雲漢
七夕記念
*時間的には、閑話の前の前章に直接つながっています。
倬彼雲漢、昭回于天。
王曰於乎、何辜今之人。
天降喪亂、饑饉薦臻。
靡神不舉、靡愛斯牲。
圭璧既卒、寧莫我聽。
大命近止、無棄爾成。
何求為我、以戾庶正。
瞻卬昊天、曷惠其寧。
――『詩経』大雅・蕩之什・雲漢
文叔の予想した通り、董訢は一騎打ちで皇帝・劉文叔が本陣を留守にした隙を狙い、奇襲攻撃を仕掛ける。しかし、これを読んでいた諸将軍は、鄧仲華と岑君然を中心に素早く状況に対応して董訢の軍を蹴散らす。叛乱軍は瓦解して、董訢は戦場から離脱した。北の、宛の方向に逃げれば堅子伋将軍が捕捉するだろう。
ひとまず首魁の鄧少君を捕らえたことで、叛乱は一応の終結を見た。赤眉を下し、鄧奉をも倒した文叔は、南陽の平定に向けて大きく前進する。後は残存勢力を各個撃破していけばいい。
問題は、叛乱の首魁である鄧奉の処分であった。
「殺すべきです」
数か月にわたって、鄧少君らに煮え湯を飲まされてきた岑君然が、決然と主張する。
「賈君文将軍を負傷させ、朱仲先将軍に至っては捕虜の屈辱を受けた。その鄧奉を許せば、陛下の威光が地に落ち申す」
鄧少君の軍に囚われていた朱仲先が、ようやく綺麗に髭を剃った頬を青々とさせて、言った。
「鄧少君は昆陽での功績もあり、また陛下の義兄である、常山太守の鄧偉卿将軍の甥。そもそも、叛乱の原因は呉子顔将軍が南陽を掠奪したせいだ。ここは殺さず、陛下の度量の広さを示すべきだ」
同じ鄧氏である鄧仲華は何も言わなかったが、新野の陰次伯が進み出て、言った。
「鄧少君は我が幼馴染であり、妹ともども、不穏な南陽で私たちを保護してくれた恩人です。どうか、臣と妹の顔に免じて、命ばかりは救けていただくわけにはまいりませんか。陛下」
頭を下げる陰次伯を見て、岑君然将軍が太い眉を顰める。
「……陰貴人は、育陽では鄧奉の舎に厄介になっていたとか。何やら、恋仲だったという噂もあるが、それは――」
陰次伯がギョッとして顔をあげ、ぶんぶんと首を振る。
「まさかそんな! 兄の僕も一緒にいたのですよ! そんなことあるわけない。妹はずっと、身を慎んで陛下からの便りを待っていたのですから!」
「ですが、ここで鄧奉を許せば、陰貴人の口利きを疑う者も出ましょうなあ」
文叔が眉を顰める。
「陰貴人は関係がないし、政治向きのことに口出しは禁じてある。――確かに、鄧奉は陰貴人の縁戚でもあり、河北の真定王家も許したのであるから――」
「真定王劉揚本人は殺されておりますよ、耿伯山将軍によって」
耿伯昭が言う。
「謀反の疑い段階の劉揚が殺されて、これだけの叛乱を実際に起こした鄧奉が殺されないでは、つり合いが取れません」
「……それは……」
耿伯昭がじっと文叔の目を見て言う。
「ここで鄧奉を許せば、陰貴人に甘いと言う批判が起り、結局は陰貴人への専寵が問題視されるだけです。陰貴人が大切なら、ご決断なされませ」
「……」
文叔がぐっと唇を噛む。
鄧奉の処分に対し、文叔陣営の二大派閥、南陽での挙兵以来付き従っている者たちと、河北で文叔陣営に与した者で意見が真っ二つに割れてしまった。南陽以来の者たちにとっては鄧奉――鄧少君――は挙兵以来の仲間であり、さらに叛乱の直接の理由は呉子顔将軍による南陽の掠奪だった。勢い、鄧少君に同情し、命ばかりは救いたいと言う意見が大勢を占める。
だが、河北で文叔に付き従った者にしてみれば、鄧奉はずっと南陽に留まって割拠し、文叔の統一事業に協力しないばかりか、叛乱を起こして楯突いた反逆者に過ぎない。鄧奉が文叔の義兄・鄧偉卿の甥で、さらに寵姫の陰麗華とも姻戚に当たるというのは、むしろ依怙贔屓だと思う。岑君然などは南陽の棘陽の出身ではあるが、文叔に帰順したのがやや遅れたせいで鄧奉との縁は薄く、手ごわい敵として引っ掻き回されて幾度も辛酸を嘗めさせられ、とにかく忌々しい。鄧奉が陰貴人の幼馴染で、どうやら懸想しているらしいのも問題だ。
――こういう男は、とっとと斬ってしまった方がいい。
燻った恋心がいつ、再び火を噴くか知れない。決断を迫る耿伯昭と岑君然に、しかし文叔は言った。
「鄧奉と、陰貴人は無関係だ。以後、それに触れることは禁ずる。……鄧奉は我が郷里の古い知り合いだ。これを軽々しく斬れば、南陽の信頼を失いかねない。これは引き続き詮議し、いったん預かりとする。――他の、南陽諸賊の討伐に関して、先に決める」
文叔は一度議論を凍結させ、賈君文将軍や岑君然将軍らと、いまだに燻る、秦豊ら賊の討伐計画を先に練ることにし、右将軍の鄧仲華は参謀として残したが、捕虜から解放されたばかりの朱仲先は休息を命じ、陰次伯には妹・陰貴人の元にいかせた。
「伯昭、お前は捕虜の扱いが不当でないか、見回ってくれ」
「承知いたしました」
耿伯昭が頭を下げる。軍議は、まだまだ続きそうであった。
建威大将軍の耿伯昭は、陣内に散らばる捕虜のための獄をいくつか見回り、最後、叛乱首謀者である鄧少君を拘留している獄までやってきた。天幕が所狭しと張られた陣中には、篝火がいくつも焚かれ、歩く分には不自由しない。初夏の夜の空気は湿気を孕んでいたが冷たくはなく、時々、心地よい風が吹いた。
ふと頭上を見上げれば、夜空には満天の星。乳を流したような天漢が横たわっている。
(――そうだ、天にも、『漢』があるのだ――)
耿伯昭は天漢を仰ぎ見て、つい口ずさむ。
倬たる彼の雲漢、天に昭回す
王 曰く於乎、何の辜あるか今の人
天 喪乱を降し、飢饉 薦りに臻る
神の挙げざるは靡く、斯の牲を愛しむこと靡し
圭璧 既に卒きたるに
寧ぞ我を聴すこと莫からん
広大なる天の川が、夜空に輝き横たわる
王が言った、「ああ、今の世の人々に罪があるわけでないのに」
天は大いなる災いを降し、飢饉が繰り返し襲う
神として祀らないものはなく、犠牲も惜しんだりしなかった
捧げものの玉も全て捧げ尽くしたのに
なぜ、天は我々を許したまわぬ
初めは、苛政だった。頭でっかちの経済政策と、度重なる貨幣の改鋳が、経済を混乱に陥れ、王莽はそれを苛烈な法で押さえ込もうとした。追い打ちをかけるように飢饉が起こり、流民が野に溢れた。
人々は武器を取り、虐政に立ち向かう。だが王莽は倒れたのに、平和だった世界は戻らない。
耿伯昭は父親が上谷太守であったから、叛乱の直前までは北の、匈奴との雑住地域を含む寒冷な土地に育った。その土地に比べれば南陽の豊かさは別世界だ。縦横に走る渠に宝石のように煌く坡地。原始の豊かさを残す森と湿原。かつては、どこまでも続いていたに違いない、緑なす畑地。今は見る影もなく荒れて茶色い草が生え、渠は分断され、坡地の堰が切れて水は淀んでいる。
鄧奉はきっと、この豊かな土地を守りたくて、そしてかつての平和を取り戻したくて、兵を挙げたに違いない。耿伯昭とて同様に、王莽政権に対する義憤と、新しい世への渇望を抱き、戦場に身を投じたのであり、その気持ちはよくわかる。
だが、耿伯昭が劉文叔こそ天命を受けた天子だと信ずるが故になおさら、その功業に立ちはだかる鄧奉が許せない。さらに彼が挙兵前からの知り合いで、共に昆陽の包囲を抜けたと聞けば、嫉妬で気が狂いそうになる。
(俺だって、あの時に昆陽に居れば、同じくらいの働きができたのに!)
河北で、ともに幾度も死線をくぐり抜けた。我が唯一の主君、劉文叔の、その古い友人が、よりによって叛乱を起こすなんて。
(しかも、陰貴人に懸想だと?)
耿伯昭も、後宮で密かに囁かれた、陰貴人と鄧奉が恋仲だったという噂を耳にし、即座に陰君陵に問いただした。陰君陵の答えはさっぱりしたもの。
――絶対にそんなことはない。姉と劉文叔……陛下は早くから婚約していて、でも戦乱やら郡大夫の横槍やらで、ずっと婚礼を挙げられなかった。鄧少君は隣家の幼馴染だったけど、姉は何とも思っていなかった。
誰が流した話か知らないが、姉はずっと陛下一筋だったと、陰君陵は太鼓判を押した。
だが、鄧奉からの一騎打ちか陰貴人かどちらか、という申し出に、耿伯昭は鄧奉の恋心に気づく。
(たしかに、あの美少女が隣の家に住んでたら、俺だって惚れたに違いない。別の男と婚約なんて聞いたら、発狂する。だからと言って、天下統一の邪魔をするとか、許せん!)
天漢を睨みながら、耿伯昭はググっと両の拳を握り締める。
鄧奉の強さは本物だった。あれは、野に放ってはいけない虎だ。政権に仇を為す前に、始末しておくべきなのに――。
陰貴人のことを思い、決断を下せずにいる文叔を思いだし、ギリギリと奥歯を噛みしめた時、耿伯昭の鋭敏な耳が、人の気配を捉える。
背後に控える従兵を手で制し、耿伯昭が耳を澄ます。声はひそやかな男女のものだった。
「……無茶だよ、帰ろう……人にも見られたら――」
「でも、お願い、どうしても――」
(――女の声? こんな陣中で?)
陣中に女が全くいないわけではない。将軍の中には家族を連れている者もいるし、司厨方にもいるし、場合によっては営伎(軍隊に付いて回る売春婦)がいる場合もある。だが割合は少ないし、勝手に出歩かないように言われている。戦闘で気が立っている兵士たちが、乱暴狼藉に及ばないとも限らないからだ。
こんな場所でコソコソしているというのは、逢引きか何かか。
(クソ、イチャイチャしやがって!)
瞬間的に頭に血が上り、邪魔してやろうかと一歩踏み出したところで、女の声が言った。
「お願い、お兄様、彼のところに連れて行って!」
「だから、無理だってば。もう、帰ろう。……変装してるつもりかもしれないが、バレたら大変なことになるぞ?」
「でも――」
(……兄妹? それにこの声、聞き覚えが――)
まさかと思い、わざと足音を立てて暗がりで囁き合う男女の側に近づけば、女が「ひっ」と悲鳴を上げ、男が反射的に女を背に庇う。
「ま、待て、僕は――」
「……陰次伯?」
耿伯昭の背後の従兵が松明を掲げ、天幕の影で寄り添う男女二人を照らす。女を庇うように立つのは、まだ若く細身の、だが将官らしい美麗な鎧を着た男。その背後に隠れるように、ほっそりと華奢な女が、侍女のお仕着せらしい曲裾深衣に、濃色の単衣を被衣にして身を隠すように顔を俯ける。
「あ、逢引きじゃなくてだね、これは――」
「……お兄様ってことはつまり……」
陰貴人! と叫びそうになるのをギリギリで堪える。仮にも皇帝の貴人が、宵闇に紛れて兄貴と二人、何をやって――と思った次の瞬間、そのすぐ先に、鄧奉が捕らえられている獄があるのに気づく。耿伯昭はそこを見回る予定だったのだから。
「……こんなところで何をしているのです。あなたはご自分の立場がわかっているのですか!」
つい、冷たい声で問い詰めれば、陰麗華は兄の背中の斗篷に縋りつくようにして、恐る恐る耿伯昭を上目遣いに見る。僅かな松明の光の中でも、その黒い瞳が揺れるのがわかり、耿伯昭の心の奥の、庇護欲を直撃した。
「その……どうしても少君……鄧将軍に逢いたいのです」
「な! あんたは! そんなこと言える立場じゃないでしょうが!」
「ほら、麗華、やっぱり戻ろうよ。陛下はああ見えても嫉妬深い。このことが知られたら――」
「命の恩人なんです! 前に雒陽から助け出してもらって……その後も彼の保護がなければ、きっと生きていられなかったでしょう。そのくらい、南陽は治安が悪くて……」
勇気を振り絞って耿伯昭に訴えかける陰麗華の姿に、耿伯昭が一瞬、怯む。
「しかし――」
「お願いです! 少しでいいんです。恩を返すこともできないわたしが、せめて差し入れだけでも――」
耿伯昭が眉を寄せる。
さっきの軍議では決着はつかなかった。文叔が鄧奉の処刑に難色を示しているのは、間違いなく、この女に配慮しているのだ。愛する女の幼馴染で、さらに命の恩人を処刑して、女との仲が拗れるのを恐れているのだ。もし、この女が女の武器で鄧奉の助命を訴えれば、きっとあの主君のこと、鄧奉を赦すと言い出しかねない。だが、あいつは生かしておくわけにいかない男だ。
耿伯昭は陰次伯の背後から、懇願するような視線を向けてくる女をじっと見下ろし、唇を嘗めた。
「……いいでしょう。でも、条件があります」
「条件?」
陰麗華だけでなく、陰次伯も怪訝な顔で耿伯昭を見た。
「あなたから、陛下にあの男の助命嘆願をしないでいただきたい。あなたに頼まれれば、陛下は冷静な判断ができなくなる。だから――あなたからはあの男の処遇については、陛下に尋ねない。約束できますか」
陰麗華は、戸惑ったようにちらりと兄を見た。
「……わたしは、捕虜の扱いなどについて、陛下のなさることに口を出したりはいたしません」
「たとえ、命の恩人でも?」
陰麗華が長い睫毛を伏せた。
「……陛下のなさりように、後宮が口を挟むべきではないと、心得ております」
「ならば、約束ですよ? ほんの少しだけ、彼のところに連れていきますが、拘束は外さない。それでいいですね?」
「……差し入れは……黍の握り飯なのですが……」
「認めましょう」
耿伯昭は、先に立って歩き出した。
獄と言っても、それは木製の柵で囲まれた露天の檻であった。四本柱の支柱でほんの申し訳程度の布の屋根が作られていて、鎧を着たままの鄧少君が支柱の一本に、両手を一つに縛られていた。
「少君!」
思わず駆け寄ろうとする陰麗華の細い肩を、耿伯昭が慌てて掴んで止める。
「それ以上近づいてはダメです。あなたが人質に取られたら大変なことになる」
「そんなこと……」
柱に凭れるようにして座っていた鄧少君が、入ってきたのが陰麗華だと気づき、驚いて身を起こす。
「麗華……! 何でこんな……」
「あ、あの……少しだけど……お腹空いているかと、思って……」
陰麗華が懐から大きな葉に包んだ握り飯を取り出すと、耿伯昭が代わりにそれを受け取り、中身を改めてから、鄧少君に手渡す。
「……ああ、悪りいな、こんな……」
両手首を縛られたままだが、少君はその手で握り飯を掴み、口に運ぶ。むしゃむしゃと食べながら、陰麗華の格好をジロジロと見た。
「……なんだよ、そんな地味な衣裳しか買ってくれねぇのか、あいつ、昔からケチだったもんな」
「これは、目立たないように、侍女に借りたのよ。普段はもうちょっとは豪華よ。……相変わらずケチだけど、わたしにはお金をかけてくれるわ」
「そっか、一言文句言ってやろうと思ったけど、変装ならしょうがねーな」
ハグハグと握り飯を豪快に頬張る鄧少君を、陰麗華が懐かしそうに見る。少君はちろりと横に立つ陰次伯を見て、言った。
「ちょっとは、鎧に着られなくなったじゃねーかよ」
「……遠征が続けば、さすがに着慣れるよ」
握り飯が全部、少君の腹に収まったのを見て、陰麗華が言った。
「ねえ、少君……謝ってよ。……そうしたら、文叔様も許してくださる」
その話を横で聞いていた耿伯昭がギョッとした。
「陰貴人! 捕虜の処分には口を出さないと――」
陰麗華が耿伯昭を見る。
「陛下に助命はしないと言いましたが、少君を説得しないとは言っていません。これは口を出すのとは違うでしょう?」
「確かにそうですが――」
少君はそのやり取りから、この若い将軍が自分を処刑するよう文叔に訴えているだろうと、察した。
「……麗華、同じことだ。俺と文叔とのことは、男と男の問題だ。女は、口を出すな」
「でも……あなたはわたしの恩人だわ」
「お前は文叔の女房だろう。女房なら、夫の決断に口を挟むな」
「少君が引いてくれれば、文叔様だってきっと……」
鄧少君が笑い、首を振る。
「昔、俺が言っただろう。あいつは、見かけと中身が違うって。お前に見せるお綺麗な顔と違って、お腹の中は真っ黒のクロスケだって。俺みたいに、裏表がなさすぎて全部バレバレな脳筋とは違う。……でも、きっと天下を取るには、そういうのが重要なんだ。だから――」
鄧少君はまっすぐに陰麗華を見て、言った。
「お前に頼まれれば、あいつはお前にいい顔見せたくて、自分の本性を隠して、優しい文叔様の顔を取り繕う。でも、それじゃあ天下は取れない。だから、口を出すな。あいつの決断はお前には残酷に見えるかもしれない。でも、それは天下を取るには必要なことだ。けして、政治向きのことでお前から頼みごとをするな。いいな。あいつは、お前の為ならなんだってしようとするが、それじゃあ、天下が滅茶苦茶になっちまう」
少君の言葉に、陰麗華は茫然と目を見開く。
「少君……」
「あいつが俺を殺そうが、殺すまいが、もう、お前と会うことはないと思うから、これが最後になる。……会いにきてくれて、ありがとう。ずっと、会いたいと思っていたし、あの時、お前を洛陽にやったのを死ぬほど後悔した。でも、それが俺の弱さだ」
鄧少君は大きな身体を少しだけ揺すって、笑った。
「あいつは勝って、俺は負けた。……戦のことじゃない。俺は、お前が好きだったけど、自分からは何もしないうちにあいつに掻っ攫われた。奪う機会もたくさんあったのに、俺はそれを無駄にして、あいつは執念でお前を取り戻していった。俺の負けだ。でもな、麗華。俺はようやく、わかったんだよ。……幸せは、天から降ってきたりはしない」
「少君?」
まっすぐ見つめる陰麗華の目には、髪も乱れ、無精ひげが伸び放題の、鄧少君が映っている。
「だからお前も、幸せになりたかったら、ちゃんと自分で掴みに行くんだ。あいつは、死にもの狂いでお前という幸せを掴んで、離そうとしないだろう? でもそれがお前の幸せかどうかは、お前次第だ。自分から幸せになろうとしなかったら、この戦乱の時代に幸せになんてなれっこない。だから、頑張って幸せになれ。……俺からの、遺言だ」
「少君そんな……」
陰麗華の黒い瞳から涙の粒がいくつも零れ落ちる。涙が頬を流れるまま、陰麗華がかぶりを振る。
「麗華、そろそろ行かないと」
兄の陰次伯が陰麗華の肩に手を置き、促す。
「少君、僕は男だから、政治向きのことに少しは口が出せる。最後まで、諦めないから――」
「諦め悪りいな、相変わらず」
陰次伯の言葉に減らず口を叩いて、少君が最後に言った。
「……握り飯ありがとう、美味かった」
陰麗華は何度も、何度も振り返りながら、獄を後にした。
帰り路の上にも、相変わらず天漢が煌いていた。
大命 近し、爾の成を棄つる無かれ
何ぞ我が為にするを求むるか、以て庶正を戻めん
昊天を瞻仰す、曷か恵れ其れ寧らけきを
国家存亡の秋は近い。諸将の努力を諦めてはならない
天子である余一人のためにするのではない。すべては百姓のためである
星空を仰ぎ見て祈る。いつの日か世に平穏の世の訪れんことを
史実では鄧奉には弟(鄧終)がいて、もう少し頑張るんですが、いろいろ面倒くさいんで、その人はいないことになっています。




