いつかまた会える日を
諌早視点のその後です。
初めて本気で好きになった女性に失恋した。
自分の気持ちに気づいた時は、彼女から感謝と謝罪、そして別れの言葉を告げられた後だった。
それまではそう、まるで子供が物珍しいおもちゃを見つけたように、ただ執着して手に入れたいと思っていた。自分が放った言動で蘭子の人生が左右され、自分だけを強く想い歩んできた彼女の12年間を思うと、ぞくぞくした恍惚感に満たされた。
誰かにここまで強く想われたことはない。たとえそれがマイナスの感情であっても、自分を目指して己の能力を高めてきた相手に、抱く感情は興味以上のもの。真っ直ぐ向けられる眼差しの強さを見れば、どこか空虚だった心に高揚感が湧き上がる。歯向かう存在が珍しいわけじゃない。ただもっといろんな感情をぶつけて欲しい。次第に彼女が向ける感情が、自分の心の穴を埋めてくれる――。そんな風に、頭の片隅では思っていたのかもしれない。
だが、歪な関係にも終わりは来る。
卒業すると宣言した彼女から最後に向けられたのは、自分を憎む感情でもなく、全てを清算し終えた後の晴れやかな笑顔。穏やかに微笑んだ彼女は、彼を一生特別だと告げた。
過去の彼女は確かに自分を好きだったと言った。恋をしていたと認めた。が、それもすべ過去形で、今は好きでも嫌いでもない。これから先、もう一度好きになる事はない。
そして彼女は言った。『今の自分が好き』。だから子供の頃、変わるきっかけを与えてくれてありがとう、と。
柔らかい微笑を浮かべた蘭子は、とてもきれいで美しく、そして気高い存在に見えた。
――ああ、馬鹿だ俺は。振られた後に気づくなんて。
もうこれ以上、関わるのは無理だ。彼女の幸せを邪魔することはできない。本当に心から欲しいと思った彼女の心は、自分には手の届かないところへ行ってしまった。暫く動けずにいた爽は、残された屋上で一人佇んでいた。
幸か不幸か、人生初の失恋を経験した直後に実家から呼び出しを食らった。危篤状態に陥った祖父が死んだと連絡を受けたのだ。可愛がってもらっていた祖父が亡くなったことは、当然ながら残念でならない。
葬式に参列し、最期の別れを告げた後。一人になった爽はふと思う。これはある意味、彼女の傍から離れられるいい転機だと。
同族経営している会社をいずれ継ぐのは兄であり、次男の爽は補佐に回ることを求められていた。だがそれまでの間、外で経験を数年積むのも必要だと説得し、神薙一族が経営する会社に入社するのを半ば強引に納得してもらった。まさかこんなに早くこの会社を去る日がくるとは思わなかったが、もう未練は残っていない。中途半端な状態の仕事に関しては、心残りはあるが。
自分がいなくなっても誰かが後を引き継ぎ、会社は難なく回る。いきなりの退職に驚かれたが、事情を知っている部長と上層部のフォローもあり、大事にはならなかった。
そして転職してから早3ヶ月。爽は一度も笑ったことがない。
「……諫早さんって本当にクールですよね。口数も少ないですし」
「仕事が出来て頭もいいし、かっこいいけど。少しとっつきにくいかも……」
「ほら、会長が亡くなったばかりだから、いろいろあるのよ。引き継ぎで大変な時期だから、前の会社辞めてこっちに引き抜かれたんだし。逆に笑顔でにこにこしてたら不謹慎に思われるでしょ」
若い女性社員よりも数年勤務期間が長い女性社員がフォロー役に回る。
以前と同じ営業職。円滑なコミュニケーションをとるために培ってきたあの笑顔は、必要最低限にまで抑えられていた。取引先との交渉ではなるべく愛想よく見えるように接している。だが、以前のように誰にでも微笑みかけることも、誘われた飲み会に参加することもない。何故なら、自分が浮かべる笑みが全て嘘臭く思えるからだ。どれが本物でどれが嘘かわからないなんて、前も同じだったのに。
自分が他者に向けていた笑顔は、一体どんな表情だったのか。それさえ思い出そうとしても思い出せない。胡散臭い笑顔と真正面から告げてきた彼女を思い出すと、胸の奥がきしむような音を立てた。
本当に欲しいものがない。本気で誰かを愛せる心もわからない。
見つけたと思った相手は自分の手が届かない場所へ行き、恐らく幸せな道を着々と歩んでいるのだろう。
傷つけて、それでも這い上がり追いかけてくれた彼女。最後に見せた笑顔は、未だ脳裏に焼きついている。
季節はめぐり、その年の冬に差し掛かる頃。海外支社に赴任していた社員が数名戻ってきた。そのうちの一人は、女性ながら1、2位の営業成績を誇る女傑として名高い才女。爽より四歳年上の彼女は、彼の直属の上司になった。
「――なーに若者が辛気臭い顔してんのよ! 最近寒くなってきたんだから、せめて内面位は陽気でいなさい」
バシンと背中を遠慮なく叩かれる。騒がしかったはずの周囲の音が消えた。唖然とした視線が注がれる中、彼女の態度は崩れない。
豪快で豪傑。エネルギーもバイタリティも溢れ、男以上の行動力と決断力に一目置かれる存在。女にしておくのはもったいないと、時折苦笑気味に部長がぼやいていた台詞を思い出した。
数ヶ月経っても築かれてしまった壁はそのままで、未だに腫れ物のように扱われていた爽は、僅かながら彼女の態度に瞠目した。裏表のない笑顔と性格は、自分には縁遠いもので。眩しいその姿に目が眩む。
――苦手な相手だ。
関わるべきじゃない。
そう思い距離をあけた付き合いしかしなかったが、気づけば徐々に信頼を寄せていくようになる。
心が惹かれ、信頼だった気持ちがそれ以上の感情を伴い、完全に恋に変わるまでおよそ二年。それは恋をしていると認めるまでにかかった年月だ。
自分の心をようやく認められたのは、あの失恋相手だった蘭子が結婚すると情報を入手した後。気まぐれのように時折連絡を取り合っていた彼女の親友で、腐れ縁だった常盤ゆかりから報告を受けたのだ。
『伝言があったら伝えておくけど』とそっけないメールが届いた時、彼はその提案を断った。自分から伝えるべきだ。会いに行く勇気はないし、向こうは会いたくないだろう。それならと、爽はウエディングカードを書くことにした。
別に蘭子に未練があるわけではない。あの神薙専務と交際から2年。顔見知り以上の彼等が結婚する事に、どこか寂しさは感じられるが、今なら素直に祝福できる。彼女と同じく、自分にとっても特別な相手が幸せになる事は喜ばしい。
ただ、いざ気持ちを伝えようとしても言葉が出てこなかった。言いたい事はたくさんある。あの別れから一度も会っていないのだ、向こうはきっと怒っているだろう。が、謝罪から始めるのは少々躊躇われる。折角の晴れ舞台を辛気臭い気分にさせたくない。
おめでとう、の一言だと嫌味に聞こえるだろうか。「ご結婚おめでとうございます。末永くお幸せに」というフレーズを一文書くだけでもいい気がしてきた。しかし少々硬い気もする。
自分の本心を書く事がここまで難しいとは。纏まらない言葉にため息を吐いた。
ようやく書けたのは、たった4文字。「お幸せに」という言葉のみだった。
シンプルで、でも心からの気持ち。丁寧に書いたそれを封筒に仕舞い、知らされた場所へ赴く。本人たちに会うつもりはない。偶然陰から姿を見られればいいが、捜すつもりはなかった。
受付に赴き、暫くぶりに顔を見せる同級生の許へ向かった。半年ほど前に結婚したばかりの彼女は、別段驚く様子もなく、ただ小さく嘆息し自分を見つめた。
「で、そのカード一枚だけってわけね」
「それ以上は迷惑になるかと思って」
言葉が少ない彼女は、やれやれという風にカードを受け取る。目線だけで会わないのかと問いかけられ、爽は僅かに首を振った。そっか、と頷いて納得するゆかりを見て、小さく自然と微笑みが漏れた。
思えば、ゆかりとの関係もこれまた奇妙な物だ。
蘭子を通じてでしか成り立たない、知人以上友人未満の関係。腐れ縁という呼び名が一番しっくりくるであろう。特別親しいわけでもないのに、お互いの連絡先は知っている。外見を取り繕った自分と本来の中身を知っている貴重な存在。だが必要以上に親しくならないのは、お互いにそれ以上の関心がないからか。
時折、思い出したかのように連絡が来る事があった。ごく稀に、自分からメールを送ることもある。
彼女から来るのは決まって一言、「生きてる?」の単語。元気かどうか、そこまで気にはなっていないだろうに。社交辞令のようにそっけない一言は、実に的確に欲しい情報を得ようとしていた。
ちゃんと生きていればそれでいい。どんな生き方をしているのかまでは興味がないし、それ以上の情報は背負えない。そう暗に言われるのは、ある意味楽だった。
メールを返す事が返事の代わりになる。「蘭ちゃんは元気?」と訊けば、そっけなく『元気』だと返ってきた。半年に一度、もしくは一年に一度の頻度でも、彼女の様子が知れた事で安堵の息が漏れる。自分が心配しなくても、彼女は元気でいるはずなのに。
カードを渡した後。澄み渡るような空を見上げた時、確実に気持ちが吹っ切れた事に気付いた。
自分は過去の人間。未来を見つめて歩く眩しい姿の蘭子は、息を呑むほど美しいだろう。
「お幸せに」
遠くからお祝いの歓声を聞きながら、爽も自分の気持ちに向き合う事を決意した。
◆ ◆ ◆
古いアルバムを広げる。年月が感じられるそれは、大事に保管していたのにも関わらずやはり色があせていた。
幼くあどけないかつての同級生達は、今会ってもきっと面影はないだろう。特に女性は変わる。そして一番変わったと思われる人物の写真に目を留めた。
内気さが滲み出た顔。子供らしい丸い頬に、猫っ毛な髪。この時の大人しい少女が、まさかあんな風に成長するなんて。きっと12歳の彼女自身もわからなかったはずだ。
くすりと笑みが漏れた。と、直後。ソファに座る背後から、自分を呼びかける可愛らしい声が聞こえる。
「パーパ、なにみてーのぉ?」
水玉模様の可愛いワンピースを纏った、女の子。
髪を左右の高い位置で結び、小さなリボンが飾られている。お出かけ着に身を包んだ愛娘を見て、爽はふわりと微笑みかけた。
「可愛いね、よく似合ってるよ」
「ほんとー!?」
満面の笑顔を見せて喜ぶ娘を抱き上げて、膝に乗せる。それまで眺めていたアルバムは、目の前のローテーブルに置いた。
「それなぁにー?」
「アルバムだよ。パパの大事な宝物」
「みたい!」と言う娘を宥めて、「もう時間がないからまた今度ね」と答えた。少しだけ頬が膨れた姿がまた愛らしい。ぷくぅ、と黙って頬を膨らませた娘の頭をポンと撫でる。当然、髪型が崩れない加減で。
「それよりも、ちゃんと自己紹介はできる? 今日はパパの大事なご家族に会うんだからね。いつものように、いい子にしててもらいたいんだけど」
「りぃはいつもいいと!」
膝の上から降りた三歳を少し過ぎた娘は、名前を名乗り始めた。
「いしゃーやりり、さんさいです!」
「い さ は や。諌早凛々子、でしょ? もう一度言ってみて」
「いしゃややりりと」
「りりこ」
「りり、と?」
どうやら、”さしすせそ”と”かきくけこ”が難しいらしい。
首を傾げる娘が可愛くて、つい甘やかしたくなる。
「まあ、可愛いからいっか」
デレッと笑い、そう言った直後。スパン! とスリッパで頭をはたかれた。
振り返れば最愛の妻が仁王立ちで立って自分を見下ろしていた。
「甘やかすなバカたれ!」
「痛いな、涼夏さん」
はたかれた後頭部に手を当てながら微笑むと、妻の凛々しい顔がゆがめられ、盛大にため息を吐かれた。酷いと思うが、その真っ直ぐな本心が嬉しく思える。
「凛々はまだ3歳なんだし。あまり厳しいのはよくないよ」
「あのね、3歳までが重要なのよ。まったく、凛々がろくでもない大人にならないように、今のうちからしっかりしておかなくちゃ」
ぶつぶつつぶやきながら、支度を整えた妻の手を取る。
気持ちに気付いてから、口説いて口説いて、ようやく交際までこぎつけたのは1年後の事だった。それから結婚までまた1年かかり、すぐに娘をもうけた。
4歳年上の彼女は、裏表のない真っ直ぐな人間。自分にはない物を持つ彼女に惹かれたのは、必然だったのかもしれない。頑固で頑なに求婚を拒み続けた彼女を口説き落とすのは骨が折れたが、誠実である事、彼女を傷つけない事を約束し、ようやく頷いてもらったのだ。その時の喜びようは、言葉では言い表せない。
「あんた、本当によく笑うようになったわよね……。初めて会った時は、あんなに無愛想な子だったのに」
「俺の笑顔を取り戻してくれたのは涼夏さんですよ」
蕩けるような眼差しで見つめれば、彼女はさっと視線を逸らす。その顔が少しだけ紅潮していた。照れている証拠だ。
「そんな事よりも、お相手の神薙さん。すごい緊張するんだけど。いきなりお宅訪問だなんて」
「まあ、そうだけど。向こうの希望だからね。俺だって神薙さんに会うのは8年ぶりとかなんだから」
緊張しないはずがない。
だが、再び会える事への喜びがないわけではない。
新しいワンピースを着させてもらい、大喜びではしゃぐ愛娘を呼びかける。
「今日遊びに行く神薙さんにはね、凛々より3歳上のお兄さんがいるんだよ」
「おにーちゃん?」
「そう。仲良く遊べるといいね」
うん! と元気よく返事した娘を抱き上げる。
「凛々の名前はね、いつも前を向いて凛とした姿が美しい子になって欲しいのと、もう一つ。百合の意味もあるんだ」
「おはなー?」
「そう。英語でリリーって言うからね。そのお兄ちゃんのお母さんは、蘭子ちゃんって言うんだ。蘭も綺麗なお花なんだよ。お母さんとも仲良くなれるといいね」
「うん!」
車のチャイルドシートに娘を乗せて、目的地へ着くまで。爽はこれまで過ごした8年間を思い浮かべる。
きっと彼等も変わっているだろう。専務はもう40歳を過ぎているが、もしかしたら驚異的な若さを保っているかもしれない。彼女の美貌はきっと衰えていないはずだ。
お互いの子供達の話、これまでの話、そしてこれからの話。積もる話はたくさんある。
ようやく果たせる再会までの間。爽は穏やかに微笑みながら想いを馳せた。
そして諫早家の娘と神薙家の息子はいずれ恋仲に…
なーんて事になったらまた楽しそうですが。
その可能性もゼロではないかと。
次回から番外編スタートです。
リクエストの多かった専務視点、専務と蘭子の恋人期間を一話ずつ気まぐれに投稿しようと思っております。
興味がある方はもう少しお付き合いください。




