海と出会いの海鮮丼
そこは絵の具と海が香る場所だった。
『皆本修復工房』と書かれた看板が、潮風に揺れてからんころんと音をたてる。
燕の眼の前には、赤さびの浮いた重そうな扉が立ち塞がっていた。
ぴったり閉ざされた扉を、燕は恐る恐るノックする。
「すみません」
どう声をかけるべきか。散々悩み、口にしたのはその一言だ。
たっぷり30秒待っても返答がないので燕はノブを掴み、そっと引く。扉は見た目以上に重く、錆びた鉄の音が響いた。
「あの……」
隙間から室内を覗き込こみ、燕は目を丸める。
中は、想像よりもずっと広い。コンクリート床がむき出しの、ガレージのような部屋である。
窓は高いところに1つだけ。
灰色の壁に備え付けられた棚はボロボロだ。棚にも壁にも絵の具が染み込み、斑模様になっていた。
天井の蛍光灯は昼にもかかわらず煌々と輝き、部屋を隅々まで光で照らしている。
真っ白に染まった部屋の中央、鮮やかな色彩があった。
(黄色?)
それは花畑である。花の名前までは分からない。水滴のようにぷくりと膨れた花びらが愛らしい。
そんな花の上には、緑がかったシアンの青空が広がっている。
(なんて綺麗な)
絵だろう。と、燕は目を丸くした。
イーゼルに立てかけられたそれは一枚の絵だ。
美しい色を見ると息が止まり、目が惹きつけられる。それは三年前からの癖だった。
「誰だ?」
絵に近づこうとした燕の足が震える。イーゼルの向こうから、男が顔をだしたのだ。
「大島か?」
名前を呼ばれ、燕は慌てて頭を下げた。
「はい。応答がないので勝手に入りました」
イーゼルの向こうにいるのは、白髪頭の男である。
「夕方の船で来ると思っていたが」
「一本早い船に乗ることができました」
「なるほど。若えのは足も速いんだな」
彼は絵の具で汚れたエプロンで指を拭い、手にした筆を筆入れに投げ入れた。
「おい、立ってるついでだ。お前さんの隣に立てかけてる絵を取ってくれ。そうだ、その足元のクレヨンの絵」
男は花畑の絵を床に下ろすと、代わりに燕が手渡した絵をイーゼルに載せる。
「この絵は?」
「修復の依頼品だ。おい、坊主。どこをどう直したか、分かるか」
彼が置き直したものは、先ほどの絵と異なる幼い作品だった。
ピンク色に塗られた家の前に、4人の大人と1人の子どもが立っている。おそらく家族だ。構成は両親と子ども、そして祖父母。
筆圧がはっきりわかるほど、力いっぱいに塗られた色は純粋である。塗り漏れも塗り過ぎも気にしていない。のびのびと自由な絵。
心の奥底がチクリと痛んだが、燕はすぐさまその感情に蓋をする。
昔から感情を押し込むことだけは得意だった。
「そうですね」
「そんな離れてみても見えねえよ。取って食いやしねえから、もっと近づいてみな」
クレヨンが香るくらいまで顔を近づけ、ようやく燕は合点する。絵と絵の間に絹糸程度の白い線が見えたのだ。
「細かく……破れていた?」
「正解だ。見事にビリビリだよ。28個の欠片になってた。まるでパズルだろう。それをくっつけて直したってわけさ」
骨が折れた、と男は肩を鳴らして笑う。そんな男を見て、燕は首をかしげた。
「でも、これは子どもの」
「ちぎれても良い絵なんてない」
男は愛おしそうに絵をなでたあと、燕を見る。
「そうだろう?」
その眼光の鋭さに、燕は戸惑った。
……とても80を過ぎてる風に見えない人だよ。と、燕をここへ送り込んだ人はそう言っていた。
確かに年齢に見合っているのは、真っ白に色の抜けた髪の色くらいだ。
陽に焼けた体には筋肉がついていて、腰もそれほど曲がっていない。そのせいか、背も高く感じる。
眼の前に立つと、思わずたじろいでしまいそうになる迫力があった。
「俺は皆本。皆本修司だ。修復工房の責任者で、お前さんの研修の面倒を2週間みることになっている。といっても、修復するのは俺一人しかいねえのに、責任者もなにもあったもんじゃないが」
皆本が窓を開くと、湿気った風が燕の髪を舞い上げる。都会では嗅いだことのない複雑な香りが燕の鼻をくすぐる。
改めて部屋を見渡すと、室内にあるのはいくつかのキャンバスだ。作業台は絵の具と油に汚れ、光沢さえ感じる。
台の上にあるのは使い込まれ手垢にまみれた筆、絵の具。何が入っているのか分からない透明な瓶。
棚にしまい込まれた絵は依頼品なのか、付箋がつけられている。が、その数は多いとはいえない。
燕の視線に気づいたのか、皆本が肩をすくめた。
「見ての通り暇な工房だ。研修を断ってくれてもいい。お前さんの社長には俺からうまく言っとくさ。すぐ東京に帰ってもいいし、暇なら宿を手配してやるから島で遊んで帰ってもいい。もう盆を過ぎてるから泳ぐのは難しいが、瀬戸内の静かな海を眺めて過ごすのも楽しいもんだろう」
皆本の言葉とともに強い風が吹き込んだ。
先ほど皆本が開いた窓から、蒸された夏の風が吹き込んだのだ。
燕は窓に近づき、外を見た。見えるのは、抜けるような青空と真っ青な海。
この建物は、海からまっすぐ坂道を上がった場所にある。
眼下に見下ろす海は爽やかで痛々しいほど、一面の青だ。
「海が珍しいか?」
「いえ、海の匂いが強くて」
「ここじゃどこでも海が匂う」
海の匂いの正体は、プランクトンの死骸の香り。そう燕が知ったのは、確か小学校の時。
それ以来、燕は海がどことなく恐ろしい。巨大なうねりの中に、数億、数十億という死が眠っている気がする。
強烈な海の匂いの中で、燕は思う。
……なぜ、自分はこんな所にいるのだろう。
人生の転機というものは、あっさり起きるものらしい。
燕の場合、それは2日前にかかってきた一本の電話である。相手は来年の春に内定が決まっている修復工房の所長だ。
夕食後の片付けも終わった。そんな一息をついたタイミングで電話が鳴った。
そして告げられたのだ。
明後日から2週間、瀬戸内の花之島にある工房へ研修に行ってくれないか。
「大島燕……しゃれた名前だな」
「はい」
皆本の声が響き、燕は慌てて背を正す。
気がつくと皆本がメガネを手に、紙を覗き込んでいる。所長が送った燕の経歴書だろう。
「春生まれか?」
皆本の言葉に燕の口元が緩む。怪訝そうに眉を寄せた皆本に、燕は慌てて言い訳をした。
「いえ……すみません。以前、同じようなことを聞かれたことがあって。残念ながら、夏生まれです」
答えると皆本が柔らかく笑う。見た目は無愛想だが、気難しくはなさそうだ。その表情を見て燕は内心ほっと息を吐く。
「23歳、大学四年生か」
年齢と大学の年数が一致していないことに彼は気付いたはずだ。しかし余計なことは口にはしない。
その優しさに甘えることにして、燕は自らの過去を飲み込んだ。
燕は過去に一年、空白の時間を持っている。
苦しい一年だったが、無意味な一年ではなかった。今なら胸を張ってそう言える。が、それを初対面の男に話すほど社交的な性格でもない。
皆本は紙を机に放り投げると、燕をじっと見つめた。落ちくぼんだ目の奥は力強い。全てを見透かされそうになり、燕は恐る恐る視線を外す。
「研修を断りたいか?」
「……少し」
迷ったが、燕は正直に口にした。この男には、いい加減なことを言っても真実を見抜かれるに違いない。
「悩んでます。研修を受けるかどうか」
2日前の電話で、所長は「断ってくれてもいい」と言った。
急な話である上、終了は9月も半ばになってしまうからだ。が、その言外には、受けてほしそうな響きがあった。
皆本は所長にとっての恩師だという。
腕がいいくせに、若い頃は日本中を転々と彷徨って修復を行った。今では島に籠もって一人きりで修復を行っている変わり者。けして人を頼らない。
そんな人が「若手を一人、寄越してほしい」と手紙を送ってきた。と、浮かれたように所長は燕に告げた。
利用するようで心苦しいが……とまで言われてしまえば、燕は頷くしかできなかった。
燕は押しに弱いところがある。渋々と了承し、暗澹たる気持ちのまま用意を整え終わったのが昨夜遅くのこと。
そして今朝、東京を発った。家にいる時間が長ければ長いほど、腰が重くなる。それが分かっていたので、眠らず始発の電車に飛び乗った。
東京から花之島まで電車と船を乗り継いで6時間。本州から四国に渡り、香川県高松市にある小さな港から船に乗る頃には、足が棒のようになっていた。
そして陸が少しずつ離れていくのを船上から眺めて、燕は言いようのない恐怖を抱いたのだ。
人は『たった』2週間というだろう。しかし燕にとっては2週間『も』だ。
燕は東京の家に執着を残している。
その執着を置いて遠くへ行くことは、どう考えても無理だった。
(……なのに、こんなところに立っている)
「まあ、今すぐ追い出すわけじゃない。こっちにおいで」
思い悩む燕を、皆本が手招く。
「どっちにしろ次の船が来るのは3時間後だ、その間、飯でもごちそうしよう」
風がよく抜けるこの建物は、かつて商店だったのかもしれない。
壁には据え付けの棚が残り、柱には誰かが背でも測ったのか横線と日付が刻まれていた。
しかし室内から売り物は全て消え失せ、商店である過去を示すものはない。
「台所にいこう」
案内されたのはなかなかにひどい場所だった。
床に積み上がっているのは、インスタントラーメンにレトルト食品の箱の山。加えて使いかけの調味料が整理もされず重なっている。
コンロも冷蔵庫も古く、換気扇は壊れているのか一周するたび悲鳴のような音をあげる。
「ちょっとばかりあれだが、掃除はしてる……時々な」
燕が固まったことに気づいたのか、皆本が苦笑して言い訳をした。
「飯は炊いてる。あとはハマチが解凍してあるから、それを食おう。冷凍だがそれはそれでうまい。さて、ほかに何があったかな。ああ。刺身が色々あるな。せっかく海しかねえ所にきたんだ。うまい魚を食っていくのがいいだろう……と」
冷蔵庫を開けようとした皆本がよろめく。
とっさに支えると皆本は少し照れるように笑った。
「年を取ると、どうにもな」
困った人を目の前にしたときに、助けるか無視をするか。
燕は後者だった……少なくとも、三年前までは。
「あの」
燕はしばし思い悩み、小さくため息を押し殺す。
「料理、俺が代わりましょうか」
驚くように目を丸くする皆本の前に立ち、燕は背の低い冷蔵庫を覗き込んだ。
中央の棚に鎮座しているのは、薄い紅色をまとったハマチのさくだ。皆本のいう通り、きちんと解凍されている。
隣にあるのはエビとイカ。青銀色に輝く半身はアジだろうか。魚に詳しくはないが、並べるだけでじゅうぶんな一品になりそうだった。
さて。と、燕はつぶやいて蛇口をひねる。夏の光を集めたような流水で手を洗い、包丁を手にとった。
幸い、料理も三年前から得意である。
「ばっかだなあ。刺身で食べるんじゃないんだよ。これはご飯に載せてどんぶりで食ったほうがうまいんだって」
適当に魚を切り分けて皿に盛る。その瞬間を狙ったように突然、足下から高い声が響く。
燕が驚いて身をそらせると、小さな手がにゅっと伸び、大きな丼鉢を高々と掲げた。
「食べるなら海鮮丼! 絶対その方が美味しいって!」
気がつけば、燕の足下に少年が一人、滑り込んでいたのだ。
短い髪によく焼けた肌。年齢は小学校高学年くらいか。中学生にしては幼い。大きな目ととがった口がいかにも生意気そうだった。
「おい、誠。挨拶もなしに失礼だろう」
皆本が慌てて少年の襟を掴む。
「このガキは気にするな。俺の」
「一番弟子! 加納誠!」
「……ちょっと都合で預かってるだけだ」
皆本に引っ張られた少年、誠はまるで猫のような身のこなしで皆本の拘束をとくと、燕の横でぴょんぴょん跳ねる。
「お前しらねえだろうから教えてやる。このハマチ、オリーブはまちっていうんだ」
「オリーブ?」
「オリーブの葉を餌に混ぜてるんだってさ。で、これはご飯に乗っけて、醤油ぶっかけて食べるんだよ。ちまちま食うより絶対旨いって。そんなこともしらねーのか、都会のモヤシはさ」
「誠!」
「だってホントのことじゃん。こいつより俺の方がずっと魚のこと詳しいし、俺のほうが役に立つし」
「大島は別に料理をするためにここに来たわけじゃないんだぞ」
「びだいせーか何か知らないけどさ、ここの工房のことは俺のが詳しいだろ」
ぽんぽん飛び交う会話を燕はあきれたように眺める。
皆本と誠の関係はわからない。しかし燕を睨むその目つきには覚えがある。
(ただの嫉妬か)
嫉妬と分かれば、対処は簡単だった。
「おい、聞いてんのか、モヤシ!」
……無視をすることである。
燕は誠の言葉を無視し、黙々と刺し身を切り分けた。少しだけ考えて、刺身は半分を軽く湯に通し半生にする。
透き通るような薄紅と、表面だけ白く染まったハマチの刺身。
それにエビとイカ。アジの刺身は量がそれほどなかったので、包丁で叩いて味噌を混ぜ、簡単ななめろうに仕上げた。
美味しそうではある。が、色が足りない。
(どこかで見た丼は大葉を刻んで混ぜてたな)
冷蔵庫を覗くと奥にしおれかけの大葉が数枚。ネギやごま、ミョウガも見える。
燕は大葉とミョウガを刻み、炊きたての米に混ぜた。それだけでふわりと爽やかな香りが広がり、米の色が淡い緑とピンクに染まる。
「お。大葉にミョウガか。夏らしいな」
いつの間にか覗かれていたようで、皆本が弾んだ声を上げた。見られていたことが妙に恥ずかしく、慌てて料理の続きを急いだ。
丼にゆるく盛った大葉ミョウガ飯の上に、刺し身を丁寧に並べ、なめろうを添える。上から振りかけるのは緑のネギ。ごまも少々。
できあがったそれを見て、燕は手を止めた。
皿の上に広がるのは淡い薄紅と白に緑、アジの青。綺麗だが、どこか決め手に欠ける。
(……はっきりとした色がほしい)
こんな場所でまで色にこだわる必要は無い。しかしそれはもう燕にとって癖のようなものだった。
「美大生」
皆本が燕の隣に並び、どんぶりを覗き込む。
「お前なら何色を足す?」
台所の窓から差し込んだ夏の日差しが、燕の手元を明るく照らし出した。
「……黄色」
思わず呟いたその色は先ほど見た黄色が鮮烈だったせいだ。まるで目を貫くような黄色だった。
「よし。いい卵がある。卵黄を載せよう」
皆本は、楽しそうに微笑んでそういった。
弾力のあるハマチに甘い醤油をまぶし、白米と一緒に噛みしめる。
生のハマチは感触がいい。湯通ししたハマチは、不思議と甘さが増す。鼻に抜ける大葉の香りと、ミョウガのしゃくしゃくとした食感も楽しい。
刺身を濃厚な卵黄にからめて一口。口に含むだけで燕の喉が鳴る。
思えば、2日前に研修の連絡を受けてから、食が細くなっていた。今日も朝に東京を出てたっぷり6時間、口にしたのは水だけである。
ぺろりと綺麗に平らげた皆本が、まぶしそうに燕を見つめた。
「普段から飯を作ってるのか」
「家では毎日」
「そりゃあ……家族は幸せだな」
皆本は立ち上がると、先ほどイーゼルにかけてあった絵を手に取る。まだ丼と格闘していた誠は、皆本の動きをみた途端に子ウサギのように飛び上がった。
「師匠。配達!?」
「おう。依頼品を届けてこい」
それは先ほど皆本がイーゼルに飾っていた『パズル』の絵だ。
「大島も。まだ船が出るまで時間があるだろう。小僧にちょっと付き合ってやってくれないか。良い腹ごなしになるぞ」
彼は丁寧に絵を紙でくるむと、燕を見てにやりと笑った。
この島の腹ごなしは激しい運動を意味しているのだ。と、気付いたのは工房を出て5分ほど経ってからのことである。
花之島の全周は小さい。島の中心に山が鎮座しているからだ。
山に沿った坂道に家が張り付くように建っている……それがこの島だった。
つまり、島の高低差はかなりのもので、島全体が坂道といって良い。それもただの坂道ではない。立っているだけで体が斜めになるほど強烈な坂道である。
島中張り巡らされている石の階段も段の高さが違っている上、ぐねぐね折れ曲がっていた。
だから歩いているだけで平衡感覚がおかしくなる。
「おっそい! モヤシ!」
誠は慣れているのか、段差でジャンプをする余裕があるほどだ。
煽ってくる背を見失わないように、しかし急いで転ばないように、足を踏みしめ細い坂道を右へ左へ。
誠の白いシャツにようやく追いついたとき、燕の額からどっと汗が溢れる。
最近はアルバイトのおかげで立ちっぱなしにも慣れてきた。
運動は苦手だが体力はある。そう自負していた。しかし、そんな自信が一気に崩れる。膝が笑い、息が乱れる。太陽光がまぶしく、動きを止めている間も体力が奪われていく。
「到着!」
ようやく誠が足を止めたのは、歩きはじめて10分。古い一軒家の前だった。
「燕が遅いせいで約束の時間ギリギリだよ」
嫌みっぽい文句を漏らす誠をみても、燕は言い返す元気もなく壁に寄りかかる。言い返す時間があるなら、今は息を整えることに専念したい。
(……無理だ。やっぱり断ろう、帰ろう)
きっとこんなことを口にすれば笑われるに違いない。しかしこの場所は、あまりに燕の人生と縁が遠すぎる。
青い海、青い空、美しい空気に心臓破りの坂道。どれも燕の人生にはないものばかりだ。
「誠君! まあぁ、綺麗にしてくれたんじゃなあ」
汗を拭い、ほっと息を吐いた途端、壁の向こうから明るい声が響く。その柔らかい訛りは空の青さによく似合っていた。
赤さびた門を覗くと、腰の曲がった女性が嬉しそうに絵を掲げたところである。その足下には、今にも泣きそうな顔の少女が一人。
「みいちゃん、おまたせ……治ったよ」
誠が驚くほど優しい声で、少女に声をかけた。
その声を聞いて少女が、「あ」と声を漏らす。その目に光が灯り、口は開いたまま。
「ほらな、治せたろ? 言ったろ、俺の師匠は魔法使いだって」
「みい、黙っとかんと、お礼言いまい。ありがとうって」
あいがとう。と、たどたどしく少女が誠に頭を下げる。途端、少女の目からぽろりと涙が一粒こぼれ落ちた。
泣き出した少女の背を撫でる女。それを眺めながら、満面の笑みを浮かべた誠が外に出てくる。
が、燕に笑顔を見られたのが気まずいのか、彼は慌てて咳払いをして顔を背けた。
「あの絵。みいちゃ……美紀子が初めて描いた絵なんだ。師匠の工房で子ども向けの絵画教室した時の」
誠は上がってきた道を下りながら大きく腕を広げる。風が吹き、彼のシャツが大きく膨らんだ。
「本当はハマってるアニメのキャラクターを描くつもりだったらしいんだけど、お父さんが海外出張行っちゃったから、家族の絵にするって言ってさ。めちゃくちゃ真剣に描いてた」
燕は先程の絵を思い出す。鮮やかに、線の跡さえ残るような力強い絵だった。家族が四人、家の前に立つ絵。
色彩はむちゃくちゃでパースもぐちゃぐちゃだ。しかし子どもらしい、あまりに稚拙で、明るい。あの時代にしか描けない絵。
「美紀子のお父さん、今週、海外から帰ってくる予定でさ。絵をお父さんにも見せるって楽しみにしてたんだけど、お父さんが仕事で急に帰れなくなっちゃって、怒った美紀子がビリビリって」
誠が紙を破く手振りをする。
と、後ろから『お父さん』と、少女の震える声が聞こえた。振り返ると、少女はスマホを耳に押しつけて座り込んでいる。
ごめんなさいと謝る少女に、大丈夫だよ。平気だっただろう。そんな男の声が優しく答えた。また泣き出した少女の背を大きな手のひらが支えている。
絵はもう、破れることなく少女の手の中にある。
……ちぎれて良い絵などない。と、呟くように言った皆本の言葉を思い出した。
「いいよな、良い親って」
ぽつりと、誠が呟く。が、燕が反応するより早く彼はまた楽しそうにその場で駆け足をはじめた。
「そうだ燕。まだ時間あるだろ。良いところ連れていってやる」
顔を上げれば、眼下に海が広がる。すでに今日の最終船はコンクリート造りの港に着いているようだ。腕時計を見れば出航まで残された時間はあと30分。
「大丈夫だって。すぐそこだから」
戸惑う燕に、誠は意地悪く笑う。
「……それに実はさ、平坦な道もあるんだ」
やはり帰ろう。と本日何度目かの決意を固めた。
誠が燕を無理矢理引っ張り込んだのは、先ほどの家から5分ほど下った場所にある古い一軒家だ。
しん、と静かなその家には色がない。古い家のせいもあるが、ただただ静かに落ちくぼんでいるように見えた。
それは、音や香りがないせいだ。と燕は気がつく。
ほかの家にあったようなテレビの音も、ましてや食事を作る音も水の音もない。そして、食べ物の香りも、化粧の香りも、何もない。
燕が不可解な顔をしていることに気づいたのか、誠が唇を尖らせる。
「ここ、俺んちだから。婆ちゃんもいたけど、先週入院しちゃって今は居ないからひとり暮らし。だから気にせず入れって」
玄関に入ると、スナック菓子の空き袋が目に入った。その隣にはランドセルがうち捨てられている。はみ出した教科書には小学校6年の文字が見えた。
誠は慌ててランドセルを蹴り、靴箱の奥に追いやる。
「……加納」
「誠でいーよ。師匠もそう呼んでる」
「誠、一人って」
「いいから、ほら、こっち。2階。急だから、滑んなよ。この島、診療所のぼけた爺さんしかいないんだから。怪我しても治んねえぞ」
雨戸を下ろしているせいか、廊下も階段も薄暗い。
光が入らないだけでこんなにも湿度が消えるのだ。いっそ肌寒いほどだった。
田舎特有の細く急な階段を上がると、奥には襖が一枚。誠はもったいぶるように燕を見つめる。
そして彼はそっと襖を開く……中は、遮光カーテンでもつけられているのか、どの部屋より真っ暗だ。
「飯、うまかったからさ。お礼に俺の美術館、見せてやるよ」
「美術館?」
どこに電源があったのだろうか。かちりと軽い音とともに、突然目の前に真っ白な光がともる。
まぶしさに思わず目を閉じた燕だが、恐る恐る瞳を開けた途端、息が止まった。
空気が一斉に色づいたのだ。
8畳ほどの和室の壁に、床に、いくつもの絵が飾られている。それは水墨画であり、水彩画であり、油彩である。
海を描いたものもある。人の顔も静物画も。
全てが匂い立つような、色の洪水だ。
固まった燕をみて誠がにやりと笑う。
「どーだ、すげえだろ。全部、師匠が直した絵だぜ」
「修復したもの?」
「そ。俺がここで保管してるんだ。ここなら鍵完備だし、エアコンも新しいからかんきょーもいいし」
ぱっと見渡すだけで30枚近い絵がこの部屋にある。
窓は雨戸が下ろされ、部屋には低めに除湿がかけられている。しかし肌が粟立つようなこの感覚は気温だけのものではない。
燕は部屋に入り、一つ一つ絵を見つめた。
「依頼品か?」
「ここにあるのは返さなくても良い絵ばっかりだよ。師匠が直したあとに寄贈してもらったり……あとは誰の絵かわからないもの」
「わからない?」
「絵ってさ、興味ない人にはどうしていいのかわかんないんだって」
誠は壁の絵を指さす。
それは海外の海を描いたものだ。
華やかな大輪の花が咲く商店から、まっすぐに坂道が伸びている。その先にガラス細工のような海のきらめきが見えた。
燕が見入っていることに気づいたか、彼は自慢そうに胸を張った。
「これはさ。新婚旅行先でナナシの絵描きから買ったもの……だって。で、死んだあとに子どもが受け継いだんだけど、普通の家じゃこのサイズはでっかいし、保管が悪くてボロボロだった。一応思い出の絵だしゴミには出せないだろ? だから師匠に引き取ってほしいって連絡がきた」
鮮やかなその絵を、燕はじっと見つめた。表面が美しく輝いてる。汚れも、陰りもどこにもない。
「で、こっちの水墨画は7月頃、師匠の工房に捨てられた。まじで玄関先においてあってさ、びびったけど、師匠が言うには珍しいことじゃないみたい。動物病院に捨て猫捨て犬が多いって話、聞いたことあるだろ。絵もそうなんだって」
燕は隣に飾られた水墨画をじっと見つめる。右下に震えるようなサインが見えた。無名であれ著名であれ、すべて誰かの作品である。
「捨てられた絵……」
「しかも壊れてた」
保管方法が悪ければ絵の具は欠ける。浮かび上がり、剥落することもある。どこかにぶつければ当然傷が付く。温度が適切でなければカビが生えることもあるだろう。ときには悪意を持って傷つけられることもある。
しかしここにある絵は、じっくり見てもどこに傷があったか分からない。
修復師は絵の医者だ。と、いつか聞いた言葉を燕は思い出す。
「師匠は言うんだ。どんな絵でも誰かの思い出の作品だ。捨てられて壊れるためにこの世に生まれたわけじゃないって」
燕は皆本の顔を思い出す。静かでどこか気難しい色を持つ男だ。しかし絵に触れる手は確かに優しかった。
「すごいな」
「やっぱ美大生でもそう思う!?」
思わず呟くと、誠が目を丸くして燕を見上げた。
「師匠、すごいんだぜ。すごいのにさ、全然偉そうにしないんだ。でさ、仕事もほとんど断るし。だから俺が師匠んとこ行き始めてからは、師匠の宣伝に命かけてるんだ」
誠の言葉を聞きながら燕は考える。
燕も『すごい人』を知っている。しかし燕はその人の絵を、色を、周囲に広めようとは思わない。自分の狭量さを指摘されたようで、燕は思わず言葉に詰まった。
「で! まだ内緒だけどさ」
しかし誠はそれに気づかないようだ。そもそも、燕の意見など求めてもいないのだろう。
「俺、来年やる美術祭で、この絵を飾る小さな美術館やるつもりなんだ」
「来年やる……って瀬戸内の?」
尋ねると誠は力強く頷いた。
数年に一度、瀬戸内に浮かぶ島全体で美術祭が行われる、というのは聞いたことがある。この島も、そのエリアに含まれていたはずだ。
「師匠には、修復のワークショップをしてもらうんだ。師匠嫌がってたけどさ。人がいっぱいきたら師匠のすごさ分かってもらえるし。島の人に手伝って貰って申し込んじゃったから、もうあとに引けないしさ。そのときに、この絵をどっかに飾って皆に見て貰おうって、そう思ってるんだよな」
誠が駄々をこねたのだろう。と燕は内心、皆本に同情する。皆本とは出会ってまだ1時間にも満たないが、どこかこの誠には甘いところがみえた。
鼻を膨らませて語る誠を見つめ、燕はふと疑問をいだく。
(……どういう関係だ?)
孫と祖父という関係ではなさそうだ。親戚や隣近所の関係にしては執着が深い。弟子というが誠には絵の知識がなさそうだ。
燕を送り込んだ所長も、誠については何も言っていなかった。
「ところで誠、皆本さんとはどういう」
「いつか俺、ちゃんとした美術館も作るんだ」
誠は燕の言葉など聞こえなかったのだろう。彼は目を細めてそっと絵に触れる。
その触れ方があまりに弱々しく、燕はそれ以上口を挟めない。
「捨てられた絵が、こんなに幸せになったんだって見せつけてやるんだ」
その言葉は、じわりと燕のどこかに沁みた。
打ち付ける波の音が響く。
瀬戸内海はどの海よりも穏やかで、波の音まで異なるようだ。その音を聞きながら燕は砂浜を歩く。
誠の家から出ても、日差しはまだ熱いままだった。
「あち、あち」
熱せられた砂浜の上を誠が飛ぶように跳ねている。
海に近づけば足元に波が満ちてきた。そろそろ満潮の時間が近いのかもしれない。
波が砂を巻き込んで、引いては打ち付ける。思い返してみれば、燕は海に馴染みがない。
生まれも育ちも東京の真ん中で海は遠く、何より燕の両親が海の風景に興味を抱かなかったからだ。
「燕はさ、きっと研修を断らないよ」
数歩先を進む誠の言葉を聞いて、燕は苦笑する。
「誠はいいのか? 受けて欲しくなさそうだったけど」
「だって燕って美大生だろ。師匠が俺より頼るの面白くないじゃん。でもさ、俺。考えたんだ。美大生がいるほうが便利……じゃなくって勉強になるし」
子ども特有の明るさの中に、誠はどこか影が見えた。
青い海の中に飛び込んでも消えない薄暗さだ。燕にはそれを感じ取る能力がある……なぜなら燕も三年前まで、薄暗い世界で生きていたから。
「それに、飯も! 燕さ、包丁使うのうまかったから。えっと、なになに? 喫茶店でバイトして特技が料理?」
「まて……お前、人の個人情報を勝手に」
誠の手に経歴書が握られているのを見て、燕は眉を寄せた。
取り返そうとすると彼は少年らしい身のこなしでひらりと交わす。
「俺も師匠も料理が苦手なんだ。おかげで毎日レトルトとか、そんなのばっか。だから旨い飯作ってくれると俺も師匠も幸せだと思う」
幸せ、という言葉に燕の心がことりと動いた。
皆本の言葉が不意に、頭に蘇る。
(幸せなこと)
燕が家で料理をしていると言った時、それは家族にとって幸せなことだ。と、皆本は言ったのだ。
その言葉を思い出し、燕の足が思わず止まった。砂が靴に入り込んで、指先に不快な感覚が残る。
よく見れば誠も島の人達もみな足元はサンダルだ。生真面目にスニーカーを履いているのは燕くらいである。
「どうだ、燕。残る? 帰る? 帰るなら、船はあとちょっとで出るぞ」
嘲るような誠の言葉を聞きながら、燕は海を見つめた。穏やかな波の上に、船の影が見える。
ぼってりとした灰色のあの船は、今日の最終便だ。残りあと10分。港まではすぐそこで、走れば間に合う。しかし燕の足は動かない。
「俺は……」
東京に残してきたものを思うと、すぐにでも帰りたい。
しかし、捨てられた絵を見て心が動いた。
かつて燕は自分の絵を捨てたことがある。風景画、人物画、静物画。それも一枚ではなく何十枚もの絵を描いては捨てた。
時にはその絵を憎しむことさえした。過去の絵のことは忘れてきたはずだ。しかし不意に思い出してしまったのだ。
……もしかするとあの絵は美しかったのではないか。急に、そんなことを考えてしまった。
(明日、どこかでサンダルを買おう)
燕は長い息を吐いて、誠を見る。
「2週間だけだからな」
呟いた言葉は情けなく震えた。自分自身、納得できない。納得したくない。
それでもここに残ることを、選んでしまった。
腕時計を外し、ポケットにねじ込む。そんな燕を見て、誠の顔が初めて子供らしく、満面の笑顔になった。
「やった!」
「美大生なら、俺じゃなくても来たがる人間は多いと思うけどな」
「誰でもいいってわけじゃないんだ。身元がしっかりしてるヤツじゃないと。その点、燕の紹介先は師匠の知り合いだから安心だし」
誠は眉間を寄せて難しい顔をする。
「師匠、人気者だから記者がいっぱい寄ってくるんだ。取材断ったら、嘘ついてくるやつまでいるんだぜ。まっ、それを追い払うのも俺の仕事なんだけど」
彼はため息をついて肩を鳴らした。ちょうど道の向こうが工房だ。
潮風が蓄積したような赤錆の壁に、風に揺れる屋根。思い返せば、中の状態も散々なものだった。
工房の所長は燕に言ったのだ。皆本は著名な修復師だと。
今でこそ島にこもっているが、かつては多くの弟子を持つ修復師の師だった。
そんな名を馳せる男が、なぜこんなボロボロの工房で仕事をしているのか。燕はふと、疑問に思う。
「ていうかさ、もうすでに一人入り込んでるんだよな。記者」
「……入り込んでる?」
「うん。まあ、そいつは無害だし安心していいよ。それにそろそろ帰ってるはず……おーい、青! あーお! 新人が来たから挨拶しろ!」
工房に向かって誠が叫ぶ。と、トタンの扉がガタガタと揺れて、屋根まで波打った。
がつんとぶつかるような音と、物が落ちる音。やがて扉が開け放たれて誰かが転がり出てくる。
「あ、帰ってきた! 誠さあ、人に雑用ばっかり押し付けてひどくない?……って、あれ?」
工房から転がるように出てきた男が目を丸める。その顔を見て、燕も息をのんだ。
飛び出してきたのは、黄緑色のカエル柄のTシャツに、破れたデニム。ピンク色の草履を引っ掛けて、手には画用紙を抱きかかえている男。
そのよく焼けた肌にも、幼い顔立ちにも見覚えがある。
「あれえ?」
彼は燕を見て、大きな目を笑顔に変えた。
「燕だー?」
「田中!?」
思わず叫んだその声を聞いて、彼は……田中の顔がぱっと明るくなる。
それは燕の大学での知り合いであり、交友関係の少ない燕にとって唯一というべき友人。
「なんで、お前がここにいるんだ」
「いっつも変な所で会うよなあ」
彼は相変わらずの笑顔で燕の名を叫んで駆け寄ってくる。その温度も、声も、何もかも幻ではない。
それを見て誠が目を丸めた。
「なあんだ、知り合いかよ。青のやつ、結構サボるから見張ってくれ」
「サボってないってえ。いい加減なことばーっかり言うんだもんなあ……でもまあ燕が来てくれたら、助かる。もうさ、まじで仕事多くってさあ。島の人の椅子直したり、配達したり、あと……」
田中は手にしていた画用紙を広げてみせた。
瀬戸内の海を借景に広がったのは、幼い風景画だ。
「ここ数日は、夏休みの宿題の駆け込み手伝いでぱっつぱつ」
「待て。ここに来たのは修復の研修だって」
「燕~。修復の仕事をお願いする。なんて一言もいってないけど?」
声を上げた燕に、誠は涼しい顔をしてみせた。
「師匠の修復の仕事は一番弟子の俺が手伝うって決まってんの。だからお前らは雑用な」
助かった。と言って笑った誠の顔を思い出す。燕は「はかられた」と、唇を噛みしめた。
あの助かった。は、雑用係を見つけたことの、助かった。だ。
燕を嵌めた少年は、にやりと笑う。
「近所のばーちゃんの墓の掃除とかさ、公民館の壁の塗り替えもあるんだ。俺、師匠の手伝いあるから、そういう雑用無理だしさ」
「俺は」
「というわけで、あためて歓迎する。燕、皆本修復工房へようこそ」
誠は燕の言葉を意図的に封じ、潮風の中で意地悪く微笑んだ。
「帰りたいです」
「まあ。燕くんったら、今日ついたばかりなのに」
冷たいスマートフォンを耳に押し当てたまま、燕はカバンの荷物を整理する。
荷物、といっても大した量はない。スケッチ帳がいくつかとペン、絵の具、折りたたみのイーゼル。
一度荷物を出したものの、帰ろうと心に決めて再び片付け始めたのはつい先ほどのこと。
朝一番の船に乗れば明日の昼には東京だ。そんなことを思いながら、思わず燕はスマホを手にとっていた。
「せっかく海の側にいるのにもったいないわ。いっぱい青色を描いていらっしゃい」
電話越しに柔らかい声が響くたび、燕の中から毒素が抜けていくようだった。ようやくゆっくりと息ができる、そんな気がする。
2週間泊まることになる民宿を案内しながら皆本は「ご家族に研修が決まったことを知らせておくほうがいい」と言った。
しかし燕は血の繋がる家族との縁が薄い。そもそも両親とはここ何年も顔を合わせていない。
ただ、分かることはただ一つ。
その人がお腹をすかせていないかが気にかかる。それが燕にとっての家族の定義だ。
だから燕はその人に連絡をした。
「律子さん、ちゃんとご飯食べてます?」
燕に家族があるとすれば、唯一この竹林律子だけである。
燕が女流画家の竹林律子と偶然出会い、紆余曲折の中で四季を共にしてもう三年の月日が経とうとしている。
それまでの燕は地べたに這うように生きていた。
絵に挫け絵を恐れ絵を遠ざけ、絵から目をそらし、せっかく受かった美大をたった1年で休学。前進も後退もできず、重苦しい現実にもがいていた。
燕が律子に出会ったのはそんな泥沼のような頃。
律子は伝説の女流画家だ。
燕は彼女のアトリエで色に包まれた。彼女の生み出す絵に、色に救われて恐る恐る一歩を踏み出したのだ。
心残りは6時間向こうに残してきた律子のことだけだ。
(そういえば、あの絵も見事だったな)
ふと、燕は工房に入って最初に見えた絵を思い出す。黄色の花畑の絵だ。
律子の描く黄色より暗かったが、光を吸い込んだような美しい色だった。
「燕くん?」
「……はい」
名前を呼ばれ、燕は背を正す。それだけで先程の絵のことは、すっかり遠くどこかに消えてしまった。
「律子さん。声が響いて聞こえましたけど、またアトリエにこもってますね? 昼ご飯と夕ご飯は? 冷凍庫と冷蔵庫を見てください。食事をいくつか作って冷蔵庫に入れてます。一気に全部食べたりしないで。もし解凍のやり方が分からないときはメモを見て」
「あら失礼ね。大丈夫。ちゃんと食べてるわ」
ふん、と鼻を鳴らすように律子が言う。
電話なんて持ちたくないと駄々をこね続けていた彼女に、大急ぎでスマートフォンを持たせたのは昨日のこと。
連絡が取れるのはありがたいが、やはり姿が見えないことが不安になる。
彼女は絵に夢中になると食事を飛ばすことが多いのだ。
「今日のお昼なんて桜ちゃんがご飯作ってくれたんだから。ラーメンだったの。豆乳が入って真っ白で、にんじんも乗ってたわ。あと桜ちゃんが目玉焼きを焼こうとしたらスクランブルエッグになっちゃったから、それも載せたの。黄色くてほろほろして美味しくて」
バイト仲間である少女の名前を出され、燕の眉が寄る。悪い子ではないのだが、料理はそれほど上手ではない。
「やっぱり不安だな……そうだ。律子さんもこっちに来てくださいよ」
律子と話していると、まるで子どもにでもなったようだ。
思わずふてくされた声をだした瞬間、電話の音がブレる。
「相変わらずの甘えん坊ですね」
その声を聞いた瞬間、燕の背が伸びた。それは、律子の元教え子である柏木。彼は燕をからかうのを趣味としているように、いつも嫌なタイミングで顔を出す。
「あなたに変わってくれとは言ってませんし、なんで居るんですか。まもなく夜になりますよ。帰ってください」
彼はまた些細な用事を見つけては、律子の家に入り浸っているらしい。苛立つ様子を見せれば喜ぶので、燕は極力声を抑える。
それでも怒っていることが分かるのか、柏木は楽しそうな声で笑った。
「東京に帰ります。じゃなく、帰りたい。なんですね。まあ、どうせ断れないと思ってましたので、そっちの住所に日用品を配送済みです。明後日にはつきますよ」
それに。と、柏木の声が低くなる。
「君が先生の元を離れて研修を受けよう、と決意したことだけは称賛します。なにか目的でもあったのでは?」
「……それより、柏木さん。面倒なことは起きてないでしょうね……その、例のカルテットキッチン絡みのことで」
しかし燕はその言葉を無視し、敢えて質問をかぶせた。
燕がカルテットキッチンという音楽喫茶でバイトを始めたのは数ヶ月前のことだ。
律子はこの喫茶店の壁に絵を描き、その絵が公共の電波に乗ってしまった。
律子は世界でも名を知られた女流画家だ……20年前までは。
20年前、耐え難い悲しみが彼女を襲い、それ以降律子は自分の殻の中に閉じこもった。
そのため20年以上律子の新作は外に漏れず、世間的には忘れ去られる。
しかし、カルテットキッチンの騒ぎのせいで、彼女がいまだに精力的に絵を生み出していることが広まってしまった。
人間は、隠されていたものに興味を持ちやすい。
おかげで律子は最近、美術雑誌などに取り上げられた。どこからか住所まで漏れ、アポ無しでインタビューの申込みが来たこともある。
とかく、律子の周りが最近どうにもやかましい。
それもあり、燕は島行きを躊躇したのだ。
「ご心配なく。少なくとも君よりはうまくやりますよ」
「喧嘩しちゃだめよ、仲良くね」
電話の向こう、少し遠くから暢気な律子の声が響く。あなたのことを話しているのだ。と言ったところで、この浮世離れした画家はきょとんとするだけだろう。
「ねえ、燕くん。今、そこから何が見えるの?」
いつの間にか律子がまた電話口に出た。電話越しだと普段よりもっと柔らかい声になる。その声は波の音に似ていた。
「大きな筆で一撫でしたみたいな、透き通った夏の色? それとも遠くに行くほど濃くなるようなオーシャンブルー?」
向こうから無機質な音が聞こえて、燕は片付けの手をとめた。それは絵筆が転がる音だ。
話しているうちに青色を塗りたくなったのだな。と燕はため息を付いて、足を伸ばした。
彼女はどんな絵を描くのだろうか。きっと美しい青を描くだろう。その青を一番最初に近くで見られないことが悔しい。
「ええ。深くて、青い……海の色」
窓の外を見ると民宿海景、と書かれた看板が、風に煽られ揺れている。
皆本に紹介された宿は古く、そして風をすぐ近くに感じる。
4畳ほどの狭い部屋にはガタつく扇風機と折りたたまれた布団だけ。扉は鍵もかからない襖一枚。
ただ四角い窓の外には海と砂浜が見える……見事な海景だ。
暮れかけた空は、グレーが混じった青である。ぽつぽつと浮かぶ島影だけが色を添えている。
このあたりの地形のせいか、島影はまるで握り飯のような綺麗な三角。そんな島々が水墨画のようにやんわりと揺らいで見えた。
「青みがかったグレーの淡い島影、光る波……少しだけシアンがかった青い空」
ぼんやりと、燕は見えた物を律子に伝える。言葉を連ねるたびに、筆の音が大きくなる。
「赤い、船」
「素敵な差し色ね」
まもなく夕陽の時刻がやってくる。昼と夕暮れの隙間の時間。最後の日差しに炙られたその色は、ただただ美しい青だった。
時折混じる白の波。まぶしすぎる日差しに炙られた砂浜。
海の青と空の青の混じるところ。
宿の時計が18時を指すと同時に、島のどこからか緩やかな音楽が響きはじめた。
おそらく定刻を告げるチャイム代わりの音楽だろう。どこかで聞いたことのある懐かしく、少しさみしくなる曲だった。
「きっと燕くんは、いい修復師になれるわ。絶対よ。だって、立派な先生のところに研修にいくくらい、勉強熱心なのだもの」
律子の呑気な声が燕の胸をちくりと刺す。
「そうでしょうか」
目の前で、燕には作れない色の海が揺れた。ゆっくりと一日が終わる音が聞こえる。
「そうだといいんですが」
燕は何でもないように答えながら、鞄の奥から一枚の紙を引っ張り出した。
シンプルなその紙に書かれたのは身元保証人の一文字だ。一番下には、燕が内定を取った工房の名前が刻まれている。
この書類を渡されたのは昨日のこと。
通常、ここにサインをするのは、親の名前だ。
所長は何でもない顔でこれを渡してきた。研修あけでいいからサインを貰ってきて。と、ごく普通の顔をして。
(研修を受けた目的、か)
先ほどの柏木の嫌味な言葉を思い出し、燕は唇を噛みしめる。
研修を断らなかった、断れなかった理由はある。
(少なくとも研修の間は、このことを忘れられる)
また先延ばしの悪い癖だ。燕は苦いものを飲み込むように、紙を再び鞄の奥へと押し込んだ。
人を助けることができるようになったのも、料理が得意になったのも、そしてようやく自分の絵を取り戻したのも三年前。律子と出会った時から。
しかし十数年前から燕にかけられた呪いは、まだ解けていないのだ。




