秘密のカラフルアイスクリーム
顔面に水を浴びた燕は、3日ぶり3度目の「帰りたい」を痛感した。
「お。水も滴るいい男ってやつだな」
燕の前髪から水が滴る。それを見た皆本が冗談めかしてそんなことを言った。
「お前さんほど男前だと、女から水をかけられるくらい日常茶飯事だろう」
皆本の言葉で、燕は数年前を思い出す。
燕はかつて、何人かの女性の家を渡り歩く生活をしていた。『ツバメ』という名前がよく似合う、自堕落な毎日である。
しかし、その時でさえ水をかけられたことはない。
「布を体に掛けられたことはありますが、水は初めてですね」
燕は髪についた水滴を指で払う。幸い、ただの水道水だ。
「あたしのせいじゃないからね!」
燕に水を浴びせかけた女は、空になったグラスを掴んだまま誠を睨む。
「ガキがあんたを押し出しただけ。あたしの狙いはそこのガキだから!」
「ばーか! 外してやんの!」
燕を盾にした誠が叫び返し、まるで子ども同士の喧嘩だ。燕は誠を押しのけ、ぼんやりと立つ田中をつつく。
「おい田中。この人って誠の姉さんか」
「えっ燕、この人知らないの?」
……と、彼は素っ頓狂な声で燕を見た。本気で驚くような目を見て、燕は戸惑う。
「知らない」
そもそも燕は早朝から公民館の壁を塗り直していたのだ。
慣れない作業に全身汗だくになりながら、それでもようやく終わりが見えてきた。しかし、その達成感を味わう直前に、突然工房へ呼び戻されたのである。
扉を開けた瞬間、工房から飛び出した誠が燕の背後に滑り込み、水が顔面を襲った。燕から見えたのは、喧嘩をする女と誠だけ。分かるのはそれだけだ。
田中が燕の耳にひそり、と囁く。
「何年か前に海外のオークションでさ、すごい金額の日本画が落札されたニュースがあっただろ。あの画家の……遠山健吾の奥さんだよ。モデルで後妻業の」
「ちょっと。聞こえてるわよ。モデルじゃなくて女優。それに初婚同士だから後妻業じゃないわよバカ。ついでに言うけど、あたしはお客様。けー君……夫の絵を直してもらいにきてるの。ガキはすっこんでなさい」
薄いガラスがビリビリ震えるくらいの声量が響く。なるほど肺活量だけはあるらしい。
年齢は20代後半くらいか。体にぴたりと沿う赤いドレスは、こんな場所では浮いている。が、逆にそんな浮き方がよく似合っていた。これは彼女の戦闘服なのかもしれない。
綺麗か醜いかでいえば、綺麗な女性なのだろう。
隙の無いメイクを見て、燕はこってり塗られた油彩画を思い出す……口に出せば今度こそグラスが飛んできそうだが。
「この女、2週間前にも絵を大量に持ってきて修復の依頼をねじ込んできたんだよ。しかも直したあと預かれって。ここは保管庫じゃねえの。自分のところに立派なお屋敷があるんだから、そこにしまっとけよな」
誠が指差す先には、布にくるまれたキャンバスがある。それも山のように。
ただでさえでも狭い工房がキャンバスに占領されているのに、皆本だけが楽しそうにニヤニヤ笑っていた。
田中はキャンバスを数枚抜き出し、首をかしげる。
「結構前の作品ばっかりだね。そーいや、この画家、入院して絵はストップしてるって聞いたけど……ねえ奥さん」
「お姉さん」
「おねーさん。旦那さん入院中でしょ。ついてなくて大丈夫? こんな所にいていいの?」
「それだよ」
誠が遠山を睨みつける。
「きっとこの悪女、家から絵を盗んできてるんだよ。で、隠しておいて死んだら売って金にするつもりなんだ」
誠の不用意な一言で、遠山の導火線に火が付いた。再びグラスに手を伸ばそうとした彼女の腕を、皆本の手がそっと押さえる。
「誠は言いすぎだ。お嬢さんは言葉足らずだ。おいお嬢さん。持ち込んだ絵を全部直してほしい。そういうことだな」
遠山は鳶色がかった瞳で皆本を見つめる。そして頷いた。
「そのあと預かって。返してほしい日はちゃんと言う。送り状も全部用意してきてるから、手間じゃないでしょ」
「俺もこの年だ。正直厳しいな。でも知り合いに頼んでみてやる。少し待ってな」
「師匠、甘やかす必要ないって! 一ヶ月前も同じこと言って30枚もねじ込んできただろ!」
「あー。そういや表に怪しい男、みたなあ。あたし」
怒りだした誠に、遠山の呑気な声が重なる。彼女はわざとらしいステップで工房をゆっくりと回り、窓の外をちらりと見た。
「あ、ほら。変な男の人が海の方に向かって走っていくけど……ドロボーさんかもよ?」
「青、行くぞ」
「無理、仕事。俺いちおー社会人」
「なんだよ。仕事なんてしてねえくせに……もういい!」
大根な演技に引っかかった誠はすぐさま立ち上がる。断った田中を乱雑に殴りつけたあと、誠は子ウサギのように入り口に向かって駆け出した。
「あ。冷凍庫のアイスは食うなよ。俺が買ったんだからな。青は特に」
「何で俺だけ」
「お前、俺のソーセージ食っただろ。それに前にハンバーガー買ってくるって約束やぶったろ」
「ソーセージ食べたの俺だけじゃないし。それにバーガーは忘れてたんだって。今度買ってくるからさあ」
「お前の”今度”は信用できないんだよ!」
誠が派手な音を立てて去って行ったあと、遠山はわざとらしく伸びをする。
「あれを追い出したいときはこれが一番効くのよ」
そして、まるで狐のような顔で燕に向かってウインクした。
「あの子、この島の子じゃないじゃない。夏前からここに住み着いてんだって……ほら」
遠山は壁に背を押しつけて、柱を指先で叩く。そこに見えるのは、柱に刻まれた文字だ。誰かの背比べの跡だが、よくよく見ればその文字は真新しい。
8月20日、140センチ。その下に描かれているのは8月13日、140センチ。日付は一週間刻みで描かれていて、一番古いものは6月20日、139・8センチ。
「ね。6月くらいから住み着いてんのよ、あのガキ……ねえ~、おじいさん。1週間毎につけたって身長なんて、たいして変わんないって」
「誠もそう言ってたが、ガキはすぐに成長するんだよ」
遠山の言葉に皆本は苦笑する。そして少し照れるように顔を背けた。
「俺みたいな年寄りはな、なんでも記念を残そうとしちまうんだ……おっと。絵のことだったな。知り合いに絵を預かって貰えないか聞いてやろう」
そさくさと奥に消える皆本を見送って、遠山は口をとがらせる。
「あのガキ、ガッコも行かずに何やってんだか……ま、あたしもほとんど学校行ってなかったから人のこと言えないけど」
皆本は消えた。田中は本当に仕事をしているようで、持ち込んだノートパソコンとにらめっこだ。
必然的に、燕は女と向かい合うことになる。
そのことに気がついた燕は、慌てて台所に逃げ込んだ。
台所の机に山と盛られているのは林檎である。箱で届いたのか、つやつやと明るい林檎がいくつも重なっていた。
燕はそれを一つ、二つとつかみ、エプロンを巻き付ける。妙な争いに巻き込まれるくらいなら、忙しいフリをしているほうが幾分もマシである。
(……さて、何が作れるか)
寂れたような音をたてる冷蔵庫を覗くと、雑多なそこには新しい牛乳とバターが鎮座しているのが見えた。誠が伸び盛りなので皆本が乳製品を欠かさないのだ。
「林檎、あたしの差し入れなのよ。使ってくれて嬉しい」
ぬるい湿度を感じて振り返ると、遠山が燕にひたりと寄り添って手元をのぞき込んでいた。
さり気なく身をそらす燕に構わず、彼女はなれなれしい顔で微笑んだ。
「君、かっこいいね。エプロンつけたらカフェの店員さんみたい。もしかして注文したらなんでも作ってくれるの?」
彼女の目が、冷蔵庫の隣に詰まれたパンを見た。
それに養鶏所の袋に入ったままの卵も。
「たとえば……そうだ。お洒落なフレンチトーストとか」
「作りません」
なにげなく呟かれたその一言に、燕は即答する。思わず出た強い一言に、遠山の目が丸く見開かれた。
殴られるか、と思わず構えたが彼女は玩具に飽きたような顔で背を向ける。
「じゃあいい。勝手に食べるから」
まるで自宅のような気軽さで、彼女は冷凍庫を開けた。取り出したのは、小さなカップアイスだ。付箋に「誠」と書いてあるものをわざわざ選んで、彼女は蓋を開けて高く掲げる。
「アイス食べる人~」
「食べる!」
仕事をしていたはずの田中が気がつけば台所に滑り込んできた。遠山と二人、チョコとイチゴのアイスが二人の胃の中へ消えていく。
島には商店が一つしかなく、そこはあまり品ぞろえがいいとはいえない。だから誠は時々、船で食べたいものを運んでもらうのだ。このアイスも彼の秘蔵である。後で起こるであろう揉め事を想像し、燕はため息をついた。
「誠に叱られても知らないからな」
「あんたもせっかくイケメンなんだから、ちょっとくらい愛想良くしてよ」
「笑う時をわきまえてるだけです」
燕は赤いリンゴを綺麗に洗うと、光にかざした。まるで絵の具を塗り込んだような美しい赤だった。律子が見れば気に入る色だ。彼女は美しいものが好きである。
こんなゴタゴタしたときでも、彼女の名前を思い出すと心が少し落ち着いた。
「あんた、イケメンって言われることに抵抗はないのね」
「まあ、馴れてますね」
燕の容貌は、世間一般に見てきっと整っているのだろう。
しかし燕は自分の容貌に興味はない。ただ律子が綺麗と褒めてくれるので、最低限の身だしなみを整えるようになっただけだ。
「誠とは違うタイプで嫌なやつね、あんたって」
遠山の嫌味を聞き流し、燕は林檎をすりおろしはじめる。おろし金は古いが手入れがされていて使いやすい。力を入れずにするすると林檎が雪のようにすりおろされた。白い果実に、赤い皮が交じってボウルから甘酸っぱい香りが立ち上る。
燕はそれを厚手の鍋に入れ、たっぷりの砂糖といっしょに火にかけた。
「誠とはさ、敵同士なの。前に絵を持ってきたときに、大喧嘩しちゃって」
ぺろりと赤い舌を出して、遠山は悪びれなく言った。
燕は彼女の言う”前”を知らない。
しかしその時も大量に持ち込んできたのだろう。燕は工房に積まれたキャンバスの山を思い出す。絵を知らない女にしては、丁寧に梱包された絵ばかりだった。
「なぜ、絵をあんなに大量に?」
「絵をどうこうしたって良いじゃない……妻なんだから」
答えにならない答えを言って、彼女は顔を背ける。
アイスの箱を机に投げ出したまま、彼女は窓の外を見つめていた。
「……壊れちゃったら、可哀想じゃない」
あごを支える彼女の指先を見て燕はふと眉を寄せた。まつげの先まで気を抜かないくせに、爪は短く切りそろえられ色がない。
「おねーさん。でもさ、なんで修復を皆本さんに頼んだの? 東京にもいっぱい工房はあるのに。皆本さんってそんな有名?」
「んー。ここの爺さんが一番なのよね。けー君の絵、有名になる前からずっと直してたらしいし。やっぱ慣れてる人のほうが安心でしょ?」
林檎の皮から滲んだ赤色が鍋の中をピンクに染める。同時に甘い香りが台所中に広がって、遠山は幸せそうに目を細めた。
「……それにお偉いせんせー方が見抜けなかった贋作を見抜いたのもここの爺さんよ。よぼよぼだけど、見る目はあるみたい」
「贋作?」
「そうなの。昔のけー君の絵がオークションにかけられた時……」
「お嬢さん。よぼよぼは余計だな」
遠山が前のめりとなり語ろうとしたその瞬間、皆本の手が彼女の肩を掴む。
「それより、弁護士が来たぞ。隠れるなら隠れておきな」
気がつくと、玄関に人影がある。風に乗ってきつい整髪剤の香りが台所にまで漂ってきた。
「あ、やば」
遠山は玄関を覗き見ると慌てて台所の机の下に潜り込む。そして燕を見上げて手のひらを合わせた。
「お願い。隠して。けー君の親戚が雇った、いやーな弁護士なの」
まるで小さな子供のように体を縮めた遠山を、田中が椅子を寄せてうまく隠す。仕方なく燕もエプロンを外し、机にかけた。
こうすると、小柄な彼女は雑多な荷物の中に紛れて消える。
「皆本さん。ここには絵は無いんですね」
同時に玄関から冷たい声が響き、燕と田中は空中で視線を交わした。なるほど、あまり良い話ではないようだ。
「いきなり来て、わけの分からん話をするな」
「加奈子さんですよ。来ていませんか。東京から、絵と一緒に姿を消したんです。彼女、前にも絵を持ってきたでしょう?」
その声に燕の心音がどきりと跳ねる……確か、工房には絵がそのまま置かれてるはずだ。息を止め、燕はそっと台所の扉から工房を覗き込む。と、見えたのは飄々とした皆本の横顔と、ヘビのような顔の男である。
「ああ。30枚な。その絵はあんた達が持って帰って、話は全部済んでるはずだ」
「同じように今回も、絵を持ってきたはずです」
男は何か見落としがないか、細い瞳でじっくりと見渡した。しかし、広い工房に見えるのはいつものように汚れた作業台、雑多な道具。それだけだ。
遠山が運び込んでいた絵はすでにどこかに隠してあるらしく、工房はすっかり空になっていた。それを見て燕はほっと息を吐く。
「確かに、ありませんね」
やがて、折れたのは弁護士の方である。
「じゃあ絵のことはいいです。書類なんか預かってないですよね」
「書類?」
「ええ、彼女にはサインを頂く必要があるんですが……その書類を」
その言葉を聞いて、燕の手が震えた。同時に遠山の指先が白く染まる。
コンロの上ではジャムが煮詰まり部屋は暑いほどだ。だというのに、遠山は小さく震えた。田中が心配そうに机の下を覗き込むと、彼女は細い顎をつんと反らせる。
「最初から言ってるが、奥さんは来てない。来てないんだから絵も書類もあるわけがない。でもあんたは電話で済むことをわざわざ足まで運んだわけだ。俺のことが信用できないからか?」
「ち、違います。あ、そうだ。絵を。絵を持ってきたんですよ。修復をお願いしたくて……こんな汚れを直せますか?」
何かを取り出す音。かたり、と床にキャンバスが置かれる音。遠山が心配そうに顔をあげるのを、田中が必死に押し戻す。
「これは?」
「モデルは加奈子さんです。デッサンで止まっていたのを、先生が今になって色を付けようとして失敗して。汚れてしまったんです。色を落としていただければ先生のデッサン画として発表できますので……ああそうだ。デッサン画といえば……」
一度は立ち上がったくせに彼はまだ諦めきれない様子で、ぐだぐだと世間話を続ける。彼が重い腰を上げたのは、林檎がドロドロに煮詰まる頃。
「……もしあの人が来たらすぐご連絡ください」
名刺を取り出したのか、硬質な名刺ケースの音が響く。その音を聞いて、皆本がかすれたように笑った。
「確かに鼻っ柱はつええが、そこまで嫌な女じゃねえだろ。なぜそこまで嫌う」
「あの人は弱った先生を騙したんですよ。前の30枚も我々に内緒で……いえ、別にあなたの責任ではありません。あなたも騙されたわけですから。あの絵を一体どこに売るつもりだったのか、今回もまた20枚も持ち出して」
男は遠ざかっていくが、声の険悪さは粘度を持ってそこに残るようだ。
それを断ち切るように、燕はわざと音をたてて、バターを刻む。
古いまな板は端が浮いていて、包丁を動かすだけで派手な音がするのだ。バターを煮詰まったジャムに落とすと、じゅっと激しいと音が響いた。
その音に気付いたか、皆本がわざとらしい咳払いをする。
「すまねえな。こっちはもう飯の時間なんだ。帰って貰えるか」
「はあ」
男は興がそがれたような声を上げた。しかし執拗に部屋の中を探る音がする。諦めたのは数分後だ。
そして。
「あの女は悪女ですよ」
最後に吐き捨てるような声だけが残った。
「お嬢さんの持ち込んだ絵は全部綺麗なもんだ。きっちり保管されてる。汚れもなけりゃ、傷もない。そういえば、前に持ってきた30枚もそうだったな」
男を追い出して15分。男が港に消えたことを確認したあと、ようやく皆本は台所に座り込む遠山に声をかけた。
床には彼女の持ってきた20枚の絵が、再び並べられている。
港町の風景、花の絵、カフェの外観。どれも見事な水彩画だ。が、皆本の言う通りどこにも傷も汚れも見当たらない。相当気を遣って保管していたと思われる絵ばかり。
「正直に言ってみろ。どうしてほしい」
「……けー君、体の調子が悪いの」
皆本が彼女を椅子に座らせる。と、遠山は素直にそれに従う。
「病気が進行しちゃって。腕の筋肉がもう動かなくて、絵もあんまり描けない。今は笑ってるけど、そのうち笑えなくなるんだって。でもね、あの人ね、自分の絵が好きなの……なのに、親戚のやつら、すごく遠い場所に、あの人の美術館を作るんだって」
肩を丸めてふてくされる遠山は、まるで小さな少女のように見えた。宝物を奪われまいとするように、彼女は小さなキャンバスを抱きしめている。
それは弁護士が置いていった絵だ。
「あいつら、絵を全部持っていっちゃうの。遠くに飾られたら、けー君、もう自分で見に行けないのに。そう言ったら、あいつらなんて言ったと思う? 目が見えてないんだからホームに置いといても見えないでしょって……嘘よ。見えてるの。見えてるんだよ。だって、あたしが変顔したら嬉しそうに笑うんだもん」
「だから、ここで預かってほしいと言うわけか」
「……来月まで。来月ね、けー君の誕生日にホームでお祝いするの。そのときに、あたしね、ホームの壁中にけー君の絵を思いっきり飾るのよ。その前で、あたし、踊って驚かせるつもり」
赤い唇を押さえて、彼女は笑う。
「けー君、実際あたしのことも、もう忘れかけててさ。着替えを手伝ったり、食事のお世話するじゃない? そのたびにあたしを見てすごく綺麗な人ですね。って驚くのよ。だからあたし、そのたびに言うの。良かったわね。あたし、あなたの奥さんよって」
ふと、彼女は抱きしめていたキャンバスを覗き込む。
そこには素描で女の横顔が描かれていた。遠くを見つめる芯の強い瞳……彼女をモデルにした絵だ。
色は塗られていない。代わりに丸い色が水玉のように散っている。
ピンクに青、ミントグリーンにクリーム色。まるで踊るようなその色は、彼女の顔にも頬にも散っている。
「見てよ。あたしをモデルに描いた昔の下書きに、色を付けようとして、こんなペタペタって……」
「これが失敗? 失敗じゃないように見えますが」
燕は思わず絵に見入っていた。
画面中を覆う水玉は、乱雑に色を落としているようにも見えるが色の並びが美しい。一つ一つの丸も、測ったように美しい円形だ。
何より、この色は適当には生み出せない色だ。燕は何よりそのことを知っている。
「ねー。おねえさん。遠山先生ってさ、香川出身だったよね?」
田中も同じことを思ったのだろう。突然の質問に遠山は驚くように頷く。
「そうよ。まだ故郷で絵を描いてた時、この島で皆本の爺さんと出会って、それで絵の修復をお願いするようになったって……」
「俺、これの秘密、わかるかも」
勢いよく立ち上がった田中は、台所へ駆け込む。すぐに駆け戻ってきた彼は、遠山に小さな箱を押し付けた。
「その水玉ってこれじゃない?」
田中が持っていたのは、まるで水玉をそのまま形にしたようなお菓子だった。
「何?」
「おいり、っていうお菓子。島のおばーちゃんに貰ったんだ」
見ると、1センチもない小さな粒が透明の箱にぎっちりと詰まっている。
淡い桃色、クリーム色に、かすれたような黄色もある。
「……軽い……」
受け取った遠山が、驚くように言った。力をいれる前に儚く潰れる。淡い煎餅のようなお菓子だ。
田中の言う通り、その色も形も絵の水玉によく似ていた。
遠山は箱の中の水玉を見つめ、目を丸くする。
「まさか、お菓子を描いたっていうの?」
「縁起物のお菓子だよ」
「そんな縁起物なんて」
「……花嫁の幸せを祈る、縁起物だ。お嬢さん」
皆本は一粒つまみ、彼女の手に乗せた。小さな雪玉のようなそれを、彼女は恐る恐る口に含む。音もなく、それは彼女の口内を甘くした。
「軽すぎ。こんなんじゃ、お腹膨れない」
「アイスに乗せたら?」
誠秘蔵のアイスが再び引っ張り出される。と、おいりがはらはら、その上に舞った。
白いアイスに、赤や緑のカラフルな色が散る。まるで夏の木漏れ日のようだった。
甘いバニラとしゃくりと崩れるおいりを食べて、彼女はようやくうっすら微笑む。
「悪くないんじゃない。ね、あんたの作ってたジャムもできたでしょ。りんごバターなんてオシャレじゃない。ちょっとちょうだい」
彼女は勝手に鍋のフタを開け、まだ湯気の上がるジャムをバニラアイスに落とした。熱を持ったジャムはアイスを溶かし、おいりを崩す。しかし構わず、彼女は幸せそうに林檎バタージャムをアイスに載せて頬張るのだ。
「あたしさ、青森生まれなの。だから海は荒れるもんだって思ってた。でもここの海って湖みたいに静かでびっくりしちゃった」
彼女が見つめているのは、開いた扉から見える海である。
白い砂浜の向こう、白波を泡立たせて青い海が揺れている。打ち付ける波は穏やかで、燕も最初は戸惑ったものだ。
瀬戸内海は陸と陸に囲まれ閉鎖されているので、波が穏やかなのだという。
「それに、あたし男運もないの。男はみんな殴ってくると思ってた……あの人に出会って、静かな男もいるんだって、そう知ったの」
机の上に置かれた遠山の素描は穏やかな顔をしている。きっと、夫の前だけで見せる表情なのだろう。しっかりと守られた人間は、海と同じで穏やかな顔になる。
「けー君。海の見える家で生まれたんだって。実家もなくなってこっちに戻る予定もなくなって。それでも瀬戸内海が見たいって、頭洗ってあげてるといつも言うの」
色のない爪先で、彼女はおいりをつまみ上げる。素描のような爪はよく見ると荒れていた。爪は短く切りそろえられ、赤くただれた場所もある。
きっとあの整髪料が香る弁護士は、彼女の爪の先など見たこともないのだろう。
「元気なうちに一回くらい連れてくればよかったなあ」
「じゃあ、描けば?」
田中の一言に、遠山の目がぎょっと丸くなった。
「描く? あたしが? 無理無理。あたしは、絵なんて」
「旦那さん画家でしょ。写真より動画より、絵のほうがきっと嬉しいと思うけどなー」
すでにその気になったのか、田中は早速絵の具や筆を選び出す。
「無理よ、あたし。小学校の美術、全部さぼってたんだからね」
「たまには良いことを言うじゃねえか、田中も」
「水彩でもいいけど、シロートならアクリルのがいいかなあ。塗り直せるし」
「乾きが早いのはこいつだ。発色もいい。これで描けば良い」
慌てる遠山を無視して、皆本まで絵の具の選別に加わった。青に白、オレンジに緑。眼の前に様々な絵の具が重ねられ、遠山は困ったように燕を見る。が、燕は肩を寄せて首をふる。こうなってしまえば、諦めて従うほかに方法はない。
「別にコンテストに出そうってんじゃないんだ。思うように描いてみるといい」
画材道具を眼の前に並べられ、遠山は呻くように頷いた。
「あーあ。最悪。絵の具、べったり服に付いちゃった」
時刻は18時前。港に浮かぶフェリーを見上げながら、遠山が清々しく笑った。足や手、スカートの隅にまで、色鮮やかな絵の具が張り付いている。
まだ明るい海を見つめて、彼女は楽しそうに手を高く掲げた。
「それよりこれ、海って分かる? 子どもの落書きみたいじゃない?」
彼女が手の先に持っているのは雑誌サイズほどの小さなキャンバスだ。
人生で初めて真面目に描いたというその絵は青も白も緑もピンクも、好き放題に使われている。
遠くに見える島影はなぜかハート型で、雲はおいりのような丸い形、カラフルな色合いだ。
「俺はいいと思うよー。初めてにしちゃ、派手だし」
「俺も思います。筆がまっすぐで」
「美大生の言うことって全然わかんない。ま、褒めてくれたってことにしとく」
田中と燕の回答に彼女は唇を尖らせ、キャンバスを大切そうに鞄にしまう。
この島に来た時より、すっかり彼女の毒素は抜けていた。
それは皆本が彼女の持ち込んだ絵を守る、と約束したからだ。
東京の信頼できる工房で預かってもらい、来月必ずホームに送る。そう言うと彼女はすっかり落ち着いた。
「ねえ、イケメン君。荷物運んでよ」
命じられるままに燕は彼女の荷物を持って船にのぼる。
甲板にあがると、湿った空気が顔をなでた。空には力強い入道雲がかかり、三角形の島影を飲み込むように広がっている。
「あ、皆本修復工房の」
客の一人とぶつかりかけて、燕ははっと顔を上げた。そこにいたのは、数日前に坂道で見かけた眼鏡の男だ。相変わらず重そうな鞄を提げている。
「ああ。皆本さんには会えましたか?」
「いえ、来客中のようで……」
男は困ったように眉を寄せた。その言葉を聞いて、燕は小さくため息をつく。なんとも運の悪い人だ。
「今ならいますよ」
「明日用事があってもう戻らないといけないんです……これを逃すと今日の船はもうありませんし」
「ここの工房、ちょーいいよ」
遠山がひょっこりと顔を出して、にやりと笑う。眼鏡の男は驚くように目を丸め、しょぼしょぼと頭を下げた。
「ええ。この島でその噂をたくさん聞きました。必ず、見て頂きます。よろしくお伝えください」
気がつけば船の出港まであとまもなく。
燕が船を降りようとした瞬間、島の方から柔らかい音楽が聞こえてきた。
それは島に流れる18時を告げる音楽だ。先日も流れていた、穏やかで切ない音階。それに耳を傾け、遠山は微笑む。
「あ。埴生の宿」
「はにゅう?」
「曲名ね。けー君のホームでこの曲が流れるの。我が家が一番、って歌詞。家に帰れない人には皮肉じゃない? って思ってたけど、こうして聞くといい曲ね」
彼女はつぶやき、小さなショルダーバッグから一枚の書類を取り出した。
「けー君。この間ね、久々にあたしのこと、思い出したの……苦しいなら離婚してもいいって、こんな爺さんの面倒みなくていいって」
開かれたそれは、離婚届だ。男の名前は書かれている。女の名前は一度書かれ、消された跡がある。
「あの嫌な弁護士はね、これをあたしが持っていかないもんだから、悪女って言うわけ。それを誠に聞かれて、あのガキまで悪女って言い出してさ……やだ。そんな困った顔しないでよ。イケメンが台無しになるじゃない」
固まる燕を見て、遠山はいたずらっぽく笑った。
「……ま、いいか」
そして彼女は手の中の書類をおもむろに破く。
薄い紙は音も立てずに綺麗に破れた。
「本当に悪女になってやるかあ」
柔らかいそれはビリビリと、あっという間にいくつもの紙片になる。
「ねえ」
ゆっくりと風に乗って飛んでいくその紙片を見送りながら、遠山が燕を呼び止めた。
彼女は甲板の錆びた手すりに身を預けて、燕を見つめているのだ。真っ赤なドレスをはためかせ、真っ赤な唇を大きく開けて。
「あんたがフレンチトーストを作ってあげる相手って、すごく幸せ者ね」
美味しいジャムをありがとう。と、彼女はあの絵と同じ、満面の笑みを浮かべていた。
「ねえ燕くん。すごく素敵な夢をみたの」
燕がフレンチトーストを作る世界で唯一の相手が、弾けるような声で語る。
「私がまだすごく小さな女の子になってる夢。大きなクスノキがあって、その木のホラに入っていくと木造りの素敵なお家があるの。扉を開けるとそれはそれはきれいな花畑があってね」
夕暮れがじわじわと砂浜に広がるその場所で、燕は腰を下ろしたままスマホを耳に押し付ける。
「ファンタジーですね」
「そうなの。で、なんでそんな夢を見たかというとね、この間、整理をしていたら子どもの頃のアルバムが出てきたのよ。それでね。そっちに送ったの、もうついてる頃かしら?」
「届きました。わざわざ封筒に入れなくても、メールで送れるのに」
「古いカメラも出てきたから家の中を撮影したの。それもみてほしくて。やっぱり写真は現物のほうがいいでしょう?」
燕は先程、誠から受け取った封筒を覗き込む。律子から贈られてきた封筒は絵の具があちこちに飛び散り、住所も掠れ気味だ。よく届いたものだと感心しながら中をひっくり返すと写真が数枚、滑り出る。
一番上にある黄ばんだ写真は、古い家族写真だった。今の律子によく似た女性と、背が低く生真面目そうなスーツ姿の男性。そしてその真ん中に幼い少女。
「ご両親ですか?」
「そうよ。もう両親とも亡くなってるけど、両親の若い頃を見るのって不思議な気分ね」
二人に囲まれて幼い律子が両手を上げて微笑んでいる。
髪は今よりも長く、肩甲骨のあたりで揺れていた。しかしそのくしゃりと潰れるような笑い方は、今と同じだ。痕跡の残るその顔を、燕はじっと見つめる。
「どんなご両親でしたか?」
「優しくて、のんびり屋さん。二人とも食べることと美味しい物が大好きだったわね。絵はね、あんまり好きじゃなかったみたいだけど……」
写真を見つめ、燕は彼女の性格が穏やかである理由を知った。
両親の慈しむような視線が光となって幼い律子をくるんでいる。彼女はこの光に育まれたのだ。
「律子さんは面影ありますね」
「まだ小学校一年くらいかしら。この頃、大人になりたくてたまらなかった。放っておいても大人になんてすぐになるのにね」
波の音がゆるやかに響いている。打ち付ける波の際で田中、そして泥棒探しを諦めて帰ってきた誠が走り回っていた。
喧嘩していたと思ったらもう笑顔だ。それをぼんやり見つめながら、燕はポケットにねじ込んだままの書類を取り出した。
真っ白い紙に身元保証書と書かれ、簡単な文言が続く下には名前と住所、印鑑を押すスペースが設けられている。
遠山のように笑顔で破り捨てることができれば、どれほど楽だろう。
ため息を押し殺して書類をたたみ直そうとした瞬間、ふと律子の声が揺れた。
「……ところで燕くん、何か悩み事?」
彼女は燕の異変を察知するのだ。それは嬉しくもあり、同時に恐ろしいことでもあった。
「ええ。足がひどい筋肉痛で」
だから燕は自然に嘘をつく。
「ここは坂道ばかりの島ですから」
きっと律子に頼めばサイン問題は解決する。柏木も嫌味を言いながらサインくらいはしてくれるだろう。
彼らだけではない。バイト先のマスターでさえ、相談すれば事情を汲んでくれるに違いない。燕の周囲には良い大人が揃っている。
だからこそ、それに甘えてはいけない。
ここでまた両親から逃げれば燕は一生逃げる羽目になる。
「燕くん?」
「ああ、いえ……写真、いっぱい撮ったんですね。家中を?」
「そう。ちょっと古いフィルムだから逆に掠れた色になって素敵でしょ」
はしゃぐような声を聞きながら、燕は砂浜に落ちた写真を一枚一枚見る。古い写真以外は彼女が自ら撮影したものばかりだった。
燕のいない台所、散らかった部屋の真ん中でピースサインをする桜と夏生。机の上の雑多な絵の具。椅子に腰掛けた柏木の嫌味な背中。会計士の池内がコーヒーをすする姿。
「片付けて出たのに、もうこんなに散らかして」
文句を言いかけた燕は、ふと手を止める。机の上を写した一枚に、何かが見えたのだ。律子愛用のカップが載せられた机の上。彼女が買ったという蜂蜜の瓶がみえる……その向こう、一枚の紙が落ちている。
それはアート展で配られるフライヤーのようだった。
ピントがずれて掠れているが、律子の名前が読み取れる。
その名前の横に書かれた文字は。
(……個展)
文字を見つめ、燕は手のひらを強く握りしめた。
(個展?)
そんな話、燕は一度も聞いていない。
もともと律子は個展には消極的だった。カルテットキッチンで律子の存在が世間に認知された時、個展や画集の誘いは呆れるほどにあったのだ。しかし彼女はそれを断って来たはずだ。
最近、柏木が律子の家に居着いている理由を、燕は今更ながら知った。時折彼らは燕に「秘密」を作ってサプライズをする。という悪癖がある。
近くに居るのなら、それも楽しめる。しかし今のように離れていると、心がざわめく。
「……律子さんこそ僕に隠していること、ありませんか?」
「さあ。どうでしょう」
笑う律子の声を聞きながら、燕は空を見た。
都会より田舎の空が明るく見えるのは、遮るものがないからだ。都会はいつも建物に挟まれて空は小さかった。
律子の秘密は、遮るものはない空のように明るく楽しいものだろう。しかし燕の秘密は都会の空のように重苦しい。
「律子さん。次に会った時、約束してください」
「約束って?」
三年前、燕と律子は互いに秘密を持ってはじまった。
三年経った今も、互いにまた秘密を持っている。
しかし三年前と違い、今の燕は歩み寄れることを知っている。
「もし次会うときに僕の悩みが解決していたら、律子さんの秘密を教えて下さい」
燕は投げ出してあった書類を掴み、手の中でくしゃりと潰した。




