糖尿病になってしまう
「この私をからかうだなんていい度胸だわ! まったく、なんてしつけの悪い……いったい全体どんなお仕置きをしてやろうかしら……」
どうにか必死で宥めすかして注文を済ませ、テーブルについたあとも野菊はぷりぷり怒っていた。
自分のにおいを逆に嗅がれたのがどうやらかなり耐え兼ねたらしい。ぶつぶつ呟く言葉の中に、時々「鞭」とか「火」とか「ローソク」とか物騒な言葉が紛れ込んでいるようだが、極力気にしないことにする。でも有刺鉄線だけはほんとやめてね?
「ねぇ、ちょっと……野菊さん?」
『僕にお仕置きをする108の方法』をぶつぶつ呟いている野菊に話しかける。
だけど。
「…………(ギンッ)」
野菊の反応はというと、無言で僕を睨みつけるだけ。
それからすぐに僕から目を逸らして、
「……別に私の体臭はキツくないわ」
と、小さな声で文句を告げてくるばかり。
「いや、そんなことは僕は一言も――」
「…………(ギンッ)」
「そんなきっつい目つきで野菊に睨まれると、なんだかいい感じにゾクゾクしてくる――あいたっ」
言いかけたところで、野菊が抗議するかのようにゲシゲシゲシッとテーブルの下で僕の向こう脛を蹴り付けてくる。
どうやらだいぶご立腹のようであった。
先ほどから野菊はずっとこんな調子であった。
どんな言葉をかけてみても、「私の体臭はキツくない」だとか、「変態犬の鳴き声が聞こえるわ」だとか、「そうやって私を辱めようというのね」だとか、そんな反応ばかりである。
そのくせ僕の服の裾を掴む手は頑なに離さない。気づけば仏頂面で体を引っ付けてくるのも相変わらず。
なのに口だけは利いてくれなくなってしまった。
いったい僕にどうしろと。まあ、冷たい態度を取る野菊も愛らしくていじらしくてついついからかってやりたくなってしまうのだけれど。
なんてことを思っていると、まるで僕の心を読んだかのようなタイミングで「つんつんっ」と野菊がつま先で僕の向こう脛を突っついてくる。
まるで、「蹴ってごめんね?」とでも言いたげな突っつき方だった。表情は相変わらず素っ気ないくせして、下半身は正直な女である。
「全然大丈夫だよ」という意思を込めて、僕も軽くコツン、とつま先で野菊のふくらはぎに触れる。すると野菊が、表情を僅かに綻ばせた。
だがすぐに彼女は僕の視線に気づくと、緩めた表情を引き締めて再び「ムッ」とした顔に戻ってしまう。
それからまた、「私の機嫌を取りなさい」と、つま先トントンでのメッセージを僕に向かって送ってきた。
機嫌を取れ、か~。
とりあえず、セットで頼んだポテトを一本手に取って野菊の口元に差し出してみる。
「……これはなんのつもりかしら?」
「野菊に機嫌を直してもらおうと思って」
「こんなもので私の機嫌が良くなるとでも? 私も随分と安く見られたものね」
「そう? それじゃあ、これは僕が食べようかな」
ポテトを引っ込めようとすると、野菊の首が伸びてくる。
そして彼女の唇が、僕の指ごとポテトをくわえた。丹念に、指先についた塩や油まで舐め取るようにして、野菊の舌が指に絡み付いてくる。
「ふへぁ!?」
柔らかくて温かな感触に、思わず僕は変な声を漏らす。
だが、野菊としても予想外の出来事だったのだろう。ポテトだけを口にするつもりが、僕の指まで食べてしまったのだから。
「~~~~~~~~~~っっっ」
だから野菊の顔は、火を吹きそうなぐらいに真っ赤な色に染まっていた。
恥ずかしさが限界突破でもしたのか、ゲシゲシゲシゲシッ、と物凄い勢いで僕の向こう脛を蹴飛ばしてくる。秒間およそ30発ぐらいの激しさだ。それだけで、野菊がどれほどの恥ずかしさを覚えたのかも分かろうというものだがそれはそれとして痛い痛いめちゃくちゃ痛い。
「い、痛い! 野菊さすがにそれは痛いから! 弁慶でも泣き出す人体の急所だから!」
慌ててそう告げると、蹴りの嵐はさすがに止んだ。だけど野菊は「フーッ! フーッ!」と追い詰められた猫が威嚇する時みたいな声を上げながら僕のことを睨みつけてくる。
そして。
「な――なんてもん食べさせるのよこの、○××*※※△※○●!!」
罵る言葉も見つからないのか、無理やり言語化するとしたら「フッシャァァァァァァァッッ」みたいな声を上げる野菊であった。
今も恥ずかしさが引かないのか、両手で顔を覆って「うぅぅぅ……」とうめき声を上げている。そこまで大袈裟な反応をされると、僕のほうは逆に冷静になってしまうぐらいだった。
「野菊、ねぇ野菊……大丈夫?」
「だいじょばないわ……」
テーブルに突っ伏して答える野菊。それはもう見るからにぐったりとしてしまっていた。
「こういうのはダメなのよ……不意打ちはずるいわ。こうしたことは手順と段取りを踏んだ上でお互いに示し合わせてからしないといけないのだわ。そうでなければ不潔だわ。破廉恥だわ。うぅ……口の中に駄犬なんかの体の一部を無理やり取り込まされてしまったわ。これはもう実質、性的陵辱だわ。また一つ、たかだか庶民でしかないワン公に体を汚されてしまったわ……」
「いやあ……この件に関しては完全なる自業自得。言い訳の余地がないオウンゴールだと思うんだけどなあ」
「事実としてはそうだとしても感情としては無理やりにでも責任をあんたに擦り付けたくてたまらないのよ!」
「すごいぶっちゃけ方したね」
「第一なによ、このポテトは! 油使いすぎでベットベトだし塩気はキツいし、こんなもの食べたりなんかしたら体の毒でしかないじゃない!」
「しかも今度はポテトにまで八つ当たりを始めた!?」
「うるさいわね! このポテトの味付けがおかしいのは本当のことじゃない! 塩っ辛くて油でベタついてるのにやたら胸焼けしそうなぐらい甘ったるいとか、正気の沙汰じゃありえないわ!」
「その甘さは多分、舌じゃなくて心で感じてる味じゃないかな?」
僕の言葉に野菊はまた頬を赤らめると、
「そっそんなんじゃないわよっ」
とそっぽを向いた。
そんな彼女に、ハンバーガーの包みを手に取りながら僕は問いかけた。
「まあまあ。いつまでもヘソ曲げてないでさ。こっちも食べてみたらどうかな?」
「……食べ方が分からないわ」
「あー、そっか。野菊はこういうの食べるイメージないもんね。ハンバーガーは、こうやってさ、包み紙を半分ぐらい開いて手に持って食べるんだ」
説明しながら、僕は実際に野菊に分かるように包み紙を開いてみる。
そして、紙の部分を持ってそのまま一口かじってみせた。
「ね? 簡単でしょ」
「……つまり品のない食べ物ということね。まるで品性の欠片も感じられないわ。意識と知能指数と生涯所得が軒並み低そうだわ」
「でもおいしいよ?」
「どうだか。だいたい、それ一つでいったいいくらなの? どうせゴミみたいな原価率でしょうけれど――」
景気良く野菊の口が回っているようなので僕の食べかけのハンバーガーをそこに突っ込んでみた。
「ふ、ふが、ふがふが(ちょっと、何をするのよこの駄犬!)」
「まあまあ、ほら、まずはとりあえず食べてみなって」
そう促すと、野菊が口の中のものを何度か咀嚼してからごくりと飲み込んだ。
それから、妙に難しい顔つきになる。
「どうだった?」
「おかしいわ。やっぱりなんだか妙に甘いのよ。きっと大量に砂糖が使われているに違いないわ。こんなものを食べていたら、きっと糖尿病になってしまうわ」
味の感想を聞いてみると、返ってきたのはそんな答えだった。
おかしいなあ。僕は、肉とケチャップのしょっぱい味がしたと思ったんだけどなあ。
――その後、間接キスをしていたことに気づいた野菊がまた可愛らしくぷんすか怒り始めたのは言うまでもない。




