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空から異世界がまるごと降ってきた。  作者: 稲荷竜
二章 魔王城はなぜ暮らすのに不便な仕掛けばかりなのか?
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魔王の縄張り意識

「少し冷えるな」



 ワーズワースさんの述べたこの何気ない一言は、あとから思い返せば伏線だったのだろう。

 ともあれ、この時、僕らは相変わらず暗い城の中を歩いていた。

 広く、複雑に入り組んだお城だ。内部は崩れていたりするわけではないけれど、家具や内装がまったくないせいか、やたらと荒廃した雰囲気が漂っていた。


 僕らは三者三様の足音を立てながら進む。

 コツンコツンと僕のはいたスニーカーがたてる足音。

 ドシンドシンと妹が素足でたてる震動。

 それから、ペタンペタンと裸足の魔王がたてる足音。


 それ以外はまったくの静寂で、景色は時折人魂めいた灯りが映る程度の暗闇で、周辺家屋ではラジオやらテレビやら姿の変わった人の声やらで大騒ぎのはずなのに、城の内部だけは異世界にでも来てしまったのように周辺からは隔絶されていた。

 こういった静謐の中に放り込まれると、僕はなぜか笑いそうになるタイプの人間だ。


 そういう素養は、多かれ少なかれ、誰しも持っていると思う。

『笑ってはいけない』と言われると笑いたくなるように、ドラマなどでしばしば『泣くな』というフレーズが余計に涙を誘うように、状況に対する反抗精神とでも言うのか、人にはもともとそういったパンクな素養が備わっていると思うのだ。


 体制に対する反逆。

 染まりきった状況に対するアンチテーゼ。


 僕なんかは特にこういった精神的作用が強い人間らしく、それがしばしば『塚本くん空気読んでよね』と言われる原因になったりもするのだけれど、とにかく、この静けさは、いただけなかった。

 突然笑い出したらワーズワースさんに引かれてしまう。

 いや、この際ワーズワースさんからの評価はどうだっていいのだけれど、彼女の内部で僕の地位が下がることにより、ハナの内部でも自分の地位が下降する可能性は避けたかった。

 だから僕は、なにげなく、ただ沈黙をなくすためだけに問いかけた。



「そういえばワーズワースさんって、もともとは今の僕みたいな体だったんですよね?」



 彼女は『肉体と能力を僕に奪われた』と言っていた。

 だから、異世界における本来の彼女は、今の僕みたいな骨そのものだったことになる。


 その問いかけに、なぜだか壁の方をジッと見ていた彼女は「ん? ああ」と気のない返事をする。

 そして、なにかを探すように壁を見回しつつ、応じた。



「今の貴様より二回りは大きかったかな」

「……すごい巨大なガイコツじゃないですか」

「魔王だからな」

「胃袋とかないですけど、食事とか、そういう人らしいことはどうされたんで?」

「んー……特に……魔王だからな……」



 それさえ言っておけばすべての答えになるといわんばかりだった。

 というか僕への応対が上の空すぎる。

 彼女はさっきから壁を見過ぎだった。



「あの、ワーズワースさん、なにを探してるんですか?」

「……お、あのへんでいいかな」



 ワーズワースさんは、直角の曲がり角あたりに、小走りで向かった。

 なにかを発見したらしい。

 僕も、彼女のリードを握っている都合上、あとに続いた。

 ドシンドシンとほのかもついてくる。


 僕とほのかが顔を見合わせ、首をかしげる。

 その目の前で、ワーズワースさんは、右足をあげると、足裏を壁につける。

 そうして、力み始めた。


 なにをしようとしているのだろう?

 一見して、足で壁を押し込もうとしているようにも見える。

 しかしそういう力仕事なら、僕やほのかの方が圧倒的に向いているし、彼女は自力でできないことをそれでも自力でやり通そうとするタイプではないように思われた。


 というか、力をこめている場所が、足ではないような。

 もっと体の中心、下腹部とか、そのあたりにも――


 ここで僕に天啓が降りてくる。

 ――少し冷えるな。


 冷えた体。

 片足を上げるというポーズ。

 そして、ハナという名前の、愛犬の肉体。

 このちょうどいい石壁に対し、犬に精神を融合されつつある彼女がしようとしていることとは。



「あの、ワーズワースさん」

「なんだ」

「トイレなら家まで我慢してもらっていいですか……?」



 ――放尿。

 まさにワーズワースさんがしようとしているのは、それだと、ひらめいた。


 彼女はしばらく沈黙する。

 それから。



「……ハッ!?」



 我に返ったというような声を出す。

 僕は彼女に対し、一応の注釈をする。



「あの、外で自由気ままにオシッコしていいのは、獣だけです。人は、そんなことしません。なんでって、尊厳があるから」

「ち、違う! 違うのだ! 我にだって尊厳はある! わかっている! ただなんかこう、あんまり慣れない衝動だったもので……! 人間が面倒くさがりつつもわざわざトイレに入って用を足すことぐらい、我にもわかる! そして我は、犬よりは人だ!」

「はい。わかっていますよ。ハナのせいですよね。思考が犬に影響されたとか、そういう話ですよね? 天然で野ションしようとしたんじゃ、ないんですよね? わかっています。わかっていますから」

「本当だぞ!? 信じてくれ!」

「だから信じますよ。僕があなたを疑うわけ、ないじゃないですか。僕らの仲ですよ、そんな、疑うなんて、とんでもない」

「出会って数時間の間柄ではないか!?」

「それでも、あなたは僕の犬ですから。ああ、失礼。これじゃあまるで、ワーズワースさんが犬みたいな言い方ですね。つい。あなたの体は、僕の愛犬だと、そう言いたかったんです」

「頼むから信じてくれ!」

「だから信じてますよ。全面的に、掛け値なく、僕はあなたを信用します。疑うだなんて、そんな、まさか。あなたの世界のあなたの習慣ではなく、この世界のハナの習慣ですよね? わかってます。わかってますから、安心してください。別に、ハナの知識から『この世界の人間はマーキングをしない』と学んだのにうっかりいつもの癖で出しそうになって慌てている、みたいな想像はちっともしてないですよ。ご安心を」

「お願いだから信じて!」



 話が通じない。

 僕はこれだけ懇切丁寧にありったけの誠実さで『信じる』と言っているし、実際に彼女の発言を信じてもいるのに、なぜ彼女はこうまで必死に『信じて』と連呼するのだろう……?


 ここは彼女の気持ちになってみようじゃないか。

 たとえば僕が犬の思考に影響されて、異性の前でうっかりマーキングをしようとしたら、その恥ずかしさは言うまでもないだろう。

 死んだ方がマシとさえ、言えるかもしれない。


『マーキング』。

 その行為は、犬や他の哺乳類にとって一般的な、縄張りや支配範囲を示す行動である。僕も完全に犬のころのハナに尿をかけられたことは、少なくない数、あったりする。


 けれど、人の場合は、そうもいかないだろう。縄張りを示したければオシッコをひっかける前に土地の登記をとらなければならないし、支配範囲を示したければ『私有地』という看板でも立てて黄色と黒のロープでくくる必要がある。


 人と犬では、文化が違う。

 そんなことは誰でもわかるだろう。

 でも、人と人だって、文化が異なる場合は、あるのだ。



 人前で放尿寸前。



 その出来事は、この国ではせいぜい死にたくなるほど恥ずかしく、なおかつ猥褻物陳列罪で逮捕されかねないものでしかない。

 だが、たとえば、異世界ではまた違った基準で語られるべき問題なのかもしれないと、そういう可能性に想像を及ばせるべきだった。


『裸を見られたら結婚しなければならない』。

『左手の握手は決別を意味する』。

『人差し指と親指でわっかを作るジェスチャーは国によってはトイレという意味になる』。

 世界が違わなくとも、時代や国、コミュニティが違えば、文化も異なる。


 それを僕の側の文化だけを基準に、『信じる』で押し切ろうとしたのは、僕のミスだった。

 ワーズワースさんにはワーズワースさんの文化がある。

 彼女を家で世話しよう――そういうふうに行動しているのだから、その程度のカルチャーギャップは呑み込んでいて然るべきだった。


 あまりにも、いたらなかった。

 自分で自分が恥ずかしい。

 だから僕はもっと、彼女のいた世界のことを理解したいと思った。



「わかったよワーズワースさん。僕が悪かった」

「信じてくれるか!」

「あなたを信じるだなんて、それだけじゃ甘かった。僕らには、『世界』という大きな文化の隔たりがあることに、思いを馳せていなかった」

「う、うむ……?」

「だから、あなたの世界で、『城の前の柱にオシッコを引っかける』ことにどんな意味があるのか、できれば僕に教えていただけませんか?」

「だから! 意味なんかない! 我は犬の思考の影響を受けているだけで!」

「いいんだよ。もう、大丈夫だ。僕はあなたを受け入れる心の準備が、ようやく整った。今まであなたに対して真剣に向き合えていなかったことを、深くお詫びしたい。だから、あなたの世界をことを、僕に教えてほしい。さしあたっては、オシッコの意味を」

「ない! ないのだ! 信じてくれ!」

「ワーズワースさんがどんなことを言っても、僕は引かないよ。安心して」

「頼むから退いてくれないか!? ほのかさん、我を助けよ!」



 アイリンさんがなぜかほのかに助けを求めた。

 ほのかは慣れた動作で僕の頸椎を九十度ひねった。


 この妹、迷いがなさすぎる。

 うっかり僕が死んだらどうする気だ。



「っていうかお兄ちゃん、普通に考えてハナのせいだから。それとも魔王ちゃんをいじめて喜んでるの? 変態なの?」

「いや、僕も最初はワーズワースさんの言葉を信じたんだけど、彼女があんまりにも『信じて』を連呼するものだから、ちょっと深読みして気を遣ってみたんだよ」

「……お兄ちゃんが素直だと、妙にうさんくさいからね」

「僕は動作がおっさんくさいと言われたことはあっても、うさんくさいと正面から人に言われたことは人生で一度もない」

「正面からうさんくさいって言ってくれるほど、仲のいい友達がいなかったんだね……」



 なんだか一連のやりとりは、僕がかわいそうという話でまとまりつつあった。

 もうなんでもいいから僕の頸椎をどうにかしてくれ。

 このままじゃ寝違えそうだ。



「とにかく! 我にだって、犬の常識と人の常識はなんとなく区別がつくわ! 我の世界の者も人前で放尿などせん! 人も魔も、同様だ!」



 ワーズワースさんは真っ赤な顔でわめき散らす。

 それから、手の甲を舐めつつ、ぶつぶつとつぶやいた。



「くそう……早く……早く、自分の体に戻らねば……! 急ぐぞ二人とも! 我が謁見の間はここからそう遠くない!」



 駆け出すワーズワースさん。

 僕も彼女にリードで引っぱられながら、足を速める。


 しかし……

 ワーズワースさん。

 駆け出す時に迷いなく四足歩行になる時点で、もう色々手遅れな気がするんだよね。


 そんなふうに悲しみをおぼえつつ、僕らは進む。

 もうすぐ目的地らしい。

 長いような短いような魔王城探索も、じきに終わるだろう。

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