12.噂
気がつくと視界に映るのは見知らぬ天井。広々とした部屋に鎮座されているベッドは、私が普段寝ているシングルベッドの倍の大きさで、寝起きの頭はその意味を深く考える事なく室内をぼーっと眺めていた。
が、すぐに頭が覚醒し、私は盛大に顔を引きつらせた。
「え、……ええ!? ちょ、ここどこ!?」
誰かの部屋……いや、もしかしたらホテルの部屋!?
そんな所に自分から入った記憶がない。というか、最後の記憶は一体どこだ!
「落ち着け、落ち着くのよ蘭子……。昨夜無事にパーティーを終えた後、あんたは一体何をした」
ベッドから出て立ち上がれば、ふと自分の服に目が向いた。見覚えのないパジャマは、私の私物ではない。浴衣かガウンのように前であわせる形のこの寝間着は、ゆったりとしていて着心地がいい。肌触りもすべすべ……って、私いつの間にドレスを脱いで着替えたの!
「記憶が……、専務と中庭で話して、リハビリの提案を受けた所で終わってる!」
ギュッと抱きしめられたり、子供をあやすようにゆっくりと背中を撫でられたり。あの人の声が自動再生されて、咄嗟に両耳を手で押さえてしまった。
思い出すな、絶賛パニック中の今は思い出しちゃいけない!
「とりあえず、洗面所使おう……」
豪華なバスタブを見れば、ここがかなりいい部屋だとわかる。顔を洗ってすっきりすると、化粧も落ちていた事に気付いた。クレンジング、した覚えはまったくないし、肌荒れを起こしている感じもしない……。ちゃんと保湿がされていた肌に、首をひねる。
一体気を失った後、何があったの!
「まさかと思うけど、私あのまま寝ちゃったりして……」
――なんて嫌な予感は、見事的中していた。
綺麗にクローゼットにかけられたドレスに、これまた用意されていた見覚えのない服に袖を通した後。扉がノックされて、専務が顔を出した。
困惑と戸惑いが強い私を見て、専務は一言「おはよう」と挨拶をする。慌てて私も「おはようございます」と返し、綺麗に片づいてある部屋のソファへ彼を案内した。
「あの、専務……」
「まだ寝ぼけているのか? 蘭子」
うっ!
いきなり名前呼びは反則……!
ゆったりと足を組み、ソファに腰掛ける専務に名前で呼びかけた。
「いえ、迅さん。あの、ここはどこでしょうか……。まさかと思いますが、私あのまま寝てしまったなんて……」
違うと否定してほしい私に、専務はふっと笑いかけて一言「そうだ」と言った。くらり、と目の前が暗くなる。
「も、申し訳ありません! とんでもないご迷惑を……!」
「全くだ。あの場で寝られるとは俺も思わなかったぞ」
「すみません、寝不足と疲労が恐らくピークに……」
社会人失格だ。いや、大人としてもどうなの!
この部屋がやはり昨日パーティーがあったホテルの部屋だとわかった。そして私をアパートに連れて帰るわけにもいかない、自宅に連れて行くのも私の心情を慮れば躊躇われる。(専務は別に構わなかったらしいが。)仕方がなく、このホテルに部屋を取ったそうだ。
「同じ部屋でも良かったんだがな?」
にやりと笑った専務に私は深々と頭を下げた。無理です、そんなの! こっちの心臓がもたないって!!
「あの~、物凄く尋ねにくいのですが……」
私の服は誰が着替えさせたんだ。
流石にこの人に全部させたとなると、軽く羞恥で死ねる気がするわ!
私の質問の意図に気付いた専務は、若干眉間に皺を刻んで嘆息した。
「あの後意識を失った君を運ぶのは、なかなか大変だったんだぞ。ドレス姿の若い女性を横抱きにしてチェックインをするわけにはいかないから、秀を呼んだ」
「え、愛沢さんを?」
「まだ会場内にいたからな。あいつに頼んで部屋を2部屋取ってもらい、奴に女性の手を借りた」
「女性の手って、まかさあのパーティー参加者の誰か……」
ギャー! それも恥ずかしいー!! そして何て迷惑な女なの!!
「いや、あいつの妹だ。パーティーには来ていなかったが、丁度仕事帰りに会う予定だったそうで、すぐに来てくれたんだ」
「妹さん?」
そういえば、愛沢さんの妹さんって確か人気アイドル声優だったはず。歳は私と変わらなかったような……
「では、着替えとメイクも全て彼女が?」
「ああ、そうだな」
はっきりと答えられて、申し訳なさでいっぱいになる。お礼とお詫びに何かお菓子でも送らないと。
「あの、いろいろと申し訳ありません」
再度謝罪した私に、専務は深々とため息を吐いた。よく見れば、彼の目の下には若干隈が見える。って、あれ? 専務も寝不足なの?
「君にはいろいろと教える必要があるようだな。仮にも君を落とそうとしている男の前で、無防備な寝顔を見せるほど危機能力が低下しているらしい。何があってもおかしくはなかったんだぞ」
「それは、ええ、全く仰る通りで……、」
「あいつには散々からかわれるし、こっちは気になって眠れないし……って、それはいい。だがな、俺以外の男の前でそんな姿を晒さないよう約束はしてもらう」
「はい、二度と人様の前で眠りこけるような無礼は働かないと誓います」
そうはっきり断言したのに、専務は数秒沈黙した後。再び大きなため息を吐いた。
「微妙に言ってる事が伝わってない気がする……」
「はい?」
「今度護身用にいろいろと手配をしておくから、必ず携帯するように。夜遅くに人通りの少ない道は歩かない、帰宅時間が遅れるなら俺に連絡しなさい」
何やら話の矛先が違う方に言っている気がするのですが。
内心首を傾げながら、とりあえず頷いておいた。
「何だかお父さんみたいですね」とつい呟いてしまった言葉に、専務の頬が盛大に引きつった顔は、暫く忘れられないと思う。
◆ ◆ ◆
あっという間に濃い休日が過ぎて、月曜日。いつも通り出社し、秘書業務に勤しむ私に、秘書課長が声をかけた。
「すまん、久住君。ちょっと頼まれて欲しいんだが」
「はい、何でしょう?」
至急書類を他部署に届けて欲しいと頼まれる。会議に出席中の専務はまだ戻ってこないし、今急ぎの案件はない。特に構わないと告げて、私はエレベーターに乗った。
ふと、以前も書類を頼まれて持って行った先で諫早に出会った事を思いだす。まあ、今回は営業のあるフロアじゃないし、うろちょろ歩いていてもそう簡単には遭遇しないだろう。奴も外回りが多い営業だし、社内はかなり広い。
そんな偶然が起こるはずないっか、と気を楽にしてエレベーターに乗っていたら。とあるフロアで停まり、開いた扉の先には今一番会いたくない人物が!
う、噂をすれば影……違う、2度あることは3度ある? って、2度目はいつだっけ!? ああ、一番初めにどっかの店に誘われた時かよ!!
無表情のまま、無意識のうちに扉を閉めるボタンを押せば、軽く驚いていた奴の手がすかさず伸びて、扉を開けた。内心舌打ちをしたい衝動に駆られる。
ひょっこり後ろから顔を出した小林さんが、「あれ? 久住さん?」と声をかけた。
二人きりじゃないのなら大丈夫だろう、と軽く挨拶をして安堵した直後。エレベーターに乗って来た奴が平然と言い放つ。
「金曜日ぶりだね? 蘭ちゃん」
「は?」
「(は!?)」
恐らく小林さんと私の発言は綺麗にハモっていただろう。咄嗟に口には出さなかったが。
「え、お前いつの間に名前呼びするほど仲良くなったんだ?」
素朴な疑問を尋ねるように小林さんが諫早に訊けば、奴は一言「彼女とは小学校の同級生だったんだよ」と、言って欲しくはない事実を明らかにした。
「え、そうなんですか?」
「ええ、そうなんです」
おほほほほ、と控えめに笑っているが、心の中では罵倒しまくりだ。諌早は完璧に外面を取り繕う私の姿を見て、小さくクスリと笑っている。あんた、本当に性格が悪いわね!
「すごいな、そんな偶然ってあるんですね」
「運命の再会みたいだよね?」
「まあ……どうかしら」
諫早ぁあああ! あんた完璧私の反応を見て楽しんでいるわね!?
この再会が偶然起こった物ならまさか運命? と思えるかもしれないが、これは念入りにリサーチして追いかけた結果であって、偶然では決してない。
って、今気づいちゃったけど、それだと私、こいつのストーカーみたいじゃないの。そ、それは絶対に嫌―!!
早く、早くエレベーター着きなさいよ! まだ到着しないの!?
ピリピリした空気を笑顔で放っている私に気付いている諫早と、全く気付かないで陽気に笑いかける小林さん。無邪気で無害な人の笑顔ってどうしてこう眩しく感じるのかしら。自分がどこか汚れている気分になり、微妙に落ち込んでしまう。
「それじゃ、久住さん。また今度飲みに行きましょうね!」
「ええ、是非」
「抜け駆けはダメだよ? 小林」
「お前はとっくに彼女と行ってるだろー」
そんな会話を二人でしながら、奴らは去って行った。去り際に振り返り、意味深な微笑みを私に投げた諫早の顔は、速攻で脳内消去してやる。
頼まれた書類を渡し終えて、その日の一日が終わる頃。社内で密かに広まっている噂を耳にした。
「え~、諫早さんと久住さんって小学校の同級生だったの?」
「幼馴染って事? だからあんなに親しげなの」
「運命の再会とか盛り上がって言ってる人もいるんだけど」
「マジでー? 何だかショック~」
そんな女子社員の会話を聞いて、思わずその場に固まってしまった。
ショックなのはそんな噂が一日で広まっているこの現状だわよ!
「小学校の同級生の私なんかよりも、中学・高校・大学まで一緒だったゆかりの方がよっぽど話題性があるだろうに……」
ゆかりの事にはまったく触れない。むしろ知ったとしても、気にもとめないだろう。
この噂を流したのが張本人か、それとも小林さんか……。考えるだけで、何だか頭が痛くなってきた。




