(……そういえば)

 今の律子の家には、なし崩しに住むこととなった。いつも女と結んでいた約束を、今のところ律子とは交わしていない。

 つまり、出て行けと言われたならば燕は迷い無く出て行くという約束だ。

 しかし律子はそんな言葉を使うことはない。そんな予感はする。

 そして、彼女がそう言う時は本気の時だ。

 もし言われたならば、

(……寂しいかもしれないな)

 と、燕は冷たい秋風を吸い込んで思った。それは久々に彼の中に目覚めた、懐かしい感覚だった。




 律子の住む雑居ビルは、夜に見上げると不気味だ。

 まず、静かだ。当然だ。住んでいるのは二人だけである。

 窓に明かりが灯るのは、一つか二つ程度。今日は珍しくダイニングに光が灯っている。

(……珍しいな)

 律子は一日のほとんどを、アトリエで過ごす。ダイニングに足を運ぶのは食事、もしくはその奥にある自分の寝室に行く時だけだ。

 時計を見てもまだ時刻は24時。眠るには少し早すぎる。

 光の無い階段を、手探りで上る。そしてダイニングに繋がる扉を開ける。と、中から律子の跳ねるような声が聞こえた。

「燕くん!」

「律子さん?」

 彼女はダイニングのソファーに力なく沈んでいた。燕の姿を見ると、まるで子犬のような顔をして、ふらふらと駆け寄ってくる。触れた手は、冷たい。

「ああ。良かった。燕くん、よかった」

「なにかありましたか」

「お腹が空いて倒れそうなの」

 彼女が指し示すのは、流し台。そこには一人分の茶碗と皿がきちんと水に沈んでいる。

 燕が外に出たのは15時頃。その前に、律子の夕食として、きっかり一人分の食事を用意して出ていったはずだ。

「ああ……あれは、夕飯といっておいたはずですが」

「夕方前にお腹が空いて食べちゃったの」

 情けない顔をして、律子は腹をさする。燕は溜息をついて、律子の肩を叩く。

「……律子さん、何度も言いますが」

 細い肩だ。律子は、やせ形である。骨が細いのか、華奢な体型である。

 しかし、よく食べる。大食漢だ。

 絵に集中すれば何日食べなくても平気だが、描く手を止めた瞬間から食べ始める。

 そして、食べ始めるといくらでも食べる。

「あればあるだけ、食べるのは止めてください。きちんと、時間を見て食べる癖を」

「でも、お腹が空くのよ。絵を描いてると。それに今日、お昼過ぎから雨で外が暗かったでしょう? もう、夜かと思ったの」

 彼女の手には黄色や青の絵の具が鮮やかに染みこんでいる。

「お腹が空いたわ、燕くん」

「といっても何か食材……ああ。これがあったか」

 ずしりと手に感じる重みを、燕は思い出した。先ほど女から押しつけられた食パンだ。紙袋を覗き込めば、小麦のいい香りがする。

 表面が薄茶色に焼けて、中はもっちりときめ細かい。

 焼いてしばらく経っているのか、生地が冷めて落ち着いているのも良かった。

 燕は急いでそれを袋から出すと、キッチンに立つ。冷蔵庫を覗けば、少しの野菜と牛乳がある。

 牛乳をマグカップにたっぷり注ぐと、レンジにかけた。沸騰しない程度の、ほどよいところで引き上げて砂糖と少しのバニラエッセンス。

「待っていてください……出来上がるまでは、とりあえずはこれを」

「ホットミルク!」

 両手でマグカップを受け取ると、律子はミルクにふうふうと息をかける。一口飲んで、さも幸せそうに微笑むのである。

「おいしいわ。ミルクは色もきれいだし、私大好きなの」

 にこにこ無邪気にほほえむ天才を見て、燕は呆れたようにため息を付いた。カップに注いでレンジをかけるだけ。たったこれだけのことを、彼女はできないし、しない。

「それくらいは作れるようになってください」

「燕くんが作ってくれるからいいの」

「……もし僕が」

 出て行けば、どうなるのか。言いかけた言葉を燕は飲み込む。

「いや。なんでもないです」

 あまりにも身勝手な言葉を燕は飲み下す。これまで律子は一人で暮らしてきたのだ。燕は最近、入り込んだに過ぎない。

 これまで燕がいなくても、彼女は暮らしてきた。燕がいなくなれば彼女が困るということはないだろう。それは燕のうぬぼれだ。

 燕は彼女の過去を知らないし、彼女も燕の過去を知らないのである。

 この暮らしはただ、一瞬の脆い関係である。

「あら、燕くん、煙草吸うの?」

 大人しく椅子に座ってホットミルクをすする律子だが、ふと机の上を見て声をあげた。

 女にポケットにねじ込まれていた煙草の箱を机に放り出した。律子がそれを見つけたのだ。

「律子さん?」

 律子は興味深そうに煙草を一本取り出すと、指に挟んだ。

 鮮やかな絵の具に染まる指に、白い煙草。律子は不思議と、煙草の似合う女である。

「こうして挟むのよね」

「まさか律子さん、吸うんですか?」

「吸わない吸わない。違うの、懐かしくて」

 律子はころころと笑い、指に挟んだ煙草を見つめる。目が細く円を描いた。切なそうな色が、一瞬だけ見える。

「夫が吸ってたの」

「……夫」

「あ。といってもね、籍は入れてないのよ」

 律子はたどたどしく、煙草を箱にしまう。そして両手で箱を掲げ持ち、微笑んだ。

「死んじゃったけどね」

 燕は素早く律子に近づき、その手から煙草の箱をもぎ取る。煙草にまつわる思い出は、どちらも苦い。

 箱を見ることもなく、燕はゴミ箱にそれを投げ入れた。

「捨てます」

「あら。いいの? 高いんでしょう。今は」

「良いです。僕、別に吸いませんので」

 律子の顔も見ず、燕は素早くキッチンに戻る。まな板に乗せられたパンは、今の気分に似合わない幸せの柔らかさだ。

 それにそっと包丁を入れる。薄目に4枚切り分けて、その上にバターと練り辛子を薄く塗る。

「なあに、なあに、サンドイッチ?」

 律子がちょろちょろ顔をのぞかせるが、それを無視して燕は冷蔵庫の中をのぞく。

 いくつかの野菜やハムに混じって、一本のキュウリが残っている。

(前の女が好きだったのは、ハムサンドイッチ)

 ハムは無視する。燕は真っ直ぐ、キュウリを手に取る。

 そしてそれを細かく、できるだけ細い千切りにして塩をまぶす。すぐに水がでるので、軽く絞り、マヨネーズとたっぷりの胡椒で軽くあえる。

(新しい味にしよう、新しい味がいい)

 そしてそれを、パンの上に広げた。薄く黄色がかった白肌に緑の彩り。いかにも律子好みの色彩に彼女は小さく歓喜の声をあげた。

「キュウリの、サンドイッチ!」

 パンとパンを合わせて、それを4つの四角に切り分ける。切り口を見せるように皿に立てれば、シンプルなキュウリサンドイッチが完成した。

 重すぎず、軽すぎない。深夜24時が似合う。

「なんてきれいで、おいしそう」

 空腹感などみじんもなかったというのに、見ていると腹が鳴る。燕も立ったまま、一つ摘まんだ。

「僕もいただきます」

 噛みしめれば、キュウリのみずみずしさが広がった。ぴり、と辛子の味となめらかなマヨネーズの味。そして豊かな小麦の味わい。

 刻んだおかげで、水気がさわやかだ。口の中にほろりとほどけるのだ。

「おいしい」

 律子は素早く二つ目のサンドイッチに手を伸ばす。

「おいしいわね、燕くん」

 壁にかけられた時計は、古いせいか針の刻む音が大きい。ゆっくりと秋の深夜を刻んでいく。

 その中で食べるこの味は、律子の人生の中に確かに何かの色彩を残した。

 もし彼女が燕と離れる時があっても、深夜24時のこの色と味を彼女は思い出すはずだ。

 そう考えて、燕の手が止まる。

 ……まるで自分の存在を刻みつけるように、料理を作ってはいないか。

 自分の底に、薄暗い闇が見える。それは、絵を捨てたとき一緒に捨てたはずのものだった。

 その闇に気づかないように、燕はサンドイッチを噛みしめる。

 不思議と、口の中から味が消えていく。

「もう一つたべてもいい?」

「……どうぞ」

 差し出す燕の手と律子の手が一瞬触れて、口の中に苦みが走る。

 それは、執着の味である。

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