凍れる河
悲歌可以當泣、遠望可以當歸。
思念故鄉、郁郁累累。
欲歸家無人、欲渡河無船。
心思不能言、腸中車輪轉。
――『楽府』漢・佚名《悲歌》
悲歌は以て泣くに当つべく、遠望は以て帰るに当つべし。
故郷を思念すること、郁郁累累たり。
家に帰らんと欲するも人無く、河を渡らんと欲するも船無し。
心に思うも言う能わず、腸中に車輪転ず。
悲しい歌を歌って泣くのを堪え、遥かな遠い空を眺めて帰るのを堪える。
故郷を思い懐かしめば、悲しみが沸き起こり重なっていく。
家に帰りたいがもはや親しい人もおらず、河を渡りたいが船がない。
帰りたいと思う気持ちを口にすることは許されず、
悲しみが腸の中で車輪のようにぐるぐると回って、磨り潰されてしまいそうだ。
***************
薊の城を危ういところで脱出した文叔ら一行は、「北に向かう」という最初の決定をあっさり放棄して、そのまま南へとひた走った。城を出て割とすぐ、ゆっくり後から来ていた賈君文の一隊と行き会う。
「なんかヤバい雰囲気っすよね。北はダメっすか」
「道案内すると言い張っていた男とはぐれた」
「ああ、あのスカした若造! 今どきの若いモンは、これだからー」
夜が明け、少しだけ落ち着いては来たものの、危機が去ったわけではない。が、のんびりした賈君文の言葉に、文叔は何となく、ホッとした気分になる。
「で、これからどう、するんです?」
賈君文に聞かれ、寒い中に焚火をして暖を取りながら、文叔は考える。もちろん、周囲に見張りを立て、いつでも出発できるようにしている。偵察に出した兵たちが、まだ汚れていない溶け残った雪を持ってきて、それを鍋に入れて沸かし、熱いお湯を飲んで人心地つく。
もともと、若造こと耿伯昭の案内で、薊の北方にある、漁陽郡か、上谷郡に逃げ込むつもりだった。だが、匈奴などの異民族との混住地域である山地に、案内もなく踏み込む勇気はなかった。北がだめなら――。
「信都郡に向かおう」
朱仲先が言う。
「信都太守の任伯卿は、もともと宛の郡吏で、俺のウチの近所に住んでいた。俺のことも憶えているはずだ」
信都は、太行山脈の際に数珠繋ぎに連なる各都市よりも、かなり東側、薊からまっすぐ南下したあたりになるはず、と見当をつける。
「ならば信都で合流しよう」
文叔は進路を定め、賈君文の一隊とは敢えて別行動をとることにして、信都での再会を約束した。
邯鄲が自称・劉子輿の本拠に奪われ、薊もあちらの陣営の手に堕ちた。……河北で最も大きな城邑が、どちらも奪われてしまった。あとは、信都か、鉅鹿か――。
鉅鹿と聞いて、文叔は、邯鄲の城を任せてきた耿伯山を思い出す。
――あっさり寝返ったのか、あるいはいったん、引いたのか。
耿伯山は文叔と同時期に長安にいた。あの慎重な男が、成帝のご落胤などという触れ込みを信じるだろうか? それとも、ニセモノとわかった上で、文叔や劉聖公より使い道があると寝返ったか。耿伯山は真定王の甥だと言っていた。広陽王の一族は劉子輿に味方してしまった。真定王も向こうについたとなると、河北の劉氏を軒並み敵に回すことになる。
文叔は唇を噛む。
本当に、劉氏に生まれて三十年、全くロクな目に遭わない。天も、少しはいい目を見させてくれてもいいと思うのに。
文叔は冬の曇天を仰ぐ。
――昆陽で勝たせてもらったことで、すべて帳消しとか、ないよね? 蒼天よ――。
南下を続ける一行は、河北北部を東西に流れる呼沱河の北に位置する、饒陽に至る(*1)。
厳寒の河北の平原を、途中の城邑に立ち入ることもせず、野宿をしながら猛スピードで駆け抜けてきたわけだ。道中、何度か追手に追いつかれ、力ずくで撃退した。夜逃げ同然に薊の城を飛び出し、途中で補給もできず、糧食が尽きてしまった。寒さの中の強行軍に、さらに空腹が追い打ちをかける。
「文叔、どうする? どこかで、食糧を調達しないと……」
鄧仲華が文叔の耳元で言う。
「わかっているが、邯鄲の勢力がどこまで及んでいるのか、わからない。僕は賞金首なんだぞ?」
だが、ここまでついてきてくれた兵たちも、空腹が数日続けば離反するだろう。
「兵士が逃亡すれば居場所がバレるよ」
「それもわかっているが……」
わかり切ったことを言い出す鄧仲華に内心、ムッとしながら、文叔が馬車の中で考えあぐねていると、前方から馮公孫が言った。
「劉将軍! この先、県の伝舎があります!」
伝舎とは、郡県間の文書のやり取りをする使者や、中央派遣の官吏などに、食事や宿を提供する施設である。
「……伝舎なら、食い物はあるよな?」
「伝舎を襲って食糧を奪うのか?」
「別に強奪しなくても、出してもらえばいいんじゃないか?」
「逆賊に食事を提供してはくれないだろう」
「逆賊だって自分から言う必要もないだろう。……仲華は若いから、お付きの若者に見えるな?」
「ええ?」
文叔は懐から名刺を出すと、そこに邯鄲の天子からの使者で、薊からの帰り路だと書いて、傅子衛に持っていかせる。……年嵩で落ち着いた雰囲気の傅子衛なら、騙せると踏んだのだ。
「いいか、私たちは『邯鄲の天子様の使者のご一行様』だ。それっぽく振る舞えよ?」
名刺を渡された傅子衛は一瞬、目を見開いて息を飲むが、にやりと笑って馬腹を蹴る。
「承知! ゆるゆるとおいでなさいませ! お使者殿!」
「馮公孫を連れていけ、二人の方がそれっぽい!」
「は!」
駆けていく二人を見送り、文叔は溜息をつく。隣に座る鄧仲華が、青い顔で口元に手を当てる。
「まさか邯鄲の使者を騙るつもり? 大丈夫なの?」
「さあね!」
伝舎では、「邯鄲の天子様の使者」には、最上等の食事が準備されていた。
「……やっぱり、ここも邯鄲の勢力が……」
文叔が呟く。
「ようこそ、寒い中を……わざわざお役目ご苦労様です!」
伝吏が恭しく拱手して、文叔は鷹揚に頷いて、座を占める。
「いや、どうも、ご苦労」
「薊からの帰り路とは、例の、逆賊・劉秀は捕まったのですかな?」
「まあ、そのうちね。わしは檄文を伝えるだけの役割じゃし」
「そうですねぇ、何と言っても邯鄲の天子様は成帝陛下のご落胤ですし。河南の田舎の劉氏風情じゃあ、相手にもならないでしょうね」
探るような目でジロジロ見てくる伝吏に、文叔は殊更ににこやかに対応し、部下たちにも座るように言う。
「皆、お疲れ様。せっかくの食事だ、ありがたくいただこうじゃないか」
寒さの中、空腹のまま駆け続けてきた男たちは、目の前に並ぶ豪華な食事に目を瞠り、ゴクリと喉を鳴らす。
川魚の膾、粟と黍の飯、羊肉と野菜の羹……季節柄、野菜は少なめだが、干した果物や温めた醪。
「では皆――」
文叔が言い終わる前に、王元伯がガッと黍飯を掴み、ばくりと頬張る。それにつられるように、朱仲先が羹の椀を抱え込み、匙も使わずにずずっと啜る。末席の方はさらにひどく、奪い合うように料理をがっつき始める。あまりの不作法さに、伝吏が思わず眉を顰めた。
「お使者殿のご一考は、ずいぶんとご空腹のようですね? 前の伝舎では食事されなかったので?」
「あ、ああ……前の伝舎での食事から少し時間がかかってしまってね、アハハ、ホラ、行儀悪いぞー、落ち着いて食えー!」
(……や、やば……ちょっとは考えろよ、バレるだろ!)
文叔は頬を引きつらせながら、下座の者に注意をするが、みな食べものに目の色を変えていて、誰も聞いちゃいない。どっからどう見ても、食い詰め者の集団である。伝吏の目がみるみるうちに疑惑に染まっていく。……やばい。
文叔が、なるべくゆったりとした動作で杯を取り上げると、隣に控える鄧仲華が醪を注ごうとするが、手が震えている。――基本、お坊ちゃんだから、ハッタリが効かないのだ。
「あああ……どうされました、ずいぶんと震えて」
伝吏に尋ねられ、鄧仲華がギクりとする。
「い、いえ……あまりの寒さで、手が……とんだ不調法を……」
「お前はその羹を飲んで暖まっておけ、すぐ傷寒を引くからな」
文叔が仲華の手から酒注ぎを取り上げ、手酌で酒を呷る。
「いえ、旦那様、申し訳ございません……」
「ホラ、いいからこの肉も食べなさい、お前は痩せ過ぎて心配だ。もうちょっとは肉が付いた方が寝心地がいいからな、ホラ」
男色の使者様がその寵童を甘やかすのを装って、文叔が鄧仲華の皿に料理を取り分けてやる。仲華は意図を理解せず、気味悪そうに文叔を見るが、伝吏はさらに露骨に、顔を歪めた。
(よし、この伝吏は男色が嫌いらしい。男色疑惑に注意を惹きつければ、偽の使者疑惑を誤魔化せるかも……)
だが、文叔の必死の努力を嘲笑うように、末席の部下たちは意地汚く食物を奪い合って食べていて、伝吏はますます疑いの色を濃くする。
文叔とて腹は減っているから、下品に見えないように料理を頬張る。ここで食っておかないと、次、いつ食べられるかわからない。隣で青い顔をしている鄧仲華は食欲もわかないらしいが、とにかく食え食えと料理を押し付ける。
(キ、キモいよ、何なの?)
(うるさい、いいから男色っぽくしとけ!)
(はあ?!)
耳元でコソコソと仲華と二人で囁きあっていると、伝吏はさらに気味悪そうに顔を歪め、隣の小吏に呟く。
「ニセモノっぽい上に男色とか……」
「邯鄲では男色が流行っているのかもしれませんから……」
伝吏は考えて、「食事が足りないようですね、追加を言いつけてまいりましょう」と言って立ち上がり、部屋を出たところで、ついてきた小吏に言った。
「どう考えても偽物だ。もしかしたら、賞金首のかかった劉秀って将軍かもしれない」
「ええー? あの男色男がですか? 劉秀は昆陽の英雄ですよ? まさか違うでしょう」
部屋を振返って呟く小吏に、伝吏があることを命じた。
しばらくして、太鼓がドンドンドンドン……と数十回も鳴り響き、夢中で食事をしていた一行はハッとする。
「邯鄲の将軍のおなりー! 邯鄲の将軍のおなりー!」
先ぶれのような声が響き、朱仲先が口いっぱいに頬張った黍飯を吹き出しそうになる。
「ええ! 本物が?!」
「まさか!」
一座の者がバタバタを慌て出す。
文叔もギョッとし、すぐにも立ちあがろうとして、しかし思い直して悠然と居住まいを正す。
さきほどの伝吏が恭しく入ってきて、言った。
「邯鄲からの将軍閣下がこの伝に到着なさって……申し訳ないのですが、ご合席お願いできますか?」
こちらを偽物だと見切った表情に、文叔がニヤリと微笑んで、言った。
「もちろん! 邯鄲の、どちらの将軍かな? 趙君だろうか、それとも許君かな?」
「……さあ、そこまでは……」
「ぜひ、こちらに呼び入れてくれたまえ! どの将軍でも会うのは久しぶりだ!」
周囲の者がハラハラと眺めるが、文叔は動じることなく、にっこり笑った。伝吏は眉を顰め、一礼して出ていく。朱仲先が、そっと囁く。
「……いいのか?」
「慌てるな、食事を続けろ。……お前らががっつき過ぎたから、疑われたんだよ。それらしくしろって言っているのに」
文叔がことさらに余裕綽々に見えるよう、焼いた骨付きの鶏肉を噛みちぎる。
「だが、本物が出てきたら……」
「大丈夫だって。……本物が出てきたら、ぶっ殺して兵を奪うだけのこと」
冷酷に言い捨てた文叔の言葉に、隣の鄧仲華がハッとする。
「……たぶん、出てこないけどな」
文叔の呟きとほぼ同時に、伝吏が入ってきて頭を下げる。
「邯鄲将軍はここはお寄りにならず、立ち去られました」
「おやおや、それは残念至極。……私は嫌われてしまったかな?」
文叔はまっすぐに伝吏を見つめ、言った。
「さて、ずいぶんと歓待されて腹もくちた。我々も根が生えないうちに、出立するとしよう。この伝舎の料理は素晴らしかったと、邯鄲でも告げておくよ。次の機会にも是非、ここを利用したいね」
「それはそれは、過分なお褒めに与かり、恐縮に存じます」
納得しきれていない伝吏が答え、文叔たちは立ちあがり、ぞろぞろと車に乗り、荷馬車を引き出す。
「あー食った食った……ニセモノって案外バレないもんだな」
朱仲先が暢気なことを言い、馮公孫が肩を竦める。
「いや、たぶんバレてるけど、決め手がないから手が出せないだけで……」
一行が伝舎の門を出ようという時になって、背後から先ほどの伝吏が叫ぶ声が聞こえた。
「待てー! 門を閉めろ! そいつらニセモノだー! 食い逃げだー!」
「げげ! 何で今頃バレるかな?」
「そりゃあ、符(通行証)が偽物だからだろう」
「何だよ、見逃してくれるのかと思ったら……」
「とにかく急いでずらかるぞ!」
こもごも勝手なことを言って、車馬のスピードを上げ、門を突っ切ろうとする。門を守っていた兵士たちが武器を構えて襲い掛かってくるのを押しのけ、無理矢理に突進する。剣撃の音が響き、馬が嘶き、馬脚が乱れる。乱闘する兵の向こうで、白い髭の門番の爺さんが門を閉めようとするのが見え、文叔が車から顔を出して言った。
「爺さん! 開けといてくれよ! 頼むよ!」
「待てー! 食い逃げ野郎ー!」
文叔めがけて斬りかかった兵を、馬車の横についていた銚次況が槍の柄で押しのける。
白髭の爺さんはじっと文叔の顔を見て、笑った。
「あいよ!龍顔の兄さん!たしかに、長者の頼みは断れんよ!」
ガラガラガラガラ……一気にスピードを上げた文叔らの一行は、そのまま饒陽の伝舎の門を通り過ぎ、走り抜ける。
その後ろ姿を見送って、伝吏ががっくりと地面に膝を折った。
伝舎で無事に食事を終え――要するに食い逃げに成功し――たものの、同じ手は二度と使えない。とにかく急いで南に向かい、信都太守のもとに逃げ込まなければならない。昼夜兼行で馬車を走らせれば、呼沱河の畔に出た。橋はもちろん、船もなく、河を渡る方法がない。文叔は寒々しい空の下、呼沱河の向こう岸を見つめる。
灰色の空からは白い雪がちらつき、川面を渡る風は身を切るほど冷たい。川岸に等間隔に植えられた柳の枝が、河北の寒風に揺れる。
――寒い。
文叔は馬を河原に下ろし、水を飲ませる。ところどころに、溶け残った雪が固まりになり、天を仰げば白い粉雪が落ちてくる。西の――はるか向こう、太行山脈の向こうから、雪雲が流れてきて、今夜は大雪になるかもしれない。
どうする。どうやって河を渡る。
文叔も、そして配下にも、河北の地理に詳しくない。馬で渡れそうな浅瀬の場所も、津の場所もわからない。津はつまり関所。邯鄲の手配書が回っているだろう。
「……十万戸の賞金首の上に、食い逃げの前科までついたしなあ……」
文叔が溜息をついたとき、見張りに出ていた兵が駆け込んできた。
「将軍! 追手が! 饒陽の吏が上に報告したようです! かなりの集団で俺たちを追っているようです!」
「わかった、すぐに出発だ!」
「どっちへ?」
朱仲先に聞かれ、文叔が天を見上げ、言った。
「西だ! 山に近い方に!」
東に行けば海に向かう。川幅はさらに広くなるだろう。蛇行している呼沱河は、西ならもしかしたら、馬で渡れる場所もあるかもしれない。わずかな可能性に縋り、文叔たちは川沿いを西に向かう。
その動きを読んでいたのか、いくらもいかないうちに、前方から敵がやってきた。
「賞金首だ!」
「十万戸だ! 俺がいただく!」
「させるか!」
文叔が後ろを振返ると、殿近くにいた、祭弟孫が叫ぶ。
「後ろからも来ました!」
「挟み撃ちかよ……! 前に突っこめ! 突っ切るぞ!」
文叔が戟を手に叫び、馬車の際に立つ。
「仲華は隠れとけ!」
仲華が馬車から振り落とされないように、必死に掴まりながら叫び返す。
「僕も男だよ! 何で守られなきゃなんないの!」
「弱いんだから、しょうがないだろうが! 死なれたら困る!」
ガラガラガラガラガラ……馬車の車輪が軋み、スピードが上がる。
まず、前方の敵の一騎目、髭面の大男が駆け込んでくるのを、銚次況が迎え撃つ。ガキーン! 一合、槍と槍がぶつかり合い、だが次の瞬間、銚次況の槍が男の太い喉を貫く。その反対側では、金属の兜を被った男が振り下ろ剣を、馮公孫が槍で薙ぎ払い、すぐ横にいた王元伯が剣で馬の腹帯を切る。ヒヒーン! 馬が棒立ちになり、男が馬から滑り落ち、後ろから来た味方の馬蹄にかかる。その間を、文叔の馬車が敵を蹴散らしながら疾走する。馭者を務めるのは鄧仲華の僮僕の捷。およそ戦闘経験などないはずだが、器用に馬車を制御していく。突っこんできた騎馬の男とすれ違いざま、文叔はブンと戟を横に振り切って、男はぶっ飛ばされる。即座に、背後から下ろされる槍を、文叔が戟の柄をくるりと回しては跳ね上げ、柄でゴン!と男の鳩尾を突けば、敵は「ぐげっ」と叫んでやはり馬から落ちていく。
前方から来た敵はいったん退き、後方の敵と合流してもう一度襲うつもりだ。文叔がスピードを上げろと命じる。雪はさらに激しさを増し、ほとんど吹雪になりかかっていた。冷たい氷雪の中を、休む間もなく走り続け、馬も限界に近づいてきた。背後の追手の気配のないのを確かめて、文叔はいったん、行軍を止める。
「少し休んだらまた出発するが、河を渡れる場所を探してこい」
「だいたい、ここはどこだよ」
皆が口々に言うが、文叔は周囲の様子から、かなり西まで来てしまったと感じていた。
雪はさらに激しくなり、気温も下がってくる。走って汗をかいたところに、寒さが襲いかかる。隣で、鄧仲華が斗篷にくるまってガタガタ震えていた。
「大丈夫か、仲華」
「だ、だいじょうぶ、じゃ、ない、ないけど……」
「頼むから死ぬなよ?」
仲華がギロリと文叔を睨む。
「ぜ、ぜったい、……し、しなないから……」
「あと、少しだけ頑張れ! それとも、僕が裸で温めてやろうか!」
「ヤメロ! 気色の悪い! 諧謔にしても質が悪い! それくらいなら、今すぐ河に飛び込んで死ぬ!」
あはははは、と笑っていると、斥候に出した兵が戻ってきた。
「ここは下曲陽に近い深沢というところで、川幅は狭いのですが、流れが速くて、馬で渡るのは無理です」
「……名前からして深そうだな……」
「ボヤボヤしていると、あいつらがまた来るぞ」
朱仲先が寒さでひび割れた顔を擦りながら言う。吐く息は白く、指先はかじかむ。足元には雪が降り積もっていき、このままでは遠からず凍え死ぬしかない。文叔は王元伯を呼んで命じた。
「これだけ寒さが厳しければ、河も凍ると聞いた。凍って渡れる場所がないか、探してこい」
「……凍る……河が、ですか?」
「いいから、行ってこい!」
絶望的な状況だが、とにかく何でもいいから手を打っている様子を見せておかないと、兵に見限られてしまう。文叔とて、河が凍るなんてこと、話には聞いていたが、信じてはいなかった。
吹雪の中を王元伯は出かけていき、そして、戻ってきて言った。
「……そ、そこで、河が凍っています。あ、あそこなら、渡れるかも……」
その様子に、文叔は直感的に嘘だと思ったが、殊更に笑顔を作って、王元伯を労う。
「でかしたぞ、元伯! すぐに案内してくれ!」
舞い散る吹雪の中を、一向は河へ向かう。すでに日は暮れかけ、気温はさらに下がっていく。元伯が文叔の車に馬を寄せ、覗き込んで言った。
「劉将軍……どうしましょう!」
「元伯、落ち着け」
「でも、東からも追手が来そうだし、俺……」
王元伯がさらに声を潜める。
「河が凍ってるって、嘘なんです! 渡れそうもなくて……でも、そんなこと言ったら……」
「わかってる。わかっているから、落ち着けって」
文叔は笑った。
「大丈夫だ、何とかなる。……たぶん」
何とかなるアテなんてまるでなかったが、文叔は笑ってみせる。
「将軍! 東――背後から敵が――」
「もうすぐ河です!」
前方と、後方から、報告の声が交錯する。
(ここまでか?……いや、僕は死んでも諦めない。麗華……)
文叔が唇を噛んだ、その時。
「凍ってます! このまま、渡ります!」
前方からの声に、泣きそうだった王元伯が「えええ?!」と叫ぶ。
「馬鹿、うろたえるな、お前が行って、ちゃんと渡れるか、監督しろ!」
「……氷は滑るから、土嚢の砂を敷いて、馬の蹄が滑らないようにするんだ!」
さっきから、鄧仲華は馬車の中でぐったりしていたが、掠れた声でそんなことを言う。
「わ、わかりました!」
王元伯が答え、背後を気にしながら、凍った河をそろそろと渡っていく。日は落ちて真っ暗になりかかり、対岸に先についた者が照らす松明を頼りに進む。殿を務めていた、荷駄と文叔の車駕が対岸に近づいたころになって、追いついた追手が彼らの渡河に気づき、騎馬で渡ってくる。
「仲華、大丈夫か、後、少しだ。……対岸に渡ったら、火を焚いてやる」
「ん……」
だがその時。
ビシッ、バキッ!
氷が割れて馬車が大きく傾き、冷たい水が足もとに流れ込んでくる。背後の追手の騎馬隊が、割れた氷の間から水に飲み込まれるのが見えた。
ビシ、ビシ、バキッ! ヒヒーン!
「氷が割れた!」
「助けてくれ!」
馬が暴れ、馬車と荷駄がひっくり返る。沈んでいく馬車から文叔は間一髪、抜け出したが、鄧仲華はそのまま沈んでしまった。
「仲華!」
文叔が慌てて水に潜り、手探りで仲華を捕まえる。不思議と、水の冷たさを感じなかった。何とか細身の仲華を抱きかかえ、ざばーっと水面に顔を出す。馭者を務めていた阿捷は、咄嗟に綱を切って馬を馬車から切り離して、救出していた。そちらは無事だと見て、ホッとし、だが腕の中の仲華が身動きもしないことにギクリとする。
「仲華、しっかりしろ!」
水に落ちた衝撃のせいか、仲華は意識がなく、ピクリとも動かない。白い顔が宵闇の中でいっそう白く浮かびあがり、これは死ぬのではないかと、文叔はむしろそちらの方で胸が冷えた。
鄧仲華を抱えて岸に向かって泳いでいくと、「文叔、掴まれ!」と槍が差し出され、それに掴まる。
朱仲先がまず鄧仲華を引きずり上げてくれ、文叔が自力で槍に縋って岸に上がる。振り返れば、河を覆っていた氷は全て割れ、追手は一騎残らず、氷のような呼沱河の下に沈んでいた。
*1
現在、饒陽は呼沱河の南にあるが、三国時代の魏の曹操が、饒河を決壊させて流れを変えたのだ、と唐代の李賢注にある。




