プレリュードのクリスマスクッキー
その日、桜の耳に響いていたのは空を引き裂くような雷鳴と、叩きつける雨音。そして自分の涙声だけだった。
12月25日、クリスマス。
桜の通う幼稚園はすでに閉園し、周囲には誰もいない。冷たい雨ばかりが降っている。
普通の子どもは、今頃ケーキでも食べているのかもしれない。
いい子にしていた子どもは、今頃プレゼントを開けているのかもしれない。
しかし桜は一人ぼっち。冷たい雨に怯えながら、冷たい夜の道を走っている。
(……さくらが、ふつうじゃないから)
桜は冷たくなった鼻先をこすりながら、走る。
周囲は真っ暗で、道の向こうは黒いカーテンをおろしたようだ。
雷が鳴る時だけ昼みたいに明るくなって、跳ねる雨水が波のように泡立っている。
「……っ!」
びん、と空気が張り詰めて雷が唸る。雨粒が太鼓のような音をたてる。
桜は思わず地面に座り込み、お気に入りのスカートが冷たく濡れた。
(……ふつうじゃないから……)
桜ちゃんはお父さんがいないんだね。
桜ちゃんのお母さんはお迎えに来てくれないんだね。
桜ちゃんのお婆ちゃんは、手をつないでくれないんだね。
……幼稚園の友達は皆、不思議そうに首を傾げて言う。
だから桜は『普通』じゃない。と皆が言う。
(おとうさんは、入院だもん。おかあさんは、お医者さんで……おばあちゃんは……)
桜は溢れる涙をぐっとこらえた。
『寂しい』などと言ってはいけない。『我慢』しなさい。桜は医者の娘なのだから……お婆ちゃんの声が桜の頭の中に蘇る。
お母さんがキムズカシイとぼやいていたお婆ちゃんは、数ヶ月前の暑い日、白いベッドの上で、はじめて桜の手を握ってくれた。
桜が驚くほど、しわしわの弱い力で。
そして言ったのだ。『お父さんが大変な時なのだから、お母さんに迷惑をかけちゃいけませんよ』と。
(おかあさん、忙しいから。だから、さくらは……)
お気に入りの黄色い傘はひっくり返ってしまった。桜はそれを切なく見つめる。
雷や雨の音は、絵本で読んだ猛獣の声のよう。
雷、雨、雲の唸る音。まるで化け物の口の中にいるようだった。
(……がまんしなきゃ)
桜は近くの商店のひさしの下に駆け込み、空き箱によじ登って膝を抱える。桜の頭上、青いビニールのひさしが雨を弾いて不気味な音を立てている。
こんな風に座っているとまるで世界に一人、取り残されてしまったようだ。
腕の中には桜の腕でちょうど抱えられるくらいの、小さなおもちゃのピアノがある。木でできたそのピアノは、抱きしめているとぽかぽかと温かい。
桜はそれを守るようにぎゅっと強く抱きしめた。
「……」
涙と一緒に息を吸い込むと、喉の奥がひゅっと冷える。
また雷が大きな音を立てるのと同時に、目の前の壁が明るく輝いた。道向いの大きな門、「へいあん幼稚園」の文字が奇跡のようにぱっと光ってまた消える。
……幼稚園を出てもう何時間経っただろう。今日もお母さんは仕事が忙しく、時間どおり
に迎えには来てくれなかった。
しかし今朝は、桜と約束をしたのだ。
クリスマスだから、今日はケーキを買って二人でお父さんの病院にいく。そして病院の人に見つからないように、三人でレクリエーションルームのピアノを弾く……。
そう約束し、指切りをした。だから桜は一人で帰るふりをして、また幼稚園まで戻ってきた。
桜が勝手に家に戻れば、お母さんが迷子になってしまう、そんな気がしたのだ。
しかし、幼稚園に戻る頃には雨がひどくなっていた。
桜は誰よりも目がいい。
もっと目が悪ければ、目の前がよく見えなければ、こんなにも悲しい気持ちにならずに済んだのかもしれないのに。
「……おかあさん……」
つぶやきは、雨の音に溶ける。
涙がまた零れそうになった瞬間、真横から小さな音が聞こえた。
「おかあさん!?」
「こんばんは。可愛らしいピアニストさん、ご一緒していいかしら」
……しかし、そこに立っていたのは期待していた母ではない。知らない女の人だった。
綺麗な緑色のコートが、夜の色を反発するように輝いている。四角い鞄だけ、大事そうに抱えている。
彼女はぴかぴかの傘を地面に投げ捨てると、ひさしの下に滑り込んでくる。
そして、空き箱の上に座る桜を見つめて、にこりと笑った。
「とても可愛らしいピアノを持っているのね」
桜の頭に浮かんだのは、保母さんの口癖「知らない人が声をかけてきても答えてはいけません」という言葉。
桜はこれ以上後ろもないのに後ろへ下がろうとする。背中が壁に触れて、その冷たさに驚いた。
しかし女の人はそんな桜をじっと見つめる。雷がまた光る。しかし彼女はちっとも怯えない。
「サンタクロース……」
彼女は桜の幼稚園鞄についている、サンタクロースのワッペンを見つめているのだ。女性は何かを思い出したように、ふっと笑う。
「クリスマスの夜なのね」
桜は逃げられなかった……いや、逃げる気が消えた。
「クリスマスの夜に……雨は、寂しすぎるわね。せっかく、素敵な夜なのに」
それは、彼女が静かに泣いているからである。
雨のしずくなどではない。その綺麗な水滴は、彼女の目から今も溢れている。
頭から肩から、全身を雨水で濡らしたまま。彼女は泣いている。
だから桜は思わず、女性に近づいていた。
「おばちゃん……ないてるの?」
「そうね」
「おとな、なのに?」
「そうよ、大人でも泣くの、悲しいことがあれば。でも……そうね、いま悲しいのは、後悔のせい。大人になると、後悔することが一番悲しいわ」
言って、彼女は空を眺める。
激しい音を立てる空を見ても、彼女は動じもせずにまっすぐに背を伸ばしたまま。姿勢の綺麗な人だった。
「……あなたも悲しいの?」
彼女の指が、桜の頬を撫でる。その指には、赤や緑などの色が染み込んでいる。
それを見て、幼稚園のお絵かきの時間を桜は思い出す。
桜は園の中で一番、絵が下手だ。すぐに手を絵の具まみれにしてしまう。この人もそうなのだ、と桜は少しだけ安心した。
「う……ん」
「いいの。言いたくないことなんて誰にでもあるわ。皆、色々な過去があるんだもの」
言葉に詰まる桜を眺めながら彼女は優しくいう。
近づくと、絵の具の香りがぷんと香った。それは幼稚園の工具箱の匂いだ。絵の具の、不思議な匂い。彼女はまるで、絵の具でできているようだった。
「お嬢さん、今日はお一人?」
「おかあ……さん……が……くるから」
「ここで待ち合わせなのね。じゃあ、それまでご一緒していいかしら」
彼女は微笑む。それはあまりにも寂しい笑顔だった。
「お邪魔じゃなければ、だけど」
ぴかり、と空が光って桜は思わず小さな悲鳴を上げた。雨が一段と激しく降る。
黒いアスファルトに水が弾ける音に、ひさしに水が当たる音が響く。
しかし女の人は雨に手をかざし、平然と空を見上げている。
「雷と……雨は嫌い?」
「……おかあさんたちが、雨の日に、まいごになったの」
桜は耳を押さえ小さく固まったまま、つぶやく。思い出したのはずっと昔のこと。
「みんなでお出かけしたら、まいごになっちゃった……」
それはお父さんの病院へ面会に行く途中のことだった。お婆ちゃんとお母さん、そして幼馴染の夏生。
一緒に歩いていたはずなのに、途中で降り出した雨に邪魔をされた。
雨と雷に驚いて駆け出した桜は、あっという間に3人を見失う。
「……なつきも、いないし、おかあさんも、おばあちゃんもいないし」
周囲の家族は皆、しっかりと手を握り合っていた。
お母さん、お父さん、小さな子供。
皆、寄り添って雨宿りをしているのに、桜だけが一人だ。先程まで一緒に手をつないでいた夏生も、母も祖母も行方不明。
雷が鳴って震えても、誰も助けてくれない。悲しくて泣く声は雷の音にかき消された。
「おばあちゃんに、おこられて」
ようやく出会えたお婆ちゃんには、これ以上無いほどにこってりと叱られた。
その時も、雨の音だけがうるさいくらいに響いていた。
……だから桜は、雨が苦手である。
「みんな迷子になっちゃうなんて……寂しいわね」
女の人はまた泣きそうな顔で桜を見る。だから桜は必死に首をふった。
「……さみしくないよ。だって……まいごは、おかあさんたちだもん……」
「じゃあ、迷子になったお婆ちゃんたちは寂しかったのかも」
「……わかんない」
急に恥ずかしくなり、桜は顔をうつむける。
こんなことを知らない人に言うなんて、まるで小さな子供のようだ。
桜はもう来年から小学校に通う……年少の小さな子ではないのだ。
(らいねんから、小学校……)
雨の向こう、ぼんやりと薄曇りに見える建物を、桜はじっと見る。その場所にある小学校、来年から通う小学校。
お父さんに見せるためのランドセルは、もう密かに用意している。今日が雨でなければ病院でお父さんに披露するはずだった。
また晴れた日に、お父さんにランドセルを見せに行こうね、とお母さんがいうので、桜は素直にランドセルを置いてきたのだ。
本当は今日、見せたかった。綺麗な赤色のランドセル。
クリスマスにピッタリだ、と桜は思った。が、お母さんの言うことを素直に聞いた。もう、桜は小さな子供ではない。
「あ……そうだ。おかし、あげる。おかあさんのだけど、一つだけ、あげる。内緒だよ」
桜は恥ずかしさをごまかすように、ポシェットから一枚、クッキーを取り出した。
今日、園の皆で焼いたクッキーだ。桜はサンタクロースを作ったつもりだが、それは赤の不思議な模様に見える。
それは雨のせいですっかり湿気っているのに、彼女はまるで宝物のように両手でそれを受け取った。
「嬉しい。お腹が空いていたの。これで私達はキョウハンシャね」
彼女は笑ってまた難しい言葉を使う。しかしそれが桜には心地いい。
彼女と喋って心地よい理由がようやくわかった。
この人は、桜をまるで一人前の女の子のように扱ってくれる。
彼女はじっとクッキーを眺め、赤が綺麗。と呟いた。
そして、その色ごとクッキーを美味しそうに食べ始める。
「美味しいわ。あなたにはきっと、お菓子作りの才能があるのね」
「おかあさん、さくらのこと、シェフってよぶよ」
「それはね、お料理が得意な人のことよ」
彼女の涙が少し乾いたようで、桜はホッとする。こんなきれいな人が泣いているのは、あまりにも寂しかった。
彼女のおかげで、桜の寂しさは少しだけ薄れてしまったようだ。
「お礼に、絵を見せてあげるわね」
まるで秘密の話をするように、彼女はそっと、手元の鞄を開く。
そこからは大きな一枚の絵が飛び出した。それは、いつか園で行った美術館、そこに飾られているような絵だ。
きちんとした枠に収められた、立派な絵。桜は思わず前のめりになる。
「わあ……」
それは一面の……ひまわり畑である。
「すごく……きれい」
紙いっぱいに、目が覚めるような黄色が踊っている。
絵は動かないはずなのに、一面のひまわりが、青い空の下で揺れて見える。風がひまわりを揺らす音が聞こえるようだ。真っ暗なこの場所に、突然、光が溢れた。
渦を巻くようなひまわり畑の中心に、男の子と女の子が立っている。
女の子は男の子をぎゅっと抱きしめて、ひまわりに負けないほど明るい笑顔をこちらに向けていた。
嬉しそうに大きな口を開けて笑う女の子に、少し照れたような男の子。冬なのに、夏の風が吹いた気がした。
桜は恐る恐る、絵にふれる。ざらりとしたそれは、たしかに絵だ。でも本当に、そこに女の子たちがいるようにみえる。
この絵をくぐれば、そこに温かい夏の日差しが迎えてくれる……そんな気がする。
「これ、おばちゃんが描いたの?」
「そう。捨てようと思ったけど、捨てられなかった。でも見たくもないから、ずっと物置の奥に、隠していたの」
「こんなにきれいなのに?」
捨てる。という恐ろしい言葉が桜に刺さる。
女の人が悲しい顔をしたせいだ。
「私が黄色を使うとね、だいたい嫌なことが起きるの。やっぱり捨てるべきだった」
「そんなこと、ないよ」
彼女は絵から顔を背ける。見てもらえない絵が可愛そうで、桜は思わず彼女の手を掴む。驚くほど、冷え切った指だった。こんなにも、彩りにあふれているのに。
「だって、きれいだもん。キラキラして……きれいで……」
綺麗だという言葉以外、桜は思いつかない。この美しさを伝える方法を、桜は知らない。
「……きれいだから……きれいだもん……」
女の人は少し寂しそうに遠くを見て、目を指で拭った。
「すごく、きれい」
「ありがとう、本当に、すごく綺麗な絵ね。綺麗な……」
女の人はようやく、桜の言葉を飲み込むようにそういった。
「ありがとう」
長い髪の女の子に、少し茶色がかった色白の男の子。二人は幸せそうだ。これ以上ないほどに、幸せそうだ。
二人の人物の間に、小さなピアノの絵があった。それはいま、桜が持つおもちゃのピアノによく似ている。
木で作られた、ちょっとおしゃれな……お母さんがいうには「アンティーク」だという、小さなピアノのおもちゃ。
「これ、さくらの、ピアノにそっくり」
「そうね。すごく似てる」
「これね、昔ね、サンタさんにもらったんだよ。でもね……さくらはねえ、しってるの……サンタはいないんだよ」
桜は大事なことを伝えるように、小声になる。
「サンタはおとうさんなの」
ずっと、ずっと欲しかったそのピアノおもちゃは、お父さんのお気に入り。
だから一年前のクリスマスの朝、枕元に置いてあった箱を開けて呆然とした。
あの時、桜は園の中で最も早く、サンタの真実を知ったのだ。
「じゃあ、あなたのお父さんは本当のサンタクロースなのね」
しかし、女性はにこりと、微笑む。そんなこと、考えたことすらなかった桜は、ぽかんと固まることとなる。
「お父さんが?」
「そうよ。今頃、世界中を飛び回ってるのかも……あなたみたいな子の夢を叶えるために」
そして彼女は絵を片付けると、桜の顔をじっと見つめる。
「……ねえ、その素敵なピアノの音があればもっと素敵な時間になると思わない?」
彼女がそう急かすので、桜はついつい寂しさや恐怖を忘れた。雷はまだひどく響いていて、夜も暗い。轟音はまだ続いている。雷が不気味な唸り声を上げるたびに体が震える。
……しかし、なぜだか急に心がふわりと軽くなった。
それはこの人が隣にいるからだ。寂しさも怖さも、怯えて去っていくようだった。
ついつい、指が動く。ピアノは好きだった。音楽は好きだった。
たくさんの音楽がある中で、自分の弾くピアノの音が一番好きだった。
「いち、にい、さん」
声を上げて手を動かす。ぽん、ぽん。まるで叩くような演奏に、彼女は目を丸くして手を打った。
「お上手ね」
「ジングルベル。あわてんぼうの、さんたくろーす」
胸を張れば、彼女は耳を澄ましてくれる。
最近ずっと、町の中でも幼稚園でも流れていたクリスマスの歌。どれも明るくて、聞いているだけで無性に楽しくなる、心がワクワクする。
クリスマスの曲は、ショートケーキと美味しいスープの香りが似合う。そんな暖かくてちょっとあまい音だった。
桜の上機嫌が移ったように女の人が、桜の手元を覗き込む。
「ピアノ、すごくお上手だわ。ねえ、どこがドの音なの?」
「ここだよ。ここからね、ひくとね」
褒めてくれるのが嬉しくて、桜は続々と鍵盤を叩いてみせる。一曲叩くたびに彼女の顔がほころぶ。
桜はピアノ教室に通い始めたばかり。
以前から桜は、お母さんが弾くピアノの音が大好きだった。そんなお母さんから「ピアノ教室通ってみる?」と聞かれたのは昨年、夜の遅い時間のこと。
「これからはお父さんのこともあるし、お迎えに行く時間が遅くなるから、その間……ピアノを習いに行く? 夏生も一緒に」と、お母さんは恐る恐る桜に尋ねた。
それは桜にとって、最高のプレゼントである。
ピアノの先生は冷たい人で少し恐ろしいが、ピアノを触っている間は悲しいことも怖いことも、何もかも忘れることができる。
……今のように。
跳ねる音が、闇の中に響く。雷の音、雨の音。そんなものを突き破って、高い音が綺麗に響く。
音が響けば、胸が暖かくなり指先が火照っていく。最初から、弾けば良かったのだ。弾けばこんなにも楽しくなる。
人前で弾くのは好きだ。
自分のピアノで人が喜んでくれる、それがとても嬉しい。
「本当に、上手ね」
彼女は桜のピアノの音を聞いて微笑む。やがて彼女は鞄から紙を取り出すと、その上に鉛筆を走らせた。
さらに彼女の鞄からはカラフルな色鉛筆まで登場する。まるで魔法の鞄だ。
さらさらと腕を動かすその姿が気になって、桜は思わずにじり寄る。薄暗い中でもよく分かるほど……鮮やかな絵が、そこにある。
いちごのケーキ、もみの木、トナカイに、夢のような暖炉のあるお家……。
絵なのに、まるで中から賑やかな音楽が聞こえるようだった。今にも動き出しそうだった。
彼女の指が、まるで魔法のように絵を生み出していく。
「きれい!」
思わず声を上げると彼女は嬉しそうに笑う。すっかり涙は乾いていた。奇跡のように雷の音も遠ざかりつつある。
雨も小ぶりになり、どこかの家から漏れるテレビの音や喋り声が聞こえてくる。
世界が急に開けた、そんな気がした。
白い息も冷たい風も何も気にならない。ただ、目の前の色がキラキラ輝いているようだった。
「本当に?」
「うん! すごく、きれいねえ」
「大丈夫? もう、悲しくない?」
「きれいで……なくのわすれちゃった」
冷たい顔を両手で押さえ、桜は照れるように笑う。何が寂しかったんだろう。
お母さんはまもなく来るはずだ。お母さんはうっかりしているが、約束だけは破らない。
なぜ、世界で一人きりだなんて思ったのだろう。
「おばちゃんも、もう悲しくない?」
照れながら笑うと、彼女もようやく幸せそうに微笑んだ。
「私ね……もうずっと、ずっと昔に、とても悲しいことがあったの。生まれてきてはじめてくらい、悲しいできごと」
彼女はどこか遠くを見るように、目を細めた。また泣くのかと身構えたが、彼女は泣かない。ただ目を細めただけだ。
「これ以上悲しいことなんてない。と思ってたのに、また今日一つ悲しいことがあったわ……でもあなたのピアノを聞いて少し元気が出たの」
彼女は紙を丸めると、桜にそれをそっと手渡した。
「お礼よ。あげる」
「いいの?」
「もちろん」
受け取ると、それはしっとりと湿って紙の感触が暖かく柔らかい。桜は宝物のように抱きしめる。
「私は悲しいことがあると絵を描くけれど、あなたはピアノを弾くのね。それは幸せなことだわ……ねえ、約束して。ピアノはずっと弾き続けてね」
「おばちゃん?」
「私も……必ず、どんなに悲しいことがあっても、クリスマスには絵を描くわ。二人の約束」
彼女は、カラフルな人差し指を唇に押し付けて目を細める。
「それとね、あなたがここでピアノを弾いたこと、クッキーをくれたことは内緒。二人だけの秘密。守れるかしら」
彼女は桜にそっと、ささやきかけた。触れた頬は驚くほど冷たい。
……この人はいつから、外にいたのだろう。
「もうおばちゃんは行くわね。でも大丈夫。お母さんはすぐに来るわ」
彼女は絵を鞄に片付けると、背を伸ばした。その顔から涙は消えていたが、やはりどこか寂しそうで桜のほうが泣きそうになる。
「なんで……」
「なんで分かるかって?」
桜のお母さんは、まもなく迎えに来てくれるだろう。
しかし、彼女は……誰も迎えに来てくれないのではないか。そんな気がした。
「……私が魔女だからよ」
彼女は桜の頭を一度撫で、そして背を向ける。絵がおさまったかばんが、雨の中で左右に揺れて……揺れて……そして消えていく。
緑色のコートが闇に溶けるのと同時に、背後から待ち望んでいた声が聞こえた。
「桜!」
それは、まさに魔法だ。
その声を聞いた桜は、慌てて貰った絵を小さく折りたたんで隠した。なぜか、彼女と過ごした時間は秘密にしなければならない……そんな気がした。
あの人は、魔女なのだから。
「おかあさん?」
少しの秘密を飲み込んだ桜は箱から飛び降りるなり、暖かな腕に飛び込む。消毒薬の香りが染み込んだ、お母さんの腕の中へ。
いつもなら、抱きしめ返してくれる。遅くなってごめんね。そう言ってくれる。
しかし、今日は違った。
「桜、落ち着いて聞いてね」
お母さんの腕が震えていた。小さく、小さく、震えていた。指も、足も、顔も、何もかも。そして、手は恐ろしいほどに冷えていた。
「……さっきね、お父さんが……」
お母さんの固い言葉は、不協和音のように桜の中に忍び込んできた。




