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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第十一章 予が美しきひと此に亡し
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因縁

 「おい、立てよ」


 鄧少君の陣中の一角、周囲を木製の垣で囲った内部に向けて、大柄の将軍が声をかける。そこに囚われていたのは、雒陽政権の建義大将軍の朱仲先。念のために後ろ手に縛られ、武器は取り上げられているが、それ以外は目立った外傷などもない。ただ、一月ちょっとの虜囚生活に、髪も髭も伸び放題で、濃い眉の下の目だけがギョロっと声のする方を見た。


 「……おう、将軍自らこんなところまで、何の用だ」

 「ついてこい。文叔と、一対一サシで勝負することになった。あんたにも立ち会いを許す」


 大男――破虜将軍の鄧少君――が見張りの兵に顎をしゃくると、兵が朱仲先を引っ張り上げるように立ち上がらせ、引きずって垣の外に出す。

 

 「おい、痛ぇなあ、もちっと捕虜をいたわれよ……」

 

 朱仲先がどつかれた痛みで顔をしかめてから、鄧少君に尋ねる。


 「一対一って、誰と誰が?」

 「俺と、文叔が、だよ」

 「……本気かよ……」


 朱仲先がギョロっとした目をさらに見開く。鄧少君は背も高く体つきもガッチリして、いかにも強兵だ。文叔は身長も標準だし、何より細身である。見かけの柔弱さの割に武芸もそこそこではあるが、武闘派ではない。どう見ても、文叔に勝ち目はなさそうな体格差である。


 「あいつ了承したのか? まじで?」

 「ああ、陰麗華を寄越すか、一騎打ち、っと言ったら、即刻、一騎打ちで返事が来た」

 「――そりゃあ、陰麗華だけは渡そうとしないだろうな。……とくに、お前さんには」


 鄧少君が眉を寄せる。


 「俺だって、陰麗華が自分のものだなんて思ったことはねーよ。……だが、我慢にも限度はある。俺は、あのクソ野郎でも陰麗華に対する愛は本物だと思っていたから、麗華を雒陽に送り出した。麗華は離縁してもらうだけだなんて言ってたけど、あのクソ野郎の元から離れられないのはわかってた。悔しいけど、雒陽で麗華が幸せになるなら、それで、俺は諦めるつもりだった。だが――」


 速足で前を歩く鄧少君の、両の拳がググっと握りしめられる。


 「陰麗華は正妻のはずだった。だから俺は雒陽に行くのを認めたんだ。それを――河北の女を皇后にして、陰麗華は貴人のままだと? 要するに妾じゃねぇか! そんなのが許せると思ってんのかよっ!」

 「しょうがないだろ、子供は郭氏しか生んでないんだから」

 「あれはっ……陰麗華だって子供は!」


 思わず立ち止まって朱仲先を振り返り、食ってかかる鄧少君を、朱仲先が宥めるように言う。


 「落ち着けよっ!……事情は知ってる。でも、生きた男の子を産めないとダメなんだよ! それくらいわかるだろっ!」

 

 鄧少君がぐっと唇を引き結び、ギロリと鋭い眼光で朱仲先を睨みつけてから、おもむろに前を向いてまた、歩き始める。黒い斗篷マントが、砂埃で少し白っぽく汚れていた。

 

 「……こんなことになるなら、力ずくでも麗華を止めるんだった」

 「その場合は、あいつは育陽を焼野原にしても彼女を取り返すつもりでいた」

 「もとはと言えばあいつが! 河北で他の女と結婚しておきながら!」

 「……あいつはビョーキだ。常識的な話の通じる男じゃない。あいつがマトモだったら、とっくに離縁して、他の男に嫁がせてる。普通は、たとえどれほど愛した女房でも、そうする。……現に俺がそうだから」


 その言葉に、鄧少君が肩越しに振り向き、胡乱な表情で朱仲先を見た。


 「あんたも?」

 「……ああ、俺も、最初に宛で挙兵する時に、女房は離縁した。そうしないと、官憲に捕まって殺されちまうからな。……あの後、面倒を見てくれた宛のやもめ男と結婚して、今は河北にいるよ」

 

 鄧少君がじっと、朱仲先を見てから言った。


 「……普通は、そうするよな。普通は」

 「あいつは普通じゃない。俺や仲華も説得した。……あいつは、離縁状を送ったフリして、俺たちまで騙してたんだよ」

 「最悪だな……死ねよ、クズがっ!」


 ガン、と足元の石を蹴っ飛ばして、鄧少君が悪態をく。


 「で、その……一対一はいいんだが、お前が勝ったらどうするつもりなんだ?」 

 

 朱仲先が話を変えるように尋ねれば、鄧少君は大きな肩を竦める。


 「……別に。勝っても負けても、どっちにしろ兵は引くさ。これ以上、南陽を引っ掻き回したところで、俺には天下を取ろうなんて経略はねえしな。ただ俺が勝ってあいつを殺したら――」 

 「陰麗華がお前のところに行くことはないと思うが……仮にも、夫を殺した男のもとに……」

 「どっちにしろ、俺のものにならないのはわかってる。あいつは最初から、一度として俺の気持ちを受け入れたことはない。あいつにとって俺は、あくまでただの幼馴染だ」

 「じゃあ、なんで一対一だなんて……」

 「普通に戦ったら、確実に負けるからだ。一対一なら、俺が勝てる。でも、戦は無理だ。……俺は脳筋だし、兵力差も大きい。今までの将軍なら気力と地の利でいけたが、悔しいが、文叔の野郎には勝てない。俺は昆陽で、奴の身近にいたから、よくわかる」


 鄧少君はそう言って、傲然と顎をあげ、前を見据えた。


 「俺はずっと、あいつに煮え湯を飲まされてきたが、一回だけ、決闘では勝ったことがある。だから、これに賭けた」 

  

 馬が用意されていて、鄧少君は朱仲先の後ろ手に回して戒められていた両腕を一旦解き、手綱が握れるよう、身体の前で拘束し直す。

 

 「逃げても無駄だぞ?」

 「わかってる。逃げたりはせん。……俺は、戦のあとにお前の命乞いのために派遣されたみたいなもんだからな」


 朱仲先の言葉に、鄧少君が露骨に眉を顰める。


 「……そういう配慮がいちいちムカつくんだよ、あのクソ野郎はよ!」

 「お前のためじゃない。陰麗華のためだ。誰も、命乞いしなかったら、殺すしかないじゃないか。あいつは、これ以上、陰麗華に嫌われるのは避けたいと思っているからな」

 

 朱仲先は拘束された両手で手綱を握り、ひらりと器用に馬に飛び乗った。








 小長安の野、周囲を二軍の兵士が囲む中で、皇帝・劉文叔と鄧少君は対峙した。立ち合い人として、文叔側は建威大将軍の耿伯昭、鄧少君側は配下の董訢が出て、さらに捕虜となっていた建義大将軍の朱仲先がその場に現れると、赤い斗篷マントを靡かせ、金属製の兜をかぶった文叔が、馬上で声を上げた。


 「仲先! 無事だったか!」

 「ああ、無様にも生き残っているぞ!」


 文叔は数年ぶりにまみえる、かつての戦友に言った。正面から騎乗して向かい合っても、鄧少君の方が明らかに上背もあり、体格も立派だ。文叔はけして小柄ではないけれど、一見、細身で文弱な雰囲気がある。


 「……久しぶりだね。仲先の、縄を解いてもらえないか?」

 「ああ。今すぐな」


 鄧少君はすらりと腰の剣を抜いて、くいっと手綱を引くと朱仲先に馬を寄せる。ギラリ、と初夏の陽光に刃が翻り、黒い斗篷マントがぶわりと風をはらむ。朱仲先の手首の縄がはらはらと落ちたが、手首には傷一つついていなかった。


 「助かったよ。……俺もここで見物してたらいいのか?」

 「勝手にしろ」


 朱仲先の問いに、鄧少君は吐き捨てると、まるで存在を無視するようにギロリと文叔を睨みつける。


 「多くの兵を動かす必要もない。俺と、お前の間にあるのは、ただの私怨だからな。一対一の勝負で、ケリをつけようぜ」

 「……私は別に、きみを恨んではいないよ。むしろ、()を保護してくれたことに、感謝している。私はきみの恩にも十分に報いるつもりだったのに、非常に残念だ」

 

 文叔の言いざまに、鄧少君はベッと地面に唾を吐いた。


 「うるせぇ! てめえが信用できないクソ野郎に陰麗華を預けたおかげで、あいつがどんな目に遭ったか! その上河北で勝手に結婚して、便り一つ寄越さねぇ! 何が妻だ! 他の女と正式に結婚した時点で、前の女房とはご破算だろうがよっ! それを! あいつを脅すようにして雒陽に呼び寄せて、あろうことか妾に落とした!」

 「……私は彼女を皇后にするつもりだったけれど、彼女が固辞したんだ。これは私たち()()の問題であって、きみがとやかく言うことじゃない」


 文叔の冷ややかな言葉に、鄧少君はさらに激昂する。


 「何が固辞だ! あいつが自分からそうするように、仕向けたくせに! 結局、あいつの優しさを利用しているだけだ! 俺は、お前がクソ野郎なのは知ってたけど、あいつへの気持ちだけは本物だと思ったから身を引いたんだ!それなのに!!」

 「……少君。陰麗華のことを思うなら、剣を引いてくれ。卿が叛乱を起こしたことで、彼女がどれほど自分を責めたか――」 

 「ああもう、うっせぇ! 要するに全部全部おめぇが悪い! 南陽にあんな掠奪上等の馬鹿野郎を送り込みやがって! おめぇが陰麗華や陰家や、南陽にきちんと敬意を払っていたら――」


 鄧少君の言葉の途中で、文叔が右手を上げて遮る。


 「……そもそも、南陽の衆が私たち兄弟じゃなくて聖公を選んだんだ。兄の伯升は殺され、私は河北に追われた。皇帝に即位して雒陽を確保した後でさえ、南陽の衆は聖公の残党を支持して私に帰順しなかった。私だって、故郷に兵を送りたくはなかった。でも、力で押さえつけなければ、南陽の衆は私に従わないじゃないか!きみが率先して下ってくれれば南陽も――」

 「うるせぇ、何が皇帝だ! ふざけやがって!」


 文叔がそれ以上言わないうちに、鄧少君の剣が文叔の鼻先をブンッと掠める。


 「陛下――!」

 

 それをわずかに顔を背けて避けた文叔に、耿伯昭が叫ぶ。


 「貴様、一騎打ちの作法も心得ずに――」

 「いい、伯昭。……交渉は決裂した。とっとと勝負に入ろう」


 背後に控えていた従兵に向かって差し出した文叔の右手に、従兵が愛用のげきを渡す。少君も剣を鞘に納め、こちらは董訢が一声かけてげきを放り投げ、それをやすやすと受け取り、ブルンと一振りした。


 「……今度はおめぇもげきかよ? 前んときは剣だったのによ!」

 「あの時もきみがいきなり本物の武器で斬りかかってきたんじゃないか。……私の、挑発に軽々と乗って」

 「やっぱり挑発したのかよ!」

 「……そうだよ、陰麗華がやってくるのを見計らってね! 目の前で派手にぶちのめされて、彼女の心も全部、鷲掴みにするためにね!案の定、卿はあっさり引っかかってくれた!」

 

 二頭の馬が至近距離ですれ違い、ガキーンと戟同士が打ち合わされて、青い火花が光る。両者の位置が入れ替わり、じりじりと、円を描くように二頭の馬が歩いて間合いを計った。

 まず鄧少君が仕掛けた。ヒュンッと風を切る音とともに、横に薙ぐように打ち込まれた戟を、文叔が弾き返す。ガン! 火花が散り、戟の柄に結びつけられた赤い布が焔のように翻った。直後、少君は馬を一歩進ませ、手首を返すようにして弾かれた戟を反転させる。滑らかな半円を描いて戻ってきた白刃を、しかし軌道を読んでいた文叔は軽く打ち返して、そのまま流れるような動作で少君に向け、鋭い突きを入れる。少君は素早く反転させた戟の柄で、大きく上へと弾き返した。

 

 ガッ!


 柄のぶつかる音、馬の嘶きが響き渡る。両者の人馬が空中ですれ違い、二人の斗篷マントが風になびく。この時代、馬のあぶみはまだ発明されておらず、人は両脚で馬の身体を挟むようにして馬を制御した。人馬の一体感はさらに強かったのではないか。馬の蹄が砂埃を巻き上げ、二人の周囲が白っぽくけぶっていく。

 すれ違った両者は素早く馬の向きを変える。文叔が身体を低くして戟を水平に構え、鄧少君に向かって突進する。突っこんできた文叔の戟の穂先、ほこのように尖った「」の部分をいなし、鄧少君は横に突き出た「えん」の部分を自分の「援」の部分で受け止めて、力任せにギリギリと押した。

 

 ガリガリ、ガン!


 両者、戟を上方に上げて刃を解き、再び位置を交替させて間合いを計る。少君が体勢を整える隙を与えず、文叔が再び打ち掛かり、少君が躱す。馬の汗が飛び散り、蹄の音と嘶き、男たちの息遣いが交錯する。

 上背も腕の長さも、そして膂力も、鄧少君の方が文叔を圧倒している。だが文叔は全く怯む様子を見せず、素早さを生かした攻撃を繰り返し、むしろ鄧少君の方が防戦を強いられた。文叔は昆陽の戦果に加えて河北を転戦し、今や「天下最強」とも言われる常勝の将軍。もはや、かつて少君がぶちのめした、白面書生の面影はない。


 一方の鄧少君とて実践経験は踏み、最強のはずの文叔の麾下の将軍たちに、幾度も煮え湯を飲ませてきた。そもそも、昔から武芸だけが彼の取り柄だったのだ。普通に勝負したら、たぶん鄧少君が勝てる。だが、勝ってどうするのだ。武器を振りまわし文叔の攻撃を躱しながら、鄧少君は迷う。


 南陽が掠奪を受けた時、鄧少君の脳は怒りでブチ切れた。郭氏立后の報を聞いて以来、ずっと沸騰寸前に煮えたぎっていた血が、ついに怒りのマグマを噴いて溢れ出て、本能で叛逆を決めていた。


 いや、叛逆じゃない。俺は、今まで一度だって、劉文叔の配下に下った覚えはないんだ。劉聖公の下に付くのも業腹だったが、文叔の下なんて死んでもご免だ。ずっと、そう思っていたじゃないか。


 だが、だからといって、どうしろと言うのだ。

 戦乱に喘ぐ南陽に平和をもたらすには、天下が再び一つになるしかない。天命を受けた天子が海内を一つにし、天の徳を普く行きわたらせる以外にない。だが今はなんだ。

 まるで雨後の筍のように、現れては消えていく自称皇帝、自称天子。天命なんて本当にあるのか、天下が一つになることなんて、あるのかと疑いたくなる。

 周囲にそそのかされておだてられ、おのが天子だと自惚れ、そして敗れていく愚かな野心家たち。なんで、この天下が自分のものだなんて思えるのか、少君にはさっぱりわからなかった。

 だってこの天下は劉氏のものだ。匹夫から天子へと登り詰めた、偉大なる高祖・劉邦。始皇帝ですら十五年しか持たせられなかった天下を、劉氏だけが二百年の長きにわたり、子々孫々、伝えることができたじゃないか。

 

 だからといって、劉氏なら何でもいいってわけじゃない。赤眉の劉盆子は論外だと思っていた。赤眉の非道により、どこよりも豊かだった関中は飢饉と掠奪、血で血を洗う殺戮に覆われて、まさにこの世の地獄だ。奴らが関中を出てきたら、故郷南陽だって、ぺんぺん草も生えない荒れ地になっちまう。


 鄧少君だってとっくに気づいてはいた。同じ劉氏なら、劉文叔の方がよっぽどマシだって。ヤツは有能で、()()()()()()十分に君子然とした人格者で。だから、あからさまに敵対することはしてこなかった。

 劉文叔が陰麗華を裏切り、故郷の新野の掠奪を許すまでは。奴が、陰麗華と、南陽を踏みにじるまでは。


 怒りのままに兵を挙げ、気づけば鄧少君は南陽の諸将を糾合し、雒陽が派遣する討伐軍に勝ち続けていた。いつの間にか側近に収まっていた董訢とうきんが少君に囁く。


 ――将軍の強さは本物だ。南陽で割拠し、天下を狙うべきだ。


 天下?そんなもの、欲しくない。

 俺が欲しいものはそんなのじゃない。

 ただ昔の、平和だった故郷を取り戻したい。


 あの十月。劉文叔兄弟の挙兵によって崩壊した、彼の美しい世界。

 緑と生命に溢れた美しい故郷を、血と餓えと暴力がはびこる地獄に変えたのは、誰か。今、こうして武器を手に劉文叔に立ち向かうこともまた、故郷の窮状を引き延ばしているだけではないのか。


 ――いったい、どうすればよかったのか! 


 鄧少君の戟が、文叔の顔の至近を過る。文叔が咄嗟に顔を背けて避けようとするが、僅かに避けきれずに頬をかすり、赤い血が飛び散る。だが次の瞬間、文叔は怯むことなく戟を打ち込んで、その刃が少君に迫る。


 ガッ!


 反射的に戟の柄で受け、互いの顔を間近で見ながら、ギリギリとり合う。文叔の憎らしいほど整った顔の、眉間から汗が、頬からは血が流れ落ち、互いの荒い息遣いが聞こえる。


 「クソッ! しつけぇ!」

 「お互い様だっ!」


 力と技量では圧倒しているはずだった。だがきっと、何かが足りずに互角に持ち込まれている。以前は、もっと技量差があった。いったいに何が――。


 「……私を殺したところで、陰麗華はきみのものにはならない。私のものだ、永遠に……」

 「なんだとぉ!」


 ガツ!


 鄧少君が怒りに任せて文叔の戟を押し戻す。一度離れ、再び戟を打ち合わせる。


 ガキン!


 「きみはいつも、気づくのが遅い。遅すぎる。ずっと彼女の側にいたのに、彼女の心を奪うことも、力ずくで手に入れることもできなかった!……きみがもっと貪欲に動いていたら、今頃は彼女を得ていただろうに!彼女は、従順だから……彼女は運命に逆らわず、君のことも受け入れただろう。そうしたら――こんな、私のような最低のクズ男に捕まることもなかっただろうに!」

 「何だとてめぇ!」

 「卿は私に奪われたと嘆くばかりで、彼女のために奪うことすらしなかった。……彼女の意志を尊重するという美名のもとに、嫌われたくなくてモタモタしていただけだ。そうこうするうちに、私に掻っ攫われた。一度ならず、二度も!あの二年は卿にとって最後の機会だったのに!……とんだ、間抜けだ!」

 「クッソぉ、言わせておけばあ!」


 頭に血が上った少君が戟を振りかぶり、力任せに振り下ろす。文叔はその瞬間を待っていた。ひらりと身体を躱して戟の刃を避けると、空を切った戟の柄を掴んで引っ張り、少君がバランスを崩したところを、ブンと横薙ぎにした戟で思いっきりぶっ叩く。胴には鎧を着ているから、それほどのダメージではない。だが文叔が同時に足で少君の馬の腹も蹴っ飛ばす。馬が後ろ足立ちになり、バランスを失った少君は体重を支え切れず、どうと馬から落ちた。馬が走り去り、文叔は無様に地に転がった少君にとどめを刺すために、戟を持ち上げ――。


 「やめてぇええええ!」


 甲高い悲鳴が風に乗って流れ、文叔が弾かれたように顔を上げる。

 兵士の人の輪に囲まれた中に、有り得ない薄桃色を見て、目を瞠る。


 「麗華?! なぜ?!」


 地上で這いつくばった少君も、驚愕で凍りつく。すぐにも駆けだそうとする陰麗華を、陰次伯が背後から必死に羽交い締めにして、さらに朱仲先も背中で庇うようにして押さえつけている。 

 

 「勝負はあった! 殺すな!」

 

 朱仲先も叫び、文叔は唇を噛むと、少君の首筋に戟の先端の刃を当て、言った。


 「……動くな。……あの釣り目野郎はどこだ?」

 「釣り目……? ああ、董の野郎? ええ?」


 見回せば、立ち合い人のはずの董訢は忽然と姿を消していた。


 「……謀られたか……だが、本気になった私の配下の将軍には勝てんぞ」


 文叔は馬を寄せてきた耿伯昭とその配下の兵に命じて、鄧少君の身柄を拘束させる。 

 

 「なんで陰麗華がここに……」


 呆然と呟いた鄧少君に、文叔も眉を顰める。


 「大方、妹に甘い陰次伯が連れてきたんだろう。――だが、今頃、本陣はあの釣り目野郎の攻撃を受けているだろうから、彼女がここにいるのはかえって幸いだった」

 「……本陣……?」

 「姑息な手段だが、圧倒的な兵力差を考えれば、しょうがないな。……総大将をオトリにしてってのはどうかと思うが」

 「あの……馬鹿野郎がっ……」


 耿伯昭によって後ろ手に縛られながら、鄧少君が悪態をつく。

 そこへ、兄の陰次伯に守られるようにふらつく足取りで歩いてきた陰麗華が、地上に縛られた幼馴染と、馬上の夫を見比べて、涙に濡れた頬を拭うこともせず、首を振る。


 「……お願い……殺さないで……お願い……文叔さま……」


 その場に頽れそうになる陰麗華を、間一髪で兄の陰次伯が支える。

 陰麗華の両目から溢れた涙が、ポタポタと、黄色い大地に雨のように降った。 

 


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