1.彼の心境
お久しぶりです。更新が大変遅くなりまして申し訳ありません。
専務視点の番外編を不定期で更新したいと思います。
よろしければもう少しお付き合いください。
気にかけていた新人秘書が特別な存在に変わったのは、いつの頃だったか。はっきりとした瞬間は思い出せない。だが緩やかに、彼女に惹かれていったのだと思う。
面白い逸材がいると聞いて実際本人に会った時、少し話しただけで頭の回転の速さがわかった。常に相手が考える先を読もうとし、いくつかのパターンを作り出しては、瞬時に求める答えを提示する。
一度「もし私が正反対の意見を支持したら、君はどう補足した」と秘書としてどこまで使えるか、いささか意地の悪い質問を投げてみれば。彼女は相手側の強みを最大限に引き出す答えをあっさり述べた。まさしく自分もそうするであろう答えを、社会経験がほぼ無い新人に言われるとは思わず、心の中で及第点を与えた。頭の回転の速さと臨機応変に対応できる能力は好ましい。
まるで関係のない会議に、わざわざ秘書を同席させた甲斐があったというものだ。まだ入社一年目のひよっこだが、これからどんどん使える人材になるだろう。実に育て甲斐がある。
研修期間中からどの部署が彼女を引き抜くか揉めていたのも頷けた。容姿も十分人目を惹くが、それは二の次。能力重視で優秀な新人をどこも迎え入れたくて、彼女の配属先を選ぶのに時間がかかったのだった。まあ確かに面白い逸材である。自分で育ててみたいと思えるほどに。
会議中、めったに社内で笑うことがないと評判の迅が、くつりと喉で笑った。目を疑った古参の役員共が唖然とした顔も、彼の笑いを誘う。
「どこに回すか決まらないのなら、私がもらい受けよう」と言った時の人事部長は……いや、海外事業部と営業部の部長職にある二人は、苦い顔で黙り込んだ。そして渋々引き下がる。だがあの顔はむしろ自分達で育てるよりも、もっと成長した数年後に引き抜くことを企む顔だ。狸共め。
そうして異例の入社一年目で秘書課に回された久住蘭子は、専務である神薙迅の秘書に任命された。
こしがあり艶やかな黒髪というよりは、どちらかというと猫っ毛の柔らかそうな髪質。キレイに巻かれた髪型を日によって変えている彼女は、常に清潔感に気を配っている。きりりとした目元はきつすぎず、品のいいアーチ型の眉は知性が窺える。隙のない立ち居振る舞いに人を真っ直ぐ見つめる強い眼差し。美人に見つめられるのは、なかなか心臓に悪いという話まで聞こえてきた。本人はただ話している相手に敬意を払い、目を合わせているだけなのだが。目力が強いというのも威圧感を与えるらしい。
彼女が入社してから1年が過ぎた頃には、自分の隣に蘭子がいることが自然に思えるようになっていた。隣にいない時のほうが落ち着かないし、仕事中でもどこか気がそぞろになってしまう。
失敗を忘れず次からしっかり直すところや、飲み込みが早いところ。常に数歩先を読もうとする姿勢。能率のいい仕事のサポートをしてくれる彼女に好感を抱くのは、自然なことだった。
ただ部下の成長ぶりを嬉しく思っていただけの気持ちが、次第に恋愛感情を伴うものになったのは、いつだったのか。単なる好感に男女間の愛しさが加わったことは、しばらく気づかないフリを続けていたと思う。
彼女は自分の秘書で、自社社員で、歳だって十も離れている。きっと妹のように思っているのだと自分自身に言い続けていたある日。ふと、常に冷静沈着な彼女の表情が実は意外にも感情豊かなのでは? と気付いた。眉間に皺を刻みながら、まるで呪いをかける魔女のごとく険しい表情。そして手には煮干し。
(……何故煮干し……?)
デスクワークしている蘭子は、すっかり一人だからと油断していたのだろう。音も立てず自分が入ったのも悪いが、思わず声をかけそびれてしまう。
ぼりぼりと煮干しを咀嚼しながら、一心不乱に何かを書き綴る彼女を見て、つい笑いがこみ上げてきた。すっとその場を離れ、迅は久しぶりに笑った。
面白い。意外性がありすぎて面白い。
恐らくこの時、ただ妹を見守る兄の心境よりももっと強い感情が湧き上がったのだろう。知りたい、と純粋に思う。いろんな表情を見てみたい。誰よりも一番、自分が傍で。
だが、次第に蘭子を観察して気づいたことがある。彼女は常に遠くの誰かを見ている。いや、誰かの行動を気配で探っている。自分から動く真似はしない。が、明らかに意識している。
一体誰だ、男か。
何度問い詰めたい衝動に駆られたかわからない。単なる自分の気の所為なら良かったのに、嫌な直感は的中するらしい。お使いを頼んだ時にふと見せた彼女の素の感情を機敏に感じ取ってしまった自分は、内心呻いた。
「海外事業部……」
そこの伊藤課長に書類を手渡すよう伝えた時のあの反応。僅かにぴくりと反応を見せた。いつも通りの微笑みを浮かべてはいたが、迅の目はごまかせない。確実に心が浮き足立っていた。一瞬で。
誰だ、一体誰が君の心を高揚させる。
隠しようもないほどの苛立ちに、もう気づかないフリはやめた。
ああ、そうだ。この苛立ちは嫉妬だ。彼女の感情が真っ直ぐ向く相手に対して。そこに男女の情愛が絡んでいるなら、見過ごせるわけがない。
一番身近で兄のようだと思われているだろう。仕事外で彼女に気をかける時、確かに兄っぽく振る舞っていた事はあった。夜遅い帰宅を心配するのは上司の役目、そこに自分に対する余計な警戒心を抱かせないために、つい諭すような口調だったのも自覚している。
距離を保ちつつ居心地のいい空間を作るというのは、なかなかに難しい。時間をかけて次第に心を開いてもらおうなどと、悠長な事を言っていられる暇はない。
気持ちは自覚した。これ以上誤魔化すのはやめだ。十も下の自分の部下に手を出す男を軽蔑するならすればいい。欲しいと思ってしまったのなら、年齢も立場も構ってなどいられるか。
「まずは彼女が気にする相手が誰か……調べるか」
交際相手はいないはず。その気配は全く感じ取れなかった。完璧に隠していたとすれば、自分の観察眼はまだまだだというだけの事。たとえもしいたとしても、少なくとも社内の人間ではないだろう。たちまち噂になり仕事がやりにくくなるのを、蘭子は厭う。
「いたとしたら長期戦。いなかったとしたらすぐに捕獲に走る」
不穏な呟きを漏らした迅が蘭子の長年の因縁相手に気付くのは、時間の問題だった。
◇◆◇
相手は海外事業部にいるのかと思いきや、どうやら彼女が接触したのは営業の連中という事が判明した。そしてその後すぐに合同飲み会に参加すると言うではないか。迅の心中は穏やかではいられない。
営業には社内でも目立つ人間が集まるが、その中でも一際人目を引く男がいる。蘭子と確か同じ年齢の、諫早爽だ。
実は爽の兄とは学生時代から付き合いがある。だが歳の離れた弟の爽とはほとんど面識がない。同族経営の会社には入らずわざわざ迅の所へ入社したのは、修業の為だったか。数年外で社会経験をさせるのもいいだろうと、よく許可が下りたものだ。
まさかあれが目的じゃないよな? と訝しく思いつつ、かなり強引に彼女を迎えに行く事を承諾させた。
「他の奴らに大事な秘書を送らせるわけにはいかないからな。遅くなるようだったら連絡しなさい」
「え、え! あの、それはやっぱり迎えに来るという事、ですか?」
「心配しなくても飲酒運転はしない」
困惑している顔は、素の顔に近いだろう。大人びていると思っていたが、感情を露わにする所は随分可愛らしく見える。
そんな蘭子が合同飲み会……。ノリも良く社交的な彼等が、彼女に酒を飲ませて潰そうなど、不届きな考えを持っていないとも断言できない。むしろお近づきになりたいと躍起になる男が多そうだ。
そこそこお酒はいける口だと言った。今はそれが本当だと信じるしかない。
モヤモヤした気持ちを抱えつつ、迅は今後の情報収集に勤しんだ。
そして嫌な予感はやはり的中するというもので、げんなりしたため息を吐きだしたくなってしまう。店の前で一際容姿が整っている男女が二名。パッと見仲良く寄り添っているように見えるだろう。エスコートしている男の隣に佇む蘭子は、酒が入っているのか若干頬が色づいている。ほのかな色気が離れた場所にまで漂ってきそうだ。
あの笑顔は営業用か? それとも本気であの男を狙って誘っているのか?
直接本人に問いたださないとわからない。
だが完全に彼に心を許しているように見えなかったのが救いか、迅はすぐさま二人の元へ歩み寄った。
「彼女は私が送っていく。君は中に戻りなさい。まだ他のメンバーは残っているのだろう?」
この場へ来て十分程度。誰も社の人間に遭遇していない。つまり他のメンバーは未だ飲んでいるはず。
もう少し粘るかと思ったが、あっさりと諫早は去った。なるほど、引き際を見極める目はあるらしい。しつこくない所が好感度に繋がるのもわかるが、面白くない。相手がどういう目的で彼女と二人きりになりたがったのか、これから調べなければ。
混乱中の蘭子を自分の車に乗せて、走る事約十五分。昔から通っている行きつけのバーに女性を連れて来るのは、実は初めてだった。
長年の顔見知りであるマスターもやや驚いていたが、すぐに女性が好むカクテルを作ってくれる。彼が作る酒は絶品だ。同じ味を出そうと思ってもなかなかうまくはいかない。
少しは酒が入れば緊張もほぐれるのでは? と思ったが、彼女は自己申告した通り、酒に強い体質らしい。一応飲まされているはずなのに、まるで酔っているとは思えない。
上司と飲むのだから、理性を失うわけにはいかないと思っているのだろう。社会人の鑑ではあるが、プライベートな時間にまでそう堅苦しくならなくても……と考えるのは勝手すぎるか。酔いつぶれたら介抱する位の甲斐性はある。勿論、酔って寝ている女性を襲う真似などは断じてしない。
タクシーを呼んで彼女の自宅まで送り届けた。そこそこ新しいアパートだが、オートロックでもなく、セキュリティの甘さについ眉をしかめる。
若い女性をつけ狙う男がいないとも限らない。すぐにでも自分のマンションに部屋を与えたい衝動に駆られるが、そんな事をしたら彼女の心も離れそうだ。周りへの外聞もよろしくない。
タクシーの運転手に少々待っててもらうよう告げた後の行動は、自分でも驚きの性急さだった。周りくどい真似は好かない、欲しい物は正面から欲しいと訴える。
実直かつ誠実でありたいと心がける彼は、卑怯な手段を望まない。交際相手の有無をストレートに尋ねた。
(憎い男しかいないという答えが来たのは驚いたが……)
嫌われてはいない事が判明した。ほっと安堵する。
衝動的に抱きしめた彼女の身体は、凛とした姿勢からはわからないほど華奢で庇護欲を誘い、そして柔らかい。まさしく女の子だった。
「君が好きだ。初めて会った時から」
……初めて?
口からぽろりと出た言葉に、自分でも驚いた。だがすぐに納得する。
ああ、そうだ。きっと一目見た時から、既に惹かれていたのだ。
いつの頃からと思っていたが、それはもう恐らく初めから。そして芽生えた感情が膨らみ続け、今日ようやくはっきり行動に移せただけ。
思いもよらない台詞を聞いたと驚く彼女は、ただただ戸惑っている。まったく恋愛感情を抱いていない証だったが、交際相手がいないのなら自分にチャンスは十分あるだろう。
無垢な少女の顔で自分を見上げる彼女に口づけたい衝動を理性で抑えて、迅は真摯に見つめる。
逃がさないし、自分も自分からもう逃げられない。
賽は投げられたのだ。これから全力で捕獲に走る。
まだ今は戸惑ったままでいい。そのうち狼狽え、翻弄され、自分を意識するようになれば。安全圏などにいるつもりはないのだ。身内ではない、自分は男なのだと彼女に自覚させる。
蘭子が無事部屋に入ったのを見届けた迅は、驚いた彼女の顔を再び思い出し、ふと表情を緩めたのだった。




