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年越し蕎麦と除夜の鐘

 今年が、静かに終わろうとしている。


 先日までの冷え込みを引きずるように、今年の晦日の夜はぐっと冷え込んだ。

 窓を開ければ鼻先を通り過ぎる風に、独特の香りが混じる。それはつんと冷たく、どこか焦げたような香り。これは、冬の香りである。

 そして静かで澄んだ空気に混じる清らかな香り。これは、年の終わる香りである。

 しかし、律子の家はいつもと変わらない。絵の具と紙の香りに支配されていた。

「大掃除くらい、手伝ったらどうです」

 燕は両手一杯にスケッチブックを抱えて、寝転がる律子を冷たく見る。彼女は朝からだらしなくもソファーに寝転がり、絵ばかり描いているのである。

 ここ最近は、珍しくも忙しなく働いていた律子だ。頑張ったのだから、あとはもう絵ばかり描いて過ごすのだ。と宣言した通り、彼女は断固としてスケッチブックから離れない。

 描く側から取りあげても、彼女はどこかからかスケッチブックを取り出しては描き、そこらに放置するのでいたちごっこである。

「掃除なんてしなくても、困らないもの」

「僕が困ります」

 また一枚。

 白いスケッチブックには、困り顔の燕が描かれる。この一枚だけでも、欲しいと願うコレクターはまだ居るはずだ。そんな貴重と思われる絵を彼女は驚くほど簡単に描いては投げ捨てていく。

「あ。そうだ、掃除をしている燕くんを私が描くわ」

「物を散らかす根源に言われても困ります」

「生真面目ね」

 スケッチブックを重ねる燕を見て彼女は小首を傾げて微笑む。その顔を見て、燕はとうとう諦めた。

 外を見れば、大晦日の空はもう真っ暗だ。すっかり夜も更け、外を通る人ももう居ない。

 先日までは夜遅くまで忙しなく人が行き交っていた道も、大晦日の夜は一気に静まりかえる。

 しかし、普段は真っ暗な闇に包まれている外の風景が、今日は妙に明るいのである。それは、どの家にも灯りがともっているからだ。

 マンション、一軒家、どの窓もオレンジや白、黄色の灯りがぼうっと灯っている。

 白い息を吐き出しながら、燕は外を見つめた。

 ……昨年、自分はどこにいたのだろう。

(ああ、そうだ、女の家か)

 その女の名はもう忘れた。髪が長く、皮膚の冷たい女であった。

 燕は昨年、彼女の家で年を越した。しかし、女は仕事なのか、それとも別の男に会っているのか戻って来ることはなく、燕は特に大晦日らしいこともせずに年をまたいだ。

 冷たい部屋で一人きり。その日、食べたのは確か冷え切ったコンビニ弁当だった。冷たい米粒が、いつまでも喉の奥に残っているような、そんな暮れだった。

「あら。燕くん、これってお蕎麦?」

 ぼんやりと外を眺めているうちに、気がつけばすぐそばに律子が立っていた。彼女は机の上に乗っている、小さな袋を見つめているのだ。

「ああ。年越し蕎麦の……セットになってるやつですけど。そうですね……」

 ふ、と時計を見上げれば時計はもう23時を指している。時刻を見た途端、律子の腹がぐうと鳴る。

「ああ、もう11時か……大掃除をしていたせいで、随分遅くなりました」

 慌てて袋を開ければ、中から「賀正」と書かれた紙がひらりと舞い落ちた。

 それは近所の蕎麦屋の前に売られていた、天ぷらと蕎麦のセット。大量に山積みされて売られている様を見て、ああ今日は大晦日なのだ。と、燕は思わずそれを購入していた。

 数は二つ。手の中にずっしりと食い込んだ予想外の重さに、燕は戸惑った。

 誰も見ていないというのに、気恥ずかしさに顔を俯け、やがて唇を噛みしめた。理由もなく、にやけてしまう。

 その時のことを思い出し、燕は慌てて顔をそらし台所に急ぐ。

「すごいわ、年末みたい」

「年末ですから」

 鍋を用意する燕を見て、律子は嬉しそうに付いて回る。

 大きな鍋に出汁を注ぎ込み、熱を加えて麺を入れる。それを二つの椀に取り分けると、赤の器に黄金色の汁、黒い蕎麦の美しさ。

 セットの天ぷらは少しトースターで温めて、丼に移した蕎麦に乗せるだけ。

 驚くほど簡単だというのに、出汁に触れると黄金色のエビの天ぷらがじゅ。と音を立てた。

 切った葱を上から散らしてテーブルに並べると、ふわりと出汁の湯気が立ち上る。

 それは、冷えた空気を一気にあたためた。



 出汁は透明感のある黄金色。その香りは甘い。深いところに、海の味がする。

 一口すすると出汁のあたたかさと、香りが口にいっぱいに広がった。

 天ぷらの衣は触れるだけでほろほろと崩れて、透明な出汁に油の膜が浮かぶ。そのおかげで、出汁は火傷をしそうなほどに熱々だ

 その上に、七味を散らせば赤の色が美しい。

 額に汗を浮かばせながら蕎麦をすすり、律子がしみじみ呟いた。

「すごい、私年越し蕎麦ってはじめてよ」

「……」

「どうしたの?」

「……驚いています」

 律子の言葉に、燕は呆然と箸を止めた。それほど年中行事に興味のない燕でさえ、年越し蕎麦は食べたことがあるし、誰しもそうだと思っていた。

「驚くほどのことかしら。うんと小さな頃は食べたかもしれないけど……だいたい、年越しは絵を描いていたのよ」

「お弟子さんが、いくらでも作ってくれたでしょう、昔は」

「ううん。弟子達はみんな、実家や家に帰るから、年越しはだいたい、私一人」

 燕は食べる手を、ふと止めた。この広い家に弟子が集まればさぞかし、賑やかだろう。しかしその賑やかさから一転、正月には誰もいなくなるのだ。そうなれば、ひどく静かに違い無い。

 その静けさの中で、律子は過ごしてきた。

 しかし。

「……旦那さんが、いたでしょう。昔は」 

 その言葉を吐くだけで、何故か燕のこころの奥がずきりと痛んだ。その痛みの理由は分からない。禁断の言葉のように、呟くだけで燕の深いところを傷つける。

「ううん」

 しかし、律子は気付かないのか平然と首を振った。

「あの人と過ごしたのは、春から秋まで。だから、お正月を誰かと過ごすなんて」

 その顔に一瞬浮かんだのは、複雑な色だった。彼女の目の奥、誰かの影が映ってすぐ消えた。

「燕くんが、本当に久しぶりのことなのよ」

 律子は、ふうふうと蕎麦に息を吹きかけながら、幸せそうに笑う。

 燕も、再び蕎麦を噛みしめる。蕎麦は、まだまだ熱が冷めない。この寒さの中、ここだけがあたたかい。

「暖かいご飯が美味しいって事を知ったのも、今年に入ってからの大収穫」

 蕎麦の温かさは口を伝わり胃に落ちて、手の先まで暖めるようだった。

 掃除と絵描きですっかり冷え込んでいた二人の身体は、ようやく熱を取り戻したよう。

「ずっと絵を描いてると、食べ頃を逃しちゃって。だいたい、ご飯って冷たい物だと思っていたもの」

「……ああ、そういえば僕も」

「季節ごとの料理って、本当に美味しい……って教えてくれたのも燕くんよ」

 燕もふと、思い起こす。

 幼い頃はともかくとして、大きくなってからは大晦日には絵ばかり描いていた。食事をした記憶はあまりない。それにここ数年は、女の家で年を越すばかり。

 女の家で年を越して、幸福であった記憶は一度もない。帰ってこない女を一人で待つ夜はあっても、向かい合って食事をする夜はここ数年、なかった。

 嫌な思い出が胸の中に広がり、燕は慌てて蕎麦を飲み込んだ。

「……ただし、おせちは、作りませんよ。作り方知りませんし」

「あら奇遇ね。私もよ」 

 気取った風に律子が言った瞬間、どこか遠くから鐘の音が響き渡った。この付近に寺はないはずだ。どこか遠くの音が、澄んだ空気に乗って流れてきたのだ。

 それは高く低く長く、静かに響く。 

「ほら、鐘が聞こえる」

 律子が蕎麦を食べる手を休め、耳を澄ませた。

 空気を震わせる音は、ゆったりと静かに響き渡っている。

「綺麗ね。ゆっくり、聞こえてくる。知ってる? この音は人間のもつ煩悩をはらうんですって」

 それは煩悩をはらう音だという。人間の中に眠る煩悩を、溶かす音だという。

 一年前の燕であれば、煩悩などはひとつもなかった。燕の人生を支配していた絵を描きたいという煩悩が、すっかり剥がれ落ちてしまっていたからだ。

 しかし、今はどうだ。

「あ。燕くん」

 律子がふと、壁にかけられた時計を指さす。それは燕が顔を上げた途端、ちょうど、24時に秒針が収まった。 

 何も変わらない。たった1分前と何も変わらない。しかし、確かに、何かが切り替わった。

 律子は顎を手で支えて、真っ直ぐに燕を見る。驚くほどに優しい笑顔で。

「あけまして、おめでとう」

「……おめでとうございます」

 二人で放った言葉の上に、除夜の鐘はまだ鳴り続ける。

 その音の上に、さらに律子の腹の音が重なった。

「燕くん、お蕎麦だけじゃ足りないわ」

「ああ、奇遇ですね。僕もですよ」

 立ち上がり、冷蔵庫を覗けば、そこにはどこかの弟子が贈ってきた食材が大量に、重なっている。

 野菜、肉、パン、米。どれも大量だ。特に今年は多い、と律子は笑う。

 燕の存在がいずこからか漏れたか。どの弟子も、まるで競うように贈ってくる。

 その中を探ると、白い餅が転がり出た。 

「……餅でも焼きましょうか」

「食べたい!」

 トースターで表面が焦げ上がるほどしっかり焼いて、小麦色の焦げ目に醤油を垂らす。そうすれば、皮がじゅ。と沈んで途端に漂う醤油の香り。まだ熱い間に海苔で巻いて食べれば、さぞ美味しいだろう……などと考える。

 蕎麦のおかげでどこか暖かい台所の中、餅を焼く燕の上でまだ除夜の鐘は鳴り響く。

 煩悩は、まだまだはらえそうもない。と燕は年明けの空気を吸い込んだ。

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