グラビティ・デイズ(2) ──「敵はどこに!?」
同刻、首都第一銀行ビル。
俺と叡は階段の手すりを慎重に掴みながら、フラッシュライトの明かりを頼りに二階のオフィスへと上がっていく。外の大通りの状況を、見下ろして確かめるためだ。
重力が消えたせいで身体は羽根のように身軽で、慣れた重装備の重さを全く感じず、かえって気持ちが悪い。三半規管も狂ってしまいそうだ。
「叡……さっきのように天井で頭を打ちたくないなら、手すりを放すなよ。ちょっとした拍子で浮くぞ」
「大丈夫。もう分かってるから……」
叡は痛む頭を庇いながら、コクコクと頷く。
「うええ……身体がフワフワして気持ちが悪いぜ。目も回る。頭が変になりそうだ」
後ろで、古淵が泣き言を言い始める。
「僕の前で吐くんじゃないぞ。ゲロの塊が宙を漂うなんて想像したくもない……」
半田がげんなりして言い、宮潟も同調して突っかかる。
「古淵、空挺降下だって経験してるでしょ? これくらい何よ?」
すると、代わりに柚岐谷が答えた。
「仕方のないことですよ……空中でも水中でも重力はあるんですから、今とは全然違います。それに、何もない宇宙空間ならまだしも、この日常の風景が無重力になっているんですから、気味が悪いことこの上ありません」
どうにか二階へ上がると、やはり、書類やコンピューターなどありとあらゆる物が宙に浮き上がった、奇怪な光景が広がっている。
ウインドウ越しに外を見ると、多数の装甲車が目の前を浮遊していた。予想の範疇の事とはいえ、現実に見ると驚かされる。その周囲には、瓦礫や、死体も浮いて漂っている。
「叡……外は見ない方がいいぞ」
「別に、大丈夫。ボクは慣れてる。医学の勉強をしてると、もっと色んなものを見るから」
「……はぁ、本当に大したもんだな」
柚岐谷の話では、このビルの窓には強固な防弾防炎ガラスが用いられており、あの竜の体当たりや火炎放射程度ではビクともしないとのことだ。
つまりこのビルに居る限り、彼女の言う通り、当面の間の安全は確保されるということだ。
しかし、俺たちには任務がある。ここに留まり続けるわけにはいかない。
「私は今のうちに、守衛室で役立つ武器か防具がないか探してきます」
俺はぎょっとして、頭上を見上げる。天井に張り付いた柚岐谷が、俺を見下ろしていた。
「なるほど。都心の銀行の警備員なら、少しは良い物を持っているかもしれない。宮潟、一緒に行ってくれ」
「分かったわ。ちなみに、選り取り見取りだと思うけど、どんな物が欲しいかしら?」
「行動力を損ねない、軽量な盾があると良い。あとは、判断に任せる。武器は、飛び道具が何かあればいいと思うが……銃より役立つものは期待できないかもな。警察官ではない警備員の装備には、厳しい制約がある」
「まったく……ショットガンくらい許可してほしいものだわ。じゃあ行ってくるわね」
二人は宙を器用に泳いで、オフィスを抜けて守衛室に向かっていく。
それを見届けてから視線を戻すと、半田の背中に顔色の悪い古淵が掴まっていた。
「古淵! 僕を掴むな! 気色悪いぞ……!」
「ちょっとくらい良いだろ、こうして何かに掴まってた方が少しは安心できんだよ……」
「だからって僕を掴むなよ……!」
俺は溜息をついて「やれやれ」とこぼした時、首筋にちりっとした妙な感触を覚えた。
視線────?
振り返って、ウインドウの外を見る。
「……あっ!」
真紅の日傘を差した、若いメイドが宙に立っていた。
前下がりの黒髪ショートカットで、赤いヘッドドレスと、ゴスロリ風の赤い服を着ている。
穏やかな笑顔を浮かべ、猫のような妖しげな瞳で俺を見つめていた。
俺は自分の視界に映ったものを理解できず、目を一度擦ってから、再び外を見た。
しかしその場所には、もう何者の姿も無かった。
「敵だ! こっちの位置を知られた……!」
俺はHK416を構えながら、窓を離れる。
「宰河さん! 敵はどこに!?」
「見失った。だが、俺を確かに見ていた。人型の奴だ。若い女で、『日傘』を持っていた」
東京テレポーターに現れ、SAT第一小隊を壊滅に追いやった、異世界の親善大使を自称した『ミイ』という女。
今さっき見えたのは、その仲間に違いない。
『日傘』というキーワードに、半田と古淵も状況を察して表情を緊張させる。
「今度は僕たちを八つ裂きにしようってのか……。良い度胸だ、やってやる……」
半田はM27IARのセフティを解除し、身に着けたスタングレネードをすぐ使えるように確かめた。
「古淵、モーショントラッカーを出せ! 壊れてないよな?」
「大丈夫だ、使える」
古淵はバックパックからM7動体探知器を取り出して、宙にフワリと投げて寄越した。
「奴らには、自分の身体を透明化できる能力がある。だが、これを使えば見破れるかもしれない。二十メートル以内なら、動体を検知できる」
「けどなぁ、小隊長どの。こんな状態で役に立つのか? 周りはポルターガイストも真っ青なくらい色んな物が浮遊して飛び回ってる。それが邪魔になって、正確に探れない気がするんだが……」
「忘れたのか? これは、動体の温度も検知できる。奴らに体温があるなら、識別できる」
俺はM7動体探知器を起動して構え、半円型のレーダー画面を注視する。
古淵の指摘の通り、オフィス内のあらゆる浮遊物まで感知されているが、物体の温度はサーモグラフィーのように色分けされて表示されるため、それが生体かどうかはある程度判るようになっている。
この周辺に異常が無いか、一通り確かめようとした時。
────!?
俺は驚愕に目を剥いて、改めて画面を注視する。
見間違いではない。
「どうしたの?」
宙を泳いでいた叡が、首を傾げる。
「……何でもない。この辺りに妙な反応は、無かった。今のところ、安全だ」
この目で見たものをどう対処して良いかが思いつかず、俺は咄嗟に嘘をついた。
「小隊長どの、こっちに戻してくれ。一応、俺も確認してみよう」
古淵がM7動体探知器を求めて手を伸ばすが、俺は首を横に振って拒む。
「いや、それよりここを早く離れるのが先決だ……。奴らが仲間を引き連れて戻ってくるかもしれない。ここが安全な内に、早く移動しよう」
「ん? ああ……小隊長どのがそう言うなら、文句はないが……」
その時、空気が激しく波打つような感覚が襲った。
みるみるうちに、身体が天井の方へ吸い上げられていき、俺たちは浮遊物もろともそこに叩きつけられた。
咄嗟に起き上がって窓の外を見ると、大通りを浮いていた装甲車たちが、次々と落ちていく。地面ではなく、天空の方へと。
宙に浮いた全ての物が、漆黒の空へ吸い落とされている。
「嘘だろ、畜生……!!」
天地が逆転し、今は床となった天井を踏みながら、俺は愕然として呼吸を震わせた。





