梅雨を溶かした、三色あんかけうどん
カルテットキッチンに戻った燕を迎えたのは、情けない夏生の悲鳴と賑わう人々の声だった。
「燕! 早く!」
燕が扉を開けると、夏生がぴょんと跳ね上がる。彼にしては珍しくエプロンを身に着けて、銀色のトレーを抱えている。
「客! 客! 客が、いっぱい!」
日頃、不機嫌な表情しかみせない夏生が、珍しく安堵の色を浮かべて燕の元に駆け込んできた。
「……燕、客が来た!」
見渡せば、先程まで静かだった店内に、客の姿がある。常連に新規客。机は半分ほど埋まっていて、先程までの重苦しさはきれいに無くなっていた。
「やあやあ。ようやくコックさんが戻ってきたな。腹が減っちゃってさ、とりあえずサンドイッチお願いします」
常連の一人が燕を見て、愛想よく手を挙げる。
「お前……閉店の看板、出してなかったのか」
「だって!……さっき……のゴタゴタで……」
夏生は薄い唇を噛み、燕を睨む。言葉を飲み込んだのは桜に放った言葉を思い出したからだろう。
「……なあ……桜、怒ってた?」
「大島君、おかえり!」
夏生の蚊の鳴くような声は、明るい声に塗りつぶされる。
はっと顔を上げれば、ステージの上に大柄な影が揺れている……それは、店長だ。
彼は夏生のヴァイオリンを片手に、ステージの真ん中を陣取っている。
「いやね、ついさっき、みゆきちゃんの荷物取りに戻ったらさ、桜ちゃんも大島君もいないし、お客さんがいっぱいで夏生が一人でパニックを起こしてるじゃない? 面白いから、ステージの上から見てたってわけ」
「親父!」
「雨が降るとさぁ、不思議と混むんだよね、この店。とりあえずさ、僕がここで音楽係してるから……二人で頑張って」
店長はにやりと笑うとヴァイオリンを構える。店長は体格がよく、お世辞にもスタイルがいいとは言えない。格好だけでいうのなら、先日の柏木のほうが幾分もサマになっていた。
「まずはこの曲……ヴァイオリン・ソナタ、雨の歌」
……しかし店長の手が動くと、そこから恐ろしく澄み渡った音が流れ始める。
しん、と静まった店内にヴァイオリンの高音が響き、跳ね、広がった。
ゆるやかな……雨に似合う曲だ。のびのびと、優しく、緩やかな。
待たされていたはずの客たちも、皆がステージに目を奪われている。
店長のヴァイオリンは、まるで水の中で響くような美しい響きを持っていた。
「ハンバーグ! サンドイッチ!」
手の止まった燕を、夏生が激しく揺する。
「注文きてる!」
「落ち着け」
普段は店の手伝いなど、絶対にしない夏生だ。しかし店に客が続々とやってきて、断れなかったのだろう。
伝票に、慣れない文字が散らばっている。ホットケーキ、カレー、パフェ、ココア。
その様子を思い浮かべて、燕は思わず笑いそうになる。
夏生の顔は、青に赤に紫に、忙しい。つけ慣れないエプロンも、裏表が逆である。
先程のこじれた空気は、綺麗さっぱり無くなっていた。
「あ……どうしよう、あの新しいお客さんの注文、聞き忘れてた……」
夏生は奥に座る女性の二人客をみて、表情を曇らせる。それは、はじめてみる二人組だ。待たされているせいか、少しばかり機嫌が悪い。
焦る夏生を押さえ、燕はエプロンを身につけた。
「……いらっしゃいませ。ご注文は?」
燕は女達の席に近づき、少しだけ身体を傾ける。
それだけで女性客はぽうっと燕を見つめる。その口から漏れたメニューを書き取り、燕はさっさとキッチンに引きこもる。
(……なるほど、武器か)
包丁を握り、燕は思う。
かつて池内が燕に囁いたことがあるのだ。『顔がいい』ということは一つの武器だ。使わない方がどうかしている……。
これまで燕は自分の顔に、興味などなかった。
褒められても、妬まれても、嬉しさも悲しさも沸いてこなかった。それは、自分自身に興味が無かったからだ。
自分の顔を好きになったのは、3年前から。律子が自分の顔を「綺麗」と言って褒めたからである。
その言葉は、燕の人生を少しだけ強くした。
「燕、早く」
カウンター越しに夏生が小さく叫ぶ。
冷蔵庫には大量の食材、目の前には山のような注文書。
閉店までのあと1時間は、とんでもない忙しさになりそうだ。
「じゃあね、病院でみゆきちゃんが待ってるから、僕もう行くね」
最後の客が扉を出ていったのは閉店を過ぎた18時10分。客を見送った店長はにこやかにヴァイオリンを片付けると、燕の手にマグカップを握らせる。
「久々に怒涛のお客さんだったねえ。全部やっつけたの、正直すごいよ。最高に美味しいコーヒー、淹れておいたから飲んで帰って。それに、夏生」
そして店長はにやにやと夏生を見た。
「桜ちゃんと喧嘩しただろ」
「……」
「分かるんだよ、僕とそっくりだから……みゆきちゃんと喧嘩した後の僕の顔」
夏生を揶揄した店長は、顔をしかめながら扉を開ける。
扉の向こうはまだ雨で、湿り気が部屋をさっとなで上げる。
「聞かなくたってさ、夏生が悪いって分かるよね。だって僕の息子だもん。夏生、とにかく謝っておきな。こういうのは、先に謝っておくほうが勝ちなの。特に好きな子には」
「親父!」
瞬間湯沸かし器のように顔が赤くなる夏生を見て、店長がせせら笑う。そして手を振りながら彼は雨の中へと消えていく。
「……あと、よろしくね。大島君」
去りゆくその声には、かすかに親らしさが滲んでいた。
店長が去ると、残されたのは燕と夏生。二人きり。
たん、たんと軽快な音が窓をたたき、二人は同時に顔を上げた。
窓に大きな雨の粒が見える。
「雨、多分、強くなる」
夏生が窓の外を眺めてつぶやく。
今年の梅雨は雨量が多い。時折豪雨にもなる嫌な梅雨だ。
「桜の予報、絶対にあたるから」
夏生の声に応えるように大きな雨粒が、窓にあたって弾けた。
「……なあ」
夏生が恐る恐る、燕を見上げる。
「桜、怒ってた?」
「好きな子に意地悪して許されるのは幼稚園までだぞ。ガキだな」
「性格悪いな」
「よく言われる」
二人の間に流れるのは、じっとりと生ぬるい空気である。全てがグレーに見えるような、重苦しい空気だ。
最近はこの生ぬるい空気のせいで絵の具が乾きにくく、律子の機嫌もあまりよくない。
律子に会いたい。と燕は不意に思う。彼女は毎日顔を突き合わせていても飽きない人である。
バイトをはじめて、以前より顔を合わす時間が減った。それだけで日々の精彩が少し欠けた、そんな気がする。それがわかっただけでも、バイトをした甲斐がある。
「……この春の……あいつの発表会なんだけど」
カウンターの机に顔を押し付けたまま、夏生がたどたどしく呟いた。
「あの日、俺が熱出したせいで会場にいけなくなって……」
桜が弾けなくなったきっかけを、燕は以前、みゆきから聞いた。
春先の発表会。彼女がステージに立ったとたん、狙ったように停電となった。
絵を描く人間は、色彩に敏感である。それと同じように、音楽をする人間は音に敏感なのだろう。
その事件以降、彼女は人前でピアノが弾けない。
「だから俺のせいで、あいつ……弾けなくなったのに、俺、あんなこと言ったから、桜……傷つけた……」
夏生がとつとつと、言葉を紡ぐ。
燕は店長から渡された熱いコーヒーを一口飲む。こんな季節にわざと保温カップに淹れた、できたてのコーヒー。
捨てるわけにも、置いて帰るわけにもいかない。
黒いコーヒーの渦を見て、燕は少しだけ口元を緩ませた。
(夏生の話を聞いていけ、というわけか)
店長の息子に対する些細な気遣いがコーヒーに沈んでいるようだった。それは、燕の知らない親子の情だった。
「そういや、夕食まだだろう」
燕は机の上の走り書きのメモを見て、冷蔵庫を探る。
メモには、二人のご飯をお願いします。と、いつも通りの綺麗な文字が書かれている。
みゆきの文字が優しく見えるのは、彼女から燕に対する信頼感が文字ににじむからである。
店長夫婦のような親の愛を、燕は受けたことがない。羨ましいと思うこともない。
ただ、美しい絵のようだ。そばで見ていると、眩しさに目がくらむ。
窓の外はもう薄暗い。雨のためだけではない。夜が近いせいもある。
こんな薄暗い店の中に、落ち込んだ人間を一人残して帰るのは気が引ける。
……もし3年前の燕なら、そんなこと考えもせず夏生を置いて帰っただろう。律子と暮らすようになり、彼女の感性が燕に移ってきた。
「温かいもののほうがいいか?」
冷蔵庫を覗けば、食材は随分と減っていた。
大勢の客に食べつくされてガランと減った冷蔵庫の奥。残っていたのは真っ白いうどん玉。みゆきの書いた『賞味期限間近』リストに入っているものだ。
燕はしばらくそれを眺め、悩む。
頭の中にかちかちと、色が重なっていく。それはやがてひとつの料理となって浮かび上がった。
「……俺さ……弾けなくなったこと、ないから、桜の気持ちが、分からないんだ」
燕がキッチンに立てば、夏生がぼそぼそと口を開いた。
燕に返答を求めているわけではない。ただ、声に出さなければ落ち着かない、そんな心境に違いない。だから燕は言葉を挟まず代わりにネギを刻む。
「でも、桜と音楽教室を開くって、小さい時約束してて」
ネギに加えて、生姜、梅干し。冷蔵庫にあった三つの色を刻むと、真っ白なまな板が綺麗な色に染まった。
コンロに湯を張った鍋をおく。沸き始めるとすぐ、うどんを2玉落とす。
麺が重く箸に絡むと白い濁流のようにみえる。
「向こうは忘れてるだろうけど、ヴァイオリンとピアノの……教室……」
夏生の声は若く、幼い。この間まで中学生だったのに……と、みゆきの言葉が蘇る。
「もし、あいつこのまま弾けなくなったら、たぶん、俺のせいだ」
燕は麺を湯がきながら、桜のことを思い出していた。
まだ彼女は、自分の傷に向かい合っていない。傷を見ないようにしている。
傷は傷と把握してから痛みが酷くなる。燕もそうだった。
絵から逃げて絵を忘れようとしていた燕は、律子に傷を掴まれてはじめて痛みを覚えた。
しかし桜は今、笑っている。笑ってごまかそうとしている。
(今はごまかしていても……気づいたときが、きついな)
麺をざるにあげ、空いた鍋にはうどんのつゆを注ぐ。
ペットボトルに詰めて常備されている、みゆき手作りのうどんつゆ。それはなぜか讃岐風だ。関東のものとは違い黄色が濃い仕上がりである。
鰹節や昆布ではなく、煮干しでしっかりと出汁をとっているからだ。
頭と内臓を指先でちぎり、筆先のようになったそれを、湯の中で少し泳がすだけで綺麗な黄金色が生まれる。
独特な香りが強い煮干しの出汁。そこに醤油と塩と、みりんを少し。
みゆきのうどんつゆは、海の香りが濃い。それは梅雨の湿度に似合う香りだった。
湧いた中にうどん玉をいれ、梅と生姜を沈める。しばらく煮込むと、とろとろと、すべてが混じり合う。
額に浮かんだ汗をぬぐって、燕は鍋の中に、水溶き片栗粉をそっと流し込んだ。
最初は白かったそれも、どんどんと透明になる。同時に、汁がぐっと重さを増した。
浮かぶ泡に、刻んだ梅干しの赤と生姜の白。
上からはらりと、ネギの緑を散らせば……それは、梅雨に似合わない、あんかけうどん。
部屋の湿度をさらに上げる、熱いうどんだった。
「あいつ、弾けないの、たぶん、つらいのに……俺……」
優しくしたいのに。と、夏生の言外の言葉が漏れ聞こえた気がする。
そんな夏生の前に燕は小鍋ごと、うどんを置いた。
「食べろ」
「俺、悩んでんだけど」
「食事を抜いてまでか?」
睨む夏生だが、その表情に反して腹の虫が鳴る。
「食べて腹一杯になって、それから謝ればいい。まだ謝って修復ができるうちに」
情けない顔をして、夏生は箸を握った。
彼が息を吹きかけると、湯気がキッチンの天井へとゆっくり上がっていく。
「……なんでお前さ、美大生のくせに料理できるんだよ」
夏生はけして、美味しい。とはいわない。ふてくされるように、文句をつけるだけだ。今も文句を言いながら、それでも箸は止まらない。
大きな鍋に、2玉のたっぷりうどん。
つゆを吸い込んで、膨らんだ白いうどんは、夏生の食欲を刺激したようだった。
「食べさせたい人がいるから」
「あの……おばあちゃん? 家族でもないだろ、他人だろ、変なの」
口を尖らせる夏生に、燕は少し笑ってみせる。
「いや、そのうち結婚する予定だから、他人じゃなくなる」
「……っ」
燕のさりげない言葉に、夏生は激しくむせる。顔を赤くして動揺する姿は、なるほど高校一年生らしかった。
気まずそうに顔を背ける夏生を見つめながら、燕は腕を組む。コーヒーは、ちょうど温くなり、いいタイミングで飲み終わる。
「じゃあ俺は帰る……から」
そして、ふと、部屋の片隅に置いてあった自分の荷物に目が止まった。
画板を入れるための四角い袋。その片隅が開いている。
それを見て、燕は深い溜め息をついた。
「……お前、人の荷物を勝手に見たのか」
袋の中には、描きかけの作品が収まっている。
それは、大学で毎年行われている定期展で発表予定の絵。
今年のテーマは「家族」らしい。と聞いたのは春のこと。その噂が確定となったのはゴールデンウイークが終わった頃。
卒業制作に先駆けて行われる大学最後の定期展は、一番規模が大きい。評価も厳しくなる。
……そのテーマが、家族である。
その事実は、燕の気分を幾分か暗くさせた。
(……よりによって)
舌打ちをおさえ、燕は鞄を乱雑にしめる。中の絵は、あっという間に黒いかばんの奥に沈んで消えた。
……燕は家族に不遇だ。
20数年前、絵描きの夢を諦めた男女が結ばれた。燕の知る両親の略歴はこれだけである。
彼らは叶えられなかった夢を息子に託し、燕はその重圧に耐えかねて一度は筆を捨てようとした。
結果、燕は絵ではなく両親を捨てた。その苦しさは、まだ燕の深いところで渦を巻いているようだ。
「人のものを勝手に見るのはやめろ」
燕は夏生を睨んだまま、黒い鞄に包まれた絵を思う。
そこには曖昧な記憶によって描かれた父と母の姿があった。
何度描いても両親の顔が思い出せず、顔を塗りつぶした。
今、このキャンバスには顔のない男女が描かれている。
「お前……なんで、人の顔、描かないんだ?」
悪気など一つもない顔で、夏生が言った。そこには無邪気な明るさがある。薄暗い家庭環境など、一ミリも知らない顔だ。
……店長夫婦のような親を持てば、また違う人生があったのだろう……と、燕は思う。
「あの人物絵は……親だよ。俺は親の顔を思い出せない」
「なんで」
「皆、お前の家族のように、いい家庭ばかりじゃないってことだ」
燕の声に、夏生の目が左右に揺れる。
「そんなこと」
「あるんだ。俺の親は良い親じゃないし、俺も良い息子じゃなかった。だから、家族の絵が描けない。俺は家族を知らないから」
みゆきをみて、店長をみて、燕は驚いた。
こんなにまともな家庭があることに、驚いた。
「お前は、これからも大事にしろ、親も、桜のことも。ほら、いいから食べろ、のびるから」
そしてそんな家庭に育てられた夏生はまっすぐだ。自分とは違う、と燕は思う。
夏生は戸惑うように、黙々とうどんを食べる。あんかけで熱が逃げないせいだろう。彼の顔がどんどん赤くなる。
「……熱すぎるんだけど」
「猫舌だと思った」
「やっぱり、性格わりい」
「よく言われる、と言っただろ」
燕は床に転がしておいた鞄を手に取る。軽いはずの鞄だが、中の絵は呪詛のように重い。
肩にかけると、そこから冷たい空気が流れ込んでくるようだ。
「ゆっくり食べろ」
ふうふうと息を吹きかけながら食べる夏生を振り返り、燕は扉を押す。
「そのうち、気持ちも落ち着くだろ」
夏生の怒っているような、泣きそうな、そんな顔が燕を見送る。
外の雨は少しだけ弱くなっていた。
「やあ」
雨を蹴飛ばして一歩。店を出て進んだ瞬間、燕は足を止めることとなった。
「随分お忙しかったようで」
嫌な声だ。無視をしようと思ったが、視線の先に気取った赤い革の靴が立ちふさがるのを見て燕は諦めて顔をあげる。
洒落たダークブルーのスーツに、大げさな漆黒のこうもり傘。その下で微笑むのは……柏木だ。
「付けてたんですか、まるでストーカーだな」
「偶然ですよ。近くに用事があったので……それに、あなたが先生以外ときちんと交流できていることを褒めてるんです」
彼と向かい合うと、先程までの穏やかな気持が消えていく。
「ようやく人間らしくなりましたね」
「あなたも暇ですね」
しかし燕の言葉など、彼にとって痛くも痒くもないのだろう。ひさしの下に燕を誘うと、彼は燕の手に小さな袋を押し付ける。
「あなたにまた、もう一つお仕事を。あとで持っていくつもりでしたが、ここでお渡ししましょう。家に行くと君が嫌がるから」
それはちょうど30cm程度のキャンバスである。
覗くと、目を刺すような鮮やかな黄色が目に刺さった
「これは……律子さんの絵だ」
雨に濡れないように気をつけて、燕は絵を覗き込む。それは晴天のひまわり畑の絵だった。律子の筆で、律子の色で描かれている……特に黄色の美しさが目を引いた。
「御名答。前に言ったでしょう。大作をお願いすると」
背の高いひまわり畑の真ん中に、二人の男女がいた。男女、といってもまだ高校生くらいのあどけない顔立ちの二人だ。
女は男の体を強く抱きしめ、大きな口を開けて笑っている。男は困ったような、照れるような顔で少しだけ笑っている。
どこかで見たことがあるような……と、一瞬だけ燕の中で疑問符が浮かんだが、それは雨の音に紛れて消えてしまった。
「これは今から……20数年前に描かれた絵です」
柏木の声に、燕は目を細める。
律子はその頃に、夫を亡くし……そのせいで黄色という色が使えなくなった。だから律子の黄色は特別な色だ。
彼女にしか生み出せない、鮮やかで、少し寂しさをまとった色。
彼女が再び黄色を作れるようになったのは、燕に出会ってからのこと。
「じゃあ……この絵は……」
絵を持つ燕の手が震える。この絵は、かつて画壇を騒がせた本物の『律子の黄色』である。
「昔、手放した絵の一部……探してきたという?」
「先生の絵はファンが多いので、皆さん大事にされてるんですよ。といっても、やはり古いものですし不意の事故で色が落ちることもある。それを君に直してもらう、というわけです」
絵の全面に広がるひまわり畑。そして幸せそうな男女。
花の間を抜ける風の色まで見えそうな、そんな絵である。しかしよく見れば、いくつか色の欠けた所が見えた。
「前に依頼した絵、とてもよく直せてました。もう一度塗り直した色が良かった……今度もその調子で、頼みます」
「これは、どんなときに描かれた絵ですか? ちょっと線が、緊張してるような」
「……わかりますか」
柏木が少し驚くように目を開き、少し悔しそうに口を噛んだ。
「ええ、いつもより線が戸惑ってます。緊張して描いたような……戸惑って、止まってる線もありますね」
「これは多くの人の前で描かれたものでしてね。先生もあれほど大勢の人前で描くのは初めてのことで、緊張されていた……」
燕は古い空気をまとった絵を見つめる。美しい色彩だが、その中にかすかな緊張が見て取れる。
「緊張してますが……少しさみしい感じがします。このモデル、女子高生の方は律子さんに馴染みがない人物だ。男の方は……専属のモデルですか? 律子さんが描き慣れてるような……」
燕は目を細め、絵をみつめる。昔、親の命令で多くの画家の絵の模写をした。そのせいか、絵の感情や背後の事情を読み取ることには慣れていた。
(なんの役にも立たない……と思っていたのに)
燕はざらりとした表面を恐る恐る撫でながら、思う。
温度のない絵から、律子の温度が伝わってくるようだ。緊張の中に喜びが、楽しさがある。
男子高生の顔は、のびのびと描かれている。きっと、律子が何度も描いた少年なのだろう。色が白く、線が細い。それに反して小麦色の肌を持つ少女の絵は幾度か塗り重ねられていた。
(律子さんの気持ちを想像して……塗る……)
同じ気持ちに寄り添えば、きっと当時の色を復元できるのではないか、と燕は思う。
色の落ちたその場所に燕は手を添える……まるで傷を負ったようなこの場所が切ない。修復、という言葉が胸に響く。それは治療であり、救いだ。
律子に救われた燕が、律子の絵を救うのだ。
「地面、茶色に少し……グレーが入ってる? 当時の絵の具があればいいんですが」
「当時と同じ道具を用意しましょう。できるだけ早く、作業にかかってください。絵の持ち主に早く返さないといけませんので」
画商らしい顔をして、柏木は微笑み、そして一瞬のすきを突いて燕の持つ鞄を覗きこんだ。
「大島君、はじめて会った時に比べると、随分上手になりましたね」
「勝手に見ないでください」
慌てて鞄を引くが、すでにこの男は中の絵を見てしまっている。睨むが、柏木は平然としたままだ。
「でも惜しい」
「何がです」
「芸術家というものは繊細で、ちょっとしたことで物が作れなくなる。絵でも音楽でも」
柏木はひさしの下から雨の風景を眺めている。
雨は強くなり弱くなり、雨粒が黒いアスファルトに跳ねている。
「何が言いたいんですか」
「あなたのトラウマと向き合わないかぎり、君の絵はいつまでも先生には近づけない」
「別に近づくつもりは」
私はね。と、柏木は燕を見つめる。
その目線の意味を図りかね、燕は言葉を飲み込む。
「君なら先生の色を作れるんじゃないかと、最近はそう思ってますが……買いかぶり過ぎですかね」
そして彼は手を振り雨の中を去っていく。
梅雨の、重苦しい香りだけが傘の下に残されていた。




