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誓い

 地皇四年の元旦は、早朝の奇襲で年が明けた。混乱する戦場で文叔は馬を駆って、ある男を探した。


 「文叔待て、落ち着け!」

 「待てない。あいつだけは僕が殺す」


 背後から朱仲先が呼びかけるのを振り切るように、文叔は馬腹を蹴る。馬が嘶き、スピードをあげる。


 前隊大夫の甄阜しんふ――陰麗華を、奪おうとした男。あいつだけは生かしておけない。絶対にこの手で殺す。そう、決めていた。


 奇襲に混乱する兵士たちは、それでも本陣を守ろうと文叔らの前に立ちはだかり、槍を向ける。文叔が素早く腰の剣を抜いた。元旦の朝日が刀身に煌めく。


 「どけよ! 邪魔だ!」


 馬の前に立った若い兵士を切り捨てれば、血しぶきが噴き上がる。


 「文叔、落ち着けって! 冷静になれ!」

 「戦場で冷静になれるかっ!」


 ヒュンッ


 顔のすぐ脇を飛んでいった矢の、出所を見据えればまだ二十歳前後の若い男が弓を構えていた。文叔と目が合い、露骨におびえる表情を見せる。


 ――彼らとて、官軍に徴発されただけ。同じ、故郷の者だ。だが――。


 文叔はまっすぐ馬で突進し、迷いなく男の首筋に剣を叩きつけた。

 血しぶきのアーチの向こうに、前遂大夫らしき、煌びやかな軍装と旗幟を備えた一団が見えた。







 前遂大夫の甄阜しんふが率いる州兵は、属正の梁丘賜の軍が潰滅するのを見て、散り散りバラバラに北へと逃げる。だが、その彼らの前には黄淳水が横たわる。――絶対に叛乱軍を叩き潰せると思い上がり、背水の陣を敷いていたからだ。数万規模の兵は、完全に統制を失っていた。


 「前遂大夫の甄阜しんふか?!」


 文叔が馬を寄せながら呼びかければ、護衛に守られた、でっぷりした男が振り返る。遠目にも、馬が疲れていた。

 

 「何奴だ、名を名乗れっ!」

 「舂陵しょうりょうの劉文叔!」


 その声に男も、周囲の護衛たちもハッと息を呑んだ。――大夫が劉文叔の許嫁を無理に奪い、小妻に据えようとしたのは有名な話だった。


 「おぬしがっ……」

 

 甄阜の顔が青ざめる。乗り手の恐怖心が馬にも伝染したのか、馬の脚が明らかに遅くなる。対して、近づく劉文叔の鎧はすでに返り血で真っ赤に染まり、手には血刀を提げ、頬は血で汚れていた。秀麗な容姿が、その孕む狂気を際立たせる。


 「皆の者、防げっ、防ぐのだっ!

 「他の者に用はない。その腐れ大夫の首級だけが所望だっ! どけっ!」

 「女に狂って天朝に牙を剥くか、痴れ者がっ!」


 周囲の護衛たち中にも、文叔の異様さに怖じて、大夫から離れる者がいた。その様子に、文叔が形のよい唇の、口角を少し上げた。


 「どいてくれ、他の者に用はない! 狙うのは、その腐れ大夫のみ!……覚悟!」


 文叔が片手で血刀を振り上げ、馬を駆って一直線に甄阜のもとへ突っこんで行く。二頭の馬の距離はみるみる狭まり、文叔の気迫に護衛たちは気圧され、反応が悪い。


 ガキ―ン!


 文叔の振り下ろした剣を、だが直前で甄阜の前に立ちはだかった、屈強な護衛の剣が受け止める。


 「邪魔だ、どけっ!」

 「郡大夫大人をみすみす殺させるわけにはいかんっ!」

 「僕にはそいつを殺す権利がある!」


 鬼気迫る表情で剣を振り払い、邪魔をした護衛を蹴っ飛ばす。


 「ぐあっ……」

 「おのれっ……小癪な!」 


 逃げ去るのを諦めた甄阜は馬を止めて馬首を巡らし、剣を抜いて正眼に構えようとするが、馬が言うことを聞かず、馬上でふらふらしている。文叔は、馬のスピードを緩めずにそのまま甄阜の横を駆け抜けざまに剣を横に薙ぎ払う。手綱を切られ、甄阜の太った身体がドウと馬から落ち、自由になった馬はその場から逃げていく。


 「やめろ、誰か助けろ! 余は前遂大夫であるぞっ!」


 やけくそ気味に叫ぶが、救けが来るより先に、文叔の剣がその無防備な太った胴体に振り下ろされる。


 「ひああっ……なにをっわしはっ……」


 分厚い脂肪の層を切り裂き、ガリツと骨に当たる音がする。凄まじい勢いで血が噴き上がり、周囲にまき散らされる。文叔自身も大量の返り血を浴びながら、ドサリと血だまりに斃れた甄阜の、首筋に血まみれの剣を当てた。


 ――黄淳水の畔における、官軍側の斬首者、そして河での溺死者は、二万人を超えた。  

 


 

 地皇四年正月、《漢軍》と《下江兵》は勢いをかって郡治のえんに向かう。中央から南陽平定のために派遣された、納言将軍の荘尤、秩宗将軍の陳茂の軍は、折しも宛の南、育陽付近から宛に入城しようとしていた。


 「納言将軍……というと、荘伯石か」


 その名を聞いた文叔は、眉を顰める。


 「……去年、わが舂陵しょうりょう侯家にふっかけられた逋租ほそを帳消しにしてくれた御仁じゃないのか?」


 本家の劉巨伯が言い、文叔と朱仲先が思わず顔を見合わせる。


 「……そうだけど、僕の名前なんかは憶えてないと思う。正直言えば二度と会いたくないし」 

 「文叔の顔は憶えてるかもしれんがな」

 「だからと言って、手加減する必要はない。奴らに宛に入られたら厄介だ」


 文叔が兄の伯升に言えば、伯升も頷く。


 「わかってる! 蹴散らすだけだ!」


 藍郷らんきょう輜重しちょうも獲得し、全軍の士気は高い。伯升の号令の下、漢軍は一気に襲い掛かり、官軍を大いに撃破し、斬首は三千を超える。敗北した荘伯石らは軍を棄て、北の潁川へと逃げ去った。劉伯升は宛を包囲し、「柱天大将軍」と号した。


 「結局は、宛だ。宛を確保しないことには、どうにもならない」


 だが、宛の攻略には数か月を要することになる。







 宛を包囲する漢軍、下江兵、新市兵は十万に膨れ上がった。この無秩序な一団を纏め上げ、求心力を維持するためには、叛乱軍が漢再興の軍だと、示さなければならない。


 誰を頭に戴くか。


 南陽の豪族たちは当然、叛乱の首謀者であり、ここまでの勝利を導いていきた劉伯升を推す。

 だが、緑林の残党にとって、劉伯升は少々煙たい存在だ。小長安でぼこぼこにされた南陽の豪族連中が、ここまで盛り返したのは自分ら、緑林党のおかげだとも思ってる。

 

 同じ舂陵劉氏でも、緑林党と縁の深い劉聖公こそ、頭に相応しい。


 ここで、仲間割れをすべきでないと、伯升は皇帝位を譲った。――結果的には、それが彼の破滅を招くことになる。


 王莽の地皇四年三月辛巳朔、更始将軍を名乗っていた劉聖公は育水の河原に壇を設け、皇帝に即位し、元号を更始元年二月辛巳朔と改めた。王莽が一月早めた暦を、漢暦に戻したのである。


 数万の荒くれものの兵に囲まれ、南面して立つ天子・劉聖公に対し、文叔は群臣の一人としてその前に跪く。

  

 ――ここに《漢》は復興された。





 盛名の高かった劉伯升ではなく、無頼漢とも言うべき劉聖公が皇帝に立ったことで、不満を覚える者も多かった。豪族主体の南陽の軍と、緑林の荒くれ者たちの軋轢は絶えない。宛は意外に固く、一向に落ちる気配もない。


 (兄貴は、戦が、下手過ぎるんだよ……)


 叛乱を数か月体験して、文叔は切実に思う。

 伯升はだいたい、正面から攻める以外の戦術ってものがない。宛は大都市で人口も多く、物資も豊富だ。闇雲に囲んでも、粘られて救援待ちの戦法に出られると包囲側は弱い。


 小長安での大敗北の教訓から、文叔は伯升の戦術には疑いを抱き、積極的に献策するようにしていた。だが、従順なはずの弟からの献策は、プライドの高い伯升には受け入れがたいらしい。


 「文叔、お前は北の、潁川のあたりを攻略してこい」

 「……宛を落とす前にそっちから行くの?」


 体のよいお払い箱とは思ったが、兄貴の下でイライラさせられるよりはマシだと、文叔は思いなおす。


 「……ああ、それからこれ。新野の、陰麗華嬢からだ」


 伯升が差し出す布包みを見て、文叔が目を見開く。


 「陰、麗、華?」

 「……お前の代わりに、婚約を取り付け直しておいた。その時、託された。優しい兄貴に感謝しろよ?」


 少し照れたような顔で去っていく伯升を、文叔は茫然と見送る。

 中身は、絮衣わたいれの肌着。


 (……これから、暑くなるのに……)


 と思う反面、鎧の下に着るには、痛くないし、矢や刃から身を守っていいとも思う。


 (麗華……)


 細かな刺し子も一目一目、麗華が刺したのだと思うと、すべてが愛おしくて、文叔の頬がつい、緩む。――麗華が、僕を待っていてくれる。これがあれば、僕はきっと死なない。

 麗華の絮衣を鎧の下に着こみ、文叔は別動隊として北に向かい、潁川郡と南陽郡の境、昆陽、定陵、えんといった諸城を攻略し、漢軍の支配下に置いた。


 この時、潁陽県で王元伯という男に遇う。文叔より数歳年下の、顔の四角い生真面目な男で、文叔のどこに惚れ込んだか知らないが、軍中に押しかけてきてお伴したいと言う。

 文叔はしばし、王元伯の四角い顔を見つめる。


 (……こいつも、荘伯石みたいに、僕の顔が好みだからなのか?)


 「いやその――ついてくるのは別に構わないけどさ。……なんなら、南陽の僕の兄貴に……」

 「いや、俺はあなた、劉文叔将軍にお仕えしたいのです!」


 妙に力んで言う王元伯を内心気味悪く思うが、文叔には追い返せるほどの力はない。王元伯の父親は潁川郡ではかなりの有力者。味方につけておいて、悪いことはない。


 「あー確かに、君みたいな立派な士と一緒に功業が立てられればいいって、昔から夢に見ていたよ。こんな機会は滅多にないからね」

 「感激であります! 以後、何でもお申しつけください!」


 口から出まかせに適当なことを言えば、王元伯は四角い顔を感激に赤らめている。


 (信じちゃったよこいつ……)


 なんにせよ、南陽の田舎豪族の三男坊だった劉文叔は、太常偏将軍を名乗って群雄としての活動を始める。王元伯はその、もっとも初期から仕える配下となる。


 

 


 

 南陽で郡大夫・属正が討たれ、数万規模の州兵が撃破され、漢の皇帝が立った。

 この報せに、長安の宮廷は激震する。王莽は大司徒王尋・大司空王邑に命じ、百万と号する未曾有の大軍を派遣し、宛の救援に向かわせた。


 「百万?!」


 その情報を文叔が聞いたのは、潁川郡攻略の拠点にしていた昆陽城でのこと。

 

 「ヒャクマンってまじで? ハックション、とかじゃなくて?」

 「……百万です」


 文叔の渾身の冗談にも、王元伯はクスリともしない。

 文叔はその真面目くさった四角い顔をじっと見つめ、大きな黒い瞳をパチパチと瞬く。


 「そのうち、甲士は四十万程度、ということですが、潁川郡に残っている納言将軍の荘尤や秩宗将軍陳茂の軍とも合流すれば……」

 「兵力だけで四十五万から五十万ってところ? 後は輜重隊か」


 五十万人の兵士に喰わせようと思えば、それくらいの輜重隊は必要になる。


 「それから兵法家が六十三家数百人……」

 「兵法の流派がそんなにあるとは知らなかったな」

 「そして巨無覇という巨人と、虎・豹・犀といった、猛獣が……」

 「百戯サーカスかよ」

 「真面目に聞いてください、それが洛陽を発して南陽に向かっているんです!」


 いちいちチャチャを入れる文叔に、さすがに王元伯がキレる。


 「いやだってさ、真面目に聞いたところで数が減るわけじゃないし……」


 そう言いながら文叔は素早く頭の中で考える。正月からもう数か月になるというのに、いまだに叛乱軍は宛を落とすことができないでいる。そこへ未曾有の百万の大軍……。


 (……詰んだな)


 軍隊は数が多ければいいというものではないが、単純に数は力である。現在、宛を包囲している叛乱軍は公称十万だが、実質は五万もない。そこへ公称百万で実質五十万の兵が雪崩れ込む。


 (内外呼応して宛城からも打って出られたら、万事休すだ――)


 文叔はしばし目を閉じて考えてから、王元伯に尋ねる。


 「このこと、宛の主力は知っているのか?」

 「情報はすでに回っていると思いますが――」


 (だがあの戦下手の兄貴じゃあ、どうにもならない!)


 おそらく、手を拱いて宛が再包囲されるに任せ、何もできずに押し潰されるだけだ。――あの、小長安の時と同じ。


 文叔は脳裏に洛陽から潁川、そして南陽へ至る地図を描く。宛は洛陽のほぼ真南に当たるが、峻嶮な山並みが邪魔して大軍は迂回せざるを得ない。この昆陽の城の周辺を通り、堵陽を抜け、そして宛に――。


 せめて宛を確保できていれば。

 宛を拠点に百万の軍と対峙できるなら話ば別だ。だが、宛すら確保できない現状で官軍と当たれば、確実に叛乱軍は潰滅する。――漢も、そして南陽もすべて、王莽軍に蹂躙される。

 

 宛も、育陽も、新野も――陰麗華も!


 文叔はゴクリと唾を飲み込み、鎧の下に着こんだ絮衣を思う。


 「――元伯。僕は一度、宛に戻る。昆陽周辺の鎮撫は今まで通り。官軍の動向には警戒を怠るな」

 「はっ!」


 文叔は即日、僅かな護衛とともに宛の包囲軍へと戻った。



 

 

 「大軍がやってくる。宛はまだ落ちないのか」


 藪から棒に文叔に言われて、詰られたと思ったのか、伯升が不快げに眉を顰める。


 「守りが固いんだ。頑固な奴が守っている。別に俺たちだってさぼっているわけじゃない」

 「大軍の救援が来るとの噂が流れれば、さらに城内の士気は上がる」 

 

 文叔の言葉に、李次元が溜息をつく。


 「離反工作はしているのですがね、なかなか……」

 「このまま、宛を落とせないうちに、百万の大軍が南陽に雪崩れ込んだらどうなると思う」


 李次元の言葉を無視して文叔が問えば、少し離れた場所で壁にもたれていた李季文がキャハハと笑った。


 「宛を囲んでいる俺たちのケツを、百万の大軍が囲んでくるってわけだ!」

 「……そこへ呼応した宛の城内から打って出られたら、俺たちは一巻の終わりだな」


 冷静に鄧偉卿が言い、シン……と一同が沈黙する。


 「龍車に向かう蟷螂とうろうの斧……わざわざ潁川から、そんなことを言いに来たのか」


 伯升が言えば、文叔は肩を竦める。


 「僕が言いに来なければ、気づかなかったんじゃないの」

 「……それは……」


 伯升が苦々し気に首を振る。


 「さすがに気づくさ。……何か方策があるのか」

 「……ある」


 文叔の言葉に、一同はハッと顔を上げる。


 「どうやって、百万の大軍を蹴散らす」

 

 鄧偉卿が文叔に問えば、文叔は端麗な頬を少しだけ歪める。


 「別に百万を蹴散らす、とは言ってない。……宛を落とすまでの時間稼ぎをするから、その間にとにかく宛を確保するんだ。僕たち叛乱の主力は宛の包囲軍。これが潰滅したら叛乱は瓦解する」 

 「つまり、どこかに足止めするということか? ……だが連中の目的は宛の救援だ。普通に、宛にまっすぐ向かうのではないか」

 「……宛に至る前の、途中の城を囲ませる」


 文叔が、床の磚の上に盛られた砂に、枝で地図を描く。


 「ここが宛。ここが洛陽。……大軍は洛陽を出て、山を迂回して潁川郡経由で宛に向かう。その途中……ここで足止めする」


 文叔が水の畔の小さな城を丸く枝でなぞる。顔をあげ、一同をぐるりと見回す。


 「……昆陽は、要害の地だ。すぐそばに河が流れ、城は小さいが、堅固だ」

 

 李次元が尋ねる。


 「昆陽の城内はだいたい、五、六千人でしょう。百万に耐えられるとは思えない。あるいは、兵を二つに分けられたら……」

 「官軍の強みはとにかく百万の数だ。兵を二つに分けるくらいなら、最初から百万も派遣しない。耐えられないかもしれないが、耐えるしかないんだ」


 文叔の言葉に、腕組みして黙って聞いていた、隻眼の王顔卿が言った。


 「それしか、ないだろうな。……だが、誰が昆陽に籠る?」

 

 文叔は周囲を見回す。


 「……僕が、昆陽まで奴らをおびき寄せ、囲ませよう。それから先は我慢比べだ」

 

 キャハハ、と甲高い声で李季文が笑い、片手をあげる。


 「その仕事、俺も乗った。面白そうだぜ」

 「俺もやろう。……包囲の方は辛そうだがな」


 鄧偉卿も手を挙げる。


 「叔父貴が行くなら、俺も行く」


 部屋の隅にいた鄧少君が立ち上がる。王顔卿が肩を竦める。


 「俺も、宛の包囲戦はグズグズで、正直飽きてきた。昆陽でオトリになる方が楽しそうだ」


 文叔が周囲を見回し、伯升の顔をじっと見て言う。


 「もって二か月。昆陽が落ちる前に、宛を落とせ。宛を確保できなければ、叛乱はおしまいだ」


 伯升が、自分とよく似た弟の黒い瞳を見返す。


 「百万の大軍に、昆陽を囮に時間を稼ぐ。劉聖公……皇帝陛下には、何と?」


 伯升が言えば、伯升の背後に控えていた朱仲先が小声でつぶやく。


 「言ったところで作戦を理解できねぇだろ……」

 「……皇帝はそっちで何とかしてくれ。百万が南陽に入れば、叛乱軍は木っ端微塵になり、南陽は踏みにじられる。故郷を救うには、それ以外の方法はない」


 文叔の言葉に、伯升が頷く。


 「わかった。……昆陽の包囲については他言しない。わざと囮にしたと知ったら、昆陽城内の者は動揺し、内通者が出るかもしれない。すべて、ここでの我々だけの秘密だ」

 「……ああ。だが、数日、猶予が欲しい」

 「了解した。……他の者たちにも、準備が必要だろう。三日後に、昆陽に発ってくれ」


 軍議が終わると、文叔は誰にも何も言わず、一人、馬を駆って新野へと向かった。

 




 

 新野の、陰家の近くにある杜の中の祠。

 会えるとは限らないが、来ないではいられなかった。だが何か、予兆のようなものがあった。


 薄暗い祠の中。まどから差し込む光の中で埃が舞うのを眺めながら、文叔は待つ。


 カサカサ……草を踏みしめる足音。駆け足で木戸に取りつき、そっと、扉が開く。


 「……文叔さま?」


 数か月ぶりに耳にする、愛しい声。次の瞬間、文叔は木戸を蹴破らんばかりにして陰麗華を抱きしめていた。薄暗い祠の中に引きずり込み、華奢な身体を石壁に押し付け、唇を貪る。


 百万の敵軍に対する、オトリになる。……自ら言い出したこととはいえ、はっきり言って勝算などなかった。わずかな勝機と、運に賭けるしかない。

 きっと最後の逢瀬になる。そう思うと、理性も何もかも吹っ飛んで、強引に陰麗華を求めていた。陰麗華の方も躊躇いがちに文叔の首に両腕で縋りつき、彼の性急な愛撫に応える。


 愛している、たとえ、もう二度と逢えなくても――。


 「僕に万一のことがあっても、誰のものにもならないと誓って」


 死を覚悟しているのに、文叔はどうしても、陰麗華を諦められなかった。彼女が、自分以外の誰かのものになるなんて、許せない。

 愚かな誓いだとはわかっていても、死を覚悟しているからこそ、文叔は陰麗華の永遠が欲しかった。


 目の前で、陰麗華の黒い瞳が揺れる。長い睫毛が、露を含んで瞬く。

 何かを、陰麗華も察したらしい。花が零れるように、陰麗華が微笑む。儚いほど綺麗で、胸が痛い。


 「誓います。あなた以外の、誰にも触れさせたりしない。一生、あなただけ……」

 「麗華……僕も誓う。生涯、君一人を愛する」


 愛しているのは、陰麗華ただ一人。麗華と故郷を守るためなら、この命も何もかも捨てても構わない。だから――。


 

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