ルシェは、冬場の…
*そこに踏み込んだ途端、彼の表情が、少しだけ引き締まったことを覚えている。*
ルシェは、冬場の水仕事が嫌いではない。暖炉で手を乾かすのが、ちょっと好きだからだ。
浅めのブーツに足を引っ掛け、水桶を取る。ドアノブに手をかけながら、左足右足と順に履いた。冷たい夜風を顔に受け、視線は地面を追った。
スルリと扉が開く。
しかし、視界は何かで遮られていた。
黒い塊に、布が付いているというのが、それの印象だった。それがブーツだと気付き、順に視線を上げていく。それはルシェが予想しているよりも、ずっと背が高かった。背の高い師匠を見上げる時と同じようにして、ルシェはその人物を見上げた。一吹きの夜風がフードの合間をはためかせて、顔を見ることができた。
「あ」ルシェは少し驚いて、言った。ロナイ城でおじいさん猫をあやしていた、あの男だった。
「ええと、ごめんください」フードを外し、パタパタと雪を払いながら、男は言った。
ちょっとした緊急時に、師匠がどうしているかを、以前聞いたことがある。偶然、会う予定が無かった相手と会った時。親しい間柄でもなく、特別嬉しくもない時に使う、必殺技だ。
「いらっしゃいませ」
ルシェはニコリと微笑んで、言った。そのままドアを引き開け、男へ入るように促す。
男の肩越しに夕日が消えるのを、ルシェははっきりと覚えていた。
ひとまず水桶と手袋を脇において、ルシェはドアを閉めた。滑りこむ夜風は雪を幾つか運んで、すぐにそれは消えた。
男はルシェを覚えていたようで、困ったように微笑んでいた。その微笑みが少し面白く、ルシェも困ってしまう程だ。
「それ、預かります」
ルシェはそう言って、男が脇に抱えた外套を引き取った。「ありがとうございます」と、男は丁寧に答える。
男が室内をぐるりと観察するのを、ルシェは見逃さなかった。出入り口、廊下、窓、大きな暖炉、カウンタ・テーブルと目線を動かし、台所でヤカンとお茶を取り出しているシャーノを見つける。三つある水桶の一つに水が残っていて、ヤカンに移すところだった。男は2つ瞬きをして、ルシェの方を向いた。
「えっと、買い付けをしに来たんだけれど…あと、村長さんから、ついでに届け物を頼まれていて」
そう言って、男は小さな小包を差し出した。見覚えのあるそれは、シャーノと二人で届けに行った小包だった。ルシェがそれを受け取ると、重さが特に変わっていないことだけがわかった。
「どうぞ」とルシェは男を招き、カウンター・テーブルの裏から小さな椅子を取り出した。それを暖炉近くへ置いて、手でそれを示す。男はそれに座って、炉火と大釜を眺めた。
「師匠を呼んできます」ペコリとお辞儀をして、小走りに広間を抜ける。途中、ちらりとシャーノを見ると、シャーノもこちらを見ていた。彼はすぐに視線を外し、側に立て掛けてあった伸ばし棒を、目を細めて見た。いざという時は、という事らしい。
廊下へ入ってすぐ左にある階段は、数匹の猫が足を揃えて座っていた。来客から隠れているのだろう。それを見ながら、廊下に堂々と隠れている棚の横を、肩を掠めて通り抜ける。調合室のドアをノックして、それを引き開けた。
呼びかけるよりも早く、ヤエはこちらへ向かってきていた。
「来たようね」
「はい。大きな剣を背負っています。あと、たぶん…腰にナイフがあると思います」
「どんなナイフかしら」ヤエは髪をいじりながら尋ねた。
「えっと、わからないです。出迎えた時に風が吹き込んで…外套から浮き出ていたから」
ヤエに付いてあちこちを回っていると、観察力が付く。ヤエ自身が時々、どこを見ているか説明してくれるし、それはいつだって理に適っているからだ。
「そう。前に言っていた人?」
「はい。エピナルさんのところで見た人です」
「上出来」
ヤエは頷いて、ルシェの手元から小包を受け取り、頭をふた撫でした。
「一悶着あると思うから、ルシェは廊下で待機」そう言うと、ヤエは小瓶を手渡してきた。「念のため、これを渡しておくから、用意しておいて」
その小瓶は、いつも護身用に受け取るものだった。とても燃えやすい油が入っていて、火種があれば近づけるだけで燃え上がる。
ルシェは小瓶を、少しだけ強く握った。屋内で使えということは、それほどの相手だということだ。
ペシ、と音がして、ルシェはおでこに痛みを感じた。瞬きを二度して、ルシェはヤエを見上げる。ヤエがデコピンをしたらしい。
「大丈夫よ」
そう言って、ヤエはドアを引き開けた。いつも羽織っているカーディガンが、フワリとルシェの鼻をくすぐった。




