【外伝】近衛篤麿 ㉙世界恐慌 後編
1929年(昭和4年)1月
昨年末に発生した、ニューヨーク証券取引所を震源とする経済的な震災、とでも表現するしかないような騒動が全世界に波及しようとしている。
騒動が始まった当初、各国は事態の深刻さを十分に認識しておらず、アメリカの一時的な経済問題と捉えるのが一般的であった。
しかし、アメリカ経済への依存度が高かった多くの国々は、次第にその影響の大きさを実感しつつある。
特にアメリカからの投資や貿易に依存していた国々では、経済の悪化が顕著となり、世界的な不況へと発展している。
このように、最初はアメリカ国内の問題と見られていた騒動は、時間の経過とともに各国の経済に深刻な影響を及ぼし、世界全体が不況の波に飲み込まれようとしているのだが、せっかく未来の見える高麿がおるのだから、我が国としての方針を急ぎ決めねばならぬ。
既に我が国は、今回の騒動において30億円近い儲けを出しておるから、うまく立ち回って荒波を乗り越えたいものだ。
今日も閣議にて話し合っているが、高橋首相より高麿への質問から始まった。
このような時に要となる大蔵大臣は私なのだが?
これは先日の高橋さんとの面談の影響かな?
「近衛さんは、国防大臣は、この状況をどのように見ていますかな?」
「おそらくは今回の経済的な危機は、世界恐慌(Great Depression)と呼ばれるような、深刻な事態に至るものと思われます。
既にアメリカにおいては株価の暴落により、多くの銀行が経営に行き詰った結果、企業の倒産や破産が続出して失業率が急上昇中です。
これらの悪影響を、可能な限り減ずる方法は三つあると私は考えています。
一つは金本位制からの離脱です。
アメリカはこの事態に直面して、自国製品を守るために日本を含む、外国製品に対する保護関税をかけることが予想されます。
ですが、保護関税などは下策の中の下策です。
アメリカの消費者を含めて、最終的には誰も勝者となれませんから、完全に間違ったやり方であり、後世において批判されるでしょう…
これには我が国も対抗策が必要で、間違いなく世界各国も追随するでしょうから急ぎやりましょう。
二つ目は、国内の社会基盤への投資を行い、労働者の失業対策とする案です」
ここで高麿は言葉を区切って、周囲の反応を見ておるが、高橋首相は同意しておるみたいだな。
「三つ目は、近隣諸国との連携のさらなる強化を行うことであり、ロシアや東パレスチナは無論、イギリスやフランス両国にも声を掛けて、一種の共同体を構成すべきです。
四カ国同盟を、軍事のみならず経済面にまで拡げようという提案です。
イギリスは、アジアにおいて日本の協力がなければ物事が進みませんから、問題なく提案に乗るでしょう。
フランスも、東南アジアの植民地の活用を考えたときには、我らと手を組むべきと考えるはずです」
要するに、これまでの主要な貿易先だった国からアメリカを外そうというのだな?
高橋首相が発言した。
「ただいまの、近衛さんのご提案を採用したいと考えております。
まず金本位制からの離脱ですが、これはアメリカが輸入品目に対して保護関税をかける動きが実際にありますので早期に実行しましょう。
これによって、どの様な状態になるべきと国防相はお考えですか?」
「円安方向に向かうよう誘導するのが正しいでしょう。
ドル円相場は、これまで1ドル=2円の固定でしたが、金本位制からの離脱によって、為替はある程度は操作できるようになりますから、円安へ誘導して我が国からアメリカへの輸出が減らないよう仕掛けては如何でしょう?」
ほう?大戦中は別にしても、これまでは明治30年に公布された貨幣法によって、「1円=純金750ミリグラム」と定められていたがこれをやめるのか?
純金1オンス=20.67ドル、正確に表現すれば1ドル=2.006円だったのだが。
もっとも「円」を定めた当時は、1ドル=1円だったがな。
「…なるほど。アメリカ側の保護関税の悪影響を回避するためには自明ですな。
ではそのように決定したいと考えます。
近衛蔵相もよろしいですか?」
…よろしいも何もな。
それが正しいのか、実行した結果アメリカはどのような反応をするのかどうかも含めて、私では判断に迷うのだが。
思わず原法相と目が合ってしまったが…原さんも判断が出来ぬと見えて目を逸らしてしまった。
だが、この二人が揃って言うのだから、間違いはあるまい。
「…よろしいと考えます」
「ではその様に決定しましょう。
続いて国内の社会基盤への投資を行い、労働者の失業対策とする件ですが、こちらも私としては大変結構なことであると考えますし、具体的な計画を急ぎ立てたいと考えています。
幸いなことに、資金に余裕がありますから有効に使いましょう。
国防大臣は何か補足のご意見は有りますかな?」
「皆さんにお伝えしたいのは、現在のような緊急時には、これまでの常識的な判断というものを一旦忘れていただきたいという点です。
つまり、このような場合においての定石・常識は財政支出を抑えることでしょう。
ですが、財政を節約させるだけでは景気回復につながらないどころか、更に景気に冷や水を掛ける結果となるため、不況時には政府が積極的に役割を担って国民生活を助けなくてはなりません。
簡単に言えば、不景気になれば個人や企業・団体の支出が減るのは自然な状態ですが、そのことによって資金を使う国民が減れば経済がまわらなくなりますので、政府が代わりに資金を使って需要を作り出すことがとても重要なのです。
具体的には公共事業創出や、社会保障拡充などを行うのです。
繰り返しますが、財政収支の均衡を図るのは間違いであり、そういった考えは持たないでいただきたいのです」
閣僚は皆、考え込んでいるな。
アメリカは何の景気刺激策も実行せず、市場の流れに身を任せているように見えるが、あれは悪手なのであろう。
確かに…財政を緊縮させるばかりでは傷口が拡がり、手の施しようが無くなりそうだ。
高橋首相は、高麿案に賛成のようであるな。
「これもその通りだと私も考えます。
従いまして、近衛蔵相は犬養内相や山本商工相と協力いただいて計画をまとめて下さい。
これに関連しますが、国防大臣として軍備に対する要望はありますか?」
「私としては、戦車や飛行機への予算拡充と、軍縮条約の対象外である巡洋艦と駆逐艦の建造、更に大型輸送船をもっと増強したいと考えています。
軍艦基準で、排水量3万トン規模の輸送船を100隻は欲しいですね。
これらは国内各地の民間造船所などへの支援策にも使えますから、早めに実行したいです」
「…分かりました。
では来年度予算に、それらの分も計上しましょう」
これほどあっさりと了承するような高橋さんではなかったはずだが、高麿も高橋さんも、遠慮なく資金を使うつもりだな。
まさに史上稀に見る大盤振る舞いだが、これくらいしなくては間に合わないのだろうな。
閣議後は、高麿と念入りに打ち合わせを行なった。
「現状は社会資本や基盤を強化する、またとない絶好の機会ですので有効に使いたいですね。
まず最初に全国各地に水力発電所を建設しましょう。
山岳地帯を利用してダムを建設し、すべての地域の全家庭に電気を供給出来るようにするのです。
現時点での電力供給率は9割近くに達していますが、これを100%にまで持っていきましょう」
なるほど。日本は雨も多く、また山岳地帯だらけだから建設場所には困らんな。
「次に東京と大阪間に標準軌を採用した『弾丸列車』とでも言うべき高速鉄道の建設と、同じ区間に速度無制限を前提とした自動車専用の高速道路が必要でしょう。
これからの時代は自動車が必須となりますし、急速に進歩するでしょうから、早いうちに作ったほうが結局安く作れます。
高速道路については、東京と大阪間以外に東北や九州方面、もちろん新潟にも伸ばすべきでしょうし、東京市内と大阪市内にも都市高速道路が必要となりますが、これ以上の都市化が進む前に作った方がよろしいかと思います」
ふむ。
「ついでに申し上げますと、ロシアの鉄を利用した安価な国産乗用車の供給は必須です」
それはそうであろうな。
山本さんも同意しておるから、政府主導で具体策を練るだろう。
これによって、新潟の自動車工場は本格稼働するだろうな。
「樺太と北海道、樺太と東パレスチナ、北海道と本州をそれぞれ結ぶ鉄道用の海底トンネルと、オハ油田近辺の天然ガスを各地に送るパイプラインも必要です。
このパイプラインは関東や新潟まで伸ばす必要がありますので、この際ですから一気に作ってしまいましょう」
これは壮大な夢だ!
「そこまで必要なのだな?」
「はい。将来間違いなく日本の国力を支える重要な社会資本となります。
もう少し言えば、このような非常事態においてこそ国民に対して夢を語り、明日への希望を提示するのが本当の政治家の仕事だろうと考えます」
「確かにそうだな。
しかも国内には、地主制度など古い社会構造がまだ残っておるが、これらの工事が始まれば大量の作業員を必要とするようになるから、農村部においては確実に人手不足に陥るな。
何も地主にこき使われて、食うや食わずの貧しい生活を送らなくとも、高賃金の仕事が目の前に現れるのだ。
もう息子を丁稚奉公に出したり、娘を売らなくても済むようになるのだから、当然だがそちらに人は流れるだろう」
…そうなれば、小作と地主の関係も完全に逆転し、困窮した地主は土地を手放すようになるだろうから政府が買い叩き、格安で小作に売ることも可能となるな。
結局は長い目で見ても、良い影響を与えることになる。
工事が集中する東北地方は、もしかしたら今までと逆に人手不足に陥るかもしれぬな。
これはもしかすると、国会運営の改善に繋がりそうだな。
なぜかと言えば、衆議院議員に選出される者の偏りが是正される効果が期待されるからだ。
現状で衆議院議員の構成は地主層が多くを占めておるが、これの構造も変化するであろうから、結果として抵抗勢力が減って土地に対する課税や、小作制度廃止などの法案が通しやすくなるしな。
日本社会のあり方が、根底から変化するだろう。
結構なことだ。
ここで高麿が、注意すべき点を指摘した。
「気を付けねばならないのが、ソビエトの動向です。
今回の恐慌の影響により、多くの国々で経済的困難が生じるでしょう。
特に資本主義諸国では失業や貧困が深刻化して、社会不安が高まることが予想されます。
しかし一方で、このような状況下であっても、ソビエト連邦は世界恐慌の影響を比較的受けにくい状況にありますから、資本主義の矛盾点を解決する素晴らしい考えだと、共産主義を礼賛する者が多数現れるでしょう。
したがいまして、今回の世界恐慌は、各国で共産主義の拡大に繋がり、世界的に広がる原因になるかもしれません。
また、最近権力を掌握したスターリンは、史上稀に見る圧政を民衆に対して行う恐れがあります」
「…ううむ。なんとも間の悪い時に世界的な恐慌が起こってしまったのだな」
「それとドイツも要注意です。
既に世界大戦の敗北をきっかけとして、経済的な大混乱が生じており、壊滅的と表現するしかないようなハイパーインフレに襲われた後なのです。
今回の恐慌が、ドイツ経済にトドメを刺すことになるでしょうし、追い詰められた民衆の不満は、やがて理不尽な要求をしてくる外国の圧力に屈しない強い指導者を求めるようになり、それが結果として悪魔のような独裁者を生む土壌となりかねません」
これは…この言い方だと、そのような悪魔が現れるのだな?
ソビエトはもとより、ドイツからも目が離せんな。
「最も気を付けねばならないアメリカについては、例の『策』が決まれば、それほど恐れなくても済むようになるでしょう」
そうであったな。
アメリカを分断に追い込む八つの策があったな。
あれの内、いくつかが成功すればアメリカ大統領選に介入できるだろう。
現職のフーヴァーとは良好な関係を築いているが、次の選挙ではおそらく共和党は負けるだろう。
恐慌に対する責任追及が厳しいからな。
そして民主党とは、これまで関係が良くないから、次の大統領が民主党になるのは仕方ないが、再選は阻止しなくてはな。




