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真人革命の秋

方今天地之睢剌、帝亂其政、豺虎肆虐、真人革命之秋也。

               ――張衡・南都賦

方今 天地の雎辣しょらつ、帝 其の政を乱し、豹虎 虐をほしいままにすれば、真人革命のときなり。




今、天地の大きな変わり目の時にあって、皇帝の政治は乱れ、豹や虎のように残虐な行いをしたい放題している。今こそ、真の天子が新たに天命を受ける、革命のときであるぞ――。



**************



 順調だった未来に暗雲が垂れ込み始めたのは、地皇二年の春のこと。その前年末から、文叔は舂陵しょうりょう侯家の本家当主、劉巨伯りゅうきょはくに頼まれて常安にいた。


 十二月頭に亡くなった前当主に対し、逋租ほそ(滞納租税)二万六千こくもが突然、請求されたからだ。はい、そうですかと、支払える額ではなく、劉巨伯自身も郡治のえんに出向き、郡の官衙かんがにも掛け合ったが、らちがあかない。元の復陽侯家にも同様の請求があり、劉氏に対する郡の嫌がらせではないかという話になった。

 

 郡の嫌がらせであるなら、郡に訴えても無駄である。ならば都の大司農府に直接訴えるしかない。というわけで、最近まで常安にいた文叔に白羽の矢が立ったのだ。 

 復陽侯家の方は当主の妹の息子、つまり朱仲先が選ばれて、連れ立って常安の街に入る。


 「大司農って、今は何て名前だっけ?」

 「納言のうげんだ」

  

 馬の手綱を引きながら文叔が言えば、朱仲先がぶすっとした表情で答える。

 

 「なんだよ、その名前」

 「『尚書』だろ。文叔、お前は『尚書』が専門だったじゃないか」

 「それはわかってるよ。大昔の官名を今、使う必要がどこにあるんだよって言いたかったの!」


 王莽の新へと王朝が変わってから、官名、地名の変更が相次ぎ、もはや何が何だかわからない状態だった。郡県からの租税を司る大司農は、「納言のうげん」と官名が変更されていたが、もちろん、彼らの耳にはなじまない。


 大司農府――もとい、納言府の前は黒山の人だかりになっていた。


 「……これ、あっちこっちから、税の請求がおかしい、って人が集まってるってこと?」

 「理由はともかく、文句を言いに来た奴が山のようにいるってのは、確かだな」


 相次ぐ地名や行政区画の変更で、各地の吏治が滞り、混乱をついた不正も行われているのだろう。二人が気の遠くなるほど長い列の、最後尾に並ぼうとした時。


 「荘閣下のお戻りだ! 道を開けろ!」


 先触れの声がして、納言、荘伯石の行列が近づいてくるのが見えた。

 文叔と仲先は顔を見合わせ、近づいてくる行列に遠慮し、道の脇によって膝をついた。先導の騎馬が二人の前を通り過ぎ、納言の乗っているらしい、豪華な車が二人の前を通り過ぎ――ずに止まった。


 「卿ら、我が府に用であるか」


 跪く頭上から、男の声が降ってきた。文叔が顔を上げれば、馬車の上から髭を生やしたいかつい男が声をかける。豪華な織の袍に進賢冠を被っているから、高官であるのは間違いない。……納言、荘伯石その人が、なぜか路上の彼らに目を留めたのだ。


 文叔は驚いたけれど、訴えを聞いてもらう、願ってもないチャンスである。


 「は、じかに申し上げるお許しをいただきたく」


 文叔が居住まいを正し、真っ直ぐに荘伯石を見上げれば、伯石は頷いた。


 「うむ、許す。申せ」

 「私は南陽は舂陵しょうりょうの劉文叔と申します。わが族父にあたる、元の舂陵侯家の劉巨伯に代わり、侯家に請求された逋租の件で、再度の調査をお願いしたく納言府にまかり越しましてございます」

 「ふむ。……逋租であるとな」

 「はい。突如、二万六千斛もの逋租があるとの請求が参りましたが、それ以前の納税においては郡府と詳細な確認を重ねておりまして、遺漏のあるはずがございません。こちらの――」


 文叔は隣で同様に膝をついている、朱仲先を指して言う。


 「朱仲先は伯父、元の復陽侯に代わりやはり同様の逋租の訴えに参っております。時を同じくしてかくも逋租が発生したとすれば、むしろ郡府の怠慢をこそ、疑わざるを得ません。どうか、今ひとたびの調査をお願いしたく存じます」


 朱仲先を指しても、荘伯石は文叔から目を離さない。


 「……なるほど。詳しい話は中で聞こう。南陽の劉文叔と申したな」

 「はい。それと朱仲先です」

 「……ああ、わかっておる」


 文叔と仲先は納言府の中に導き入れられ、荘伯石と対峙する。

 妙に距離が近い気がするが、高官と相対したことなどない文叔は戸惑うばかりだ。何とか二人がかりで、郡から吹っ掛けられた滞納租税の額がいかに不自然であるかを語るが、荘伯石はじっと文叔の顔を見つめるばかりで、本当に聞いているのかと不安になる。

 

 「劉文叔、卿は美しい顔をしておるな」 

 「は?……」


 驚いて目をぱちくりさせる文叔の隣で、朱仲先がヒュッと息を吸った。

 荘伯石の瞳に宿る光は異様で、明らかにまともではない。荘伯石のギラギラとした瞳で見つめられて、文叔は蛇に睨まれた蛙のように、硬直して動けないでいた。

 

 「卿は、美しい顔をしておる」


 もう一度荘伯石が言い、文叔もようやく、彼の意図を理解する。この社会で、男色は禁忌タブーではなく、ありきたりのものだ。たまたま、今まで文叔には女しか寄ってこなかっただけの話である。文叔は美形ではあるが男性的な顔立ちで、男に好かれるタイプではないと思っていた。……しかし、荘伯石は男っぽいタイプが好みだったのだ。ちらりと目線を動かせば、隣の朱仲先は気の毒なほど、真っ青になっていた。

 

 納言は九卿クラス、つまり、国家の最高級官僚である。対する文叔は、無位無官の白衣。政権から迫害される劉氏一族の中でも、とりわけ厳しい監視のかかった、南陽の元列侯家の分家。どれほどの証拠を揃えて訴え出ようが、荘伯石の胸一つで白いものも黒とされてしまう。今回の郡の要求はあまりにも高額で、これを支払えば元の舂陵侯家は破産に追い込まれ、それは一族全体に及ぶだろう。――なんとしても、納言・荘伯石の口添えを得て、郡の請求が不当だとの判定を取りつけなければ、一族の没落は避けられないのだ。荘伯石の()()を拒絶すべきではない。


 ……文叔の内部に、ドロドロした嫌悪感が湧き起こる。だが同時に、自分でも驚くほど冷静になっていた。荘伯石が自分のこの()に興味を持ったなら、この機会をとことんまで利用してやる。文叔は唾を飲み込み、覚悟を決めた。


 「……逋租の訴えの方、お聞き届けいただけますか?」

 「特に友誼を結んだ友の苦境であれば、郡の方にもそれがしより働きかけるのは、やぶさかでない」

 「復陽侯家の分も、お約束いただきたい」

 「……あいわかった」


 荘伯石からの確約を引き出し、文叔は奥の房に導き入れられる。チラリと振り返ると、朱仲先がその場で跪いたままカタカタと震えていた。権力の前では、地方の豪族などシラミのように無力だ。潰されたくなければ、上手く立ち回るしかない――。




 納言府からの帰途、文叔は朱仲先にポツリと言う。


 「本当にあのオッサン、僕にしか話しかけなかったよね……」

 


 


 

 



 皇后以下、幾人もの皇族の死去が続いた影響もあって、文叔と朱仲先が常安を出発できたのは、二月も半ばを過ぎてからであった。二人は急ぎ南陽へと向かうが、武関で意外な人物と遭遇する。


 「……お前、匡?」


 紛れもない、新野の陰家に仕える家僮の匡。だが衣類も様子も、全く違っていた。――まるで高位の貴族の公達きんだちのよう――。


 ひそかに文叔を訪ねてきた匡から聞いたのは、さらに奇想天外な話。


 「じゃあ、お前……皇帝の? 隠し子?」

 

 匡は困ったように顔を歪めるが、だが頷いた。


 「すいません。陰家の皆さまには大変、お世話になったのに……」

 「それはいいけど、知らぬこととはいえ、皇帝の子供をこき使ってたって、お咎めを受けたりは……」

 「それはそうしないでくれと、何度も訴えてあります。陰家は俺たちの恩人だと。万一、そんなことになっても、絶対に阻止します!」


 陰家には特に影響はないはずだと匡に言われ、胸を撫でおろす。だが、匡ら兄妹の一件が、文叔と陰麗華の結婚に、決定的な横槍を入れるきっかけになるとは思いもよらなかった。

 

 あの日、匡ら兄妹を迎えに来た前隊ぜんすい大夫の甄阜しんふが、なんと年甲斐もなく陰麗華の美貌を見初め、彼女を小妻に迎えたいと申し入れた。


 陰麗華に、劉文叔という許嫁のいることを、承知の上で――。




 

 鄧偉卿に呼び出されて話を聞いたときは、頭に血が上って倒れそうになった。

 正妻でも許せないのに、さらに陰麗華を小妻にすると言うのだ。


 ――ふざけるのも、いい加減にしろ!


 こめかみがガンガンして、目の奥が怒りで赤く染まる。この前の逋租の請求といい、舂陵の劉氏に対する、郡大夫の挑発なのだ。

 かつて皇家として天下に君臨しながら、天命を失って落ちぶれた一族と侮蔑して――!


 「……ぶっ……殺してやる!」


 思わず呟いた文叔に、鄧偉卿がはっとしてその肩を押える。


 「落ち着け、文叔。軽挙はならん。……陰家の方も戸惑って、返事は保留にしているのだ。……郡大夫の任期は三年ほど、甄阜しんふもあと一年か、二年だ」

 「だからって……!」


 文叔が拳を握りしめる。


 「この春には婚礼を挙げるつもりだった。それを……」

 「気持はわかるが、それは無理だ。郡大夫を刺激することになる。陰氏も苦慮しているのだ。ここでお前が暴走すれば、あちらの思うツボだ」


 文叔は唇を噛み、それから頭を振って、何とか冷静になろうとした。


 「……兄貴は、何て言ってる?」

 「伯升も不満そうだが、ひとまず、陰家の判断待ちだ。少なくとも、劉家の方から陰家へ破談を申し入れることはしないと、俺は聞いた」

 「……時間稼ぎくらいしか、できないのか」

 「差し当たっては、そうだ」


 鄧偉卿が辛そうに眉を顰める表情を見て、いっそのこと、陰麗華を攫って逃げようかと思う。金はないが、商売は得意だ。何とか二人でやっていけないか――。


 「文叔、まさか駆け落ちとか考えていないだろうな?」

 「え?……えーと……」


 図星を突かれて戸惑う文叔に、鄧偉卿が釘を刺す。


 「言っておくが、陰麗華は本当に世間知らずの令嬢だ。働いたことはもちろん、身の回りのことだって、侍女なしじゃできまい。二人で生活なんて、絶対、無理だからな。それに、駆け落ちなんてかましてみろ。陰家も劉家も、郡大夫の報復を受けるに決まってる。……それくらい、わかってるだろう」


 そう言われてしまえばその通りで、文叔は俯くしかない。

 文叔にできるのは、夜中にこっそり陰麗華の部屋を訪ね、気持ちを告げて唇を奪うくらいのこと――。


 それでも、陰麗華が信じて待ってくれるなら、絶対にあきらめないで彼女だけを望む。

 陰麗華が手ずから刺繍した帯を懐に入れ、文叔は誓う。


 陰麗華は自分のものだ。誰にも渡さない――。



 

 


 郡の、劉氏への圧迫はますます苛烈さを増した。

 地皇三年(西暦二十三年)の二月には、伯升が些細な口論から人を殺して行方をくらませ、弟の文叔にも逮捕状が出た。新野の吏をしている来君叔が密かに知らせてくれて、文叔は新野の鄧偉卿の家の、復壁(版築の壁の一部をくりぬいて小部屋を作り、秘密の隠し場所などにする)の中で二か月ほど過ごす羽目になった。


 陰麗華にも会えない鬱屈した日々。どこにもぶつけようのない、負の感情が文叔の中で膨れ上がる。


 郡大夫甄阜しんふの、舂陵しょうりょうの劉氏、とくに劉文叔への圧力はあまりに露骨だった。凍結されたものの、婚約を撤回するまでに至っていないことが、郡大夫を苛立たせるのか。あるいは、人目を忍んで逢瀬を重ねていることを、どこかで嗅ぎつけているのか――。


 新野もまた危険になり、文叔は宛の朱仲先を頼った。文叔と仲先の仲がいいのは周知の事実なので、仲先は自家でなく、宛の富豪、李家に文叔を託すことにした。

 

 待ち合わせ場所の酒肆さかやに迎えに来た李家の若い男を見て、文叔はものすごく嫌な予感がした。


 (こいつ――どこで会ったんだっけ)

 

 男は文叔と同じ年頃で、背が高く、少しばかり気障きざな雰囲気を纏って、そして愛想よく笑いながら、目が油断なく文叔の様子を伺っていた。


 「俺は李季文。……あんた、あの時の、『僕』ちゃんだろ」

 

 男が差し出す手を用心ぶかく握りながら、文叔もまた、お得意の蕩けるような笑顔を返す。


 「あの時……ああ、もしかして、蔡少公の時の……」

 「俺もあの場にいたんだ。まあ、笑わせてもらったよ。あんたが官に追われるとはねぇ」

 「僕は何もしてないけど、兄貴のとばっちりだよ」

 「ああ、あの()()ねぇ……心配しなくても、次元は弟のことは水に流すって言ってる」


 その言葉に、文叔は慌てて仲先を見た。


 「まさか、李次元の家なのか!……あそこは……」


 今、逃げている兄伯升が殺した相手こそ、李次元の異父弟だった。復讐が普通に行われる社会。弟を殺された報復に、弟である文叔を殺すなんて理不尽なことが、十分にあり得るのだ。


 「ああいや、それは違うよ。そういう目的でないと、俺もちゃんと確認している。次元はお前と、話がしたいそうだ」


 仲先にそう言われ、文叔は渋々、李季文についていく。季文は次元の従兄弟なのだそうだ。


 「南郡の新市や下江から流民どもが流れ込んでいるそうじゃねーか」

 「流民というか……もはや立派に軍隊だと思うけどな」

 「俺も次元も、そろそろ次の新しい世の中について、考えないといけねぇって思っているんだ」

 「新しい世の中?」


 文叔が李季文の顔を見ると、季文はいたずらっぽい目をくるりと動かす。


 「『劉氏復た興る、李氏は輔と為る』――ってね」

 

 その言葉に、文叔は反応に困って眉尻を下げる。


 「李家はそういう讖文よげんを信じるの」

 「そりゃ、うちで一番の出世頭の伯父さんは、天文学と星占いに詳しくて、この讖文よげんも伯父さんから聞いたんだ」


 李次元の父はもともと国師公劉子駿の弟子で、讖文に通じている。李家に蔡少公がやってきたのも、その縁だという。


 「僕はそういうのはちょっと……」

 「『何を以て僕に非ざるを知るや!』……ってのは、そういう意味じゃあねぇのかよ」


 もう忘れたかった黒歴史を、李季文指摘されて、文叔は身を縮こませる。


 「……単なる諧謔じょうだんです……」


 

 

 


 李季文に引き合わされた李次元は、蓮っ葉で不良っぽい従弟とは全く似ても似つかない、白皙の美男子で物腰柔らかな男だった。口調も丁寧で腰も低く、美麗な笑顔を整った顔に貼りつけ、しかしとんでもないことを口走った。


 「叛乱を起こしましょう」


 王莽政権には終わりが見えている、天命の帰趨はやはり劉氏にあるだろう。先んずれば人を制す。天下に先駆けて劉氏を旗頭に兵を挙げ、その下に南陽の豪族を糾合する……という豪快すぎる話に、さすがに文叔は背筋が凍る。


 「いや、劉氏と言ってもいろいろいるし、うちは末端の末端の分家で……」

 「南陽の劉伯升兄弟の噂は近隣に鳴り響いています。君たち兄弟は天命を受けるに相応しい。……何より、〈劉秀 当に天子と為るべし〉。劉氏が再興するとき、我々李氏はその輔となる定めなのですよ」

 「……僕の黒歴史を抉るのやめてくれないかな……」

 

 文叔は東郡太守翟義の乱の時に、南陽も火の粉を被ったことを覚えている。もし伯升と文叔が李次元らと兵を挙げれば、家族もただでは済むまい。――そして、陰麗華は。


 逡巡する文叔の耳元で、李次元が囁く。


 「美し過ぎる許嫁を持ったおかげで、とんだ災難ですよね。〈妻を娶らば陰麗華〉……ですか。――君は、彼女が奪われるのを、指を咥えて見ているだけなのですか?」


 はっとして見開いた文叔の黒い瞳と、李次元の視線が交錯する。


 「君が動かなければ、許嫁はあの腐れ大夫のものですよ。――何もしなければ、奪われるだけだ。彼女を取り戻したいなら、行動を起こすしかない。……良いお返事をお待ちしていますよ」


 文叔は、自分が人生の岐路に立たされているのだと知る。

 陰麗華を諦め、郡の横暴に屈するのか。平穏な暮らしを捨て、政権に反旗を翻すか。その先に待つのは、屈辱に塗れた安寧か、終わりのない叛逆と暴力の日々か。


 天よ――。僕は、僕が望むのはただ、彼女だけ――。

 




 郡の追及を躱して舂陵しょうりょうの家に戻った文叔は、やはり家に戻っていた兄・伯升に李次元の意向を伝えた。もともと事を好むタイプの伯升は、すぐにも賛同して李次元と連絡を取ろうとする。


 「落ち着いてよ、兄さん。失敗したらどんなことになるか。僕たちだけの問題じゃない。一族郎党、皆殺しになるんだよ。うちも、それからうちと縁のある家も、きっとただでは済まない」

 「失敗する可能性なんて考慮してたら、大事を起こすなんて不可能だ。……文叔、お前は本当に意気地なしだな。そんなんだからナメられて、許嫁を取られるなんて目に遭うんだ。好きな女を寝取られて、寝取られ男ってずっと言われ続けるのが、お似合いの腰抜けだ」

 「兄さん!……陰麗華は僕を裏切ったりはしない!」

 

 だが伯升は、文叔によく似た彫りの深い、さらに男っぽさの強い顔を歪め、文叔を嘲笑した。


 「陰家からは昨日、正式に破談の通告があった。この秋にも、郡大夫の野郎の許に小妻に入るそうだ。とんだ阿婆擦れだったな」

 「そんな馬鹿なっ……」


 ガツンと、鈍器で殴られたような衝撃に、文叔はしばらく立ち直ることができない。


 「腰抜けの寝取られ男は勝手にへこんでろ。……決行は秋だ。俺たちは()()を起こし、この天下をひっくり返して天命を手に入れるんだ!」


 言い捨てて去っていく伯升の背中を見送り、しばし茫然としていた文叔は、弾かれたように立ち上がり、厩から愛馬を引き出し、夜のしじまに駆け出していた。


 嘘だ――!


 閭門の脇のかきを乗り越え、真っ暗な闇の中を新野へと、ひたすらに駆け抜けていた。


 

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