ワールドエンド ──「もう、何も考えたくない」
────誰か、助けてくれ……!
篠巻拓弥は、闇の中で一人だった。
叫ぼうとするが、声が出ない。干乾びた息が、喉から掠れて出るばかりだ。
腰まで、赤色の液体に浸かっている。
手に取って掬い上げて確かめると、鉄の臭いがして、生暖かい。これは、鮮血だ。
────誰か……!
篠巻は、闇に包まれた血の池の中を、無我夢中で進み続ける。
やがて前方から、何かがゆらゆらと流れてくるのが見えた。それは大きな黒いバッグのようだ。
何か役立つものが入っているかもしれない。篠巻は近づいて、バッグを掴む。
すると、それは水面でゆっくりとひっくり返った。
篠巻は声にならない悲鳴を上げた。
腐敗した死体。ガンケースを背負った、死体だ。
腹部にはショットガンの散弾を浴びた凄惨な傷があり、そこから黒い鉛玉が混じりの損壊した腸をあふれさせている。
その死体の顔は、篠巻拓弥の顔そのものだった。眼球は無くなって、白いウジ虫が蠢いている。
篠巻は恐怖で無言の叫びを上げながら、死体から逃げようとする。
だが、その先にも死体があった。ショットガンの銃口を口に咥え、自らの頭の半分を撃ち砕いて死んでいる。
気付いた時には、無数の死体が篠巻を囲んでいた。
手足を切断された死体。顔面を幾つもの銃弾で潰された死体。全身を焼かれた死体。大量の鎌が身体に突き刺さった死体。
どの死体も、篠巻と同じ顔をしている。
地獄。この場所は、地獄だ。
急に、大きな揺れが起こった。
血の池が波打って、死体が次々と沈んでいく。
出し抜けに、足首を強く掴まれる感触。
抵抗する間もなく、篠巻は血の池の底に引き摺り込まれた。
視界が真っ赤に染まり、息をしようともがく口に、大量の血が流れ込んでくる。
たちまち、身体の中から激痛が襲う。鋭い牙が臓物に喰らい付いているような痛み。
血が、この身体を喰い殺そうとしている。
────助けて……!助けてくれ……!!死にたくない!!
激痛が全身に回るにつれ、意識が遠のくどころか、より鮮明になって、煉獄の苦痛が続く。
────────助けてくれ……──蓮華!!
唐突に、目の前が暗転し、今度は転落する感覚が襲った。
落下しながら、地面が迫ってくるのを感じる。
「ああああぁあああああああああああ────!!」
ついに、声が出た。
衝突。
額に痛みが弾けて、眼前に白い火花が散った。
目を開く。
ぼやけて滲んだ視界が、急速に鮮明になった。
頬にひんやりした感触が当たっている。木材調のフローリング床だ。
……ここは、どこだ?
うつ伏せに倒れたまま、周囲の様子を伺う。
暖色の照明が灯る、洋風の寝室。こんな場所に見覚えはない。
床が、ゆったりと揺れ続けている感覚がある。頭が重く、痛みが引かない。眩暈が続いているようだ。
身体を起こそうとして、気付く。手に、乾いた血がべっとりとこびり付いていた。
手だけではない。全身、血まみれだ。
……まだ、自分は悪夢の中に居るのか。
慎重に立ち上がって見ると、すぐ傍に豪華なダブルベッドがあった。自分は、ここから転げ落ちたに違いない。
視線を移していって、篠巻はギョッとする。
血の付いた大量の銃火器が床に乱雑に置かれている。
見覚えがある。これは、SATや銃器対策部隊が持っていたはずの銃だ。ざっと見て、十三挺。予備の弾も置かれている。
M&P9ピストルを拾って、マガジンを抜くと、9ミリパラベラム弾が装填されている。オモチャではない。
マガジンを銃にセットし直して、スライドを思い切り引くと、装填済みの弾がチャキンッと一発排莢された。
今の自分は、救急隊や警察に保護されているというわけではなさそうだ。それならば、いったい誰が。
銃をしっかりと握り締めて、辺りを警戒する。人の気配はない。
床が揺れる感覚は、未だに続いている。
耳を澄ますと、どういうわけか、波の音が聞こえた。
……まさか。
篠巻はM&P9を構えながら寝室を出る。
明かりが灯る無人の豪華なラウンジ。使われた形跡はなく小綺麗で、ここにも人の気配はない。
短めの階段があり、篠巻はそれをゆっくりと上り、突き当りのドアを開いた。
夜空が見え、冷たい湿った風が吹き込んでくる。
篠巻は、ふらふらと歩み出ると、その先の手すりを掴み、力なく息を吐いた。
目の前には、黒い水を湛えた海……東京湾。
ここは、船の上だ。
自分はいつの間にか、クルーザーに載せられているのだ。
遠くに、お台場の夜景が見える。もはや、泳いで行けるような距離ではない。
あまりにも多くの事が起こり過ぎた。事態は、篠巻の脳が受け止めきれる許容量を超えていた。
思考することに疲れた篠巻は、M&P9を海に投げ捨てた。
手すりに凭れ掛かり、ぼんやりと遠い目で夜景を眺め続ける。
「……どうですか、綺麗な夜景ですよね」
すぐ背後から、ひどく懐かしく感じる声が聞こえた。
篠巻は後ろを振り返ることなく、力なく笑った。
「まぁ、そうだな……」
「これも、私の夢のひとつだったんですよ。篠巻くんと二人きりで、誰にも邪魔されない船の上で、静かなクリスマスを迎える……すごくロマンチックじゃないですか?」
「……まぁ、そうかもな」
「だから、ちょっと強引ですけど、連れてきちゃったんですよ」
「へぇ……」
篠巻は、細い息を吐いた。
寒さの中で、息は白く変わり、黒い海の向こうへと融けていく。
「蓮華……きみは、いったい何者なんだ?」
「だいたい、篠巻くんが予想している通りですよ」
「今……首は、どうなってる。あいつに、切り落とされた瞬間を、確かに見た……」
「ふふ、どうなってると思いますか? 振り返ってくれたら、分かりますよ」
「……いや、止めておこうかな」
「えぇ? 冷たいですね。私のこと、嫌いになっちゃいましたか?」
「そうじゃない。蓮華のことは……今でも好きだ。けど……俺は、疲れたんだ。もう、何も考えたくない」
「疲れたんですか? 寝ちゃだめですよ。これから、篠巻くんと私の念願のラブラブ子作りタイムが始まるんですから」
「……その話、まだ続いていたのか」
「子供何人ほしいか、まだ聞いてませんでしたよ。とりあえず満足するまで沢山つくるってことで良いんですよね?」
「からかってるとかじゃなくて……まさか、本気で?」
「そうですよ。それだけ、私は篠巻くんのことが大好きなんですからね」
後ろで唐突に、ごきっ、ぐちっ、と骨肉を折る音が聞こえたかと思うと、太い蛇のような生暖かい何かが身体に巻き付いた。
蠕動する、黒い触手。
その先端は、身体を優しく締め上げながら眼前まで這い登ってきて、花弁のような生物の口に変形し、中からミミズのような三本の舌を出して、篠巻の頬についた血をチロチロと舐め始めた。
「……聞くけど……こんなことは許されるのか? 敵である人間を偵察し、あいつらの侵攻を助けるのが、君の役目だろ」
黒い触手になすがままにされながら、篠巻は諦観の表情で尋ねる。
「これは、裏切りにはならないのか」
すると、蓮華は迷わず答える。
「心配してくれてるんですか? 別に、大丈夫ですよ。他にも代わりはいっぱい居ますし。中には、国防軍、警察、あのSATにだって潜り込んだ凄腕も居るそうですからね。
私なんて、大した情報も見つけられなかったし、あっちに戻っても良い待遇は受けられないでしょうね。
今日が侵攻開始の日だと知らされてもいませんでした。人間もろともまとめて処分する気だったんでしょうかね。
それだったら、大好きな篠巻くんと子作りしていた方が何百万倍も幸せなんです」
「そもそも……どうして、そこまでして、俺のことが好きなんだ……? 俺は人間だ……君は、違う」
「……私の種族は、日本語で『影子』と言うんですが、擬態に特化した能力を持つ、いわゆるスパイとして重宝される種族なんですよ。
私は……お母さんに軍隊へ売られちゃって、参加することになったんです。元々、話すことも上手くないですし、大した特技があるわけでもないですし……こんな任務に適性は全然ありませんでした。だから、だいぶ痛めつけられましたよ」
篠巻は、黙って聞き続ける。
「それから、あの東京テレポーターが作り出す時空の巨大な歪みを利用して、この世界に潜り込みました。
ただ……そこで奪った身体が悪かったです。悪行の限りを尽くして転校を間近に控えた中学生の女の子です。その子の両親から、身に覚えのない罪を責め立てられ、毎日ぶん殴られました。
穏便に始末して他の人間に乗り換えられるほど器用ではなかったので、ひたすら耐えました。
……侵攻が開始されたら、迷わず皆殺しにしてやるってずっと思ってましたよ」
身体に絡まる触手が、ギュッと強まった。
「でも、篠巻くんに出会えました。篠巻くんは、私を守ってくれました。クラスメイトのイジメや両親の虐待から、ずっと守ってくれました。本当に、大好きです。大好きなんです」
触手によって、船内へずるずると引っ張られていく。
篠巻は、ふと自分の身体の異様な冷たさに気付いて、自分の右手の脈拍を確かめた。
脈が無い。
自分は、人間としては死亡したようだ。
そして、彼女によって別の『何か』として蘇らされたのだろう。
もう、自分は人間の世界に戻ることはできない。そう悟った。
「ここなら安全です。これから大規模な攻撃が始まりますが、私たちには関係ありません。一晩中……いや、ずっとずっと……ふしだらにイチャイチャしてましょうね。今度は、私が篠巻くんを守ってあげますからね」
とうとう寝室に連れ込まれてしまう。
「ボーッとして、どうしたんですか? お風呂入りたいんですか? 私は、血でトッピングされた篠巻くんの方が好きなんです。心配しなくても、いっぱい気持ちよくしてあげますよ。私もはじめてですけど、エッチな本とか読んでたくさん勉強したんですからね。篠巻くんも、私を好きなように弄んでいいですよ。私を守ってくれたお礼です。篠巻くーん……疲れてるんですか? それなら、私がいっぱいしてあげますからね。ほら、脱がしてあげますよ」
────俺は……東京は……いったいどうなってしまうのだろうか。
遠くで、連続した爆発音が聞こえてきた。
陸の方で、爆発が起こったようだ。
暖かく心地よい黒い触手に包まれながら、そのうち、篠巻拓弥は考えるのを止めた。





