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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第十二章 雲漢 天に昭回す
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鴻溝

 翌日。鄧少君の処刑が決定したと言う知らせに、陰麗華は動揺する。


 「そんな……」

 「済まない、河北の連中に押し切られた。……南陽の昔からの知人だからと言って、特別扱いすべきじゃないって……」

 

 文叔は陰麗華の前で項垂れる。

 陰麗華は両手で胸を押え、ただ目を見開いて文叔を見つめる。

 動悸が激しくなって、掌に鼓動が伝わってくる。まさか――。


 どこかで、文叔を信じていた。

 口を出すなと言われていたけれど、兄の陰次伯もいるし、鄧仲華だっている。将軍には、南陽出身の者も多い。きっと命だけは助かると、高を括っていた。しばらく不自由を強いられるかもしれないけど、でも、数年たてばまた――。

 

 (お願いしたら、聞いてくれるだろうか――)

   

 文叔の足もとにひれ伏し、頭を地に擦り付けて懇願すれば、あるいは――。


 だが、昨夜の耿伯昭との約束を思い出す。


 《あなたから、陛下にあの男の助命嘆願をしないでいただきたい。あなたに頼まれれば、陛下は冷静な判断ができなくなる》


 そして、鄧少君の言葉も――。


 《あいつの決断はお前には残酷に見えるかもしれない。でも、それは天下を取るには必要なことだ。けして、政治向きのことでお前から頼みごとをするな》


 ――わたしが、頼めば文叔様は聞いてくださる? でも……。


 陰麗華は口元を覆ってガタガタ震え始める。


 「麗華……?」

 「……少君は、命の恩人なの……。でも……」

 「わかっている。僕も、なるべくならば殺したくはない。……彼の叔父は僕の義兄で、ずっと、一番仲のよかった鄧偉卿で――できれば、僕も少君は殺したくはないんだ。でも……」


 文叔の両手がググっと膝を掴む。


 「僕の陣営は河北出身者と、南陽の派閥と二つに分かれている。河北で、僕は本当に死にそうな目に遭って、彼らの忠誠に助けられた。彼らを蔑ろにはできない。……少君は、強すぎたんだよ。彼を野放しにしたら、またいつか叛逆するかもしれないって――」


 文叔が辛そうに眉を顰める。


 「君との噂のこともあって、無理を押して彼を助ければ、君に火の粉がかかりかねない。僕はそれだけは――」

 「……わたしの、ためなの……? わたしのために、少君を殺すの?」


 陰麗華の言葉に、文叔がハッとして慌てて首を振る。


 「違う、そうじゃない。僕は――そういう意味じゃない。でもこれ以上、少君の詮議を長引かせるわけにはいかないんだ。派閥同士の溝が大きくなったら、政権の根幹にかかわる。わかってくれ、麗華」


 陰麗華は、わからなくなっていた。

 文叔は自分を愛していると言う。自分だけを愛しているという。

 陰麗華を取り戻すために兵を挙げ、皇帝にまで上り詰めた。先陣を切って叛乱を起こし、天下を騒乱に巻き込んだ責任を取って、一生をかけて天下を一つにすると。


 そのために、陰麗華を裏切って郭聖通と結婚した。唯一の妻と誓った陰麗華を妾に落とした。皇帝としての責務を果たすために、他の女と子供を作って、もうすぐそれがこの世に生れ落ちる。

 そして陰麗華の幼馴染で恩人でもある鄧少君を、天下のために討伐し、殺す。


 それでも、愛しているのは陰麗華だけだと――?


 《あいつは勝って、俺は負けた》


 勝者には、栄光を。敗者には、死を。勝った文叔は天命を掴み、天下に君臨し、陰麗華を得る。負けた少君は――。


 「……もう、覆らないのですか?」


 聞けたのは、それだけだった。文叔が、無言で頷く。


 「最後に、会うことは……?」


 文叔が静かに首を振った。


 「あいつが、拒否した。女子供に見せるべきじゃないと。――昨夜、会ったんだね?」


 陰麗華が微かに頷く。


 「握り飯の礼を言っていた。遺体は、陰次伯と鄧仲華がおさめて、故郷に返す手筈になっている」


 陰麗華が両手で顔を覆う。文叔が、少し躊躇うように陰麗華に触れて、それから抱きしめた。


 「……赦してくれとは、言えない。僕はこれからも多くの命を奪うだろう」

 「わたしの、ために……?」


 文叔の肩に顔を埋めるようにして、陰麗華が尋ねると、文叔が首を振った。


 「……昔、かあさんは僕のことを凶星の下に生まれたと言って嫌ったけれど、確かに僕は周囲を巻き込んで不幸にするばかりだ。すべては君のためだと言いながら、僕は君を傷つけ続けてきた。でも、愛してるんだ。たとえ僕の上の輝く星が凶星であったとしても、君のためなら僕はそれを天命の星に変えて見せる。……だから――側にいて」


 陰麗華は涙に濡れた顔を上げて、文叔を見た。


 「あなたは、()()なのね。……もう、ただの劉文叔ではいられないのね?」

    

 文叔が微かに、形のいい眉を顰める。


 「君が側にいてくれさえすれば、君の前でだけは、劉文叔でいたい」

 「……なら、わたしは……?」

 「麗華……?」


 陰麗華の耳に、鄧少君の最後の言葉が甦る。


 《自分から幸せになろうとしなかったら、この戦乱の時代に幸せになんてなれっこない。だから、頑張って幸せになれ……俺の、遺言だ》


 少君は、死を覚悟していた。文叔が、彼を殺すと。

  

 人は誰でも、死に向かって進み続ける生き物。

 そのゴールに向かって、ただ歩み続けるのみ。


 文叔の歩む道は荒野をまっすぐに貫き、その途上には道半ばにたおれ、息絶えた多くのしかばねが横たわる。もちろん、その中には鄧少君の屍も。


 きっと文叔の頭上には天漢あまのがわと、禍々しいまでに輝く、青白い星が瞬いているに違いない。文叔と陰麗華を隔てる星の河はあまりに広く、陰麗華の声はもう、文叔には届かない――。

 

 





 

 建武三年(西暦二十七年)五月、鄧奉の討伐を終えた皇帝・劉文叔らは雒陽に帰還する。

 後宮の長秋宮では皇后・郭聖通以下の面々の出迎えを受けたが、三人の宮人のうち、許宮人と魏宮人はどちらも、はっきりわかるほど大きなお腹を抱えていた。


 「戦勝おめでとうございます。赤眉に引き続き、南陽の賊も征伐し、これで陛下の天下統一が一歩近づいたこと、まことにお慶び申し上げます」


 ゆったりと祝いの言葉を述べる郭聖通に、文叔は頷く。


 「留守の間、よく守ってくれた。……とはいえ、関中も南陽も、大きな賊を倒したにすぎず、まだ平定とは言い難い。元元たみくさの苦しみはまだまだ続くだろう。後宮も贅沢は慎み、民とともにあるように」 

 「はい……夏過ぎには陛下の御子も産まれるはずです。この後宮の一層の栄えとなることでしょう」


 皇帝と皇后のやり取りを、陰麗華は表情も変えずに聞いている。


 「――時に、清涼殿の。……この度、討伐された鄧奉なる男は、あなたとも知り合いと聞いているけれど」


 郭聖通の問いに、文叔が眉を顰める。


 「長秋宮、そのような話は――」

 「はい。鄧家はもともと、我が陰家の隣家でございますので」

 

 何事もない風に陰麗華が答えると、郭聖通はさらに尋ねる。


 「あなたの、昔の恋人だと言う噂があってよ? 本当なの?」

 「聖通!」

 

 文叔が咎めるが、陰麗華は柔らかく微笑んで否定した。


 「いいえ。彼は兄の――陰次伯の友人でございましたが、わたくしとは特段の間柄でもございません」

 「でも、幼馴染なのでしょう?」 

 「それは隣家でございますから」

 「結婚の約束をしたなんて噂もあってよ?」


 なおも言いつのる郭聖通に、陰麗華は口元に手をあててフフフと笑った。


 「それは人違いだと思います。たしかに、わが陰家と鄧家は代々、姻戚関係にございますが、家族の間で話があったのは、以前の大司徒の……現在は右将軍の鄧仲華公です。鄧少君ではありません」


 それには文叔の方がギョッとして陰麗華を見る。


 「……そうなのか?」 


 陰麗華が頷く。


 「はい。でもまだ具体的な話になる前に、仲華殿は長安に行ったキリでございましたし。何しろ彼は十三歳で太学に入りましたから、その時わたくしはまだ十歳で……彼が南陽に戻った時には、南陽は戦争になってしまい、それどころでは。……きっと、それが間違って伝わったのでしょう」

 「本当に?……」

 

 心底驚いた表情で陰麗華を見る文叔に、陰麗華は穏やかに微笑んだ。


 「鄧氏は二つに分かれておりましてね。鄧氏坡という()()()を挟んで両岸にそれぞれ邸を構えておりました。東側が鄧仲華公の家、西側が鄧少君の家です。わたくしの母は西の鄧家の出で、通婚する場合は血縁の遠い方の鄧家と為すのが決まりなのです。血が濃くなりすぎるのを嫌いますのでね。わたくしを嫁がせるならば、東側の鄧家でございましたでしょう」


 その話は筋が通っているので、郭聖通もそれ以上は追及できなかった。


 「まあでも、あなたにも他の結婚相手のお話があったのね?」


 そうやって眉尻を下げて笑う郭聖通に、陰麗華もにっこりと微笑む。


 「三人も許嫁のいた、長秋宮様にはかないません。王家に連なる方は大変でございますね。うちは管仲が斉桓公に仕えてよりは、ずっと稼穡かしょくに勤しむ斉民でございますので」


 厭味に切り返したばかりか、さりげなく自身の家系の古さまで誇った陰麗華に、文叔が黒い大きな目を見開く。真定王の血筋と言っても、元をたどれば漢の高祖劉邦。泗水しすい郡は沛県の、一介の匹夫に過ぎない。血統の由緒正しさで言えば、春秋五覇の一人、斉桓公の宰相であった管仲以来続く陰氏の方が古いと、勝気に言い返したのである。陰麗華の、どこか吹っ切ったような態度に、文叔もだが、郭聖通は明らかに戸惑う。


 「それより……三人の宮人たちがご挨拶をと」


 慌てて郭主が口を挟み、宮人たちを呼び寄せる。お腹の大きな二人の宮人と、相変わらずの、唐宮人。文叔は露骨に面倒くさそうに眉を顰め、頭を下げる三人に手で合図する。


 「そんな大きな腹で、何かあったら困る。元気そうで何よりだ。もう、下がって休め」

 「まだご恩寵に与かっていない唐宮人は、今宵、お召しになりますか?」

 「必要ない」


 郭聖通が唐宮人を勧めても、文叔がにべもなく首を振って下がらせる。周囲に、やはりクスクスという嘲笑が漏れ聞こえる。

 

 「陛下がお留守の間に、六人の采女さいじょも嫁がせまして……また後宮が寂しくなってしまいました。宮人たちが懐妊して、陛下をお慰めすることができません。やはり新しい嬪御を――」

 「必要ない!」

 

 不機嫌に言い捨てると、文叔は立ち上がる。


 「まだまだ世の安寧には遠い。後宮の贅沢もほどほどにせよ。――却非殿に還る。陰貴人」

 「はい」


 頭を下げる陰麗華の、結い上げた高髷に文叔が声をかける。


 「参れ」

 「はい」


 陰麗華も立ち上がり、郭聖通に無言で一礼すると、裾を捌いて文叔の後に従った。






  

 「仲華との話は本当か?」


 井戸で冷やしたドブロクを漆塗りの杯に注いでいる陰麗華に文叔が尋ねるが、陰麗華が無視する。文叔がチッと舌打ちして、もう一度言った。


 「()()()! さっきの、鄧仲華との話は本当か?」

 「……あちらのお母様が、そのおつもりだったそうですよ? わたくしは聞いておりませんでしたが」


 陰麗華が杯を文叔の前のおぜんに置きながら言う。鄧仲華の母親と、陰麗華の母の鄧夫人は仲が良いから、そういう話があっても不思議ではない。


 「でも、君と僕が婚約したのは――」

 「……母はずっと反対しておりましたし。ただ、陛下は鄧偉卿の小父様おじさまを媒酌に申し込んでおられたので、断りにくかったのですよ」

 「……あいつの方がよかったとか、思ってる?」

 「さあ――」


 陰麗華が文叔の方を見ようともせず、肴の、干し肉を指で細かく裂いて、その小皿を文叔の前に置く。

 

 「麗華、最近、つれなくない?」

 

 陰麗華は今度は無言で、高坏たかつきに盛られた桃の皮を剥き始める。文叔はそのとりつく島もない様子に、はあ、とため息をついて丁寧に割かれた干し肉を手で摘まみ、ガジガジと齧っては、杯のドブロクを呷る。


 「麗華、あのさあ……」

 「はい、陛下。桃が剥けましたけれど、今、召し上がります?」

 「あ? ああ?」


 陰麗華が差し出す桃の実を見て、文叔は受け取ろうと手を出し、それからやはり自分を見ようとしない陰麗華に苛ついたように、桃ではなく、桃を持つ手首を掴んだ。


 「!! 陛下?!」

 

 文叔は桃を持った陰麗華の白い手ごと口元に持っていって、陰麗華の手から無理矢理、桃を食べる。


 「……ご自分で召し上がってください」

 「いやだ」


 むしゃむしゃと、桃を食べ、大きな種をペッと吐き出すと、そのまま桃の果汁塗れの陰麗華の指をベロベロと舐める。


 「陛下! およしになって……」


 抵抗する陰麗華を力でねじ伏せ、指の股まで舌を這わせて汁を全部舐めとると、そのまま陰麗華を抱き寄せた。


 「離して……」

 「何故。……君は僕の貴人だろう? 皇帝に仕えるのが、君の仕事だ。……そうだろう?」


 そう言うと強引に細い顎に手をかけ、唇を奪う。舌をねじ込んでねちっこく陰麗華の唇を堪能してから、文叔がようやく唇を解放すると、陰麗華がホッとしたような吐息を零す。そして首を捩じって顔を背け、文叔の顔を見ないようにしている姿に、文叔が凛々しい眉を寄せる。


 「何がいったい気にいらないの」

 「別に何も――」

 「麗華! ……いや、陰貴人、僕を見ろ。……皇帝が、命ずる」


 厳しい声で命じられて、陰麗華が唇を噛み、ゆっくりと顔を動かして文叔の顔を見た。それでもまだ、最後の抵抗というように視線が揺蕩っている。


 「ちゃんと見て。……僕の、目を」


 陰麗華が渋々目を合わせば、文叔の黒い瞳に、不安そうな表情の女が映っている。


 「……少君のこと、まだ怒っているの」


 文叔が、黒い瞳に強い力を湛えて尋ねる。陰麗華は、怯みそうになる自分を叱咤して、言った。


 「いいえ……まさか、そんな……」

 

 その答えに、文叔が露骨にホッとしたのか表情を緩める。


 「よかった……」

 「わたくしは怒っているのではなくて、自分の思い上がりに気づいただけです」

 「思い、上がり……?」

 

 文叔の黒い瞳が大きく開くのを見つめながら、陰麗華が淡々と言葉を紡ぐ。


 「わたくし、陛下の最初の()()()()()事実に甘えておりました。わたくしは陛下に特別に愛されていると。……もう、()()()()()ですのにね」

 「麗……! 何を言って――」

 「陛下はもう、南陽の一士大夫の劉文叔ではなくて、天命を受けた天子であらせられるのですもの。わたくしも陛下に甘えてばかりはいられません」

 「麗華、君は――」


 色のない瞳で言い切った陰麗華に、文叔は返す言葉が思いつかない。


 「そんな風にはもう、お呼びにならないで。わたくしはもう、劉文叔であった陛下の妻ではございません。一貴人として陛下にお仕えするだけの卑しい身。どうかそのように扱ってくださいませ」


 そう言ってふいっと文叔の堅い胸を押しやり、陰麗華は空いている文叔の杯にお代わりを注ごうと、素焼きの酒注ぎに手を伸ばす。文叔はとっさに、その手を掴んで妨げ、もう一度腕の中に抱き込んだ。


 「麗華、それは要するに怒っているってことだろう?」

 「まさかそのような……陛下に対して怒るなんて。畏れ多いこと」

 「僕は文叔と呼んでくれと以前から言っている」

 「わたくしはもう、妻ではございません」


 ピシャリと、拒絶するような冷たさで吐き出された言葉に、文叔は息を飲む。


 「わたくしは陛下にお仕えする一貴人に過ぎません。皇帝である陛下にひとしきは、ただ、皇后お一人のみ。わたくしは陛下の隷妾げぼくに等しいはしためでございますれば、尊き御名おんなはもちろん、字でお呼びするのも不敬の極みでございましょう。どうかご容赦くださいませ」 


 陰麗華の黒い瞳には今まであった恋情の揺れはなくて、諦めと悲しみがあるだけだった。文叔は答えるべき言葉を探して視線を彷徨わせ、ただ逃がすまいと陰麗華の細い手首をギリギリと握り締める。


 「本来ならば南陽に捨て置くべき、()()()()()のことまでお気に留めてくださって、感謝の言葉もございません。いつまでもそれに甘えていたわたくしが間違っていたのです。どうか数々のご無礼、お許しいただければ――」

 「麗華!!」


 文叔は半ば悲鳴を上げて陰麗華を抱き寄せ、渾身の力でギリギリと抱きしめる。そのまま、いっそ骨ごと砕いてしまいたいとばかりに――。


 「つ……へい、か……くるし……」

 「麗華、僕の妻は今でも君一人だ。どうしてそんな冷たいことを言うんだ、僕は――」

 

 陰麗華が首を振り、身を捩って拘束から抜け出そうともがく。


 「お放しください……陛下……」

 「いやだ、離さない。僕は君を愛してる。他の妻などいらないのに。天下などどうなってもいいのに」


 抱きしめられ、愛の言葉を囁かれるたびに、陰麗華はわからなくなる。

 わからなくて当然だ。陰麗華は、皇帝の貴人の理想の姿を思い描くことができないから。

 

 文叔の腕の中で、陰麗華は幼い日に文叔と二人で見た、夕暮れの白水の畔の風景を思い描く。茜色に染まった空を飛び交う、つがいの水鳥。巣を作り、卵を守り、子を育てる。夫婦が互いに貞節を誓い、愛を貫く暮らし。陰麗華は、そういう日々が幸せだと思っていた。南陽の、陰麗華の知る()()とはそういうものであったから。

 時に、夫は他の女に愛を移すことがあると言う。家内の奴隷女に手を付けて御婢ぎょひにしたり、小妻を囲う者もいる。でも、正妻は夫とひとしい対等の存在で、夫の不実をなじることが普通だった。嫉妬に狂って夫の愛人たちを苛めたり、むち打ったり。それは醜く、おぞましいけれど、だが妻である以上、仕方のないのだと。


 だがこの後宮で、皇帝の寵姫とはいえ、陰麗華にはそんな振る舞いは許されない。常に皇后の郭聖通に一歩譲り、嫉妬心を心の奥に閉じ込め、笑顔で文叔の訪れを待ち、寵愛を甘受する。他の女たちと夫の愛を分け合い、他の女の出産を寿ことほいで――。だが、そんな人生に幸せなどあるのだろうか。

 

 《……幸せは、天から降ってきたりしない》


 文叔に抱きしめられ、頬や瞼、そして唇に雨のような口づけを受けながら、陰麗華は思う。


 天子の寵幸は、まさに天から降った幸運だ。――でもそれは、わたしの、〈幸せ〉じゃない――。


 「……ねえ、麗華。やっぱりまだ……無理?」


 少し息を荒げた文叔に、熱い息とともに耳元で囁かれ、陰麗華の心が冷え、身体が硬直する。

 恐怖を感じて本格的に身を捩り、厚い胸板を押して逃れようともがけば、文叔はため息をついて陰麗華を抱く腕を緩める。


 「……わかった、ごめん」


 幾千もの愛の言葉や口づけよりも、自分に触れないでいてくれることにようやく、文叔の愛を感じられる。それだけが、陰麗華の縋る最後の糸だった。


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