第89話 混沌へようこそ
間を置かずに外が騒がしくなってきた。
辺境伯の別荘のある方角だ。
何かが壊れる音や、複数人の怒声、明らかな戦闘音が聞こえてくる。
店内の客は怪訝そうに顔を見合わせる。
閉店の抗議をする者はいなくなっていた。
誰もが嫌な予感を覚えて、そそくさと身支度を行う。
俺はその様子を眺めながら指示を出した。
「ちょうど始まったな。早くテーブルをどけろ」
頭上で轟音が鳴り響いた。
屋根が軋んで割れる音がした直後、天井に亀裂が走る。
声を上げた客が急いで退避する。
木材を突き破って落下してきたのは、青白い鎧を着た男だった。
渡された資料で見た顔――統括騎士ソグである。
彼に圧し掛かってしがみつくのはギルドマスターのアレックスだ。
二人はテーブルを押し潰し、衝撃で床を陥没させながら転がる。
いち早く起き上がったのはアレックスだった。
ソグは落下の痛みで倒れているというのにピンピンしている。
アレックスは木屑を払って俺に話しかけてきた。
「グレンさん! 統括騎士のソグ・ナハスさんをお連れしました!」
「ああ、よくやった」
別荘で行われた停戦条約の締結にはアレックスも同席していた。
国営組織ではない中立の立場である冒険者ギルドが、進行役として抜擢されたのだ。
ギルドマスターのアレックスは責任者として相応しいと言えよう。
実際、冒険者ギルドは中立的だ。
たとえギアレスに支部を構えていても、領主の辺境伯を贔屓にしてはいけない。
ノエルがアレックスの懐柔を試みたものの、あっさり失敗したことも聞いていた。
リターナの投薬で化け物じみた肉体になってしまったが、職務に対する真摯な姿勢は変わっていないのである。
しかし、何事にも抜け道はある。
条約締結の舞台を別荘に移した後、俺はアレックスに接触した。
そこで彼にこう伝えたのだ。
隣国の責任者に俺の自慢の店に招待したい。
渋られるかもしれないが、ここは迷宮の歴史と共に成長してきた。
その証をぜひ満喫してもらいたい。
建前だらけの頼み事だった。
言葉の裏に悪意を込めていたが、アレックスは気付かないと思った。
きっと俺の望む通りに動いてくれると確信していた。
店への招待は条約締結とは何も関係ない。
言ってしまえば善意の宣伝である。
つまりギルドの立場が断る理由にはなり得ない。
脳まで筋肉に汚染されて正常な倫理観を失ったアレックスならば、隣国側の事情を無視して豪快に招待してくれると期待していた。
そして現在、彼は完璧な状況を作り出してくれた。
条約締結という罠を張り、首謀者のソグを街へおびき寄せた。
さらにアレックスの習性を利用し、強引に店内へと導いた。
作戦はどれも成功した。
あとは思う存分、叩き潰すだけだ。




