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ただ一人の

 幼い陰麗華と結婚を約束して、文叔は些か、有頂天になっていたのだろう。常安の太学に遊学中、泥酔して正体をなくす度に「陰麗華」の名を連呼する、不治の病にかかっていることがすっかり知れ渡ってしまった。


 彫りの深い、甘い容姿の文叔は、市で春を売る女たちには、実は絶大な人気があった。しょう県でもそうであったように、文叔は基本、向こうから寄って来る女を拒まない。「陰麗華」「陰麗華」と言いながら、女の誘いを断らない文叔を、潔癖な鄧仲華は汚いものでも見るかのように眉を顰め、非難した。文叔は最初、何がいけないのか本当に理解できず、ポカンとしてしまった。


 「なんで? まずいの? それ」

 「……もしかして、浮気しているって自覚すらなかったってわけ? 本当に最低だな、あんた」


 七歳も年下の鄧仲華は女を知らないからこそ、余計に文叔の不実を詰った。


 「でも、僕が好きなのは陰麗華だけだし……」

 「だからさー。ちょっと考えてみなよ。陰麗華があんた以外の男と寝てたとしたら、あんた容認できるの?別に好きなのは文叔さまだけだから、浮気じゃないわ……とか言って」


 そこまで言われてようやく、文叔は陰麗華が自分以外の男に抱かれる姿を想像し、慌てて首を振る。


 「ダメ、そんなの絶対! そんなことになったら、その男殺す!」

 「……やっぱり……」


 その反応に鄧仲華がわざとらしく溜息をつく。


 「ほら、昔はさあ、人間も禽獣と変わらなかったから、誰彼構わず誘いかけて寝たんだろうけど、それじゃいけない、って古の聖王様が礼のきまりを作ったんだよ。あんたも士大夫の端くれなら、男女ののりはもうちょっとわきまえなよ」


 鄧仲華に説教されて、文叔が項垂れる。……完全に、年齢が逆だ。


 「そっかあ……僕はさあ、叔父さんの家で育ったから、何て言うか寂しくて、優しく誘われるとつい、ほいほいついて行っちゃってたんだよね。……優しいの、女の人だけだったし」


 母親の過保護と過干渉に辟易していた鄧仲華は、そんな文叔の気持ちはよくわからない。


 「でも、浮気が陰麗華にバレて捨てられたら困るだろ?」

 「困る、それは絶対困る。……わかった、これからはもう、誘われても陰麗華以外とは寝ない」


 神妙な顔で宣言する文叔に、鄧仲華は少し不安そうな顔をする。


 「その……結婚するまでは、陰麗華とも寝ちゃだめだよ?」

 「そうなの?……孔子の教えってケチくさいなあ」

 「ケチとか言うのとは何かが違う……物事のケジメってやつだよ。純潔を失って、非難されるのは女性なんだから」


 七歳も年下の鄧仲華にこんこんと諭されて、文叔はようやく、「貞操」というものを理解したのだった。





 陰麗華病の副作用はむしろ、文叔が南陽に戻ってきてから発動したと言える。

 いつの間にか、陰麗華は南陽郡で一番の美女だという評判が、郡を跨いで轟いていた。遠く常安からも、結婚の問い合わせがあるという。

 なにしろ、陰家は南陽郡でもおそらくダントツの大富豪だ。文叔の母、樊嫺都はんかんとの実家、湖陽の樊氏も富豪として有名だが、その所有する田畑がだいたい三百頃だと言われる。陰家の所有地は七百頃、軽く倍を超える。その財力で、絶世の美女。縁を繋ぎたいと思って当然だ。


 貧乏ではないが中流の劉家の、さらに三男坊の文叔のところに、そんな富豪が娘を嫁にくれるとは思えなかった。その中流の資産でさえ、伯升によって食い潰されつつある。――文叔は頭を抱えた。


 「そもそも、何だってそんな噂になっているの。誰が陰麗華が美女だなんて……」


 宛の市の酒肆さかやで、朱仲先とどぶろくを呷りながら悪態をつく文叔に、仲先が呆れたように言う。


 「お前だろ。酔っぱらうたびに陰麗華、陰麗華って喚いておいて。どんな美女だと思うだろうが。……まさか、まだこうがいも済まないネンネちゃんだと、誰が思うか」

 「……何を口走ったか憶えてないから反論できないが、僕は美女だとは言ってないぞ? かわいいとは思ってたけどさ。だいたい、長安の太学で僕が管をまいたからって、どうして南陽で噂になるのさ! お前だろ!」


 文叔がドン、と案を拳で叩いて仲先を睨みつければ、仲先はそっぽを向いて口笛を吹いた。


 「まあ、俺もどんな美女か気になったから、新野の奴には聞いたかもしれんがな」

 「ぜったいそれだ! 来君叔にも聞かれたもん、陰麗華とはどこまで進んでるんだって」


 来君叔は新野に住む文叔の従兄である。


 「……とりあえず、ダメもとで申込には行っとけよ」

 「もう、申し込んで断られた。……媒酌ばいしゃくを鄧偉卿義兄にいさんに頼んだから、陰家側も断りにくかったらしくて、すごーくやんわりとだったけど」

 「偉卿の媒酌でもダメなのかよ。鄧夫人のたしか、従弟だよな?」

 「だって、どっからみても僕、金も官職も将来もないじゃん。無頼ヤクザ気取りの兄貴と、病気で半分寝たきりの兄貴はいるし、分家しようにも、まともな財産を分与してもらえるとは思えない……」


 そもそも、その財産が伯升のおかげで絶賛、目減り中なのである。


 「でも、結婚の約束はしたんだろう?」


 仲先がぎょろっとした目で文叔を見る。文叔は仲先の、鯉のようなギョロ目が少し苦手だった。


 「……したよ。彼女が十歳の時の約束が、どこまで有効なのか知らないけど」

 「十歳じゃなー。てか、お前、完全に幼女に欲情する怪しい男だろ。俺が男親なら、お前みたいな奴のところには、絶対に嫁にやらんぞ」


 アテの茹でた毛豆えだまめを食い散らかしながら仲先に言われて、文叔はがっくりと項垂れる。


 「あああああ、そんなこと言われても……」


 絶望的なのは十分承知の上で、文叔は姉の許に陰麗華が刺繍を習いに来ていると聞いて、偶然を装って数年ぶりに再会を果たし、さらなる絶望に打ちのめされる。――陰麗華は冗談抜きで、南陽で一番の美少女に成長していたのだ。


 艶やかな黒髪は腰に届くほど、流行の高髷も結わず、額の真ん中で二つに分け、後に流して上半分だけを漆塗りのこうがいで留めている。大富豪の娘なのに衣裳も地味で、色柄も控えめ。なのに、抜けるような白い肌に、大きな黒目がちの瞳の周囲を、けぶるような長い睫毛が取り巻いている。小さな唇は紅をさしている風もないのに、早春の桃の花のよう。地味に装えば装うほど、清楚さと生まれながらの麗質が内面から溢れ出て、文叔は口もきけないほど衝撃を受けた。……ここまで可愛くなるなんて、想定していなかった。


 陰麗華は今のところ、すべての縁談を謝絶して、人前に出ることもほとんどないというが、これはシャレにならないと、文叔は危機感で胃がキリキリした。


 今はまだ、「噂の」美少女で済んでいるが、この美貌が明らかになれば、絶対にもっと偉い奴に目をつけられる。地方官か、下手をすれば天子の掖庭こうきゅうに献上されてしまう。――陰家が代々、土地に根差して稼穡かしょくに邁進する家で、中央志向もなければ娘の縁で出世しようという気のない家なのが、せめてもの救いだった。要するに陰麗華は、文叔にとってははっきりと、高嶺の花に育ちつつある。


 それなのに、新野の鄧家で再会した陰麗華は、文叔を見て頬を染めた。


 「あの……お母さまが、文叔さまからのお申し出をお断りしてしまったそうで……わたし、お母さまに約束のことを話していなくて……ご、ごめんなさい!」


 真っ赤な顔で、申し訳なさそうに謝る陰麗華は、文叔との約束を覚えていたのだ。文叔の心が温かいもので満たされる。


 「……覚えていてくれたんだ。いいよ、一度や二度、断られたくらいじゃ、僕は諦めないから」

 「ほ、……本当に?」

 

 上目遣いで見上げる陰麗華の表情に、文叔の心臓は完全に撃ち抜かれた。

 諦めるなんて、できるはずはない。文叔はずっと、彼女だけを求めてきた。これから先も、彼女だけを想っていくに違いない。


 悠なる哉、悠なる哉。之を求めて得ざれば、転輾反側す――。





 

 それからは、姉の家を拠点に陰麗華とこっそり逢瀬を重ね、じりじりと距離を詰めた。文叔自身の先行きが見えないこともあって、鄧夫人の態度は頑ななままだが、一年を過ぎるころにはどうやら交際を黙認しているらしい、雰囲気を感じる。いっそのこと既成事実を作ってしまえば、あっさり結婚できるのでは、と朱仲先に相談したら、烈火のごとく怒り狂って叱られた。


 「女の貞操を何だと思っている! この馬鹿、スカタンがっ!」


 別に、その後結婚するんだから、同じことじゃないかと思ったが、そういう訳にはいかないらしい。

 

 文叔が焦るのには理由があった。 

 舂陵しょうりょうに住む文叔は、滅多に新野までは行けない。でも、陰麗華の周囲には、ある男の影がチラついている。

 鄧少君。――偉卿の甥で、陰麗華の兄である、陰次伯の親友。

 五年前、兄・伯升の婚礼の時、少君が陰麗華に恋しているのを、文叔は一目で気づいていた。まだ少君も子供で、自身の恋心を自覚していないようだったが、文叔にはお見通しだった。五年ぶりに見る少君は筋骨隆々たる偉丈夫に育って、ついでに脳みそまで筋肉でできているようだったが、本人もようやく自分の気持ちに気づいたらしい。可哀想に、陰麗華からは全く男としては意識されていない。だがそういう男がすぐ身近にいるのは、はっきり言えば邪魔だった。


 陰麗華が文叔のことを好きだと言うのは、要するに幼い時の約束があっての上の、一種の刷り込みだ。陰麗華は文叔の自慢の顔と、外面ソトヅラの良さと、調子のよい話術に騙されているだけだ。文叔は自分の性格が歪んでいるのを、十分、自覚していたので、陰麗華が文叔の裏表のある性格に気づけば、愛想を尽かされるかもしれないと恐れていた。あの脳筋男は本能で、文叔の二面性に気づいている。すっかり騙されている陰麗華の目を、なんとか醒ましてやらなければと、余計なことを考えているに違いなかった。何より、陰麗華は素直で従順で、そして押しに弱い。だからこそ文叔のような腹黒クズ男の毒牙にあっさり引っかかってしまったわけで、従順なだけに、常に身近にいる幼馴染から誠心誠意、愛を告げられれば、どちらの男がマトモであるか、気づいて心を移すかもしれない。


 不安で、不安で仕方がなかった。

 母親ですら忌み嫌う自分。もう母の愛を得ることなど、とっくの昔に諦めていた。求めても求めても、愛を得られないことはある。でも最初から愛されないならば、初めから期待しなければよい。愛されないことは、実はそれほど辛いことではない。辛いのは、愛を失うこと。騙すようにして、純真無垢で従順な陰麗華の愛を得た。正体を知られて、陰麗華に拒絶されてしまったら。彼女の愛を失ったら、それこそが恐ろしくてたまらない――。


 文叔は、時々、蒼天を見上げて祈る。


 蒼天よ――。彼女だけ――彼女だけは、僕に与えてください。他は何も望まない。

 この故郷の土に根を張り、額に汗してあなたを崇め、生きていきます。だから――。

 




 文叔の祈りが通じたのか、元号が改まった地皇元年(西暦二十年)、ついに鄧家が陰麗華との結婚を許した。鄧偉卿も姉の劉君元も喜んでくれたが、相変わらず、母は文叔を嫌い、兄を差し置いてと文句を言った。だが文叔だってもう、二十六である。幸いにも、兄の伯升は南陽一の富豪の陰家と縁続きになることを歓び、協力的だった。婚約さえ整えば、あとは嫁入りの日を待つだけだ。三男だし母親はあんなだから、たいした婚礼の準備はできないかもしれない。それでもできる限りのことをしたいと、文叔はまず、婚約が調った証にと、えんの市で金のかんざしを買い求める。精緻な透かし彫りの、花の中央には小さな白玉が嵌められている。


 本当は、真珠のものがよかった。

 今の文叔の経済力では、それほど高価なものは買えない。

 でも、この金釵はきっと、彼女の艶やかな黒髪に映えるだろう。

 

 文叔の懐具合から言えば、かなり無理をして買った金釵を手に、文叔は新野に向かう。 


 今日こそ、陰麗華の周囲をうろつく邪魔者を、片付けてしまうつもりだ。

 

 新野の鄧家で、陰麗華がやってくる頃合いを見計らって、文叔は鄧少君に突っかかった。

 陰家が渋々ながら陰麗華と文叔の結婚を許したことを、鄧少君は内心、我慢ならないと思っていたはずだ。男同士の勘で、少君は文叔の中身が腹黒男だと気づいている。素直で従順な陰麗華は、幼馴染の男に説得されれば、あっさり婚約を翻すと言い出すかもしれない。


 ――ならば、鄧少君への負の感情を、陰麗華に植え付けてしまえばいい。


 一対一の勝負になれば、文叔は確実に負ける。それなりに鍛えているとはいえ、所詮、書生の文叔が、あの脳筋に勝てるはずがない。

 いっそ、陰麗華の目の前で派手に負けるつもりだった。あの男にぶっ飛ばされる現場を陰麗華の目に焼き付ければ、心優しい彼女はきっと、弱い者を傷つけた少君に幻滅するに違いない。


 ――要は、時宜タイミングだ。


 陰麗華との結婚が決まったことを厭味ったらしく告げてやれば、単純な鄧少君は怒り狂って決闘だと言い始めた。おろおろする周囲の使用人たち。そこまでは文叔の計画通り。


 想定外だったのは、鄧少君が本物の武器を持ちだしたこと。上手く言いくるめて木刀での勝負に持ち込む予定だった文叔は焦ったが、咄嗟に剣を抜く。


 ガキン! 


 鄧少君の振り回すげきを、辛うじて剣で受け止める。ものすごい力に、腕が痺れる。


 (やばい!――この馬鹿、本気で僕を殺そうとしてる!)


 さすが脳筋。少君の直情径行ぶりは、文叔の予想をはるかに超えていた。防戦一方になりながら、それでも、持ち前の要領の良さでなんとか攻撃を躱していると、中門の辺りから人の声がする。少君の巨体の向こうに、真っ青になった陰麗華の顔を見て、文叔は一瞬、ホッとする。――と、グルンと反転された少君の戟の柄が、すごい勢いで目の前に迫っていた。

 

 (避けられない!)


 それが刃のない柄の方だと一瞬で確認して、文叔は計画通り、その柄に殴りつけられ、ぶっ飛ばされる。激痛が走り、鮮血が文叔の視界を舞う。


 「きゃああ! 文叔さま!」


 陰麗華の金切り声に、少君が「しまった」と言う表情になる。「ざまあみろ」だ。彼女が愛しているのは、僕なんだから。せいぜい、嫌われてしまえ。――そのまま地面に背中から落ちる間に、泣きながら駆け寄ってくる陰麗華の姿を目に焼き付ける。


 可愛すぎる。ああ、こんな彼女が見られるなら、毎日でも殴られてやる。

 

 自分に縋りついて、泣きながら手ぬぐいで顔を拭ってくれる陰麗華への愛しさと、はっきりと愛情のありかを見せつけてやれた爽快感で、見上げた空の青さがあまりにすがすがしくて、文叔は傷の痛みも全く気にならなかった。


 そう、愛してくれる――彼女は、僕だけを。


 だから僕も、彼女だけを永遠に愛するのだ――。


 



 彼女の黒髪を飾る、約束の金釵。

 幸福は、すぐ間近まで来ているはずだった。


 何事も、なければ。


 天命を失った劉氏の一族として、田舎の豪族として、土に根を張り、稼穡かしょくに勤しみ、慎ましやかな日々を送る。孔子の教えを奉じて、一夫一婦を守る。やがて産まれた息子には、父がしてくれたように、膝の上で書を教え、馬にも乗せ、手ずから剣の手ほどきをしよう。あの日の黄昏たそがれに誓った通り、白水のほとりの家で、金釵が飾る彼女の髪が白くなり、いつか同じ墓に葬られる日まで、二人、手を携えて生きていくはずだった。


 彼自身で、その平和を叩き壊さなければ――でも、それ以外に道があっただろうか?


 



 蒼天よ――。

 かつて祈った通り、私はただ、彼女だけが欲しかったのです――。

 陰麗華ただ一人だけが――。

 

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