十三騎
残虐描写あり
昆陽の城壁から見下ろせば、四方を取り囲む黒い、人の群れが蠢く。初夏の青空にはためく、無数の新の黄色い旌旗。天幕が張られ、北側に本陣が設けられたらしい。北だけでなく、西も、東も、南も。周囲をぐるりと囲まれて、さらにまだ、北の洛陽からの街道を黒々とした大軍が降りてきている。昆陽城はまさしく、袋のネズミだった。
「本当に囲んでやがる……」
隣でやはり下を覗き込んだ李季文が呟く。
「宛を救援に来たんじゃなかったのかよ、アホだろ……」
まっすぐ宛に向かい、宛を包囲中の叛乱軍の背後をつけば、叛乱軍はあっという間に瓦解しただろうに。中心が崩れれば、昆陽に立てこもる六千人など、なすすべなく降るしかない。――そう、昆陽など、そもそも攻め落とす必要もない城なのだ。後背を取られたとしても、やたら守るのに堅いだけで、城を出て百万の軍勢に立ち向かうことなど、できようもないから。
文叔は無言で、昆陽城を取り囲みつつある大軍を眺めていた。
これが、昆陽を囲んでいる間は、宛は守られる。宛に近い、新野も――。
――麗華を、守れるなら。僕は何だってするつもりだ。
たとえ百万の血で、この昆陽の城が溺れるほどになったとしても――。
宛の包囲軍を守るために、文叔らが大軍を誘き寄せて昆陽を包囲させた、その作戦を聞かされていなかった、責任者の王鳳以下は半ば恐慌に陥った。当然、捨て置かれるはずの城が、何故か包囲された。……劉文叔ら、ドラ息子どもの軽挙妄動のせいで!
「いったいどうするつもりだ!」
王鳳が、唾を飛ばしながら怒鳴った。ただ静観を決め込んでおけばいいはずだったのに、急転直下の展開に、脳がついていかない。そのほか、宛周辺から派遣された者、もともと昆陽にいた者なども、城外の光景に茫然とする。
「……に、逃げよう! 百万の軍に、わが軍は一万にも満たない! 命あっての物種じゃあ!」
ある男が叫ぶと、皆立ち上がり、今にも我先にと逃げ出しかねない有様だった。
「無茶言うな! 完全に囲まれとる! 蟻の這い出る隙間もないぞ!」
片目の王顔卿が言うところに、城壁から降りてきた劉文叔と李季文を見て、王鳳が指差して騒ぐ。
「おめーら、こ、この責任をどうとるつもりだ! か、か、勝手な行動をとって、この体たらくだ!」
「勝手にしろ、って言われたから、勝手にしただけだ」
「なんだと、この不良が!」
「緑林のチンピラに言われたくねーな!」
一触即発の空気に、文叔が冷静に言う。
「こういう時は、仲間割れをしないで、皆の力を合わせて立ち向かうことが重要だ」
「綺麗事を言ってる場合か!」
「綺麗事じゃない。バラバラに逃げたところで、相手は百万だ。各個撃破されて終わりだ。しかも、宛がまだ落ちていない今、救援を呼ぶこともできない。もし昆陽が落ちれば、一日で宛まで蹂躙されて、南陽は全滅だ。今、皆で力を合わせないで、自分の家族や財産なんて、守れっこない」
文叔が正論を吐けば吐くほど、諸将の苛立ちは募る一方だ。文叔の端麗な容姿と笑顔が、やり場のない怒りをさらに煽りたて、不穏な空気が膨れ上がる。
そこへ、斥候に出ていた兵が戻ってきた。
「城の北からやってきた大軍が、もうビッチリ囲んで、抜け出すこともできません!」
その報せに、一同、絶望して騒ぎ出す。王鳳が文叔を指差して、唾を飛ばして叫ぶ。
「お前が連れてきた百万の敵だ! お前が何とかしろ!」
「そうだそうだ!」
男たちに口々に責められても、文叔は笑って手を振り、きっぱりと言った。
「策はある。――僕の、ここに。でもその前、皆が心を一つにしなきゃ、始まらない」
自身の頭を指して言う文叔に、王顔卿が聞く。
「その策とやらで勝てるのか?」
「勝てる。やつらは所詮、烏合の衆だし、大将に百万を統率する器量がない。たとえ百万の軍がいても、使いこなせなければ、ただの穀潰しだ。こちらの食糧の備えは十分、たいしてあちらは? 百倍の人間がいるということは、百倍の食糧がいる。消耗はあちらの方が絶対に早い」
「あちらの消耗を待つのか。その間に宛が落ちれば、救援を呼べるな」
「それだけじゃダメだ。宛のやつらなんて、当てにならない。こっちから仕掛けるんだ」
文叔は板の上に砂を広げ、棒で図を描いて説明する。
「少数で脱出して、さらに援軍を呼ぶ。郾や定陵にはまだまだ、兵がいる。彼らを集めて、日を決めて内外で呼応する」
その言葉に、王鳳が反論する。
「蟻の這い出る隙間もないんだぞ! どうやって脱出する!」
「数が多くて統制が利かない集団だからこそ、脱出は可能だ。……ごく、少数ならね」
「何人で脱出するつもりだ」
文叔が周囲を見回す。
「十五人。……てところかな? それより大勢は無理だ」
皆が息を呑む。
「百万の包囲を十五人で脱出だと? 不可能だ!」
「俺はやるぜ!」
李季文が自信満々で手を挙げた。
「俺もやる。……正直、まだ暴れ足りない」
立ち上がったのは、鄧少君。
「俺も行こう」
鄧偉卿が立ち上がると、李季文がからかう。
「オッサンはやめといた方がいいんじゃね? 息切れするぜ?」
このほか、驃騎大将軍を勝手に名乗っている宗佻という不良も手を挙げた。
「俺も行くぜ。季文とはダチだしな」
「俺も行きます!」
四角い顔の王元伯が勇んで言う。文叔が思わず、
「……君は――無理しなくても……」
と言えば、王元伯は真っ赤になって主張した。
「行きますよ! 俺は文叔将軍にどこまでも付いていくつもりですから!」
「……え、二人、そういう仲なの?」
「違う!」
こうして何とか十二人が集まる。文叔も十五人、と言っていたが、十人超えれば御の字だと思っていた。最後、四十前くらいの、穏やかそうな男が立ち上がる。
「某も、参加を希望する」
「オッサンは――」
李季文が止めようとするが、男は静かに首を振った。文叔はその男が十分に鍛えらえた体躯をしているのを見て取った。――穏和そうな外見だが、結構強そうだ。
「傅子衛と申す。潁川の出身で、潁川で兵を募るならば、某もお役に立てると思う」
ここらが潮時だと、文叔が立ち上がる。
「全部で十三人。――我々がこちらに戻るのは、六月の朔日。必ず戻る。むしろ、勝敗は二か月、ここで耐える諸君の肩にかかっている」
文叔が王顔卿の片目をじっと見ると、王顔卿もにやりと笑い、腕を差し出す。
「死ぬなよ」
「そっちこそ」
ガッチリと腕を組んで、三つの目を合わせる。
百万の兵に立ち向かう文叔の計略が、静かに動き始めた。
夜――。
昆陽城の南門の近くで、文叔が城壁の上から十二人に指示を出す。
「南から抜けるのか?」
「南が都合がいい。跳ね橋を下げなくていいし、ホラ、あそこ。――おかしな一団がいるだろう?」
城壁を囲む包囲陣は、明々と篝火を焚いているが、夜に見ると影が蠢くように見えた。
「昼間の内に確認しておいたが、あのあたりに、猛獣がいる」
「……猛獣?」
鄧少君が眉を寄せた。なんで猛獣?
「よく知らんが、王莽は戦意を高揚させるために猛獣を何頭も連れてきている」
叔父の鄧偉卿が少君に補足説明する。……説明されても意味はわからないのだが。
「この中で、一番、力が強いのは少君だ。戦斧は持ってきただろ? それで檻を破壊しろ。猛獣を暴れさせて、周囲を混乱させる。その隙に――」
文叔が馬の鞭でルートを指し示す。
「南東に……あの、星を目印につっきり、包囲を抜けたところで北に進路を変える。もしはぐれたら、各自北に向かい、郾か定陵に逃げ込め。他の者を待つな」
文叔が、冷徹な目で十二人を見回す。
「……行くぞ? 一人頭、二十人は殺る気で行け」
城門を守る兵に合図を送る。
「十三騎が出たら、即刻門を閉じろ。……二か月。二か月後に必ず帰る。それまで絶対に落ちるなよ!」
ギリギリ、馬一頭が通れるだけを開け、静かに門を出て、十三騎が出たところで、門は再び、固く閉じられた。
十三騎の蹄の音に、さすがに包囲軍も気づき、ざわざわとざわめきが広がる。
「侵入者だ!」
「敵だ!」
「昆陽城からの脱走だ!」
怒号が起り、異常を知らせる笛の音が響く。騒然とした周囲の中で、文叔が篝火に手を伸ばし、松明を一つ手に取り、かざす。
「少君、季文、あっちだ! あの檻、あれを壊せ!」
文叔がかざす方に目を遣れば、黒々とした闇の中で、何かの動物の目が爛々と輝いていた。
それを見た少君は本能的な恐怖で背筋がゾッとした。地の底に響くような唸り声が聞こえる。
「檻を壊して、襲われないか?」
「大丈夫、考えてある。檻が複数ある。獣に襲われないようにして、いくつか壊せ。全部は必要ない」
鄧少君は重い戦斧を手に、檻に近寄る。
檻の内部にいるのは猫をかなり大きくしたような……たぶん、豹か、虎か――。
南陽の山奥で、狼と山猫なら見たことがある。だがそれよりも巨大だ。ギラギラした青い目が光り、大きな口の中には鋭い牙。
「少君、早く!」
文叔にせかされ、鄧少君が戦斧を振り下ろす。
ガッ、ガッ
硬い木で組まれた檻を壊す。檻は丈夫で、なかなか壊れない。と、襲撃に気づいた兵士たちが乱入してきた。
「何をする! やめろ!」
防ごうと走ってきた兵士が少君に打ち掛かる、その剣を横から文叔が弾く。もう一人は李季文が防ぎ、槍で腹を串刺しにした。
「ぐああ……」
兵士の口から血が滴り落ちる。
ガキッ! ついに少君が檻を破壊するのに成功する。
「壊したぜ! ……でも、獣が……」
恩を知らない獣は、少君に襲い掛かろうと牙を剥く。そこへ、文叔が叫ぶ。
「季文、その男を獣に投げろ! ちょうどいい餌だ!」
「やめろ……何を……」
李季文が、まだ息のある男を今にも少君にとびかかろうとした、獣の前に投げつける。
「うわああああ」
文叔もまたもう一人を切って、わざと血の匂いをまき散らすようにして、檻の奥から出てきたもう一頭に投げつける。
「ぎゃああああ」
凄まじい悲鳴と、血の匂い。獣の咆哮。バキバキと何かが砕かれる音がし、耳を塞ぎたくなる咀嚼音。あまりの残虐さに、鄧少君が思わず目をつむる。暗くてよく見えないのが幸いだったが、しかし、暗闇に響く恐ろしく不吉な音に吐き気が込みあげてくる。
「少君、もう一つ!……今のうちに、みんなは走れ!」
「文叔、俺たちは先に行くぞ!」
「ああ、すぐに追いつく!」
鄧少君がもう一つの檻に戦斧を叩きつける。ガッ! その奥の檻にいるのはさらに獰猛そうな獣。目だけが爛々と輝き、荒い息遣いが聞こえる。
その頃には、異変を嗅ぎつけた騎士たちが駆け付けてきていた。
「やばいぜ、もう来た!……早く!」
李季文が焦ったように言い、走り寄ってきた兵士を切り捨てる。と、血の匂いと騒ぎで興奮した、他の檻の獣たちが騒ぎ始める。
「オオ────」
「ウォ────」
巨大な狼が遠吠えを始め、南方の象がドシドシと足踏みし、自ら檻に突進する。メキメキメキ……象の檻が軋み、歪む。
「パオ────ン!」
バキバキと自力で檻を蹴破った象が、長い鼻を天に向けるようにして咆哮する。
「で、……でけぇ!」
「劉将軍、やばいっすよ、もう行きましょう!」
文叔の背後に控えていた、王元伯が言い、文叔も周囲を油断なく見回しながら言う。
「あと一つ……!」
「えい!」
渾身の力で硬い檻を戦斧で叩き壊すと、内部から走り出たのは巨大な狼。
「さあ、ずらかるぞ! 急げ!」
その場に残っていたのは、文叔と鄧少君の外、李季文と王元伯の四人。残りの九騎は先に行っている。四騎がその場を後にし、入れ替わりのように新軍の騎士たちが駆け付けたが、気が立っている猛獣たちは彼らに襲いかかった。
「うわあ、な、なんだ!」
「なんで檻が!」
「助けてくれえええ!」
背後の騒ぎを聞きながら、男たちは馬を駆る。百万と号する官軍は統制が利かず、また情報伝達の遅れから、混乱だけが広がっていく。
「猛獣が逃げたぞ! 兵士が喰われた!」
「弓だ! いや、弩を持ってこい!」
「それより逃げろ!」
「うわあ、助けてくれ、俺の足があああ!」
混乱が混乱を呼び、何事かとこちらに向かってくる兵士たちの人波で、文叔も前を遮られる。
「なんだ、何があった!」
李季文が叫ぶ。
「邪魔くせぇ、蹴散らすぜ?」
強行突破する文叔らの馬蹄にかかり、何も知らない兵士たちがなぎ倒され、踏みつぶされる。
「うわ、なんだ、やめろぉ!」
「将軍さまに誰か、報告を! 叛乱か?」
「違う、昆陽城内からの脱走兵だ!」
「いや、それより猛獣が!」
彼らが混乱を抜けたかと思ったその先に、巨大な影が立ち塞がる。
馬上の彼らを凌ぐほどの長身巨躯。猛獣かと思ったが、手にする松明が、それが人類であると示していた。
――巨無覇。
王莽が威信のために従軍させた、稀代の巨漢。腹周りだけで一抱えを優に超える。左手に松明を掲げ、右手には信じられないほど巨大な鉞。――かつて、王権の象徴として王の玉座の背後に置かれた神器の如く、恐ろし気な顔の彫られたそれが、ビュンと風を切って、文叔の頭上に振り下ろされる。
「うわっ」
咄嗟に、首を竦めて避ける。風圧だけで首が飛ぶのではと思った。直撃したら、たぶん、即死だ。
「何だこの、ウドの大木……」
「デカすぎるだろ、ホントに人間かよ?!」
不遜な李季文ですら、ゴクリと唾を飲み込む。
巨無覇が、のそりと一歩前に出る。
「どうぶつ、俺のトモダチ……お前ら、トモダチ殺した。……俺、お前ら、殺す……」
松明に照らされた被髪からのぞく瞳が、怒りでギラギラと光る。
「猛獣がトモダチとか、ヤバイ奴の相手をする暇はないな。ずらかろう、無駄にデカブツとやり合うだけ、時間の無駄だ」
文叔が言って手綱を引き、馬首を巡らす。だが――。
グルルルル……
すでに背後には巨大な狼の群れが迫っていた。プンと獣の臭いと、血の匂いが漂う。すでに何人かの兵士を腹に収め、人肉の味を覚えて彼らにも襲いかかってくる。
「前門の巨人、後門の狼かよ!」
「誰が上手いこと言えと言った」
「余計なこと言ってねーでずらかるって!」
鄧少君が前に出て、仲間に指示を出す。
「ここは俺が――」
「かっこつけても、観客は猛獣と巨人しかいないぞ?」
「うるせぇ!」
この期に及んで諧謔をやめない文叔に、さすがに鄧少君がキレる。
「とっとと行けよ! このクソッタレが!」
ブンッと凄まじい風圧で振り下ろされる、巨無覇の鉞を、鄧少君が反射的に戦斧で受ける。だが――。
ガッ!
なすすべなく戦斧は吹き飛ばされ、鄧少君はあまりの衝撃に手が痺れて、落馬しないだけで精一杯だった。
「なんつー、馬鹿力!」
巨無覇は巨漢でありながら、素早く鉞を返し、もう一度、少君を襲う。
「少君! 受けるのは無理だ! 避けろ!」
「わあってる!」
ブンッ
風圧に耐えて少君が馬を捌き、何とか直撃を回避する。馬が嘶き、よろける。そこへ駆け寄り、飛びかかる狼。文叔が咄嗟に馬を寄せ、剣で狼を突き刺す。
ギャンッ!
松明の僅かな灯りの下、文叔の端麗な唇が、微かに弧を描く。
笑ってやがる、こんな時に――。
文叔の笑顔はあまりに残虐で、少君は本能的な恐怖で息を呑む。愕然とする少君の面前で、文叔は狼を突き刺したまま、渾身の力で剣を持ち上げ、狼の死体を巨無覇に投げつけた。
狼の血が飛び散り、獣と血の匂いがあたり一面に撒き散らされる。狼をぶつけられた巨無覇が怯んだ隙に、文叔が叫ぶ。
「今だ、逃げるぞ!……ホラ、木偶の坊め、動物がトモダチなら、お前は喰われまい! たとえ血の匂いに塗れてもな。……猛獣が、お前をトモダチだと思っているなら、だけど」
文叔は手近の松明を蹴っ飛ばし、その火が周囲の天幕に燃え移って周囲が明るくなる。
「行くぞ、ぼやぼやしている暇はない!」
「おうよ!」
馬腹を勢いよく蹴り、四騎は一斉に駆けだす。
「待てぇ! ヒキョウもの!」
巨無覇が文叔らを追おうとするが、しかし追いついてきた狼が、いきなり巨無覇の脚に噛みついた。
「ぐわっ やめろっ……お前らっ……」
続いて血の匂いに吸い寄せられるように、何頭もの狼が争うように巨無覇に襲いかかる。数頭の狼に圧しかかられ、地面に倒れ込んだ巨無覇に、さらに羆が近づいて――。
ギャアアアアア
壮絶な悲鳴と、骨の砕ける音を背後に聞きながら、四騎は頭上の星を目指し、混乱の敵陣を駆け抜けた。




