台風一過と偽物ハンバーガー
台風一過は空の青さが余計に際立つ。
風が全て洗い流すせいである。
綺麗に晴れ上がった早朝6時。浜辺に立った燕は静かに息を吸い込んだ。
しかし、その美しさを今は堪能できない。
台風は燕の心の靄までは持っていってくれなかったようである。
「燕!」
「……田中?」
声に驚いて振り返ると、道の向こうに田中の姿が見えた。
台風の間どこにいたのか、彼は港の方向から走ってくる。燕も思わず田中に向かって駆け出していた。
「朝の船、まだだろ」
「待ってらんないから、漁船に乗っけて貰ったんだよ。揺れてびっしゃびしゃ。昨日シャワー浴びてないからちょうど良かったんだけど」
軽口を叩く田中だが、目の下には青白いクマが浮かんでいる。服装も最後に見たときと同じだ。
彼はまるで崩れるように砂浜に倒れ込む。
「あーもう、やだ。疲れた」
「そんなに仕事、忙しいのか?」
「……仕事っていうか」
田中の表情はいつもより少し険しい。眉間の皺が深く刻まれたまま。少し迷ったあと、彼は一枚の紙を燕に押し付けた。
「まずこれ、読んで」
それはWEBのページを印刷したものだ。タイトルに目を走らせて、燕の喉が鳴る。文字を追うごとに、腹の底が冷たくなった。
「これって」
「前、言ったことあるだろ。俺と一緒に取材で島に来て、皆本さんに追い出された先輩。その人の書いた記事だよ。皆本さんの……」
打ち付ける波の音が田中の声に重なって言葉が掻き消える。が、何が言いたいのかは聞かなくてもよく分かった。
「贋作」
最初の二文字を見て、燕の頭に昨夜の出来事が蘇る。
昨日倒れた皆本は、幸いすぐに目を覚ました。が、呼び寄せた老齢の医師は厳しい顔で一晩の入院を命じたため、彼の口からは何も聞けないままだ。
……それなのに、見たこともない人間によって皆本の過去が赤裸々に刻まれている。
「どうしてこんな記事が?」
続けて二回記事を読み、燕は呻く。
「どこからこの情報が?」
記事に書かれている内容は、昨日聞いたこととほとんど変わらない。
皆本が60年前、贋作で数年の懲役刑を受けたこと。
20年前にも贋作事件を起こしたこと。
そんな皆本がいまだに瀬戸内の島で絵に関わる仕事をしていること。
記事は淡々と事実を述べるのみで、責め立てる文字はない。
ただ、彼が現在どう生きているかについては触れられていない。人の心にある悪意のささくれをわざと刺激する。茨のような文章だった。
もしこれを誠が目にしたら、と考え燕の手が震えた。
「ほら、遠山のおねーさんが来た日。あの辺りくらいから上司が東京に戻れって言ってきてさ。でもまだ何も取材できてないからって、ごまかしてたんだ」
田中は燕から紙を取り上げ、握りつぶした。
手のひらの中に収まるほど小さな塊になったが、その塊は人の人生を潰しかねない重さがある。
「で。台風の前かな、先輩から皆本さんの記事が出来たって言ってきた……皆本さんの近くにいないくせに」
目前の空と海はまぶしいほどだというのに、二人の間に落ちる空気は薄暗い。
「先輩が高松まで来てるって聞いてさ。急いで会いに行って、この原稿を見せてもらった。俺、この情報源知りたくてあちこち連絡しまくって……それで」
「誠の父親だろう」
驚く田中に、燕は昨夜のことを説明する。
誠の父親の下りで、田中は長いため息をもらした。
「なるほどなあ」
田中にしては珍しく、顔をうつむけたまま動かない。が、やがて彼は丸めた原稿を広げると、びりびりと破き捨てる。
「こっちはさ、俺がなんとかする」
「なんとかって?」
「だーいじょうぶ。任せろって。俺、これでも数ヶ月は社会人してるわけだし。じゃあ、そういうことで」
田中は立ち上がり、どこかへ行こうとする……が、途中で足を止めた。
「俺、実はさ」
振り返った田中の顔は真剣だ。彼は深呼吸を一度して、意を決するように続けた。
「実は俺も皆本さんの噂は知ってたんだ。知っててここに来た」
燕は熱を持ち始めた砂浜に手を置いたまま固まる。
「それで、島に残って、噂が本当かどうか……本人に取材するか、リークしてくれる人探すのが俺の仕事」
この島で田中と喋った時、燕は彼に聞いた。律子と自分のことを記事にしたいか、と。
田中は「やだな、こういうのは」と答えた。彼にしては歯切れの悪い声だった。
まだ学生の頃、彼は絵やその歴史にかかわることを書きたい。と言っていたはずだ。
もし夢が変わっていないのであれば、今の彼の状況は望んでいないものだろう。
「仕事サボってさ、てきとーに報告して。そのうちみんな忘れるだろって思ってたんだけど……甘かったな。誠、怒るよなあ。絶対俺、殴られるよなあ。あいつ小さいくせにさ、結構良いパンチ持ってるんだよなあ」
田中は波打ち際で波を蹴飛ばし、目を細めて燕を見た。
「だから、誠のことは燕に任せていいかな」
雲が風に流れた。雲の隙間から日差しが差し込んで、一気に気温が上がる。
「俺に?」
「あいつ俺の言うことちっとも聞かないくせに燕の言うことはよく聞くんだ。胃袋掴んでるから」
田中は大口を開けて笑い、そして燕の背中を思い切り叩いた。
「もうすぐお前、東京戻るんだろ。それまでにあいつ元気つけといてよ。俺のこと殴れるくらいにさ」
その痛みで燕は誠の声と顔を思い出す。
誠は親からも学校からも逃げて、ここに来た。
燕もかつて、親からも学校からも逃げたことがある。
だから分かるのだ。逃亡しても前進はできない。
深い水の中に転がり落ち、もがく元気もないまま静かに沈んでいくだけだ。
その苦しさを燕も味わった。
そして誠はまさに今、その気持ちを味わっているはずだ。
燕を救ったのは律子だった。
燕はまだ誰か救うことはできないかもしれない……しかし手を差し伸べるくらいはできる。
そんなことを、燕は不意に考えてしまった。
皆本のいない工房は薄暗く静かだ。
しかしかすかな物音に気づいた燕は台所に向かう。
「誠?」
台所の片隅、膝を抱えて座る誠を見て燕は安堵した。
最初に燕は彼の家に行ってみたのだ。インターホンを鳴らしても音がむなしく響くだけで、人の気配は感じられなかった。
船はまだ来ていない。島の中、行く場所はそれほど多くないはずだ。
もし自分が誠の立場なら、どこへ行くか……思いついたのはただ一つ。
(きっと、工房に行く)
誠は気まずそうに顔を背けて座り直す。彼の口元は強く噛みしめられ、簡単には開きそうもない。
だから燕はあえて何も言わず、部屋を見渡す。
(ここでよかった)
部屋は昨日のまま時が止まっているようだった。
皆本の腰掛けていた椅子は倒れ、その時に掴んだと思われる棚が斜めに傾いている。
床には複数人の足跡が交錯し、一見すると泥棒にでも入られたようだ。
燕は倒れた椅子を直し、斜めになった棚を直す。棚から溢れた本が床一面に広がっているので、一冊一冊拾っていく。幸い、散らかっているものを直すのは慣れている。
「し……師匠どこ」
誠はようやく、口を開いた。声はかすれ、目元は赤い。しかし燕の前では強がるように口をとがらせる。
「俺に会いたくないから、避けてんの?」
「違う。少し具合が悪くなって今は診療所だ」
「診療……?」
燕の言葉に誠の目が大きく見開かれた。その表情を見て燕は慌てて言葉を付け足した。
「たいしたことはないし、落ち着いたら戻ってくる。だからそのとき、誠がいないと」
「父さんが師匠に意地悪したからだ……俺に会ったら具合が悪くなるかも」
ふ。と誠の表情が緩む。笑顔に見えるが、噛みしめていた唇の端に薄く血が滲んでいた。燕はその表情を知っている。
三年前、燕もそんな顔をしていた。
「そんなこと」
「親父から聞いたんだ。俺の爺ちゃんの絵、師匠がパクって描いたんだろ……俺は爺ちゃんなんて会ったこともないけど……俺のことも、どうせツミホロボシで相手してくれてただけだって」
誠の顔に浮かぶのは諦めの表情だ。
怒ることも悲しむことも放棄した表情だ。
「……そうじゃない、誠」
もともと燕は田中のように饒舌なタイプではない。胡散臭いほどすらすら言葉を紡ぐ、柏木のようなタイプでもない。
しかし、ここで誠を諦めさせてはならない。それだけは分かる。
「そうじゃない、きっと皆本さんは……」
燕は一歩、誠に近づき、何かを蹴り上げた。それは床に落ちたままになっている古い料理本。
皆本のものにしては可愛い本なので、だれかの置き土産なのだろう。モノクロの本にはいくつも折り跡がある。
それが律子の癖に似ていて、燕は心が軽くなる。
(……そうだ)
誠と料理本を交互に見て燕はふと、思い出した。
かつて律子は燕に言った。料理は絵だと。
言葉の少ない燕の気持ちは、いつも料理が代弁してくれた。
(料理だ)
燕はまるで一筋の光を見つけたように立ち上がった。
燕は冷凍庫と冷蔵庫を開け、いくつか食材を取り出した。
幸い食材は揃っている。
取り出したのは冷凍の合挽き肉。きゅうり、食パン。トマト。少し形の悪いじゃがいも。
気まずい時でも幸せな気持ちの時でも、食べ物の姿は同じだ。だから気持ちが乱れる時、燕は食べ物に触れると安堵する。
「腹なんて減ってない」
ふてくされるように呟く誠を無視して、燕は合挽き肉を軽く解凍しそのままフライパンに投げ入れた。
(塩コショウして、これはこのまま火が入るまで放置)
その間に、ジャガイモを細長く切ってレンジにかける。
(崩れる前に止めて、片栗粉を振って……)
ジャガイモは、熱が入ると黄金色に輝く。
潰さないように、崩さないように。慎重にジャガイモを熱した油鍋の中に落とす。
「何?」
激しい音に、誠の肩がびくりと揺れた。
ふて腐れていても、燕が何をしているのか気になるのだろう。横目で燕の動向を気にするように、頭が小さく揺れるのが見えた。
(揚げてる間に、きゅうりとトマトを切る)
そんな誠に構わず、燕は薄切りにしたきゅうりを酢につけ、薄く切ったトマトには軽く砂糖を振っておく。
続けて薄い食パンを2枚、オンボロのトースターできつね色になるまでしっかり焼いた。
そうこうする間にジャガイモが綺麗なきつね色に染まる。焦げる前に引き上げて、こちらも少し強めに塩を振った。
(肉、熱通ったか?)
ジャガイモはともかく、塊の合挽き肉は火の通りの見極めが難しい。少し割ってみて、ピンク色のところがなければ大丈夫だ。
(あとは……そうだ。白色)
こんな時に色にまでこだわる必要はない。しかし燕はつい、色を求めてしまう。
目についた卵を小さなフライパンに割り入れる。この家のコンロは火力が強いので、あっという間に白身が固まるのだ。
卵の焼ける匂いに、肉の焼けるたまらない濃厚な香りが交じる。
そこにパンの焼き上がる小麦の匂い……おそらく数日、まともに食事をしていないと思われる誠の腹が、ぐうと鳴った。
燕はまず、焼き立てのパンにバターを塗る。
パンの表面がつやつや黄金色に光るほど、しっかりと。その上に、真っ赤なケチャップ。絵の具のように輝くマスタード。
しっかりパンに塗り拡げ、その上に乗せるのは照りのある茶褐色の合挽き肉。
トマトの赤、軽く酢漬けにした鮮やかな緑のきゅうり。
そして、隅っこをわざと焦がした白と黄色の目玉焼き。
すべての具材を載せて、燕はもう一枚のパンで蓋をする。
その隣には、黄金色に揚がったフライドポテトを添えた。
一つだけつまむと指先が燃えそうに熱い。塩が熱とともに指に絡む。ぐっと耐えて一口で食べると、皮がぱりりと弾けた。
中は柔らかく、熱い奔流が口の中いっぱいに広がる。
濃い塩分に殴りつけられたように、燕の背がしっかり伸びた。
「火、通ってるから大丈夫だ。これ、ハンバーガーとフライドポテト……のつもりだったんだけど。でも食べたら多分、同じ味だから」
困惑する誠に構わずに燕は皿を誠の前に置く。
ふわりと上がった湯気に、誠の喉がごくりと鳴った。
「別に今食べなくてもいい。持って帰っても……多分、出来立てのほうがうまいけど」
「腹、なんて、減ってない」
「食事も取っていないときいたら、皆本さんが悲しむぞ」
燕は律子の言葉を思い出す。お腹がすくと悲しい気持ちになるのだ。と彼女は言った。
満たされないときに、満たされない場所があると悲しさは増幅する。だから、彼女は食べるのだ。
20年苦しんだ彼女は、食べることで救われた。そして燕は、彼女の空腹に救われた。
悲しいときや寂しいときに、満たされない部分を作ってはならない。
「俺は食べられない」
皿に伸ばしかけた誠の手が空中で止まり、彼は強く拳を握りしめた。
「食べちゃ駄目なんだ」
「誠?」
「俺、師匠の絵を捨てた」
呟いた瞬間、彼の大きな目にぷくりと涙が浮かぶ。
まるで朝露のような丸い涙がぽろりぽろりと床に散る。泣いたことを悔しがるように、誠は唇を噛みしめたままうつむいた。
「捨てた?」
「家に置いてた絵、美術館するって言ったのに……手伝いするって、俺、師匠に言ったのに」
そして燕はようやく気がつく。彼が苦しんでいるのは、皆本の過去に対してではない。
誠は罪悪感に苦しんでいたのだ。
「俺……師……皆本さんの絵を捨てたんだ」
言い捨てるなり、彼は立ち上がる。そして止める間もなく、扉をこじ開けて外へと駆けだしていく。
「誠!」
慌てて追いかけようとして、燕の足が震えた。
(追いかけて、何を言えば)
かつて燕も律子の前から逃げ出したことがある。
あの時、律子は迷わず燕を探してくれた。逃げ出す方は簡単だ。ただすべてを打ち捨てて逃げればいい。
追いかけるほうがずっと勇気がいる。
律子とともに暮らし、律子の色と性格に薫陶を受けた。
しかし、結局自分は偽物だ。
父の言うとおり自分は中途半端な人間で、だから偽物のハンバーガーしか作れない。
「……誠」
一歩、外に出る。日差しが顔に吹き付ける。おびえるように足を止めた瞬間、燕の目の前に影が差した。
「ああ、良かった。あなたがいてくれて」
それは予期せぬ人物……誠の叔父、大悟である。
「すみません。ちょっと手伝ってくれませんか」
大悟は駆けだしていく誠を見ていたはずだ。しかしそちらを気にする素振りもなく、にこやかに燕を見る。
「でも誠が」
「しばらく放っておきましょう。船もないので、どこにもいけやしませんよ」
いっそ冷たいくらいの表情で彼は言い捨て、彼は燕を手招く。
「あなたが居て良かった。手伝いがほしかったんです」
大悟が戸惑う燕を連れていったのは、港のすぐそば。公民館。と書かれた赤屋根の小さな建物だった。今は誰もいないのか、カーテンがかかり、音一つない。
「ここで何を?」
「見たら分かりますよ」
鍵のかかっていない扉を開けると中はひやりと涼しい。その空気の中に、かすかに絵の具の匂いが混じっている。
下駄箱の奥は畳張りの部屋だ。顔をあげて、燕はあっと声を漏らす。
「絵が」
薄暗い部屋の奥、そこに美しい色彩のキャンバスがみえた。
部屋の奥には、大小様々なキャンバスが置かれている。どれも、誠が捨てたと言っていた皆本の修復作品だ。
絵に近づき燕はほっと息を吐いた。汚れもない。傷はない。絵は美しいままだった。
「誠が捨てたと言ってましたが」
「昨日帰ったあと、どうも派手な親子喧嘩をしたそうで。夜中に誠君が絵をどこかに捨てたんです。兄は怒って話になりませんし、誠君は逃げるし。私一人で島中ほうぼう探し回ったんですが……」
大悟は眉を怒らせてため息をついた。
シャツが汗で体に張り付いているのが見える。
「絵を見つけたのは島の人ですよ。港のそばに置かれていたそうです。ゴミ収集所らしいんですが幸い収集日ではなかったので、皆さんが総出で絵をここに集めてくれたんです」
燕が思い出したのは、皆本に声をかける老婦人だ。誠が絵を運んだ時、泣いて喜んでいた少女の顔だ。
皆本修復工房は確かに、この島の人たちに痕跡を残してきたのだ。
「といっても昼から公民館を使う予定があるとか。その前に絵をどこかへ移動せねばならんのです」
電気をつけて、大悟は絵を見つめる。
絵は相変わらずどれも美しい。額縁に埃一つないのは、誠がきちんと面倒を見ていたからだろう。
「誠に知らせます」
「今はよしましょう」
スマホを掴んだ燕を見て彼は首を振った。
「大事な絵を捨てるなんてとんでもないことです。本当に捨ててしまった、と思ってしばらくしっかり落ち込めばいいんです」
そして彼は鞄から紙を数枚取り出す。
「誠君は兄に似て細かいところがあるんです。ほら、収納している絵をリストにしてちゃんと記載してる。時間もないので一旦全部工房に運んでから、リストとの照合をしましょう」
そこから大悟の動きは速い。彼は力仕事でもしていたのか、何枚もの絵を軽々抱えては坂道を行き来する。
最後の一枚を出した直後、入れ替わりに島の人々が公民館に吸い込まれ、燕はようやく流れる汗を拭った。
最後の一枚を抱きしめたまま、大悟は工房へ向かう。そして穏やかな顔で燕を振り返った。
「大島さん。あなたはなぜ、この島へ?」
「研修です。内定先の所長が、皆本さんの古い知り合いで」
所長の明るい声を燕は思い出す。彼は皆本の過去を知っているのだろうか。
「良い島でしょう。あるのは海と坂道だけですが」
海は今日も嫌味なほどに青い。
たった数日前までは、ここから見える風景は穏やかでただただ美しかった。しかし、今は目に映るものすべての色彩を欠いている。
坂道を登りたどり着いたのは皆本の工房だ。そこには運び終えた絵が並んでいる。
「さあ。汚してしまうと大変だ。早く照合しちゃいましょうか」
時間もないので、並べ方はバラバラだ。
工房は昨日の騒ぎのせいで棚は崩れたまま。床にも本が落ちたまま。その乱雑な風景の中で並んでいても、それでもどの絵も驚くほど美しかった。
大悟も燕と並び、目を細める。
「……何もないこの島に、皆本さんが住んでいると知った時は驚きました」
大悟は古い家を慈しむように見渡す。
「知ったのはつい先日です。入院している母から古い家を皆本さんに貸したと聞きました。ここはこんな古い建物ですが母と父が最初に商店を開いた、大事な場所です。そんな家を、10数年前から皆本さんに貸している、と」
この家はお世辞にも綺麗とはいえない。
築年数も相当のものである。しかし破れた壁紙や壊れた床板は丁寧に補修されていた。古びた机も4本脚が崩れないように補強されていた。
誰が直したのか。
それは皆本だ。
補修跡を見つけ、大悟がぽつりと呟く。
「不思議に思いました」
「なぜ貸したのか、ですか?」
「母は事件のせいで苦労したはずです。なのに、なぜ許したのか。だから皆本さんについて調べました」
大悟はポケットから文字の詰まった手帳を取り出す。挟まっていたのは黄ばんだ新聞記事の切り抜きだ。皆本の名前と絵画の写真が掲載されている。
世界が騙された、と言う見出しを読んで燕は目を丸くする。
「これ最初の事件ですか?」
「ええ。古い事件なので探すのに苦労しました。皆本さんはまだ20歳そこそこですが、もうご結婚されて、お子さんも生まれてる。だから動機は家族を養うため、です。しかもブローカーのような悪い人間に騙されたとあって、事件の割に懲罰は軽いものだったとか」
記事を読めば皆本の才能を惜しむ文字が何行にも渡って書かれていた。当時、期待の新鋭作家だったことがよくわかる……しかしこの事件で皆本はその道を絶たれ、姿を消した。
それなのに。
「……2回目の贋作をした」
「ええ。それも40年も経ってからです。1回目の事件のあと、彼は絵を補修する仕事を各地で請け負い、真面目に働いていたのに」
燕はふと、皆本の言葉を思い出す。彼は若い頃に各地を転々としたと語っていた。
長くその場所に居着けば、過去が漏れる。それを恐れて各地を飛び回っていたのかもしれない。
禊は終わっても、悔み、苦しみ、慎重に生きてきたはずだ。
「不思議ですよね。私の父の贋作なんて、皆本さんにはなんのメリットもない。だから私は父に嫌がらせをするために描いたんじゃないか。なんて考えていました。でも島に来て、皆本さんの仕事を見て……」
大悟の視線の先、美しい絵があった。美しい色があった。壊れた絵も皆本にかかれば、綺麗に直るのが不思議だった。
皆本は絵が直りたがっていると言ったが、絵が皆本の手にかかると直りたいと願うのかもしれない……そんな風に思うほど、彼は壊れた絵に愛されている。
「絶対に、適当な気持ちで贋作なんかする人じゃない」
「俺もそう思います」
燕の言葉を聞いて、大悟は「よかった」と呟いた。
そして凝り固まった腕をほぐすように伸ばす。
「さ。部屋も少し片付けていきましょうか。私たちが来たせいで皆本さんを驚かせてしまったから」
床に落ちている本を見てふと微笑んだ。
それは料理の本だった。昨日崩れたせいでページが開いたまま落ちている。
そのページには『しっぽくうどん』の文字が見えた。材料は人参、大根、厚揚げ。
そのページには付箋が貼られ、大きな文字で『師匠の好物!』となぐり書きがある。
「誠君は、本当に皆本さんのことを大事にしていたんですね」
大悟は続いて壁を撫でた。
「そして皆本さんは誠君を大事にしていた」
大悟の指先が撫でているのは、誠の身長を刻んだ壁の印だ。
「誠君は……色々あってこの島へ来ていることはご存じかと思います」
壁の傷に触れたまま大悟が呟く。
「あの子は数年前に母親を亡くしています。それを言い訳にするわけじゃありませんが、私と兄が学校でのことを知ったのは恥ずかしながら3ヶ月前のことです。そこで母が島でのんびりさせたらどうだ。と言ってくれて」
ほんの数ミリずつ伸びていく身長の傷跡を、大悟は見つめる。
一週間で身長なんて伸びないと、文句を言いながら笑う誠の姿が思い浮かぶ。
「行かせて良かった、と思っていたんです。電話の声が段々明るくなって、師匠ができた。なんて言って。兄は父の思い出が残るこの島を嫌っていましたが、近いうちに師匠にお礼を言いに行かないと、なんて言うほどで……」
大悟は息を吸い込み、そして力強く頷いた。
「私はもう一度皆本さんに会いに行こうと思います。まずは誠君と兄の話し合いからですが」
「でもそれで、もし、嫌な結果になったら?」
さりげなく呟いたつもりだが、声が震えた。燕の心の奥にあるのは父親のことだ。
燕も、父に尋ねてみたい。なぜ、燕を否定するのか。なぜ絵に固執するのか。
大悟も燕と同じように、ずっと目をそらして生きてきたはずだ。
それなのに、なぜ今になって動こうと思えるのか。
「例えば、自分の父親の嫌なことを聞くかもしれない。皆本さんの最悪な所を知るかもしれない」
「その時に考えます」
大悟は眩しそうに微笑む。
「兄も私も目を閉じて足を止めて、事件の後ずっとそうして生きてきました。兄は皆本さんを恨んで、私は無関心のままで。私達はいい。でも誠君まで苦しむことはないでしょう」
しん。と静まりかえったそのとき。燕のポケットの奥、『運命』の着信音が鳴り響く。柏木だ。
今日は朝からもう何度も着信が入っているが、今は彼の嫌みに付き合う時間はない。大悟が気にする素振りを見せたが、燕は首を振る。
「気にしないでください、ただの迷惑電話です。それより先に絵の照合を」
リストの続きを見ようとした瞬間、大悟の腹がきゅう、と鳴った。その音に驚くように彼は顔を赤らめる。
「すみません。昨日からまともに何も食べてないんです」
燕は外を見た。まもなく昼だ。丸一日食べていないのであれば苦しいはずだ。
「……あの、よければ」
燕は机の上に置いたままにしてあった、ハンバーガーもどきとフライドポテトを差し出す。と、大悟は驚くように目を丸めた。
「誠に作ったんですが、出ていってしまって」
「作ったんですか? すごいですね。サンドイッチ……いや、ハンバーガー、かな?」
「偽物ですが」
「何が偽物なものですか、こんなに美味しそうなのに。誠君と一緒にいただきます。でも兄には内緒にします。あの人はあなたにも酷いことを言いましたからね」
彼は楽しそうに言って、台所にあったラップやアルミホイルで包みはじめる。
その幸せそうな顔を見て、燕のどこかに温かいものがともった。それは三年前、律子と初めて出会った時、感じた温かさだ。
「誠は、父親と話し合えるでしょうか」
思わず漏らした燕の言葉に大悟は力強く頷く。
「今のあの子なら大丈夫。最後に誠君を見たのは3ヶ月前、駅まで見送った時です。ずっと心配してたんですが、昨日久しぶりに会って驚きました。ちゃんと悲しいという顔になってました。3ヶ月前のあの子は、表情が全部消えていましたから」
燕は誠の言葉を思い出した。
学校であった悲しい話を。逃げてきた話を。
人は感情をなくすと悲しいも、苦しいも表情に出ない。燕はそれを知っている。三年前、燕もそんな表情で律子に出会ったのだから。
「周囲の人があの子を救ってくれたんです。あなたも含めて。最後の一押しがこのハンバーガーだ」
彼は包み終えたハンバーガーを大事に手のひらで包み、燕を見る。
「そんなものが?」
「だって、腹が減っては戦はできません」
と、彼は優しく微笑んだ。
絵に向かい合い、一時間。
誠は随分と絵をため込んでいたようで、あの部屋で見たときよりも、多くの絵がここにあった。
一枚一枚リストと突き合わせ、汚れないように布でくるんで、気温が安定している保管室に収める。単純作業だが、目が掠れて腰は悲鳴をあげる。
しかし体を酷使している甲斐があり、絵の山は少しずつ姿を消した。最後はただ一つ、それは古い新聞にくるまれた固まりだ。
「残り1つですが、リストはあってますか?」
「ええと……残りは2つとなってます。あ、でも一つは盗まれた絵ですね」
燕もリストを覗く。几帳面な字でまとめられたリストには2つの絵の名前が残されていた。
残りは『食卓の絵』。盗まれた絵。
そして。
「最後の一枚は『子どもの絵』……それでラストです」
最後に残されたそれは、もう何十年も前の新聞に包まれている。
黄ばみ、色が落ちたそれは触れるだけで割れそうで、燕は慎重にそれをほどいた。
中には古い額縁が収まっている。それを覗き込み、大悟が首を傾げた。
「額縁の中に新聞が……ああ、新聞をキャンバス代わりに絵を描いてるんですね」
大悟が驚くのも無理はない。それは古い古い新聞なのだ。黄ばみ、汚れ、ほつれ、シワの寄った。
そこに絵の具で描かれているのは幼い絵。
「確かにこれは子どもの……」
言いかけて、燕は固まる。
紙に描かれているのは幼い絵だ。
食べ物を描こうとしたのか、オムライス、クリームソーダ、ハンバーグ。手で色を塗ったのだろうか。絵の具が無茶苦茶に飛び散って、指の跡も残っている。
「子ども……の」
「大島さん?」
大悟が肩を揺すったが、燕は絵から目が離せない。
(この色は……)
燕はその色を知っている。その線の柔らかさも、温かさも。古くても幼くても、間違うはずがない。
この三年、燕はその人の絵を誰よりも間近に見つめてきた。
「坊主か?」
病室の薄い扉をノックすると、中からはっきりとした声が聞こえる。
その声の強さに安堵して、燕はそっと扉を開いた。
「やっぱりそうか。お前は静かだから、逆によくわかるな」
「皆本さん」
「見舞いなんぞこなくても、夜には戻るつもりだったのに」
島唯一の診療所は、染みついた薬と消毒液の香りがする。奥にある部屋は大きな窓があり、光がさんさんと降り注ぐ。
その窓の下、ベッドの上に皆本が体を起こしていた。
出会った時は大きく見えた体だが、今見ると小さい。たった一日で一回り小さくなったように見えた。
「食事を持ってきました。ここは食事が出ないと先生に聞いたので」
燕は手にした丼を傾けないように気をつけて、そっと机に運んだ。
「念のため先生には食べて良いものかどうか、確認済みです」
ボロボロのキャビネットの上に丼を置き、ベッドに引き寄せる。
その丼の中をみて、皆本が目を丸めた。
「……しっぽくうどんか?」
「本を見て作っただけなので、味が違うかもしれませんが。好物と聞いたので」
丼の中、浮かんでいるのは赤い人参、白い大根。崩れた厚揚げは、綺麗な黄金色をしている。その上に散らした緑のネギ。
調べてみると、これは主に秋から冬にかけて食べられるものらしい。
今では野菜は季節を問わず流通しているが、昔は秋や冬に採れた食べ物を出汁で煮込んでうどんに入れて食べたという。
シンプルで、秋らしい色をもつ一品だった。
「色鮮やかだな」
光を浴びて輝くうどんを見て、皆本が少し嬉しそうに笑う。
「どうせ食べるなら、綺麗な方がいいでしょう」
絵を全て保管室にしまい終えたあと、大悟は誠たちの家に戻った。
残った燕が考えたのは、皆本のいる診療所へ行くための理由作りだ。
目に入ったのは開いたままの料理本。皆本の好物と書かれたしっぽくうどん。
料理本に書かれている作り方は素朴だった。
幸い、昨日うどんを作りそこねたため、出汁は冷蔵庫に入ったままである。
野菜を刻み、いりこの出汁で煮込むと海の香りがした。
海の香りは死の香りだと、ずっと燕はそう思っていた。
しかし、この島で暮らす間に、燕はその怖さを次第に忘れていた。
恐怖の思い出は幸せの思い出に上書きされるのだと、初めて知った。
「冷める前にどうぞ」
箸に手を伸ばそうとした皆本だが、さりげなくキャビネットの上の薬を引き出しの中へ落とす。
薬に詳しいわけではない。しかし、隠すのは見られたくないからだ。ただの風邪薬なら隠す必要はないだろう。
「……体、悪いんですか?」
「この年だ、驚くことはないさ。まあ今年いっぱいか……来年の桜は難しいだろうな」
皆本は平然とうどんをすすり、野菜を噛みしめる。食べっぷりは健啖だ。
しかし彼が倒れたときに掴んだ腕の感触を思い出し、燕は思わず拳を握りしめる。
「誠にそのことは?」
皆本は穏やかな顔で首を横に振り、汁を飲む。湯気がゆっくりと、部屋に広がる。
「あいつとは夏の初め頃に、たまたま浜辺で会ったんだ。あいつ、海にものを捨てようとしてたからな、叱ってやった」
それで懐かれた。と、皆本は言う。
「あいつが祐二の孫だとあとで知った。因果、ってのはあるもんだな。だからちょっと怖がらせようと思ってな。あいつに預けた絵を一枚、拝借した」
するりと出汁を飲み込んで、皆本がにやりと笑う。
その言葉に、燕は息をのむ。
「盗まれた絵? まさか」
「どうだ。最悪な師匠だろう」
「なんで、そんな」
「怖い工房だと思えば、出ていくと思ったんだがな」
「でも、出ていかなかった」
燕の言葉に皆本が微笑む。
「思ったより根性の座ったガキだったな」
皆本は誠が祐二の孫と知り、追い出そうとしたのだ。
皆本の誤算は、誠の執念深さを舐めていたことである
「まあ最悪な形だが、正体はバレた。もうあの小僧も俺に近づくことはないさ。お前ももう東京に戻る。俺は身ぎれいに一人きり。これで良かったんだ……うまかった。ごちそうさま」
綺麗に食べ終わり、彼はゆっくりと手を合わせる。
「12のガキに重すぎるだろう。面倒見てた爺さんがぽっくりいくなんざ」
「23でも嫌ですよ」
「覚悟のねえ坊主だな」
笑う皆本の隣に、燕はそっと腰を下ろす。
硬いベッドの上、隣に座ると皆本の線の細さが嫌になるほどよく分かった。首にはしわが深い。
「俺は皆本さんに会って、自分の絵のことを思い出しました」
燕は拳を握る。
過去の絵を思い出す時はいつも苦しい。それを口にすると情けなさに震えそうになる。
「俺はこれまで絵を捨てて来たんです。俺は自分の絵が大嫌いでした」
……それでも燕は言葉を続けた。
今、口にしなければ後悔する。そんな気がする。
「俺が絵を描いたのは親を喜ばせるためでした。描くと親が喜ぶんです。でも俺の絵は自分の絵じゃなかった。それに気付いて、捨てました」
窓の外でカラスが鳴いた。カラスも父の好きなモチーフだ。何百枚も書いたが、褒めてくれたのは幼い頃だけだった。
カラスが枝を歩く音を聞きながら、燕はうつむく。
そんな燕を皆本はじっと見つめている。余計な言葉も挟まない。だから燕は息を吸い込み、言葉を続けた。
「親からも絵から逃げて、捨てた絵は記憶からも消したはずでした」
燕は子どもの頃からずっと、親を喜ばせるためだけに絵を描いてきた。
自分の絵は巧いのだと自負があった。しかし大学に入り、自分の絵は常にだれかのまねごとだと気がつかされた。
その瞬間、描いてきた絵は色彩を欠いて、思い出したくもない存在に成り代わる。
そして燕は三年前、絵から逃げた。
思い出すのも苦しいほど、モノクロの時間を過ごした。
「でも、あなたの直した絵を見たとき、思い出したんです。自分の捨てた絵を。記憶から消したはずなのに、急に思い出しました」
「……どう思った」
「後悔しました。なぜ絵を捨てたんだろうと。捨てた絵はもう戻ってこないのに」
燕が過去を語った相手は、これまで一人しかいない。皆本は律子と同じ目をして燕を見つめている。
そんな皆本の目を、燕はじっと見返した。
この人に捨てた絵を見せれば、なんと言って叱ってくれただろう。と燕は考える。
捨て去った絵を見てもらいたいと思ったのは、人生で2人目だ。
「もう二度と後悔したくないと思ってます。だから聞きますが皆本さん、まだ隠してることがありますね」
「隠しごとなんぞねえよ。ただ誠に悪いことをした、という後悔だけだ。でもあいつはガキだ。どうせすぐ忘れるさ」
もう誠には会わない。と、皆本は力なく首を振る。
「言っただろう。一回背負った罪は……」
「俺はまだ身近な人を亡くしたことがないんです。だから想像になりますが」
皆本の体は細いが、腕の筋肉はしっかりと付いていた。修復の仕事を続けていることもあるだろうが、もともと腕に筋肉が付きやすいのだろう。
そんな人を、燕は一人知っている。
眉が少し垂れ気味なところ、瞳の虹彩の薄さ。
燕は出会ったときから、彼の顔に見覚えがあるような気がしていた。
「もし大切な人の最期が近いのであれば、知りたいです。知らずにいたら後悔します。10歳でも20歳でも……60を超えていても」
燕は握りしめていた写真を差し出す。それは律子が送ってきた、古い写真だ。両親と律子が一緒に映る黄ばんだ写真。
母親と律子の顔はよく似ている。しかし隣に並ぶ父親と律子は、どこか顔立ちが異なる。
「皆本さん」
そして幼い律子の顔は、皆本によく似ている。
「竹林律子さんを知っていますね」
満面の笑みを浮かべる幼い律子を見つめ、皆本は愛しいものを見るように目を細めた。
そして。
「俺の娘だよ」
と、燕の目を見てそう言った。
「皆本さん……」
思わず、燕の声がひっくり返る。想像はしていたが言葉で聞くと鼓動がはねた。
先ほど大悟の語った皆本の過去、20歳で贋作をした時、すでに子どもがいたという言葉を思い出す。
贋作で家族を失った。と皆本は語っていた。その言葉の一つ一つが、ゆっくりと重なっていく。
……家族を養うために贋作を行い皆本は全てを失った。
失ったのは、妻と律子だ。
やがて律子の母は別の男と再婚したのだろう。
そして優しい大人たちは、律子にすべてを隠すことを決めた。
(早く、律子さんに知らせなければ)
お父さんがここにいる。彼女は驚くだろうか、怒るだろうか。
緊張で口が乾き、燕は震える手でポケットのスマホを取り出そうと、した。
「律子さんに、知らせます」
まさにその瞬間、スマホから『運命』が響き渡る。ここ数時間で、すでに5度目だ。
舌打ちしそうになるのをこらえ、燕は乱雑に画面を押す。電話の向こうは賑やかで、燕の神経を余計苛立たせた。
「柏木さん、今忙しいんです。後にしてください」
「そちらに先生はいらっしゃいますか」
しかし、聞こえてきたのは震えるような柏木の声だ。
挨拶もなにもない。彼にしては珍しく焦っている。
「どうしたんですか?」
耳を澄ますと、柏木の後ろから桜や夏生の声も聞こえた。
……しかし、律子の声がどこからも聞こえない。
「先生が」
その瞬間、燕の背にぞっと冷たいものが流れる。
「律子さんが?」
「行方不明に」
他の人々の声に混じっても、柏木の声は嫌になるほどはっきりと聞こえた。
「……いえ、いいんです。そっちにはいないんですね。わかりました」
手の先が震え、スマホを落としそうになる。慌てて掴んだが、もう電話は切れたあとだ。
「律子さんが?」
燕は真っ黒に染まったスマホの画面を呆然と見つめる。
心臓の音ばかりがうるさい。そのくせ、自分の声ははっきりと聞こえる。
「律子が?」
顔を上げると皆本が死人のように白い顔で、燕を見つめていた。




