天子無妻
*巻之三は文叔視点です
天子無妻、告人無匹也。――『荀子』君子篇
天子に妻無し。人として匹無きを告ぐるなり。
天子には斉しい存在としての「妻」はいない。天子に匹敵する者がいないからである。
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普段通り、夜明け前に目が醒めた。
これはもう、習い性のようなものだ。文叔が顔を動かすと、目の前に妻の、長く艶やかな黒髪があった。妻は、ピクリとも動かない。おのれの執着を表わすように彼女に巻き付いている自身の腕からは、陰麗華のぬくもりと規則正しい呼吸が伝わってくる。眠っているだけだと確認して、文叔はホッと、溜息をつく。
陰麗華を起こさないようにそっと身体を起こす。幕に覆われた帳台の中は、情事の名残りをありありと示して、ひどい有様だ。
久しぶりに抱いた妻は、以前と何も変わっていなかった。その肌も、髪の香りも、何もかも、全てが彼が夢にまで見、恋い焦がれた通りだった。抵抗も虚しく、陰麗華は彼の腕の中に堕ちた。久しぶりに妻を貪って、文叔もまた、昨夜は我を忘れた。
文叔は軽く肩を竦め、ザンバラ髪をかき上げる。
何しろ丸四年ぶり。お預けを食わされ続けて爆発寸前だった。陰麗華が自ら彼を受け入れるまで、血の涙を流しても待つつもりだったが、後宮の情勢はそれを許さなかった。
昨日の午後、陸宣に付けていた中黄門から急ぎの伝令が入る。
――郭皇后が、例の唐宮人の件で、陰貴人を咎めて北宮への退去を申し付けるかもしれない――
三人の宮人の中で、一人だけ懐妊していない唐宮人が、他の二宮人を池に突き落とした事件は、文叔にとっても予想外ではあった。だが、幸いにも二宮人ともひとまずは無事に出産した。だから文叔としては、唐宮人を極刑に処すつもりはなかった。生まれた子にも興味はない。死んでいたら厄介だったと思う程度だ。
しかし、唐宮人が妙なことを供述し始めたと聞いて、文叔は今更ながら、陰麗華以外の女を嬪御にのぼせたことを悔いた。陰麗華への批判を抑えるためとはいえ、やはりその場凌ぎのやり方では、まわりまわって陰麗華に害を為すだけだった。
(バカバカしい。陰麗華が妊婦殺しなど命ずるものか。根拠もなく、くだらないことを言いやがって!)
冤罪はすぐに明らかになるだろうが、郭聖通がそれを利用して、陰麗華の排除に動く可能性に思い至る。
後宮を含め、南宮のすべては皇帝である文叔の、絶対的な権力の下にある。たとえ皇后といえども、最終判断を下すことはできない。だが、それでも遠慮はある。皇后が一度「決定」したものを、皇帝が後から覆せば、周囲からの批判の的になる。批判は往々にして、文叔ではなく、罪のない寵姫・陰麗華に向かう。文叔は何を言われても気にしないが、陰麗華は繊細である。
ただでさえ、二宮人の妊娠・出産で、陰麗華は傷ついている。
文叔にとって、陰麗華は命だ。
絶対に、喪うことはできないものがあるとすれば、それは彼女一人。天下も天命も、己の命ですら、はっきり言ってどうでもいい。
しつこいほど態度で示しているのに、どうして人はその事実を理解せず、文叔から陰麗華を奪おうとするのか。
やりかけの仕事すべてをうっちゃって後宮は長秋宮に駆け付け、そのまま陰麗華を攫うようにして却非殿に戻り、まだ明るい時分から房に籠った。さすがに明るいうちから何をしているのか、と非難囂々浴びるに違いないが、仕事中毒気味の文叔は普段からもっと休めと周囲には言われている。上の者が働き過ぎると下の者が休めないだとかなんとか。だから、一日くらいの穴なら何とかしてくれるだろう。
――それよりも、房の外で待ち構えているであろう、陰麗華の侍女の苦情の方が恐ろしい。このまま、もう一日くらい引きこもってやろうかと思ったが、元来、勤勉な質の文叔は、これ以上仕事に穴を開けたくはなかった。
皇帝の位は、陰麗華を得る代償だ。ならばその務めからは死ぬまで、逃れることはできない。
文叔はそう思い決めると帳をめくり、臥牀の外へと出た。すぐ外には、中常侍の鄭麓が跪いて頭を垂れていた。
「水を」
文叔が命じれば、鄭麓がすぐに、水差しから杯に水を注ぎ、差し出す。暑い時期だと言うのに、水はひんやりと冷たかった。文叔は一気に飲み干して杯を戻すと、昨夜自分で盆の上に置いた、二人の髪を結んだものを掴み、臥牀を降りる。即座に、鄭麓が文叔の肩に白絹の襦衣を着せかけた。
「房の外に、お湯の用意ができてございます。――御髪と髭もすぐに」
「わかった。――陰貴人は、しばらく起こさないでおいてくれ」
「畏まりました」
入れ替わりに、陰貴人付きの掖庭令、陸宣が房に入ってきて頭を下げる。
「陰麗華を頼む。……目を離すな」
「は」
そうして、素早く身支度を整えて文叔は朝政に向かった。
秋、七月。盛りは過ぎたとはいえ、まだまだ日中は暑い日が続く。
昨日の積み残しをも含めて山のような木簡を片付けていると、皇后付きの宦官である大長秋・孫礼がやってきた。
ちらりと目をやった後で、殊更に無視して仕事を続ける。孫礼は堂の入口の廂部分で両膝をつき、頭を下げたまま動かない。見かねた太傅の卓子公が声をかける。
「孫公公(*1)は何をしておられる」
「は。長秋宮様におかれましては、昨日の主上のお叱りが恐ろしく、奴才に命じて陛下に謝罪いたしたいと申され、陛下のご都合を承って参れと――その、ご命令にございまして……」
「はて。そのように陛下がお怒りであったとは。この老骨、とんと知らぬ存ぜぬであったがの。――陛下、それはいかなる……」
卓老公の言葉に、文叔は素っ気なく言った。
「謝罪には及ばぬ。今後、後宮内の人事とはいえ、皇后の専権はならぬともう一度念押しだけしておけ」
「ですが、その――長秋宮様におかれましては、最後の主上のお言葉を、大層気にしておられまして」
「……何を言ったかな」
「はい。陰貴人が孕むまでは、他の嬪御を御寝に召すことはない、と」
「ああ、確かに言った。それも違えるつもりはない。後宮にも足を運ばぬ。陰貴人が子を産まぬ限り、後宮は治まらぬ、と長秋宮が申した。その通りならば、陰貴人が子を産まぬうちに、新しい嬪御を召したところで、後宮が荒れるだけだ。故に、陰貴人が子を産まぬ限り、他の者を召すことはせぬ」
横で書類を捌いていた衛尉の李次元が、露骨に眉を顰める。
「……それはあまりに。子を産んだ嬪御の元にも通わないってことは、御子の顔も見に行かないってことですか? 名前はどうされるのです。情が薄いなんてもんじゃないでしょう」
「宮人腹の子どもにあまり目をかけると、長秋宮がまたぞろ、何やら言い出すかもしれん。……はっきり言えば面倒くさい。名前? 適当につけていいと言っとけ」
筆を持った手をチラチラと振って、面倒臭そうに言う文叔に、さすがに李次元が呆れ顔を隠さない。
「そんないい加減な……。長秋宮にもお運びにならぬおつもりですか? 皇子を産んだ宮人は美人への昇進も――」
言いさした李次元の言葉を文叔が遮る。
「皇子が無事、一歳になるまでは、宮人のまま差し置け。子どもに関する行事や必要な経費なんかは、大長秋、お前が責任を持ってやれ。無駄金を使っていないか、あるいは不当にケチっていないか、監査は入れるから、妙な気を起こすなよ? 男女別なく、幼いうちの扱いは平等にしろ。……長秋宮に関しては、陰貴人が子を産まぬ限り、後宮の乱れは治まらぬ、と長秋宮自身が申したのだ。だから陰貴人が懐妊するまでは、他の者を召さないし、長秋宮も例外としないだけのこと。文句あるのか?」
文叔に冷たく言い捨てられ、孫礼が息を飲んで「ハッ」と額を床に擦り付ける。早々に孫礼を追い払い、文叔が次の木簡を編綴したものを手に取る。机の上に広げ、眉を寄せて読んでいる文叔のところに、朱仲先が朝食の粥を運んできた。
「まだ食べてないそうじゃないか」
「ああ、悪い。寝坊したんだ。――鄭麓はどうした」
この執務室は出入りを制限しているから、宦官も限られた者しか入れない。だが、仮にも建義大将軍が粥を運んできたのを見て、文叔が尋ねる。
「陰貴人が目覚めたが、体調が悪いようだ」
耳元で、朱仲先が二人にしか聞こえない声で、囁く。
「何をしたんだ、お前」
「……四年ぶりなんだ。歯止めが利かなくて……」
「三十過ぎたいい大人が何やってんだ、孺子じゃあるまいし……」
こそこそっと囁き合う男二人を、李次元が胡乱な目で見て、卓子公は灰色になった眉尻を下げ、やはり灰色の顎髭をしごく。
「しかし陛下、長秋宮にも足を運ばないと申すのは、些か度を越してはおられませんかの。古来、専寵の謗りは、むしろ寵愛される姫妾の評判を損なうことになり申す。陽は広く恩徳を施し、陰は恩徳を専らにせず。雲雨(*2)の恩沢は広く普く施さねば、干からびる魚も出て参りましょう。『易』にも、貫魚(*3)のように、後宮の嬪御は順繰りに寵愛すべし、と申します」
卓老公の諫言を、しかし文叔は面白くなさそうに粥を啜り、首を振った。
「郭聖通の――長秋宮のことは皇后としてずっと尊重してきたつもりだ。アレの言う通り、嬪御も召し、子も産ませた。子の出来ない嬪御が暴走して、妊娠中の嬪御を害するなんて、予想できたことで、これを未然に防げなかったのは、後宮の頂点に立つ皇后の落ち度だ。私はそれを咎めるつもりはなかったが、しかし、長秋宮はあろうことか、それを陰貴人のせいにして、彼女を後宮から追おうとした。嫉妬するなとは言わんが、やっていいことと悪いことがある」
「一年以上、お渡りがなければ長秋宮とて不満も溜まりましょう。せめて謝罪を受け入れ、話し合われては」
李次元の言葉に、文叔が不愉快そうに眉を寄せる。
「嬪御を処分するばかりでなく、貴人を勝手に北宮に退去させようとしたのだぞ? これを真面目に詮議したら廃后も視野に入ってくる。今のところ、事は表沙汰になっていないから、唐宮人の件も含め、私も大事にはしないつもりでいる。皇后が余計なことをしないでいてくれるなら、私も波風を立てるつもりはない。――ああ、そうだ。ひとまず、陰貴人と後宮の関わりは一旦絶つ。長秋宮から何か言ってきたとしても、陰貴人が後宮にも長秋宮にも出向くに及ばずと、陸宣にも念を押しておけ」
文叔は入口近くに控える小黄門に命じ、粥を食べ終え、再び仕事に戻ろうとするが、李次元が食い下がった。
「陛下の御心が奈辺に在るか、私どもも承知しております。ですが、正妻を蔑ろにすべきではありません。皇后として尊重している、と陛下は仰いますが、陰貴人ばかりをご寵愛になっているのは、すでに批判が集まっているのですよ。皇子を二人も産んだ、郭皇后には何の落ち度もない。この上、陰貴人を囲い込み、長秋宮に足も向けないなどと言うことが外朝に知られれば、必ずや陛下と、陰貴人への非難が巻き起こりましょう」
「陰貴人は皇后から、さまざまな圧迫を受けているのだぞ? 落ち度がないなどと言うことがあるか!」
「その程度のこと! 落ち度のうちに入りません。たとえ上辺だけでも、長秋宮には相応の待遇をなさるべきです。陰貴人が孕むまで後宮に足を向けないなんて、非常識にもほどがある! 皇帝は天下の規範とならねばならぬのですよ? 一寵姫に溺れていいわけないでしょう」
「なんだと?!」
「まあまあ、落ち着けって」
激昂する二人を宥めるように朱仲先が間に割り込み、李次元の肩を叩く。
「今はまだ、陛下も頭に血が上ってるんだ。――俺の経験だが、たまには女房に脅しをかけておいてもいい。女はすぐにつけあがるからな。どちらが上だと、示しておくのも悪くはないさ。陛下だって、永久に皇后のもとに行かないと、言っているわけじゃない。――なあ?」
朱仲先に同意を求められ、文叔は眉間に深い皺を寄せて、不承不承頷く。
「永久にいかない、なんて言おうものなら、かえって面倒なことになりそうだからな。……皇后は皇后として、尊重するつもりではいる」
自分の息子ほどの年齢の、男たちのやりとりを面白そうに眺めていた卓子公が、肩を震わせて笑う。
「ふふふ、〈天子に妻無し〉、と申します故の。結局、皇后と雖も、妻とはなり得ない」
その言葉に、文叔が筆を持つ手を止め、卓子公の顔を見た。
「……それは、初めて聞くな。誰の言葉だ。」
「孫卿(*4)でござる。……天子とは、実に孤独なもの」
「……なるほど」
文叔は昨日、臥牀の上で陰麗華が彼を拒もうとして発した、言葉を思い出していた。
『――わたしはもう、あなたの妻じゃない――』
溜まった書類を片付けたら夕刻になっていた。執務をする堂に詰めていた高官はそれぞれの部署や、家庭に退出し、文叔はがらんとした堂に一人で座っていた。――もちろん、かなり離れた壁際には小黄門が控えているから完全には一人ではないし、戸口の外には羽林騎がいるはずだ。
文叔は最後の書類に「可」と書き込むと筆を擱き、大きく伸びをする。
今日は早めに陰麗華の元に帰るつもりでいる。きっと、陰麗華は怒っているに違いないが――。
半ば力ずくで抱いた夫を、彼女がどう、思っているか。陰麗華は夫の裏切りに傷つき、自身の裏切りの罪の意識に苦しんで、再会後も夫を拒んでいた。
四年前、彼が河北討伐を命じられて出征するにあたり、文叔は陰麗華を故郷の南陽に返すために、友人の李季文に託した。まさか李季文が、陰麗華を時の皇帝・劉聖公に差し出すなんて、想像もせずに――。
当時妊娠中だった陰麗華は、おそらく腹の子の命を盾に脅されたのだろう。劉聖公に犯され、貞節を汚し、さらには腹の子の命も助からなかった。その心の傷が彼女を抉り続けている。
――たとえ僕に万一のことがあっても、誰のものにもならないと誓って――
昆陽の包囲の直前、死を覚悟した文叔は陰麗華とは最後の逢瀬と心に決めて、なのにあんな誓いを求めた。
自分は死ぬかもしれないのに、それでも陰麗華の永遠を欲した。彼女の未来の幸福ごと、すべてすべて独り占めしたかった。彼女が、誰かのものになるなんて、考えたくもなかった。
従順で無垢な陰麗華に自分への恋情を刷り込み、婚約に持ち込んだ。どうしても陰麗華が欲しくて、手に入れた後も見えない枷で何重にも雁字搦めにした。絶対に失いたくなかった。
その枷が、陰麗華を縛り続け、彼女を苦しめ続けている。
文叔は机の下に置いてある、鍵付きの小さな櫃を引っ張り出し、腰に下げている鍵で錠前を開けた。
細々した品の下から、布張りの函を取り出す。中には――。
バキバキに折られ、踏みにじられて歪んだ金釵。――婚約が決まった時、文叔が宛の市で買い求めて、陰麗華に記念に贈ったもの。洛陽で別れたあの朝まで、常に彼女の黒髪を飾っていた思い出の品。
河北の邯鄲で――劉聖公から届いた長安への呼び出し状、その函の中にこの金釵が入っていて、文叔に教えた。……陰麗華は、もう劉聖公のものになったのだと。
その時の憤り、絶望と言ったら――。
腸の中で車輪が転がる、という表現がある。まさしく腹の中で車輪がギリギリと回って、腸を引きちぎり、磨り潰すかのような、そんな感情。
理不尽なのはわかっている。その時、文叔はすでに郭聖通と婚礼を挙げていた。裏切った自分には、陰麗華を詰る資格などない。それでも、本当に陰麗華を失い、二度と取り戻すことが叶わぬと知った時の深い深い絶望――。
一人になった邯鄲宮の部屋で、荒れ狂う激情のまま、金釵の脚をへし折り、床に投げつけて幾度も足で踏みつけた。黄金の銀杏の葉が歪み、蓮の花の透かし彫りが折れ、華の中央に埋められていた白玉が取れて、どこかに転がっていった。それでもまだ、幾度も幾度も、足で踏みつけて踏みつけて――。
そっと、函の中の釵に指で触れる。
だからこそ洛陽で再会したあの日、恐怖に身を捩る陰麗華の姿に、文叔は深い衝撃を受けたのだ。
《子供は……子供だけは救けて!》
《文叔さま――ごめんな……さ……》
子供を守るために、命よりも大切なものを差し出し、なのに子を守れなかった陰麗華。
あれほど傷ついた彼女を、一瞬でも疑った自分が許せない。
しかも、その後の自分ときたら、陰麗華を傷つけてばかりいる。結局皇后にもできていないし、郭聖通以外の嬪御にまで子を産ませて。さらには陰麗華の幼馴染だった鄧少君を殺した。
裏切りに裏切りを重ね、自由を奪って手元に囲い込むことしかできない愚かな自分に、文叔だってうんざりしているのだ。どうして、こんなことになっているのだ、と。
文叔は折れた金釵の横にある、真新しい金釵を手に取る。
いつか、陰麗華に再会したら、渡そうと思って作らせたもの。本当は再会した夜にも渡すつもりだった。
踏みにじられ、壊れた金釵は取り換えが効く。だが、踏みにじられ、傷ついた陰麗華の心は、もうもとには戻らないのかもしれない。たとえ身体は手に入れても、陰麗華の心を取り戻すのは、簡単ではない。
文叔はその新しい金釵をもう一度、函の中にしまう。
櫃の中に函を収め、蓋をして鍵をかける。
《天子に妻無し》
不意に、卓子公の言葉が文叔の脳裏に蘇る。
皇帝となってしまった自分には、もう二度と、陰麗華とやり直すことは、できないのだろうか。
文叔が妻として求め、愛しているのは陰麗華だけだ。だが現状、正妻は皇后の郭聖通であって、陰麗華は側室――つまり、妾の地位に甘んじている。
表向き、郭聖通を皇后として尊重し、陰麗華は寵姫とすればよい。周囲のものは皆、そう言う。陰麗華ですら、その状況に納得しようとしている。
だが、文叔は皇帝になったとはいえ、土台の感覚は南陽の一士大夫のままだ。好きでもない女を正妻に据え、最愛の女は妾に、なんてただの欺瞞だ。天下の支配者である皇帝が、愛する女を正妻にできないなんて、そんなバカバカしい話があるかと思う。
子供さえできれば――。
陰麗華が皇子を産んでくれれば、いずれ現在の皇太子彊に替えてその子を跡継ぎにし、陰麗華立后への希望が残る。――それを郭聖通は全力で阻んでくるだろうし、陰麗華もまた、争いは好まないだろうが。
だが、文叔は諦めるつもりはなかった。
陰麗華をこの手に取り戻す。妾ではなく、劉文叔のただ一人の《妻》として。
決意も新たに、文叔は立ち上がると袖を払い、部屋で待っているはずの――怒り心頭で待っていないかもしれないが――愛しい《妻》の元に向かう。戸口で護衛の羽林騎がハッと頭を下げ、小黄門が背後に従う。
雒陽宮の青瑠璃瓦の屋根の向こうには、夕暮れの空が広がって、塒に向かう鳥たちが飛び交っていた。――あの日、白水の畔で結婚を約束した、あの空と同じ。
何事もなければ、白水から二里の家で、ごくありきたりの夫婦として、暮らしていくはずだったのに、歴史の激動に飲み込まれ、自分たちの人生は大きく変わってしまった。
――何があっても、自分は陰麗華の手を離したりはしない。もう、二度と。
*1
公公:宦官に対する敬称。
*2
雲雨:巫山の女神と情交を結んだという故事から、男女の情交を指す。
*3
貫魚:『易』剥卦「六五、貫魚、以宮人寵。无不利」
剥卦の六五は、陰の頂点に立って後宮を導く后の象徴。后が天子の寵愛を独占せず、目刺しにして連なる魚のように、順繰りに天子の寵愛を受けることで、最後には咎がない、とする。
*4
孫卿子:戦国時代の儒者、荀子(荀卿)のこと。漢代には宣帝の諱、詢と同音なので、それを避けて孫卿と呼んだ。




