10 幸せだった日の、夢。
―――夢を、見た。
懐かしい夢だ。
「お嬢様、お嬢様」
パタパタと軽い足取りで、メイドが慌てた声を掛けてくる。
それに足を止め振り返ったフェイ―――いいや、フェリス=ブランシャールは、長い翠の髪を揺らした。
「どうしたのです、そんなに慌てて」
「第一皇子が、レオ皇子がお見えになってます」
「まあ……執務でお忙しいはずなのに、どうしたのかしら」
メイドの慌てぶりに納得し、フェリスはすぐさま皇子の待つ客間へと向かう。
いつも忙しくしていたレオ皇子は、たとえ婚約を結んだとしてもなかなか会うことのできない方だった。
皇帝と正妻との間に出来たレオ皇子は、妾達のどの子供よりも優秀で、有能で、国を尊ぶ素晴らしい人物だった。国の為であるのなら、民の為であるのなら、常に最善の選択をしようと努力する姿を、フェリスは心の底から尊敬すると共に、傍で支えたいと願うようになった。
客間に辿り着けば、優雅に紅茶を嗜む皇子の姿を前にして、心臓が忙しく動く。
「レオ皇子……お待たせして申し訳ございません。いかがされたのです?」
「特に用はない。時間が空いたのでな、お前に会いに来た」
慈愛の瞳を向けられ、フェリスは頬を染めた。
レオ皇子はメイドを下がらせると、フェリスへ近づきその身を腕に収める。
「お、皇子……」
「すまない、忙しかったか?」
「いえ、皇子ほどは忙しくありません」
「ならば、しばし良いだろうか? ああ……お前は本当に、抱き心地が良い……疲れが吹き飛ぶようだ」
ぐっと腕に力が籠る。
フェリスは戸惑いながらも、大人しく皇子の胸に身を預け、その温もりを感じた。
「お前の髪は、いつ見ても美しい……」
そう言って皇子は、フェリスの髪をゆっくり、優しく撫でる。
風の精霊の加護を受けた髪を、皇子は誰よりも慈しんだ。かつては人とは違う髪を気にし、なんとか色を変えられないものかと試行錯誤したこともあったのだが、皇子と出逢い、皇子に美しいと言われる度に、フェリスは自分の髪を愛することができるようになった。
「レオ皇子……」
温く満たされる気持ちを込め、囁くように名を呼ぶ。
フェリスの華奢な身体を抱きながら、皇子は呟くように告げた。
「……これから、しばらくの間会えぬかもしれない……」
「なにか、あったのです……?」
誰にも聞こえないよう、声を落として聞き返す。執務に関して迷いがあるとき、不安があるとき、皇子はいつもフェリスだけに話してくれていた。
きっとメイドを下がらせたのも、そのためだったのだろう。
皇子はフェリスの髪を撫でながら、淡々とした口調で応えた。その中に、僅かな不安を隠しながら。
「……うむ、実はな……父上が『神降ろしの儀』を行うと―――その準備を、しているのだ。戦の状況もなかなか好転できなくてな、焦っているのだろう」
「伝承にある儀式のことですね。ですが、今まで成功した例はないと……」
「ああ、俺もそう進言した。だが、……きっと、気が触れてらっしゃるのだ。父上も、先代も。この戦だって、敵国に何の落ち度もない。ただ領地拡大が目的の戦だ。民を巻き込み、多くの人を死なせ、それでたとえ拡大した領地に、誰が住まうという。それだけの民が、どこに残っているという。今回だってそうだ。そのような、古い話を信じるような方ではなかったというのに……!」
言い知れない不安を伝えるように、フェリスの背に回された腕に力が籠る。
「父上の気が済むのならと、儀式の運びを手伝ってはいたが……まさか生贄など……っ!」
「―――え?」
生贄、という穏やかではない言葉に、咄嗟に声を漏らす。しかし皇子は、そのことに言及はしなかった。どこか避けているようにも感じた。
「俺は、恐ろしいのだ……っ! 俺もいずれ皇帝となれば、先代や父上のように、気を狂わせてしまうのかもしれないと……っ! 俺は、俺は―――」
「皇子……」
声を荒げる彼は、心底怯えていた。
フェリスは将来のためと、彼の仕事の補佐をさせてもらっているが、それだって微々たるものだ。彼と並んで立ち、同じものに苦しめない無力さに歯痒く思っていた。
けれど、今この時だけでも、彼の苦悩を取り除いて差し上げたい。フェリスは心の底から願い、皇子の背にそっと腕を回し、優しく力を込めた。
「―――皇子、レオ皇子。私の大切な君。大丈夫です、私がおります」
「フェリス……」
「たとえ、どれほどの苦しみ、悲しみがあろうとも、私がお傍で貴方を支えます。この国の太陽であるレオ皇子が陰るのであれば、私は風を吹かせ、陰りを取り払いましょう。だから皇子、安心なさって。貴方の輝きは、何があろうと失われません」
ただまっすぐに、想いを伝える。
それこそが自分の役割だと、噛み締めるように。
皇子は身を剥がし、フェリスを真っ直ぐに見つめると、優しく瞳を細め再び強く抱きしめた。
「ああ、フェリス……! 君が私の伴侶で良かった」
「ま、まだ伴侶ではございません……っ!」
「いいや、もう立派な伴侶だ! 君を生み育てた侯爵夫妻に、私は礼をせねばならないな!」
レオ皇子が笑顔を取り戻したことに、フェリスは彼の言葉に恥ずかしさを覚えながらも、純粋に喜んだ。
太陽の温かさを持つレオ皇子。爽やかな笑顔は、見た人を同じ顔にさせてみせる、魔法のような人。
幸せな時間。
幸せだった頃。
―――最後と知らなかった、幸せ。
救世主が召喚されてから、レオ皇子は変わり果ててしまった。
面会は全て拒絶され、同じ城内にて職務補佐をしていても、すれ違うことすらなくなった。
久しぶりに彼の顔を見ることができたのは、あの事件のときだ。
あの雨の日。
彼は救世主と共に身を寄せ合い、まるで憎悪の対象とばかりにフェリスを睨んでいた。
『観念するんだ、ブランシャール侯爵令嬢……いや、もう『侯爵令嬢』などではないな。お前はただの罪人だ!』
そう言い放った、あの目を忘れることはできない。
太陽の姿を拝むことも出来なかったあの日、すべてが終わりを告げたのだ。
彼が愛でた髪も、彼の傍に居ることを許されていた身分も、何もかも。
ただ、絶望でしかなかった。彼の叩きつけるような、嫌悪を露わとした言葉の数々は、ただ絶望だけを胸に与えた。
もし救世主が召喚されなければ、どうなっていただろうか。
最早失った幸せに未練がないと言えば嘘になるけれど、今となってはどちらが夢だったのか分からない。
悪魔メフィストフェレスが皇子に『魅了』という術をかけたのだと、エルから教えてもらったけれど、彼の身の内にもう『フェリス』の存在が無いのは確実だ。
だから、心に決められたと言ってもいい。
この身が滅んだとしても、私はあの悪魔を―――……
***
眠るフェリスの瞳から涙が溢れ、静かに頬を滑り落ちていった。
救世主が召喚されたとき、彼はその場にいたため最も強く『魅了』にかかってしまいました。




