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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
参、涙は生別の為に滋し
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涙は生別の為に滋し

行役在戰場

相見未有期

握手一長歎

涙爲生別滋

 ――漢・蘇武《留別妻》

  

 行役(こうえき) 戦場に在り

 相い見ること(いま)だ期 有らず

 手を握り一たび長嘆すれば

 涙は生別の為に(しげ)


     これから自分は戦場に行く

     次ぎはいつ会えるのかわからない

     愛しい妻の手を握り、長い溜息を零せば

     生きながら引き裂かれる悲しみに涙が溢れる



****************



 陰麗華との婚礼を挙げたものの、文叔は潁川(えいせん)郡、河南郡の平定に追われていた。

 

 表向き、皇帝・劉聖公は劉文叔を礼遇する構えを見せ、文叔は破虜大将軍を拝し、武信侯に封じられた。文叔も、ついに「列侯」の仲間入りである。ただし、この時期の更始政権は、叛乱軍に見かけだけの官職、爵位を整えた状態。列侯になったからと言って、名前以上の何かがあったわけではない。


 更始元年(西暦二十三年)の六月――王莽の紀年では地皇四年の七月――の昆陽の戦いをきっかけに、以後、王莽政権は坂道を転がり落ちるように求心力を失っていく。

 秋には南陽の析県で鄧曄・于匡の二人が兵を挙げ、瞬く間に武関を制圧した。鄧曄・于匡はそれぞれ左右の「輔漢将軍」を名乗って、《漢》――つまり更始政権――と共闘する姿勢を示したため、宛からも関中に兵を派遣して長安を目指した。同時に、更始政権は第二の都、洛陽を手中に収めるべく、北に軍を向けた。文叔は北方攻略の一翼を担い、昆陽の北の父城(ふじょう)を拠点に周辺の鎮撫に駆けまわり、宛には数日に一度戻れればいいところであった。


 宛の当成里にある家に戻れば、いそいそと出迎えた陰麗華が文叔の武装を解くのを手伝い、熱いお湯で絞った布でかいがいしく身体を拭ってくれる。手ずから縫ったと思しき真新しい襦衣を着せかけられ、こざっぱりした襜褕(ひとえ)は洗い立てできちんと繕われている。帯には陰麗華が丹精込めた刺繍。

 ――この時代、衣装は基本的には家内生産だ。家婢の手を借りながらも、一家内の女性たちによって心を込めて縫いあげられる。かつて、母の愛を得られなかった文叔は、兄二人が美麗な刺繍の入った衣類を着るのを横目に見ながら、飾りのない帯を締め、兄が不要になったお下がりの、身体に合わない襜褕(ひとえ)ばかり着ていた。今、陰麗華が寸暇を惜しんで縫っているのが自分のための衣服というのが、文叔にとってはたまらない幸福だった。着物や帯の刺繍が嬉しいのではない。そこに込められた愛が嬉しいのだ。


 家での食事も陰麗華の給仕でいただく。湯気のたつ(キビ)の粥に数種の薬味と漬物を添え、汁物も熱々だった。(ドブロク)を啜りながら文叔が横目に見れば、陰麗華は焙った干し肉を繊細な白い手で、細く裂いていた。「どうぞ」と差し出された干し肉を受け取り、「ありがとう」と笑顔で返せば、陰麗華は白い頬をほんのりと染める。


 その場で押し倒したい衝動をどう、やり過ごすか。陰麗華との新婚生活で、文叔の一番の悩みだった。

 

 蜜のように甘く、蕩けるような陰麗華と二人きりの時間。宛を発って潁川に赴く時の身を切るような辛さ。もちろん、宛に戻る馬の脚は自然と速くなる。


 「人生最良の時」とはまさに今であり、やがて、この甘い時間は終わりを迎える。それでも、文叔は束の間の幸福に溺れた。





 

  

 更始元年(西暦二十三年)九月戊申(ぼしん)朔。――王莽の紀年では地皇四年の十月、ついに漢軍は長安城に入った。

 三日庚戍(こうじゅつ)未央宮(びおうきゅう)に突入した漢軍は王莽を殺害し、その首を取り、身体は文字通り八つ裂きにされた。


 六日には長安は完全に制圧され、王莽の首は駅伝を使って宛の更始帝・劉聖公のもとに送られた。

 

 漢を簒奪し、劉氏の天命を盗んだ逆賊・王莽。その首を宛の市の門に()ければ、人々は石を投げ、あるいは打擲(ちょうちゃく)し、はなはだしきはその舌を切り取って食べてしまった。

 

 かつて――。

 人々は王莽を救世主のようにもてはやし、迎え入れた。

 漢の、劉氏の天命は去り、王氏の上に輝くのだと、多くの瑞祥が献上され、天から下った「符命」は異口同音に語った。――「王莽、真天子()れ」と。


 王莽の即真よりわずか十五年。虚飾と欺瞞に塗れ、制度ばかりを改めて混乱を振りまき、経済を破綻させ、諸外国との関係を破壊して、王莽の「理想の儒教国家」は崩壊した。王莽を待望したその同じ民衆が、漢の復興を願って新の滅亡を呪い、王莽の首に唾を吐きかけ、恨みと憎しみを込めて石礫を投げつける。

 

 王莽が受け継いだとき、内部は膿が溜まりながらも、表面上は極盛にあったかに見えた帝国は、王莽の末には度重なる飢饉に喘ぎ、盗賊は跋扈し、食い詰めた民衆は流民(りゅうみん)と化してさまよい、全土はばらばらに引き裂かれ、もはや国としての態を成していなかった。


 王莽を倒し、長安を手に入れる。新を滅ぼし、漢を復興させる。――新を倒した劉聖公が、このまま天下を取るには、王莽政権は潰滅し過ぎていた。昆陽の敗戦以後、王莽政権は「死に体(レーム・ダック)」化しており、ズブズブと内部から崩壊したに近い。長安を落とした勢力には、天下どころか関中を制圧する器量すらなく、劉聖公は実のところ、南陽周辺ですら完全に支配できていたか怪しい。


 王莽政権の崩壊後に現れたのは、あるじ無き不法な世界。



 ――この後、天下が再び統一されるまで、およそ十二年。戦乱と飢餓に喘ぐ大地には、天命を受けたと主張する自称「天子」自称「皇帝」が、雨後の筍のごとく次々と起ち、そして潰えた。前漢の末に繁栄を極めた戸口数は、この数年に及ぶ戦乱で半分以下に激減し、その回復には数百年を要した。






 更始元年(西暦二十三年)九月、皇帝・劉聖公は文叔を行司隷校尉(しれいこうい)とし、洛陽遷都に向けての準備を命じた。

 司隷校尉とは首都圏の治安維持を掌る官。文叔は破虜大将軍のまま、司隷校尉を兼任し、遷都に先立ち、洛陽での皇宮の整備、修繕を行った。王莽が九月に敗れ、洛陽を守っていた太師王匡と国将哀章は《漢》に降り、二人は宛に送られて斬られた。文叔は主のいない洛陽宮に入り、建物を修築し、物品や人をかき集めるのに奔走した。


 先遣として洛陽に向かうにあたり、文叔は陰麗華をどうするべきか、悩む。陰麗華は安定期に入り、ほんの少しだけ、お腹が目立つようになってきた。


(……彼女のお母さんの怒りは解けていないだろうが、新野に戻すべきだろうか?)


 だが、陰麗華は母から勘当されて追い出された身であるから、陰家が受け入れないかもしれない。せっかく手に入れた陰麗華を、みすみす手放すのも惜しい。……何より、宛と新野の間にある育陽には、鄧少君がいる。新野を追い出された陰麗華が、育陽の鄧少君を頼ったら……。


 文叔はぶんぶんと首を振る。だめだ、却下。

 鄧少君はきっと、まだ陰麗華を諦めていない。変に物堅いというか、要するにヘタレだから、手は出さないかもしれないが。


 宛に残していくのも心配だし、やはり一緒に洛陽に連れて行くことに決めた。

 洛陽に転居すると言えば、陰麗華は何のためらいもなく頷く。


「ええ、もちろんです。置いて行くと言われても、着いて行きます。わたしはあなたの妻なのですから」

 

 はっきり言い切った陰麗華を、文叔は思わず抱きしめていた。


「ああ、そうだね、麗華。もう、絶対に離さない、君は僕の奥さんだ」


 ぎゅうぎゅうと抱きしめる文叔の腕の中で、陰麗華が身を捩る。


「じゃあ、急いで仕度をしないと!」

「でも、不安じゃない? あちらには友人もいないし……」


 更始政権全体が洛陽に引っ越す予定ではあるが、文叔は先遣隊として一足先に行くのである。もしかしたら洛陽で何等かの抵抗に遭うかもしれない。


 だが陰麗華は微笑んで言った。あまりにまばゆい笑顔に、文叔の目が眩む。


「大丈夫です。文叔さまがいれば、わたしはどこでも生きていけます」

 

 普段の往復は騎馬だが、今回は家財道具を積んだ荷駄を連ね、身重の陰麗華を気遣いながらの旅になった。侍女の小夏に、下働きの張寧、二人の子供たち。陰麗華は生まれて初めて、故郷の南陽を離れる。南陽と河南を隔てる峻嶮な山並みを迂回し、昆陽から父城を経て北上し、洛水の畔に出た。


 対岸には、洛水の流れに守られるように、古都にして天下第二の都市、洛陽の城壁が聳え立つ。

 

 馬車の垂れ幕を少し開き、陰麗華が顔をのぞかせた。


「これが洛陽? 周公様の開いた城?」

「そうだよ、天下の中心、土中だ」


 文叔が馬を寄せると、陰麗華が眩しそうに目を細める。


「不思議ね、南陽から出ることなんてないと思っていたのに。まさか洛陽の都に住むなんて」

「そうだね、人生なんてわからないな」


 あなたさえいれば――。

 あなたがいてくれれば、そこがどんな場所でも、他に何もいらない。

 あなたがいなければ、どれほどの富や力があったとしても、世界は彩を失うだろう――。

 





 洛陽は黄河と洛水の間に開かれたまちである。北側、黄河との間に連なる邙山ぼうざんのおかげで水害から守られ、いにしえより文明が育まれてきた。周武王の弟、周公旦が拓いた、理想の都。天下の中心である「土中(どちゅう)」にあり、儒教世界の実現を目指した王莽は、洛陽遷都を悲願としながら果たせなかった。もともと、漢の副都であり、王莽が洛陽への遷都を画策していたため、洛陽宮の整備は進んでいた。すでに南宮と北宮の二宮が存在していたと思われるが、当時、北宮は寂れ、まともに利用されているのは南宮のみであった。


 九月中に、皇帝・劉聖公以下の百官は洛陽へと移転した。

 五大都市のひとつとはいえ、宛は南陽の片田舎に過ぎない。洛陽に遷都して、更始政権の中枢は初めて目の当たりにする。


 ――天下がとんでもなく広いという事実を。自分たちが、天下のほんの一部しか支配できていないという、恐ろしい現実を。


 洛陽のすぐ北側、邙山(ぼうざん)を越えれば、そこ黄河の雄大な流れが横たわる。その黄河の対岸にも、天下はどこまでも続くのだ。


 王莽を殺したことで、半ば天下を手中にした気分になっていたが、それはまさしく「気のせい」に過ぎない。黄河の向こうには広大な大地と州郡、そして漢王朝によって封建されていた、劉氏の諸侯王が山のようにいる。南陽の田舎の列侯家に過ぎない舂陵(しょうりょう)侯など歯牙にもかけない、由緒正しい「王家」がいくつも、高貴な血脈を受け継いでいる。劉聖公が真に天下の主になるためには、彼らを自らの足もとに跪かせる必要があった。


「黄河を渡り、河北を攻略しなければなりません」


 ――「河」を渡る。


 更始政権の中枢部は南陽の豪族か、さらに南方の南郡・江夏(こうか)郡あたりのゴロツキの出身者で占められている。洛陽や長安までは往復するけれど、よほどの用がない限り、あの大河を越えることはない。だいたいが、豪族は土地を経済基盤とし、地縁と血縁のネットワークの中で生きる者たちだ。見知らぬ土地、見知らぬ人々の中に放り込まれるのは、その羽翼をもがれるに等しい。


「いったい誰が、河北を攻略するんだ」


 更始政権を代表し、その旗印を押し立て、河北を平定する。――普通に、かなりの貧乏くじである。このまま皇帝の側近として政権中枢部に居座った方が、はるかに効率よく権力のおこぼれに与かれる。皇帝・劉聖公は、長安と洛陽という、天下の二大都市を一応は抑えているのだから。河北は気候風土も、下手をすれば言葉も違い、皇帝・劉聖公の威光など、まったく及んでいない。死ぬほど苦労するのは目に見えていた。


 一方では、大きな飛躍のチャンスでもある。

 何せ「河北」は馬鹿広いのだ。河北を平定すれば、河北の利権のかなりの部分を得ることができる。


 ――迂闊な奴を派遣すれば、河北を平定して、そのまま自立してしまうかもしれない。


「劉文叔がいいんじゃないか」


 相変わらず、空気を読まない劉子琴が、能天気に言う。劉子琴は要するに、親戚至上主義者であった。


「あいつは大人しそうな外見だが、存外に度胸があるし、何より頭がいい。昆陽で百倍の敵を破ったし、あいつなら河北も平定できるんじゃないか。何たって同じ舂陵劉氏だから、裏切らない」


 劉伯升を讒言して死に追いやった、朱長舒は劉文叔も殺すべきだと思っているから、もちろん反対した。


「あいつは伯升の仇は討たないと言ってますが、嘘くさい。あの綺麗な顔で、腹の中は真っ黒クロスケだ。信用しちゃダメです」

「だが、他に誰がいる」


 劉聖公が彫りの深い顔を歪める。

 河北は平定してもらわないと困る。そうじゃないと、俺が天下を取れない。無能な奴を派遣しても、その軍隊は河北の平原に溶けて終わり。それじゃあ、意味がない。


 だが、有能な奴が河北を平定して、河北を基盤に自立して歯向かってきたらどうする?

 劉文叔は確かに有能だ。昆陽がそれを証明している。そして同じ一族だ。普通なら、一族同士、争うことはないし、安全牌なのだが――生憎、劉聖公は彼の兄を殺していた。


 話を聞いていた李季文が言った。


「河北に派遣した将軍は、自分の判断で動ける奴じゃないとダメだ。そこそこ人望もあって、河北の人間を手なずけなきゃなんない。劉氏で顔もいいし、腹ん中はともかく言動も穏やか。――あいつがいいと思いますよ、俺も」

「だが――」


 渋る劉聖公に李季文は顔を近づけて声を落とす。


「裏切るのが怖かったら、裏切れないようにすればいい」

「どうやって?」

「あいつは、昔から有名なんですよ。〈陰麗華病〉ってね」

「陰……麗華?」


 劉聖公が眉を顰める。陰麗華と言えば、南陽でも最大の富豪である、新野の陰家の令嬢だ。そうだ、あの文叔の野郎が、兄貴の喪も無視して妻に娶ったという――。


「噂ではかなりの美女だとか。……郡大夫が横から攫おうとしたくらいの。文叔は兄貴が殺されようが何も思わないけれど、女房はどうでしょうね?」


 李季文がいやらしく笑う。劉聖公も大きな目を見開き、厚い唇をにやりと歪めた。


「……なるほど、美女か。それは、悪くないな。いろんな意味で……」


 更始元年(西暦二十三年)十月。

 皇帝は文叔を破虜将軍行大司馬事として、河北の平定を命じた。






 半ば覚悟の上であり、半ばは意外だった。


 皇帝・劉聖公が自分を疑っている気配を、文叔はヒリヒリするほど感じていた。

 政権中枢部と距離を取り、河北に勢力を築けば、自立割拠も可能だ。

 

(だがそもそも、河北で勢力が築けるかどうかが問題だな……)


 だいたい、劉聖公は自分を疎んでいる。――劉伯升と自分たち兄弟に呼応して挙兵した鄧偉卿(とういけい)は、なんと河北でもかなり北方、常山太守への赴任が決まった。そんな飛び地のような場所に派遣して、いったいどうする気なのか。


(どう見ても厄介払いというか、流刑(しまながし)だよな……)


 自分たちと関わりが深かったために、とんでもない場所に派遣される義兄に、文叔は申し訳なく思っていたが、鄧偉卿本人は案外と飄々としていた。


「俺の家はもともと地方の二千石を歴任してきた。爺さんは交趾(こうし)(=現ベトナムのハノイ)太守だし、今も交趾牧も同族の一人。……そういやあ、陰麗華の異母姉がそいつの嫁だったな」


 遠隔地に赴任するのはそれほど苦ではない、と言い切った。


 朗らかだった鄧偉卿は、不意に声を落とす。


「今は忍耐の時だ。いいか、軽はずみはするな。切れたら終わりだ。――大事なのは、生き残ること。伯升の二の舞はダメだ」

「……わかっている。でも――」


 洛陽を離れ、黄河の向こうに行くのは別に構わない。問題は――。



 



「よう、出立の準備はどうだ?」


 洛陽南宮の回廊で、李季文に声をかけられ、文叔は足を止める。


「まあ、だいたい。朱仲先と、あとは潁川の奴らを中心に連れていく」

「陰麗華はどうするんだ」


 ずばり聞かれて、文叔は眉間に皺を寄せる。


「身重なんだろう? 六月の結婚だったら……生まれるのは三月か、四月か」

「……そうだね」

「まさか、連れていく気か?」

「……その、つもりだったけど」

「やめとけよ、殺す気か?」


 はっきり言われ、文叔が言葉に詰まる。


「河北の寒さはこっちの比じゃないって言うぜ? 何しろ、河の水が凍るらしいからな。だだっ広い平原で、土も凍るって言うぞ?」

 

 南陽も内陸であるから、冬はそこそこ冷える。だが、河北の寒さはそれどころではない。


「ただでさえ、赤子を産むのは女にとっては負担になる。富豪のご令嬢が戦場を転々として、もつわけないと思うぜ? 生まれた赤子だってヤバいだろうに」


 そのことは、文叔がもっとも懸念していたことだった。


「だが――」


 文叔の迷いを見て、李季文が言う。


「洛陽に置いておくのが心配なら、南陽に帰したらどうだ?」

「実は――彼女の母親は僕との結婚に反対だった。だから、彼女は兄の次伯の元に来たのであって――」


 陰麗華の異母兄・陰次伯はまだ若く、そして書生肌だ。陰麗華を預けるにはやや、頼りがいに欠ける。何より新野の近くには陰麗華に横恋慕した鄧少君が――。


「俺が預かろう」

「ええ? 季文が?」


 文叔は李季文を頭の先から爪先まで見る。――こんなやつに女房を預けるとか、危険すぎるだろ。

 李季文は文叔の表情に苦笑いする。


「信用ねえなあ。……まあ、しゃあねぇけどな。だが、伯升の件では俺も、申し訳ないと思っているんだ。結果的に讒言みたいになっちまったしな。せめて、償わせて欲しい」

「償い?……お前が?」


 予想もしなかった真摯な態度に、文叔は面食らう。


「文叔、お前とは昆陽で命を張った仲じゃないか。困った時はお互い様だ。……もし、新野のおふくろさんが彼女を受け入れない場合は、宛の李家で預かる。ホラ、俺の従兄の李次元の嫁はお前の妹だろう?」


 文叔はしばらく忘れていた、李次元と妹・劉伯姫の縁談を思い出す。――そうか、宛の李家には伯姫が――。


 その一言に、迷っていた文叔の心の天秤が大きく傾く。

 身重の陰麗華が、厳寒の河北の冬に耐えられるとは思えない。もし彼女を預けるなら――。


「……じゃあ、頼っても?」

「ああ、もちろんだ」


 バシンと肩を叩かれ、文叔が痛みに顔を歪める。

 ――文叔は後々まで、この時の肩の痛みを思い出す。


 判断の誤り。間違った決断。――人生にさまざまな失敗はつきものだけれど、まさに痛恨の過誤(ミス)だった。 





 南陽に戻れという文叔に、陰麗華は最後まで抵抗する。

 だがその腹部はすでにはっきりと膨らみ、そこに我が子が存在するのだと、文叔に訴えかける。


 陰麗華もだが、その子も守りたい。

 未知の土地、未知の風土。これから本格的な冬に入る河北に陰麗華を連れていき、万一、彼女を失うことになったら。


 離れることも辛い。だが、手放すことも勇気の一つなのだと、文叔は自分を叱咤した。


「……離れるのは、これが最後だよ。戻ってきたら、次からは永遠に一緒だ」

 

 陰麗華の細く白い指に嵌る、銀の指環(ゆびわ)に触れながら、文叔は陰麗華に誓う。


 僕の妻は、生涯、君一人――。


  





 どれほど嘆いても、時は巻き戻らず、どれほどの後悔を積み上げても、裏切りは消せない。

 陰麗華が見舞われる過酷な運命を知っていたら、絶対に手放すことはしなかったのに。


 神ならぬ文叔は、その手を離した。



 黄色い河に、引き裂かれるままに――。



引用した詩は漢の武帝期の人、蘇武が匈奴に赴く前に、妻との別れに詠んだものとされる。

蘇武は匈奴に囚われ、十九年間虜囚として辛酸を嘗め、しかし節を曲げず、漢への忠節を貫き、帰国することができた。だが国では蘇武は死んだと伝えられ、妻はすでに再婚していた。



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