【外伝】近衛彦麿 ⑨
1923年1月
先月末で3年間の租税免除期間が予定通り終了した。
この間に国民生活は大きく向上した。
税金がないのだから当たり前だけど、国家としての基礎体力と言えるような、社会資本の整備も並行して整いはじめているから、ソビエトとの対決に向けた準備が徐々に出来つつあると言って良いだろう。
国民も希望を持って生活してくれているらしいし、結論としてはやった甲斐はあったという実感があるね。
もちろん、ここからは租税が復活するのだから、今までみたいな好景気に沸くというわけにはいかないだろし、地に足をつけた堅実な国家運営が求められる。
でもやはり基本に考えることはこれまでと同じで、引き続き減税や教育の無償化といった施策は継続するし、国民の購買力が高まれば、消費の拡大→企業や商店の収益改善→賃金の上昇→消費の更なる拡大という好循環が実現するだろう。
同年9月1日
日本で大きな地震が発生したとの知らせを受けた。
震源地は神奈川県周辺で、被害が広範囲に及ぶ極めて大きな地震だったという話だったけれど、遠い異国にいる僕は何も出来ず、とてももどかしかった。
結局、死者は50人も出てしまったみたいだけれど、地震の規模に比べたら被害は大きなものではないと言われているらしい。
取りあえずはホッとしたけれど、被害が小さくて済んだ要因は、どうも高麿兄様が防災訓練を実施していた最中に発生した地震だったみたいで、火災や避難にも素早く対応できたためらしい。
偶然なんだろうけど運がいいね!
もしも訓練中で無かったら、犠牲者も被害もどうなっていたか分からないという話だった。
ロシアとしては日本に対する絶好の恩返しの機会で、アレクセイの名でお見舞い文は送ったけれど、日本としてはそれ以上の手助けは特に必要ではないらしい。
同年10月
それでもずっと気になっていたから、日本が落ち着きを取り戻したのを見計らい、結婚の報告を兼ねる意味も含めてアナスタシアと共に日本に戻ることにした。
ウラジオストクと新潟の間は毎日定期便が出ているから、それに乗ったんだけど、以前よりも船が新しく大型で、速度も出ているから1日もかからず、20時間ちょっとで到着した。
結構快適だね。
そして両国の民間の交流が、とても活発になっているのが肌で感じられたから、とても嬉しかった。
新潟からは定期列車で東京まで移動だ。
ここも一日の本数が増えていて驚いたけど、理由は上越線の完成にあった。
三国山脈をトンネルで貫いて群馬県側へ鉄道が敷設され、新潟⇔上野駅間の所要時間が大幅に短縮されて現在では7時間程度で到着できた。
これから列車の速度が上がればもっと短縮できるらしい。
5年ぶりの祖国。
本当に懐かしいけれど、国土の発展ぶりは列車の車窓からもよく分るほど変化していた。
父上は国民から高い支持を受けているという話は聞いていたけれど、本当にそうなのだろうね。
地震の後もクーデターやテロの未遂事件が発覚して、多少は混乱したみたいだけど。
ただ埼玉県南部辺りから東京市内に近づくに連れて、建物被害がどんどん増えてきて驚いた。
よく犠牲者が50人程度で済んだものだと、不思議に思うほどだったよ。
車窓からそんな状況を見つつ上野駅に到着した。
話には聞いていたけど、東京駅周辺から日比谷公園にかけては国連関連の建物が多いんだね。
地震の影響は多少あって、国連本部の建物、昔は華族会館だったあの建物は、結構被害が大きかったみたいで、建て替えることになったらしい。
でも火災が発生しなかったのは本当によかったね。
東京市東部の住宅密集地も、小規模火災は発生したらしいけど、すぐに消し止められたという話だった。
そして新宿の北側、目白駅近くにある懐かしい我が家だ。
ここは全然変わっていない。
少し変わったのは、警備が以前よりも厳重になったという点くらいかな。
共産党支持者による襲撃未遂事件があったのだから、これは当然かもしれないけれど。
家には両親をはじめ、きょうだいが全員揃って僕たちを出迎えてくれた。
久しぶりに会う家族。やっぱりとても落ち着く。
アナスタシアも数年ぶりにオリガ義姉様との再会を待ち望んでいたから、本当に楽しそうにしていたね。
父上からは「しばらく見ないうちに立派になったな」と喜んでもらえた。
暗殺未遂事件があったから、気持ちが落ち込んでいるかと心配したけれどそんな事はなさそうだね。
それから文麿兄上とも久しぶりに話が出来た。
「彦麿は大きな地震に遭ったことは無いから分からないだろうけど、あれはとても恐ろしいものだった。
幸いにして防災訓練で臨戦態勢だったから対応できたけれど、通常時だったらどうなっていたか自信がないね」
と言っていたし、文麿兄上が所属している統合作戦本部という部門も対応で大騒ぎになったらしい。
だから本当に神様のご加護が有ったんだと思った。
高麿兄様ともゆっくり話が出来たんだけど、印象に残った事は最近活発になっている日露を軸とする日本海を通じた交易の話だった。
「ロシアは日本海には少ししか面していないけれど、国際交易港としての可能性は大いにあると感じている。
ロシアで産出される鉄鉱石や石炭は日本にとっても大変有用だから期待しているんだ。
何といっても距離が近いというのはとても大きな利点で、輸送費用が安くて済むから我々買う側にとっても都合がいいからね」
「本当にそう思います。
今回も新潟港から新潟駅まで移動した時に感じたのですが、あの街にもっと鉄鋼業をはじめ、生産した鉄を利用した造船業や自動車生産工場といった重工業が整備されていけば、ロシアとの繋がりもより深いものとなり、お互いにとって利益があるのではないかと感じました」
「それはとても素晴らしいね!
新潟か…確かにそうだね。
現状でもある程度の設備や企業は存在しているけれど、もっと発展できる余地は大いにあるだろう。
これは父上にも話をしておいたほうが良いね。
そうなるとロシア側ももっと船舶が必要になるが、大型の輸送船というのは現時点ではどれほど所有しているんだい?」
「ええと…詳しい数字は把握していないのですが、使える港がウラジオストクだけなので外洋航行が可能な船舶ですと、あまり多くは保有していなかったと思います。
民間の会社も含めても50隻に満たないのではないかと。
河川用だったり、バイカル湖用の船舶は比較的多いのですが」
「なるほど、そうだろうね。
確かにロシアはこれまで海洋国家では無かったし、日本海を利用した国際交易というのは重視してこなかっただろうから、やむを得ないところはあるよね。
でもこれからはそれではいけない。
外洋航行が可能な大型で高速の船舶は、いくら保有していても決して無駄にはならないから、日本に発注してでも頑張って保有した方が良いよ。
そうだな……いずれは多くの人も載せることになるだろうから、商船基準の排水量で3万トンの船舶が200隻は必要だろう」
え!?そうなのだろうか?それって結構な大型船舶だけれど?急にそこまでの数が必要だろうか?
それに…『いずれは多くの人も載せることになる』って、なんなのだろう?
「…すぐに実行できるかは分かりませんが、帰国したら検討してみます」
「うん。10年程度で結果が出るだろうし、持っていて良かったと思う日がやってくるよ」
そうなの??なんだろう。今の言葉。
そんな謎かけみたいなやり取りもあったけど、家族の団らんというものを久しぶりに満喫できた。
次の日は通っていた学習院を二人で見学して懐かしい思いを噛みしめたりしていたんだけど、そんな個人的な感傷に浸っている場合ではないことがすぐに分った。
僕たちが帰国した事を父上を通じて知った皇太子殿下、今はご病気の天皇陛下に代わって摂政をされているらしいけど、その皇太子殿下よりアナスタシアと僕の為に宮中晩さん会を開催するから、その前に宮中に参内せよとのお達しがきたんだ。
僕たちが呼ばれたのは、アナスタシアは言うまでもなくロシア皇族の一員だったし、僕も皇帝アレクセイの側近として政治に関わっているからというのが理由らしい。
自覚は無かったけれど、僕は日本政府から見ても重要人物として認識してもらったという事だろうし、気を引き締めなくてはいけないね。
そして宮中に参内して摂政・皇太子殿下に拝謁したんだけど、なんかとても緊張した。
天皇陛下とは面識があるけど皇太子殿下とは初対面だった。
殿下の印象としては、何というかとても威厳のあるお方だと感じた。
言葉では表しにくいのだけれど”圧”を感じるんだよね。
「この度のお招き、誠にありがたく、恐懼の至りでございます」
何故かわからなけれど、とても緊張してしまう。
隣にいるアナスタシアまで緊張しているけれど、彼女が緊張する姿を見たのは初めてだ。
「我が国と貴国との間には不幸な過去もあったが、現在はかけがえのない紐帯を結ぶことが出来ていることを私としては大変喜ばしく感じている。
さらに近衛は…いや近衛殿は第四大公女殿下との婚姻を結んだ由、重ねて喜ばしく思う」
「ありがとうございます。露日両国の懸け橋となる事が出来るよう、なお一層精進いたします。
こちらは我が国のアレクセイ陛下よりの親書でございます。
陛下におかれてはこの度の貴国の震災に対して、とても心を痛めております」
「そうか。大変かたじけなく思う。
アレクセイ陛下へもよしなにお伝えいただきたい。
地震による被害は小さくはなかったものの、近衛殿の兄が行っていた防災訓練によって最小限のものに留めることが出来た。
復興に際してはカムチャツカ半島の森林資源が大いに役立ちそうであるし、この点も重ねて感謝する」
そうだった。カムチャツカ半島の豊富な森林資源は、この震災からの復興には欠かす事の出来ない資源だよね。
確か今までは「あんな寒いところの資源なんて活用のしようがない」なんて声もあったらしいけど、これからはそんな事を言う人は居なくなるだろうね。
「日本のお役に立てたことを大変うれしく思います。
ロシア各地でも地下資源の活用が活発に行われておりますので、日本との交易は今後ますます重要性を増すのものと考えております」
「そうか。今後も両国が力を合わせて困難を克服する関係を保つことを期待している」
そして宮中晩さん会においても、僕たちは殿下から主賓として大勢の皆さんの前でご紹介いただいた。
「今宵の主賓である近衛男爵は…いやもうロシア立憲君主国の侯爵となられておったな。
近衛侯爵はいまだ二十歳に満たぬ若さにもかかわらず、ロシア皇帝の最側近として国政に深く関与し、ロシアの発展に尽くしておられる。
また、この度はロシア皇帝アレクセイ2世陛下の姉君たるアナスタシア大公女殿下とも婚姻を結ばれた。
大変めでたい事であり、日露両国の揺るがぬ繫がりが末永く継続するよう今後の活躍も期待している」
いやあ大勢の皆さんに祝福いただくって嬉しいけれど、この場には父上や兄様たちもいらっしゃるし、少し恥ずかしいね。
「今夜はお招きいただきましてありがとうございます。
ロシアが現在、そして今後においても最も重視するのは日本との友好関係であります。
それは決して軍事的な一面だけを指すのではなく、経済的な面においても同様です。
近年はシべリアを中心に豊富な石炭・石油、鉄鉱石をはじめとする様々な地下資源の開発が順調に行われておりますので、日本海を通じた経済的な結びつきと両国の国民の交流が更に深まることを期待しています」
その後は様々な人たちと交流を持つことが出来たのだけど、経済界の人たちはやはり地下資源に期待している意見が多かった。
日本では急速に発展している経済活動を専門に管轄する部門が父上によって設けられていて、商工省という名の役所名らしい。
そこの初代大臣となった山本さんという人物とも挨拶できたので、僕としては兄様にした話をこの人にもしておいたんだ。
「このたび新潟を訪れて感じたのが、あの街の可能性です。
最近では鉄道網も整備されて便利になりましたし、ロシアの資源をより近い新潟周辺で生産出来れば価格面でも有利となるでしょう。
更には東パレスチナに資本参加して貰えば国際的な協力関係のお手本となるでしょう。
それは日本の発展のためにも必要な事だと感じます」
山本さんはとても驚いたみたいだね。
「……なるほど。
近衛侯爵のご提案は、私がこれまで考えたこともない策です。
ですがおっしゃるように絶大な効果があると考えますので、直ぐに実現できるよう検討してみます」
「期待していますのでよろしくお願いします」
悪くない反応だったね。
念のため父上にもお話ししておこう。
ロシアとしても帰国したら具体的な話を進めなくてはいけないね。




