【外伝】近衛文麿 ①
皆さま初めまして!私の名は、近衛文麿といいます。
よろしくお願い申し上げます!
私は古より続く近衛家の次男として生まれたのですが、私より5歳年上の高麿兄上という稀代の天才が、常に私を導いてくれたと言って良いでしょう。
私の性格は兄上によれば、優柔不断な八方美人という弱点を抱えているらしく、兄上は「君は政治家や司令官向きの性格では無いけれど、生まれつき優秀だから学者や評論家、若しくは軍人なら参謀には向いていると思うよ」と言われ続けて育ちました。
政治家とは、自らの信念を表に出して人々に訴えかけるのが仕事ですが、それは私向きの仕事ではないから、父上に倣って政治家を目指すのは良くないと言われ続けたのです。
「もし、文麿が父上のように政治家になって、しかも総理大臣なんかになってしまったら、周囲の意見に流されて自分なりの決断が出来ず、最後は二進も三進もいかなくなって、政権を投げ出す破目になるだろう」
と具体的に諭してくれたのです。
いや恐ろしいですね。
本当にそんな進退が窮まる事態になりそうな予感がしましたので、私は政治家や司令官を目指すのは早々に諦めました。
私と兄上の母と、武子以下5人のきょうだいとの母とは違うことも早くに知りました。
私と高麿兄上の母と、それ以外のきょうだいの母とは姉妹の関係だったそうなので、私から見たら、母上は正しくは叔母にあたる人だったわけですね。
でも兄上は「気にすることはない。今の母上を本当の母として慕うべきだろう」と、私が物心がついた頃より繰り返し言っておられたので、私としてはわだかまりといったものは感じておりません。
母上は母上なのだという感覚が強いのだと言えるでしょう。
そして、そんな兄上はとんでもなく優秀な人物なのです。
幼くして父上に意見をするのみならず、父上を通じて日本の針路まで定めるという、離れ業をやってのけたのです。
そして…これもあまり世間では知られていませんが、日露戦争においては、巨額の融資をユダヤ人相手に引き出すことに成功しましたし、これが決め手となって戦争に勝利できたと言えるでしょう。
まさに私にとって兄上は、神様に最も近い存在だと言っても差し支えないでしょう。
そんな兄上ですが、人間ですから欠点が無いわけではありません。
ごく稀ではあるものの、言葉を間違って使う時があるのです。
しかも、どんな人が聞いても間違いだと即座に指摘できるような水準で、です。
どういう内容かといえば、兄上にとって予想外の驚くべき事が起こったと思われる際に発する言葉がそれなのですが、いきなり「間近!」と発言するのです。
しかし辞書を引いても「間近」という言葉は、驚いた時に使用するべきような意味を持っていないのです。
遂に我慢できなくなって、聞いてしまったことがあるのですが、兄上の返答は「……私の口癖で意味がない言葉だから気にしなくていいよ」でした。
そうなのでしょうか?とても気になるのですが…
そんな私が、学習院中等科に在学していた時に知ったのがマルクスの考え方でした。
一時期はのめり込んだのも事実で、日本や世界が抱えている様々な社会的問題を解決する、理想的な考えだと思ったのです。
ですが、これも長くは続きませんでした。
兄上がマルクスの矛盾点を鋭く突いてきたのです。
「マルクスが提唱した資本論を、私も今更ながら改めて見たけれど矛盾点があるね」
「矛盾とはどの部分なのですか?」
「それは『剰余価値』という部分だ。
マルクスは『資本論』の第1巻で、商品の価値はすべて労働によって生み出され、その価値どおりに市場で売買される。
だが資本家たちは、労働者が生み出した商品を売って得た利益のうち、労働者に対してはその一部を賃金として支払うだけで、原材料費などを除いた残りは自分の財産としてしまう。
これは、労働者が生んだ価値の一部には対価を払っても、残りの剰余価値には払わない。
つまり不当な搾取であるとしている」
「おっしゃる通りです。
それのどこが間違っているのでしょう?
資本家による搾取そのものと言えるのではないのでしょうか?」
「違うね。商品の市場価値を決めるのは労働者の働いた量じゃない。
消費者の選択によるものだ。
例えば文麿が買い物をするときに、商品の製造にかかった労働量によって選ぶのかい?」
いや。そんな面倒なことは調べない。欲しいか、欲しくないか。
欲しくても高いと思うか、思わないかだ。
言い換えるなら、思ったより安い!
もしくは高いけど良い!と思うなら買うけど、良いけど高い!と思うなら買わないだろう。
「……」
「もしマルクスの言うように、商品の価値というものが、それを作るために要した労働量で決まるなら、大規模な設備を導入して人手を省くよりも、故意に多くの人手を掛けた方が利益率は高くなるはずだね。
ところが、実際にはそのようなことはなく、長期では省力化の為に設備投資した方が利益が上がるだろう。
それと、ある産業の利益率が他より高ければ、その産業に参入する企業が増え、価格競争が広がって利益率が低下するだろうね」
むむむ…反論の余地がなさそうですね。
「…確かにそう思います」
「マルクス自身が、『資本論』第1巻においてこの矛盾を認めていて、以降に出版する2巻で解決を示すと約束したんだ。
ところが第1巻を出版した後、なかなか続きを出さないまま亡くなった。
要するに、自分の唱えた説の矛盾点を分かりやすく説明できていないばかりか、矛盾を指摘されたら逃げ出したんだ。
こんなのが正しい教えだと言えるかい?」
そうなのですね…
「考えたこともありませんでした。先生たちが素晴らしい理論だと褒めていたので、鵜吞みにしていたのかもしれません」
「日本人は頭脳明晰だし、外国の新しい理論に染まりやすいからね。仕方のないことだとは思うし、君のように頭の良い人間ほど感化されるだろう。
例えば、世の中の常識を知らない学者なんて、その典型と言えるし、私に言わせれば"学者バカ"としか表現のしようがないね。
でも、その内容が正しいかどうかは全く別の話で、最終的には歴史が証明してくれるだろうね」
「歴史が証明してくれるのですか?」
「うん。
この場で文麿を説得するつもりなんてない。
時間の経過と共に、その意味が分かると思うよ」
この時ほど、兄上が年長者に見えたことはありませんでした。
もう結果は出ているのだと言わんばかりの口調で、静かにおっしゃるのです。
ここで無理やり、マルクスなんてやめておけ!と言われたら反発して、却ってマルクス主義に走ったかもしれませんが、歴史が証明するだろうなんて穏やかに言われたら…怖くなってしまいました。
それに、父上はマルクスを『邪教』と呼んで忌み嫌っておられるらしく、これも考えを変える一因となりました。
確かに我が家は、皇室を支えるのが与えられた役目なのですが、共産主義は身分の差を否定するのですから、これは天皇陛下を否定する考えに直結してしまいます。
やっぱりまずそうですね。
その後はマルクスの考えは捨て去り、進路を変更しました。
それまでは、本郷区にある第一高等学校、通称一高へ進学し、その後は東京帝大か京都帝大へと進む希望でしたが、自分で物事を決断しなくても上位者の命令に従うのが仕事である軍人、それも司令官ではなく、司令官に判断材料を提供するのが任務である参謀になることに決めたのです。
そして陸軍士官学校を経て軍人になってからは、改めて陸軍大学にて戦略・戦術を学び、先の世界大戦にも従軍して知見と経験を積んだのです。
まあ正直な話として、近衛家の者が軍人になることで世間の評価が上がる事実は兄上が証明していますので、私もそれに倣って評価を上げようという打算が無かったと言えば噓になりますが。
それでも、参謀というのは私の天職だと言えるでしょうし、現在は栄達する確率が高いとされる統合作戦本部にて勤務していますから、将来において兄上の助けが出来る立場となるのも夢ではありません。
そして関東一帯を襲った、あの関東震災のドサクサを突いて発生した父上への暗殺未遂事件は、私にとって衝撃以外の何物でもありませんでした。
聞けば容疑者は、衆議院議員の息子さんらしく、幼少時から尊皇の教えを叩きこまれて育ったそうです。
そんな人物が、共産党に利用されて父上を襲おうとした……
おそらくは、厳しい父親への反発というのが、根底にあったのではないのかと側聞しておりますが、これはもしかしたら私にも当てはまったかもしれませんね。
兄上に静かに諭されるのではなく、父上から一刀両断で頭ごなしに否定されていたら…若気の至りとはいえどうなっていたか自信がありません。
そんな私ではありますが、今後は惑わされることもないでしょうし、気を抜かずに精進してまいりますので、今後ともよろしくお願いします。
あっそれから、当面の間は私の出番が無いと思いますが、忘れないでいただけたら嬉しいです。
では!




