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プロローグ 思い出のご馳走

 一日も早く大人になりたい。

 少女はいつもそう願っていた。


「よいしょ」

 少女は扉を力一杯引き、隙間から恐る恐る中を覗きこむ。

 細い隙間の向こうに広がるのは、薄暗い廊下だ。

 天井の電灯は壊れてお化けみたいに垂れ下がり、左側に続く四角い窓には大きな板が打ち付けられている。

 そんな板の隙間から一筋だけ光が漏れていた。

 ちょうど外は夕暮れ時。赤い光が天井を這う蜘蛛の糸を輝かせている。

 『潔癖症』なお母さんが見たらきっと悲鳴を上げるだろう。

 『心配性』なお父さんが見たらきっとオロオロするだろう。

 そんな妄想をして少女はほくそ笑む。

 両親がいないこの瞬間を楽しむように、彼女は扉の隙間を抜けて廊下に滑りこみ……そしてゆっくりと扉を閉めた。

 途端、外の音は遮断され少女は小さな拳をきゅっと握りしめる。

(私、ぼうけんしゃね)

 しかしその恐怖を振り払うように、少女は鼻を膨らませ背をしゃんと伸ばした。

(ぼうけんしゃに大事なこと、それはきちんとていさつすること)

 ……歩くときは慎重に。周囲をよくみて。それはお母さんの口癖だ。あなたは夢中になるとそれしか見えなくなるんだから、慎重に。慎重にね。

 お母さんの言葉を思い出しながら、少女はそっと歩き始めた。

(右側には教室があるのね)

 進行方向の右手には教室が並んでいるようだ。

 天井から吊り下げられた板に書かれた文字は6年1組。6年2組。

 少女の通う小学校よりずっと古くて、ずっと愛らしい文字が並んでいた。

 少女はうんと背伸びして、窓から中を覗きこむ。

 手前にある深緑色の黒板には、色とりどりのチョークで文字が刻まれていた。

「だいいちしょうがっこう、ろくねんいちくみ。ありがとう、さようなら」

 声に出して読み上げ、少女は微笑む。

 少女は小学校に入学してまだ4ヶ月だ。しかしクラスメイトの誰よりも漢字に詳しい。

 お父さんは「お勉強好きなんだね」と褒めてくれる。でもそれは勘違いだ。彼女はちょっとした秘密を持っている。

「出ておいで、私の秘密」

 少女は埃まみれの床にぺたりと座り、大きなカバンから『うつくしい食卓』と書かれた本を取り出した。

 ページをめくると紙の上で踊る、オムレツ、ビーフシチュー、ハンバーグ。

 どれも白黒写真だけれど、少女は気にならない。

 色なんて、想像すればいいのだから。

「たまごには塩と砂糖を加えてはん……じゅく? にします。色とりどりの夏やさいは、からりとあげて、なんばんすで……あげ? びたし……」

 少女は目をこらし、難しい文字を目で追う。

 内容はチンプンカンプンだが、これが美味しい料理を作る呪文であることは分かる。この魔法で生まれる料理は、どんな色でどんな味でどんな匂いがするのだろう?

 そう考えるだけで、お腹が鳴って心が浮き立った。

 この世界で一番美しいもの。それはきっとこんな形をしているに違いない。

 少女がほうっとため息をついたその時。どこからともなく、音楽が鳴り響いた。

「……っ!」

 驚いて本から顔を上げると、黒い影が見えて少女は思わず悲鳴を噛み殺す。

 音もなく、目の前に男が立っていたのだ。

「ホーム・スイート・ホーム。役場から流れる、夕方のチャイムのタイトルだ……驚かせたか?」

 男の後ろではまだ音楽が鳴り続いている。寂しいような、懐かしいような、そんな音楽。

 この音楽に色をつけるとしたら、きっとオレンジ色だろう。と少女は思う。

「まったく。学校中探し回ったぞ」

 男は長いため息をついて肩を落とした。

 その声を聞いて少女はぱっと目を輝かせる。

「絵描きのおじさん!」

「18時に校門前って約束したのに勝手に中に入ったな? それに床に座るなんて、淑女のすることじゃない」

 それは少女が待ち望んでいた声だ。まだ2回しか会っていないが声だけはすぐに覚えた。

「だって私、待ちきれなかったんだもの」

「なんだ、そんなにお待ちかねだったのか」

 ぴょんと飛び上がると、男は少女を軽々と抱き上げる。そして一番奥の教室の前に少女を運んだ。

 表札は6年3組。白い引き扉には、丸いドアノブがついている。

「さあ、扉を開けてごらん」

 男に言われるがまま、少女はドアノブを掴んだ。同時に男が壁のスイッチを押す。

「わあ」

 目の前に広がった風景を見て、少女は思わず叫んでいた。

「綺麗!」

 光の灯った教室は、クラクラとするほど眩しい。それは光のせいだけじゃない。

 壁一面に絵が描かれているせいだ。

 壁の中で揺れているのは愛らしい黄色の花。

 ぷくりと水滴のように膨らんだ花びらが美しい。真ん中には大きな木が葉を広げている。

「すごく、きれい」

 ……もちろん本物ではない。全て絵だ。

 それでも耳を澄ませると、葉のこすれる音が聞こえた気がする。

 花が揺れて歌う声が聞こえた気がする。

 上部の空はまだ灰色だ。

 今からそこは晴天になるのだろう。男が青い絵の具の用意を始めている。

「この花はなあに?」

「フリージア。可愛い花だろう」

「じゃあこの木はなあに?」

「クスノキだ。学校に来るまでに、立派なホラを持つ木があったろう。校歌にも使われてる木だよ」

 この学校は山の真ん中にある。

 歩き慣れない凸凹の山道を上がっている途中、確かに大きな木があった。

「学校ができる前からある神様みたいな木だ。この学校を守ってくれる……だからここに描いたんだ」

 つん、と鼻に届く絵の具の香りに、少女はうっとりと目を細めた。

「壁、全部に絵を描くの?」

「……という依頼だ。この学校は去年廃校になってな。来年には取り潰しだ。ここで同窓会をするから絵を描いてほしいという依頼を受けた。で、お嬢さんはそんな俺の助っ人ってわけだ」

 彼は少女が幼いからといって、易しい言葉は使わない。

 だから少女もつい、大人びた言葉を使ってしまう。

「かわいそうだわ。壊すだなんて」

「でも誰も使わない建物はだめになるんだぞ」

「じゃあおじさんが全部の教室に絵を描いたらどう? たくさんのお客さんがここに来て、絵を見るの。まるで美術館みたいにね。そうしたらだめにならないでしょ?」

 男はきょとんと少女を見て、そしておかしそうに笑う。

「なるほど。賢いな。じゃあまず、この教室からだな」

 彼は自分のものとは別に、小さなパレットを用意した。

 パレットの上には、赤や黄色、青に黒。色彩が不規則に置かれていて、まるで花畑のようだ。それを見て、少女は丸く目を見開いた。

「もしかして、もしかして……これって私の?」

「そうかもな」

「……私、描いて良いの?」

 少女は手を伸ばしたまま固まって、戸惑うように男の顔を見上げた。

「本当に?」

 絵を描こうとするとお母さんが少しだけ寂しい顔をするのだ。それはほんの少し。瞬きをするくらいの時間だけれど。

 この『絵描きのおじさん』に会うときだってそうだ。

 彼に会うのはこれで3度目。1回目は絵を描いているところを遠くから見るだけだった。

 2度目は隣に立って、彼の手から絵が生まれる瞬間を見た。

 3回目、今度は一人で会いにいって良いと言われた。

 しかも夏休みを使って、たっぷり一週間も。

 それを聞いて以来、少女は夏休みをずっと待ち焦がれていた。

 ……ほんの少しだけ期待していたのだ。お母さんが見ていない間なら、こっそり描けるかもしれない、と。

「描いて、いいの?」

 しかしいざ、願いが叶うと少女は戸惑う。パレットに広がる色があまりに綺麗すぎて、触れるのが恐ろしい。

「誰が駄目だと言った? 神様か?」

 男は少女の手を掴むと、無理矢理パレットを掴ませる。まるで花畑が手元に広がったような気がして、少女は思わず満面の笑みを浮かべていた。

 そうだ。誰にも怒られない。ここなら、壁いっぱいにだって絵が描ける。

「どこに描けるの?」

「さあてと、どこがいいかな」

 男はじらすように少女の背を押す。誘導されたのは、教室の一番奥。

 そこに一枚の真っ白な板が立てかけられていた。

「これ?」

「キャンバスっていうんだ。画家はこれに絵を描く」

 そのキャンバスは、少女が両手いっぱい広げたくらいの大きさだ。じゅうぶん大きいが、少女は口をとがらせた。

「おじさんは壁に描いてるのに……」

「お嬢さんだって大人になれば壁どころか天井にも描けるようになるさ」

「明日大人になっていたらいいのに」

「それは俺が寂しいな」

 男は笑う。そして少女の顔を覗き込んだ。

「そんなことより、キャンバスをよく見てごらん。何か見えないか?」

「なあんにもない。真っ白いだけよ」

 少女は唇を尖らせたまま、キャンバスを見つめる。

 そこにあるのは、なんと言われてもただの白いキャンバスだ。

「ただ白いだけだと思うか?」

 男に促されるまま、少女はキャンバスをまっすぐ見つめた。真横から見つめて、ホコリまみれの床に寝転がって見つめて……ようやく少女は気がつく。

「あ」

 絵の右端に、うっすらと円が描かれているのだ。それは洒落た彫刻が描かれた小さな円……教室のドアノブと同じデザイン。

「ドアなの?」

 ドアなら、どうするべきか。

「ドアなら……」

 そうだ。引っ張って開くべきだ。

 少女はドアを開くように、キャンバスを引っ張った。本物のドアよりずっと軽く、何より絵の具が香る。

 少女は倒れかけたキャンバスの裏側を見て、息を呑んだ。

「絵が、ある」

 キャンバスの裏に、色があったのだ。

 裏側に貼られた紙の上、描かれているのは壁と同じ花畑。

 いや、それだけではない。

 花畑の上に描かれているのは立派な食卓だ。

 繊細な白レースがかけられた食卓の上には、何も描かれていない……今は。

「さて、ここに何を描こうか」

 男はにやりと笑ってポケットから何かを取り出し、恭しく開いてみせる。

「お嬢さんはこれを描きたいんじゃないか?」

「……あ、それ!」

 それを見て少女は目を白黒させた。

 彼が持っているのは、少女が幼稚園の時に描いた古い絵だ。

 夏休み、少女はお友達から宝石みたいな絵の具を貰った。

 家には筆も紙もなかったので、こっそり新聞紙を引っ張り出して指先で絵を描いた。

 それは、クリームソーダにオムライス、ハンバーグ、サンドイッチ。少女の大好物。

「隠してたのに!」

「俺は魔法使いだから、これくらいの秘密はすぐ分かるんだ。そんなことより、この絵をちゃんと筆でキャンバスに描いてみたくはないか?」

 男の言葉に、少女は顔が一瞬で熱くなる。

 してほしいこと、願っていること。それを叶えてくれるこの人は、もしかすると本物の魔法使いなのかもしれない。

「……いいの?」

「誰も止めやしないよ」

 男の言葉を聞いて少女の目が輝いた。

 ここに、好きな食べ物を描けるのだ。

「えっと、えっと。ちょっと待って、えっとね……」

 この食卓に、好きな物が載せられる。それも、自分の手によって!

「……まずね、ここにはサンドイッチがいい。ピンク色の、ハムのサンドイッチ。この隣にはハンバーグ。熱々で、茶色のソースがぐつぐつしているの。それでね、こっちの奥は……」

 食卓の絵を指さしながら、少女は前のめりになる。

 嬉しさのあまり、顔が赤く染まるのが分かった。熱がぽっぽとの奥から湧き上がっていくようだ。

「ここは、オムライス! 黄色の卵と赤いご飯。その隣には綺麗な緑色のね、ソーダ。上にね……赤い」

「サクランボ?」

 その言葉に少女はにこりと笑った。

「うん!」

 これから生まれてくる食べ物は、なんて幸せに満ちているのだろう。少女は想像し、うっとりと目を閉じる。

 少女は幼い頃から綺麗な色が好きだった。

 美味しい食べ物を知ったとき、綺麗な色は美味しい色と同じなのだと知った。

 どっちも少女を幸せにしてくれるものだ。

「さあお嬢さん。好きなものからどうぞ」

 その言葉を聞いて、少女は待ちきれないように、筆を掴む。ああ、これが筆というものなのだ。触れるだけで電気が走ったみたいにビリビリと、感動で指が震える。

 震えた手で少女は筆に色を吸わせた。

 一番好きな色は黄色だ。美味しそうで、元気が出る。

 気がつくと体にも顔にも絵の具が散ってしまった。でも男は怒らない。ただ笑う。

「この絵に名前はあるの?」

「完成した時、一緒に考えればいいさ」

「私、思いついた名前があるの。でも今は秘密ね。いっせーのーで。で、言うのよ」

 肩を揺らして少女も笑った。

「約束ね」

「そうだな、約束だ」

 男は少女の顔についた絵の具をそっと拭う。

「俺は約束を守れる男だ」 

 少女が好きなものは画集と食べ物だけではない。

「……なあ、律子」

 この声もたまらなく好きだったのだ。


 念願通り大人になった律子は、今でも不意に彼の声を思い出すことがある。

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