ノアズ・アークの漂流 (2) ──「誰か……誰か、いないか……」
不快な闇の底から、ゆっくりと意識が浮上する。
小野寺は目を開いた。
待ち構えていたのは、漆黒の闇。
肺に溜まる澱んだ空気を吐き出して、何度も瞬きをしてみる。
しかし、景色は何も変わらない。
まさか、自分は死んだのか。
ここは死後の世界なのか。
不穏な考えが頭を過ぎるが、手探りで自分の顔を両手で触り、これは確かに現実の感触だと認識する。
どれだけの時間、意識を失っていたのだろう。
今、自分はどうなっているのか。
身体を探り、きつく締められたシートベルトを掴む。
ノアズ・アークの船内だ。
それは間違いない。
頭がひどく痛い。
血の巡りが、何か妙だ。
身体が、常に上へ引っ張られているような感覚。
「誰か……誰か、いないか……」
小野寺の絞り出した声は、すっかり干乾びていた。
「おい……返事をしてくれ……!」
返答は無い。
「……うぅ……クソッ……」
小野寺は、シートベルトのロックを掴んで、解除した。
すると急に、小野寺の身体は上方へ浮き上がった。
「うわっ!!」
頭をしたたかに打ち付けて、眼前に白い火花の幻影が散った。小野寺はその場にうつ伏せに倒れ込む。
手の平に、冷たい床の感触。ざらざらしている。
どこか、違和感があった。正体は分からない。
小野寺は倒れたまま呻くように呼吸をして、腰に下げたシュアファイア社製のフラッシュライトを取り出す。
スイッチを押すが、何故か点灯しない。
電池切れではないはずだ。
装備点検の際に、故障がないことを確認したのだから。
「ちく、しょう……何が起こってんだ……」
ノアズ・アークの船内には窓というものが無い。
照明が全て落ちれば真の闇だ。
急な停電が発生した際には、非常電源により照明は維持されるシステムになっているはずだが、この状況はどう見てもそんなもの機能していない。
小野寺はタクティカルベストの胸ポケットから、オイルライターを取り出した。
かつて付き合っていた恋人から貰った、誕生日プレゼント。
その恋人にはとっくにフラれ、タバコも二年前から禁煙し全く吸っていないが、お守り代わりに未練たらしく持ち続けていたライターだ。
蓋を親指でカキンと弾いて開き、ライターの火を着ける。
「……おい、何だよ、これ……」
橙色のか弱い光で、部屋を照らし上げる。
いま自分が座っていたはずの座席が、上下逆になって、天井にあった。
意識を失っている綾継たちも、天井の座席に逆様でシートベルトによって固定されている。
全ての物が、上下逆になっていた。
「……冗談じゃない」
小野寺は、『床』に散らかったUNOカードを拾い、穴が開くほど凝視する。
元の天井が今は『床』に、元の床は『天井』になっている。
まるで天地が逆転してしまっているのだ。
ノアズ・アークは宇宙船のようなデザインをしているだけで、実際は頑丈な支柱で支えられているエレベーターのようなものに過ぎない。
それが今、上下反転してしまっているというのは、どういうことだ。
何かの事故で支柱が外れ、ノアズ・アークがテレポーターの穴の底へと落下してしまったのだろうか。
そうだとすると、これは尋常ではない。
頭上から、呻き声が聞こえた。
綾継が目を覚ましたようだ。
彼は苦痛に表情を歪めながら、ゆっくりと辺りを見回し、それから頭上を見上げて、『床』となった天井に座り込んだ小野寺と目を合わせた。
綾継がこの世で最も恐れているのは、幽霊だ。
彼がその目から認識したのは、『天井に張り付いている小野寺』であった。
綾継は、今まで全く聞いたことのない女の子のような悲鳴を上げた。





