45 そして世界は、
支えを失った身体が、重力に従って大木の頂から落ちる。
精霊術、魔術と酷使した身体は疲労がたまりすぎて、自力で動かすことは叶わなかった。
達成感と脱力感でいっぱいのフェイは、青々とした草原へと落下していく。
―――だが地面に衝突する寸前、フェイの身体は温かな腕の中へと抱き留められた。
重さでよろけたリゲルは草原に尻餅をついてしまう。それでもフェイの拘束を緩めることはなく、愛おしげに腕の力を強めた。
「フェイ……」
頬に大きな手が宛がわられ、緩く瞳を開ける。
綺麗な蒼い瞳が、涙を溜めながらフェイを映していた。
彼が生きていることに、ああ、よかったと、フェイは安堵したように微笑む。
身体から跡形もなく消えていく刻印が、真に悪魔メフィストフェレスが消滅したことを示していた。
呪縛から解き放たれたフェイは、晴れた心と共にリゲルを見上げる。
「終わったね」
「……っ」
返す言葉が見つからず、リゲルは身体を丸めてフェイに覆いかぶさった。
頬を撫でる手の優しさと、唇にあたる温もりに、開きかけていた瞳を再度閉じる。
触れるだけの口づけは、震えていて、涙でしょっぱく感じた。
互いに離れがたくて、ずっとこうしていたいと願ってしまう。
「……好きだよ、好きだ……フェイ」
「そればっかり……ん、」
思わず笑みを零したフェイの口を、もう一度塞ぐ。
髪を撫でるリゲルの大きな手が、心地いい。
肌で感じる温もりに、とても安心する。
ずっとずっと、守りたいと思う。
―――そうだ。ずっとずっと、見守っていく。
涙が頬に落ち、こらきれずに息を漏らしたリゲルを見上げる。
たぶん、分かっているのだろう。
「……っ、フェイ、俺……!」
「大丈夫、私が守っていくから……もう大丈夫」
心穏やかに、そう言えた。
寂しさもない。悲しみもない。あるのは満ち足りた幸福だ。
フェイは満面の笑みを浮かべると、淡い光を身体に宿す。ふわふわとした感覚と共に、フェイの身体から力が抜けていった。
「待って……っ! フェイ、」
腕の中にあった重みがふっと消えたことに目を開く。縋るリゲルがフェイの手を掴もうとするが、すり抜け空を切るだけだった。
その光景に、駆け寄ってきたアレットや十二勇将、そしてレオ皇子が驚きに目を丸くしている。
淡い光は全身を包み込み、やがてエルが消えたときのように、徐々に粒子と化して空へ消えていく。
「いやだ―――いやだよ……。俺、お前に傷負わせた罪滅ぼしも、なにもできていない。お前を傷つけてばっかりだ」
懺悔する言葉に、フェイはゆっくりと首を振る。
「そんなことない。あれは悪魔のせいだもの……リゲルはなにも悪くない。それに、リゲルがいてくれたから……私、ここまでがんばれた」
とても、穏やかな気持ちだった。
温かくて、優しくて、愛おしくてたまらない。きっとこの気持ちは、これから先、何年、何百年経ったって忘れることはない。
―――フェイの身体が、光に溶けていく。その光景を目に焼き付けながら、リゲルは留めることはできないと覚悟した。
涙を流しながら、もはや掴むことはできないフェイの手へ、己が手を重ねる。
もう体温もなにも感じられない。だが確かにそこから伝わる慈しみに、フェイはリゲルの手をそっと握り返した。
「……貴女の剣となり、盾となり、この魂眠るときまで主君に捧ぐ」
それは、かつてリゲルが口にした騎士の誓いだ。
何かを言おうとしたフェイの言葉を遮って、リゲルは確固たる決意で告げる。
「騎士リゲル・ローラン。誓いを結び、気高き貴女に忠誠を」
「……俺も誓いを」
声が降り注いだ方へ目を向ければ、そこには傷だらけのアレットが佇んでいた。
己が剣を胸に掲げ、瞳を伏せながら声を絞り出す。
「我が剣の誇りは、未来永劫主の為に―――」
その言葉に続くように、フェイの周囲から剣を掲げる音が聞こえてくる。
この場にいた十二勇将各々が、固い意志をもってフェイに誓いを捧げていた。
「……っ、」
―――ああ、これが本当の終幕だ。
思わずフェイは、粒子と化していく中で涙を溢れさせた。今までの出来事を思い返し、この光景に結びついたことが奇跡のように思う。
悲劇ではなかった。悪魔が幕開けした物語は、決して悲劇ではなかったのだ。
フェイは泣き顔から満ち足りた微笑みへと変えると、彼らの誓いに答えた。
「―――……その忠義を永遠に忘れず、信実もって……応え続けます」
その答えを最期に、フェイは光の粒子となって風に舞いあがっていく。
腕の中から消えた温もりに、リゲルは嗚咽を漏らし泣き喚いた。
***
フェイは、己の持つリリスの魂を用いて、世界を構築する要となった。
最後に望んだことは、『世界を続けていくこと』。間違った世界でもなく、出来損ないの人間でもなく、ひとつの完成された世界として未来を切り開くことだった。
故に、自らの魂を礎として、滅びかけていた世界を保つことにしたのだ。
遠い、遠い歴史を歩んできた魂には、神に匹敵する力が秘められている。無条件で精霊に愛される魂は、これ以上ないほどに世界に馴染んだ。
それによってルシファーは檻を保つことを止め、世界から離れた。
神話の歴史を紡ぐ為に、止まっていた彼もまた進み始めたのだ。
だが世界を構成するに必要な力だけを残し、ルシファーの恩寵を失った人間は精霊術も魔術も扱えなくなってしまう。
世界中で戸惑いの声が上がり、混乱極まった。
―――数少ない真実を知る者を中心に、世界はいま、変革の時代を迎えたのだ。
今日中に最終話更新させて頂きます。




