【外伝】近衛彦麿 ⑪
1924年を迎えた。
今年の夏で、僕もいよいよ二十歳となる。
そんな時、ソビエトにおいて革命指導者の一人だった、ウラジミール・イリイチ・レーニンが死去したとの知らせが舞い込んできた。
これまで暴力による革命と、秘密警察とも呼ばれる抑圧的な集団を主導して、一党独裁体制を維持してきた人物が亡くなったことで、あの集団が今後どのような方向に進んでいくのかとても気になるところだ。
決して我々との融和政策を取ることはないだろうというのは、分かり切った話だけれどね。
高麿兄様によれば、これから気を付けねばならない人物はヨシフ・スターリンという名の男で、現時点でもかなり力を付けてきているから要注意だね。
他にはトロツキーという有力者がいるけど、この二人が権力争いを始めるだろうという予想で、兄様によれば、トロツキーという人物は今代のナポレオンとも称されるような政戦両略の天才らしいけれど、結局はスターリンのような小人の猜疑心には勝てないらしい。
もっとも、ロシア人にとってナポレオンに似ているというのは悪口らしいけれど。
まあロシア帝国奥深くまで攻め込まれたからね。
ともかく他人を信じない、トロツキーよりも厄介なスターリンが生き残るだろうとの予測だった。
スターリンは本名ではなくて筆名、或いは偽名だ。
これは帝政ロシアの革命家の間では一般的だったみたいで、要するに摘発を逃れるために地下に潜った党員やマルクス主義者はこういった筆名や偽名をいくつも使用して、それで当局や警察の目から逃れる事が出来たと言われている。
後ろ暗い人間がやることは、古今東西変わらないらしいね。
そしてこのスターリンという人物は、自己顕示欲・権力欲が強く、冷酷な性格だとの話だった。
出身はロシアにおける少数民族のグルジア人であり、しかも貧困層の出身だったそうで、幼い頃からそれを打ち破ろうとしていたらしく、結果として自己顕示欲や権力欲に繋がったのだそうだ。
そうなると、目的のためには手段を選ばず、自分が敵と見なした相手には容赦なんてしないだろうし、最高権力を手に入れたらそこで満足して大人しくなるとも思えない。
ただでさえ凶悪な思考を持つ共産主義者が現状でも多いのに、とびきり凶悪な独裁者が最高権力を得てやりたい放題はじめるのだとしたら…これでは国民がかわいそうだ。
日本のことわざで言えば「鬼に金棒」・・・いやこれは違うな…適切な言葉が見つからない。
そもそも、日本人でこんな極悪な人物は歴史上存在しなかったから、適切な言葉が無いのは当然だろうね。
きっと強制収容所や密告といった非人間的なやり方も、これまで以上に過激なものとなるだろうし、いったいどれほどの人たちが犠牲になるのか想像が出来ないね。
どうなるかは未知数だけれど、最悪の独裁者になりそうな予感がする。
レーニンに話を戻すと、彼は自分の命が尽きる前に正式にソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)という国家を誕生させた。
それについての僕の感想としては…いまさらだね。
だけどアレクセイたちが怒っていたのが、首都ペトログラードが「レニングラード」って名前に変更された件だろう。
「聖ペトロの街」から「レーニンの街」への名称変更となって、ロシア帝国の形跡を消そうという動きに他ならないね。
あの街はここ10年ほどでサンクト・ペテルブルク→ペトログラード→レニングラードと何度も改名されているけれど、こういった例は日本ではあまり聞いたことがない。
でもここで、共産主義ってどんなものなのか一応おさらいしておきたいと思う。
そして良い点よりも、弱点を見つけないといけない。
そもそもの話として、みんなが幸せになることが出来るなら、強制収容所なんてものは不要だし、密告を奨励して市民同士を監視させる必要もない。
僕の結論としては、共産主義は実に巧妙な詐欺だということだ。
格差の無い理想社会が訪れるのだと称して、人々の心を掴み、最後は国民を奴隷化してしまう。
なんかどこかで聞いた話だなと思ったら、戦国時代に日本にやって来た宣教師にそっくりだ。
一神教は素晴らしい神の世界なのだと喧伝して人々を惑わし、最後は日本人を奴隷として売り捌こうとした。
ちょっと表現は過激かもしれないけれど、宣教師はこの人身売買や侵略の尖兵として送り込まれたに等しい。
この共産主義の産みの親とも言えるマルクスは、ユダヤ教徒の家で生まれた。
つまり生まれはユダヤ人だ。
だけど、神による救いは無いのだと絶望して、共産主義を考え出したらしい。
共産主義は平等を真髄とする。
平等とは国民の均質化に他ならず、個性や多様性を否定する狭量な社会だ。
そして一神教も、神の下において人間は平等であるとされている。
言うなれば旧約聖書から宗教色を排除すると、共産主義に変容するわけだね。
だからマルクスは、神への復讐として共産主義を作ったとも言われているらしい。
最初から一神教なんて理解できない僕から見たら、なぜこんなことで人々が騙されるのかも全く理解できない。
日本は八百万の神々がいらっしゃる国なんだ。
必然的に多様性が容認されるし、狭量な一神教なんて理解の外で、一神教の信者から「日本人は狭量だ」とか「多様性を認めないのはおかしい」などと指摘されるいわれはない。
もちろん、だからと言って一神教を否定なんてしない。
一神教も、八百万の神々の一つなのだと考えれば、すんなりと受け入れ可能だからだ。
兄様の考えだと、日本に渡ってきた仏様たちですら、八百万の神々の一部になったというくらいだからね。
そうなると、日本人の考え方こそが世界を救うのだとも言えるし、こういうイデオロギーという名の宗教と僕は戦わないといけないのだね。
日本からの帰国後も、相変わらず忙しい日々が続いているけど、ここ最近では日本海を利用した交易が活発となりつつあるし、日本との協議や協定も積極的に行われるようになってきた。
更には父上から連絡が来て、新潟を中心とした鉄鋼業をはじめとする重工業地帯を新たに整備する計画が立ち上がったらしい。
そしてここには東パレスチナも資本参加してもらうという話だった。
これで日本海を利用した交易路がまた一つ強化されるわけで、ロシアとしても鉄鉱石と石炭の採掘量を増やさないといけない。
それには輸送手段の拡充が必須で、以前から計画していた鉄道の建設が始まった。
そして新潟県内の重工業地帯の完成と、こちら側の供給路の完成は共に4年後の1928年頃になるだろうという話だった。
ここで僕は、アナスタシアと一緒に地図を見て気付いた点を、アレクセイとゴリツィン首相にも共有しておいたんだ。
「地図をこのようにご覧になって改めてお気付きのように、日本は強大な隣国へと成長しましたから、長い目で見てどのように接していくのか、我が国としての基本的な方針を決定する必要があると感じています。
私が調べただけでも、強大な国家がすぐ側に存在するという現実に直面した弱小国家は、様々な苦労を背負うことになり、対応に苦慮する場合が多いです」
二人とも真剣そのものだね。
僕たちと同じで、事実としては知っていても、目で見える地図の形で現実を突きつけられると、一気に危機意識が高まるのだろうね。
「近隣国家の実例を申し上げますと、朝鮮半島に存在した国家は中国に対して歴史的に『事大主義』と呼ばれる方針を取り続けました。
つまり、朝鮮民族自身がしっかりした信念や定見を持つことなく、その時々の中華帝国に対して屈服し隷従し続けたのですが、そのような例を真似たのではいつまで経っても日本と対等の関係を持つことは出来ないでしょう」
いまさら考えるまでもなく、これは最悪の選択だろうね。
奴隷根性というか、永遠の属国とでも言うべき存在であり、本当の意味での独立国には程遠い。
だから何をするにも常に宗主国である中国の顔色を見て、その意向に配慮し続けなくてはいけないし、日本人から見たら本当に悪夢そのものだろう。
「それでも10年程度というような短い時間であれば、何も考えなくても問題はありません。
我が国と日本は、ソビエトという共通の敵を抱えていますので、問題が表面化することは考えにくいからです。
よってこの課題は、ソビエトを倒した後に本格化するでしょう。
その時点で日本を仮想敵国として設定するのか否かという話にもなる可能性があります」
ここでアレクセイが言った。
「そうだな。ここまでは理解できる。
そしてソビエトを倒すということは、ロシア帝国の版図を取り戻すことに他ならない。
そうなれば日本と互角の立場になるのはそれほど難しくはないだろう。
しかし、ペトログラードを奪還して帝都を元に戻してしまうと、要するに日露戦争前の状態に戻ってしまい、再び日本と争うかもしれない。
もちろん私や私の子供が皇帝の座についている間は大丈夫だが、孫の代以降となればどうなるかは分からない。
だから日本とは二度と敵対しないよう、我々の内部だけの決め事として、このままウラジオストクに帝都を置き続けるという選択肢があるのではないかな?」
ゴリツィン首相も賛成みたいだ。
「陛下。それは素晴らしい考えかもしれませんぞ。
私もこの地図を見て、確かに危機感を抱いたのは事実ですが、逆に言えば日本との間には海がありますので、陸続きより安全だとも言えるでしょう。
また日本との関係を維持出来てさえいれば、日本が我が国の防波堤の役目を担うということであり、日本以外の他国に海から攻められる恐れなどあり得ないでしょう。
故に敢えて近くに留まり続けて、日本と友好関係を継続するのも立派な戦略だと感じますし、ペトログラードに戻ると、それはそれでヨーロッパ側の近隣国との間で新たな問題が発生するでしょう」
「そうだな。ペトログラードはバルト海にも白海にも繋がってはいるが、それは多くの国に攻められやすいとも言えるからな。
それにヨーロッパの大国に攻められたとしても、ここまで辿り着くのは至難の業だし、冬を越さずにウラジオストクに到達するなど不可能だ。
それではこの件は帝室において代々の引継ぎ事項とするようにしよう」
そうだね。せっかくの縁だから、大切にしてくれたら僕も嬉しいし、安心して仕事に打ち込めるね。




