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時には強火でチャーシュー炒飯

「燕!」

 と、明るい声が聞こえたのは、松の内すぎ。

 正月の空気が少しずつ日常に戻りかけている、そんな時期のことである。


「燕! 俺だよ! 俺!」

 吹き付けてくる冷たい風に震えながら歩いていた燕は、聞き慣れない声に顔を上げる。

 見上げれば、ちょうど車道の向こう側。燕とそう年の変わらない男が手を振っている。

 彼は燕が気づいたことが嬉しいのか、元気よくガードレールを飛び越える。そして一足に燕のそばに駆けつけてきた。

 遠い場所から駆けつけてきたように、息が弾んで白い煙がにじむ。きらきらと輝く目が丸く見開かれ、まるで小さな子供のような無邪気さだ。

 背は燕より低く顔も幼い。しかし、確かにどこかで見覚えがあった。

「燕、久しぶり。覚えてる? ほら、大学の」

「……あ」

 大学という言葉を聞いて、燕の頭の中に様々な風景が浮かんでは消えた。

 それは絵の具の香りであったり、屈折を覚えた日の夕暮れの色であったり、入学式の張りつめたよそよそしい空気であったり、学友の姿であったりする。

 全てがない交ぜとなったあと、燕はようやく一人の顔に行き当たった。

「……田中?」

「そーそー! すげえ、覚えてた?」

 名を呼ぶと彼は無邪気な笑顔を浮かべてみせる。軽薄そうな顔だが、笑うと妙に人なつっこい。子犬のような笑顔だった。

「思い出した」

「思い出さなきゃ思い出せないくらいかよ、ひでえな」

 と、口では言いながらも相変わらずの笑顔である。

 彼は入学式の時から、屈託無く燕に声をかけてきた男だった。

 大学が始まってすぐの頃、燕はそれなりに周囲に受け入れられたのである。

 今からなら分かる。顔のせいだ。しかし当時、燕は「自分の絵が良いからだ」。と、変な自信を抱いていた。

 それが打ち崩された途端、屈折した。屈折し卑屈になり、寡黙となった燕から人は離れていく。

 大学に休学届けを出すその日まで、何かと声をかけてきたのはこの田中だけであった。

「心配してたんだよ。休学してから全然大学こねえし、連絡とれねえし、なんか変な噂が流れてくるし」

「噂?」

「お前が女のヒモになって貢がせて、豪遊してるって噂」

 お前ならできそうだもんなあ。と、羨望めいた顔で田中がため息をつくので、燕は苦笑しか返せない。

 噂とは肥大して伝わるものらしい。

「してるよ」

「え?」

「……っていったら、どう思う?」

 燕の言葉に顔を赤くして青くして、そして田中は大声で笑った。そういえば、豪快で素直な男であった。

 彼の描く絵も、その性格に似ていた。うまくはないが、素直な線と色だった。

「ところで、田中、お前この辺に住んでたっけ」

「違う違う」

 田中は一枚のパンフレットを取り出して見せる。

「これ。ここの近くの幼稚園にさ、有名な画家の絵が飾られてんだよね。毎年クリスマスに絵を送ってるらしくって。年明けから期間限定で一般公開されんの」

 燕は思わず、手に持っていた荷物を落としかけた。

 ……そのパンフレットには、律子の絵が載っている。燕の失敗から生まれたショートケーキの絵も、律子がたのしげに描いていた雪の絵も、なにもかも。

 パンフレットとして収められた律子の絵は、知っている絵のはずなのにどこかよそよそしい。そしてそれは実物を見るよりも、ずっと天才的だった。

「近代美術のレポートでな。お前もこの辺住んでるなら行ってみろよ、良かったぜ。色使いとか、大胆で。今じゃあんま有名じゃない人だけどさ、やっぱ近代美術の先駆者だよ」

「……そうか」

 冷たい風にさらされて燕は目を細める。正月ほどの寒さではないが、身にしみる寒さは今も続いている。指先は凍え、燕はその冷たい指をすりあわせた。

「燕、絵をまだ続けてるんだな」

 パンフレットを鞄に戻しながら、田中は燕の指をみる。

 ……燕の爪先に、絵の具がついている。それは律子の色である。片づけをしていて色が染み込んだ。

 さきほどのパンフレットに描かれていた色よりも、ずっと明るい。生きた色だ。

「これは」

「お前、絵を描くの好きだったもんな」

 違うのだ。と否定しかけた言葉が、燕の中で溶けた。

 田中は羨ましがるような、嬉しがるような目で燕をみる。

「俺もお前の絵、好きだったよ。繊細でさ。だから、燕が絵をやめてなくて、よかった」

「……」

「今日会えてよかったよ。お前も冗談言えるくらいになってんだな。休学する時、完全に落ちてたもん」

 さぞ、燕は間抜けな顔をしていたのだろう。田中はまた笑い、燕の背を軽くたたく。

「落ち着いたら、復学しろよ」

「ああ」

 頷いた燕に、田中は嬉しそうに手を振り、元の道を駆け戻っていく。このままどこかにスケッチにいくのか、よく見れば彼の肩には画板の袋が下げられている。 

 羨ましい。と自然に思えた。

 そう思えた自分に、驚いた。

(……帰ろう)

 燕の手から下げられているのは、画板ではない。買い物袋だ。

 今朝、テレビを見ていた律子が突然「炒飯を食べたい」などと言い出したのである。突然の言いぐさにはいつものことだ。そして食べたいと言い始めれば、止まらない。

「ぱらぱらで、お店みたいな、お醤油味で茶色くて香ばしい炒飯が食べたいわ。私、こういう焦げた茶色も好きなの……ほら、すごくあったかそうで美味しそうでしょ」

 テレビの画面から目も離さずに律子は言った。

 テレビではプロの料理人が、巨大な鍋で炒飯を作っている。振り上げられて宙に舞う米はまるで水分がない。はらはらと、宙を舞う。

「できませんよ。炒飯は男の料理とか言われますけど、僕は店みたいに作れません」 

 燕は机に肘をついたまま、反論してみせた。謙遜ではなく真実だ。オムライスならともかく、炒飯は難しい。どうしても水気が残る。

 しかし律子の手はすでに、模写をはじめている。このままだと家中の紙という紙に茶色い絵が描かれてしまう。それを阻止するために、燕は買い出しに出た。

 ……そこで、田中と出会ったのである。

(大好き……か)

 田中は、燕のことを絵が大好きな。と評した。そして田中は燕の絵が好きだといった。律子は焦げた色が好きだという。

 燕は、その感情を知らない。

 思えば、幼い頃から屈折していたのだ。

 絵だけのために生き、絵を描くこと以外許されなかった。絵を描くのは好きというよりも義務であり期待に応えるためであった。

(好き、か)

 だから、屈託なく好きだと言える田中が羨ましかった。

(分からない)

 燕は袋の中に詰めた食材を見つめ、そして空を見上げる。

 冬の空は、透き通るような青であった。



「困るわ」

 風はますます強くなる。先ほどまで晴れ渡っていた空に雲が入り込み、時に立っていられないほどの風が吹き付けてくる。

 そんな冷えた空気をかき分け、ビルの階段に足を踏み入れた途端、聞こえてきたのは律子の困惑する声であった。

「こんなの、困るわ」

「師匠。まあ、そんなこと、おっしゃらず」

 続いて聞こえてきたのは、聞き覚えのある男の声である。

「律子さん!?」

 階段を二段飛ばしに駆け上がる。薄暗い階段を上がりきると2階の玄関の前、律子と男の姿があった。

 ……例の弟子である。彼はいつもと同じく皺のないコートに、嫌みなほど磨き上げられた靴に包まれて、手にはなにやら立派な紙袋。

 そして彼は律子の腕を取り、押し問答を繰り返しているのである。

「困るわ」

 律子が眉を寄せた時、燕はちょうど彼と彼女の間に立った。

「律子さん。今戻りました」

 燕はすばやく律子の細い手をつかむ。そして男の腕を逆の手でつかみ、引き離す。一瞬のことだ。突然の乱入者に男の手はたやすく離れた。

「燕くん?」 

 驚く律子を玄関の内側に押し戻し、燕は男の前に立つ。

 ……真正面に立つと男は燕より、少しだけ背が高い。燕も低いほうではないので、男の背がずいぶん高いということである。

 しかし、気圧されることなく燕は彼を睨む。

「何かご用ですか」

「ああ。君ですか。ずいぶんお早いお帰りで」

 男の口に、嫌みな色がにじむ。まるで燕が出て行くのを見計らい、訪問したかのような口振りだ。

 いや、この男ならばあり得る。と、思った途端に燕の中で血が上った。

「若いので、何でも行動が早いんですよ。ご訪問内容は、僕がお伺いしますが」

 男の目が、少し細くなった。不快であるのか、嘲笑であるのか燕には分からない。ただ男の顔に浮かんだ感情は、一瞬でかき消える。すぐさま、大人らしいおおらかな笑みを浮かべて見せた。

「食べ物を持ってきたのですが、遠慮しいの師匠が受け取ってもらえず困っていたところです。じゃあ、君から渡しておいてもらえますか」

 男がそういって差し出したのは、手にずしりと重い紙袋。のぞき込むと有名な精肉店の名前が刻まれている。



「物を持ってきてくれたのよ、またこんなに。今日は燕くんが炒飯作ってくれるから、こんなにいらないっていったのに」

 律子はぷりぷりと怒りながら、台所の机を両手でたたく。そこには瓶詰めの保存食、パスタ、米、餅などが山積みとなっていた。

「これだけかと思ったのに、まだあるってどんどん出てきて、最後はお肉でしょ」

 台所には、肉の固まりがいくつか。チャーシュー、ステーキ用の霜降り肉、ソーセージ。いずれも立派だが、いかんせん量が多すぎる。

「そりゃあ食材はありがたいけど、こんなに貰っても余したらもったいないからっていつも言ってるのに」

「……そうですか」

 燕といえば、リビングのソファーにぐったりと崩れたまま自己嫌悪を繰り返していた。

 感情のまま、いい大人と真正面からにらみ合ってしまったのである。情けなさもある。

 しかし律子は気にも留めない。燕を見て無邪気に笑った。

「驚いちゃった。追い返すなんて。でもよかった、たぶんまだまだ隠し持っていそうだもの、食材」

「僕は売られた喧嘩を買っただけです」

「燕くん、うんと小さな男の子みたい」

「いけませんか」

 あの男がかかわると燕の感情が妙にとがる。その理由を、燕は知らない。ただ、感情のままに動く。まるで自分が子供になったような、そんな気分になる。

「……子供ですから」

 ふと、窓を見ればそろそろ陽がかげりつつある。

 重い気分を背負ったまま。さて、と燕は立ち上がった。



(チャーシューも使うか)

 炒飯の基本は、全ての用意を調えてから挑むことだ。とどこかの本で読んだことがある。

 玉葱、生姜、にんにく、ネギ、ハムを切り刻み、米と卵も用意した。ふと目線を下げると先ほどの男が持ってきたチャーシューの固まりが目に入る。それもついでに切り刻み、そして油をたっぷり注いだフライパンを熱する。

 寒い部屋に、暖かさが一気に広がった。

 鉄のフライパンに熱が回り、白い煙があがったら生姜とにんにくを滑りこませる。と、香りも広がる。

 玉葱、米、チャーシューにハム。そして卵。

 一気に入れると、黒いフライパンの中が黄色に染まった。

 それを揺らし、切るように炒める。と、その黄色は徐々に米に、肉に染み渡る。同時に香りが、まろやかになる。

(……疲れた)

 フライパンを揺らしながら燕はため息をついた。

 ここ数週間、燕の感情が揺さぶられる事が続いている。感情の揺さぶりは、疲労となって燕自身に返ってくるのである。

 しかしその疲労感は心地よくもあり、このような感情を抱いたことのない燕にとっては困惑の日々であった。

 今日、田中に叩かれた背の衝撃を、燕は思い出す。

 それは本当に久しぶりに、自分の過去を思い出す痛みだった。ここ一年近く、燕は泥のような中で生きてきた。目を閉じて生きてきた。

 目が開き、泥の中から顔を出したのは、ここ数ヶ月のことである。

 泥の中の世界は心地良かった。顔を出した世界は冷たく痛いばかりだ。しかしそれでも顔をだすことをやめられない。

 それは、燕を引っ張る手があるからである。

「……おっと」

 ぼんやりとしていたせいで、火は強火のまま。焦げたか。と、急いで火を止めフライパンの中を覗く。 

 ……と。

「……成功、か?」

 驚くことにそこにあったのは、はらはらほどけ、均等に焦げ目のついた米。

 鍋肌に沿わせるように醤油を振りかけると、じゅ。と心地よく焦げた香りが鼻に届く。そして塩と胡椒。ネギをはらりと散らすと色が引き締まる。

 それをレタスを敷き詰めた皿にそっと盛り上げ、夕日にさらすと、美味しそうな湯気がまっすぐに上がった。

 不思議なことにこれまでで一番、できのいい炒飯が完成したのである。



「すごい。おいしい。お店みたいにぱらぱら!」

 完成を待ちかねたようにスプーンを差し込んだ律子が、歓声を上げた。

「……本当だ」

 つられて口に運べば、米が口の中でほろりとほどけた。焦げた醤油の甘みに、卵をまとった米のまろやかさ。

 男の持ってきたチャーシューも、肉の脂が上品だ。甘みがあり、口の中でとろける。

(強火がよかったのか)

 食べながら燕はぼんやりと考えた。

 感情のおもむくままに、強火でいためつけた。火の強さが美味しさに繋がった。つまりこれまで、燕のつくる炒飯には勢いが足りなかったということか。

(……なるほど)

 おいしいおいしいと楽しそうに食べ続ける律子を見て、燕は苦笑した。

「次また、あの男がきた時、教えてください」

「何で?」

「その日はたぶん、炒飯が旨く作れる気がするので」

 不思議そうに首を傾げる律子にかまわず、燕はさらさらと残りの炒飯を口に運ぶ。

 荒れ模様の夕暮れ空はまもなく闇に包まれて、またいつものように夜がこのビルを包もうとしている。

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