微行
建武二年十一月、皇帝・劉文叔はついに、南陽で叛乱を起こした鄧奉への説得を諦め、先に荊州平定のために派遣されていた廷尉・岑君然を征南大将軍とし、大規模な増援を送って鄧奉の討伐を命じた。
南方に駐留していた執金吾の賈君文将軍を荊州に向かわせ、さらに漢忠将軍の王顔卿と建義大将軍の朱仲先ら、八将軍を派遣した(*1)。代わりに賈君文将軍の下についていた騎都尉の陰次伯が、傷病兵らを率いて雒陽に帰還した。
武装のまま妹のところに顔を出した陰次伯は、すっかり日に焼けて逞しくなっていた。
「いろいろと大変だったけれど、何とか無事に戻ったよ。……お前も気苦労は多いと思うが……」
正妻として嫁いだはずの妹が、皇后の位を郭氏に譲り、寵姫の地位に甘んじているのを、むしろプライドの高い陰次伯こそが傷ついているだろうに。その上、幼馴染で親友の鄧少君が南陽で反旗を翻し、陰次伯の立場はさらに厳しい。
「僕は従軍して少君を説得したいと申し出たが、陛下はお許しにならなかった」
陰次伯が溜息をつく。
「僕の代わりに、朱仲先将軍が少君の説得を最後まで試みてくれるそうだ」
今回、文叔は常に影のように付き添ってきた建義大将軍の朱仲先を派遣した。河北を転戦中も常に身近にいた、腹心中の腹心だ。
「それだけ、少君の叛乱については陛下も気にしているんだろう……長安の、仲華もやばいみたいでさ。長安を確保したのはいいが、食い物の確保ができない、でも断固掠奪はしない、ってんで士気が下がってる。いくらなんでも負けすぎだから、そろそろ交替させられるんじゃないかって言われてる」
長安に大軍を率いて駐屯している大司徒・鄧仲華は、このところ食料不足と士気の低下に悩まされ、赤眉軍に負けが込んでいる。
「南陽と関中の赤眉と……この二つが平定されれば、天下の趨勢はほぼ決まる。少君が説得に応じてくれればいいんだが……」
長安と雒陽そしてその南側にある南陽が支配下に入れば、もともと河北に拠点を持っている文叔が、天下の主要な地域をほぼ、押えることになる。そうなれば天下統一までの道のりが射程に入ってくる。
「いつかは、昔のような平和な暮らしが戻ってくる。僕はただそれだけを願っているよ。麗華も、だから辛いだろうが今は陛下を支えてくれ」
「お兄様……」
陰麗華は目を伏せる。
自分が、彼を支える役に立っているのかどうか、わからないけれど――。
戦争は続くが、後宮の日々も続く。
新しい三人の宮人は立ったものの、皇帝は後宮には滅多に足を向けなかった。最初、郭皇后が文叔に薦めた五人の采女は、李次元らの差配により、妻のいない若い将軍たちの元に縁づけられることになった。残る六人もいずれどこかに嫁がせるための、調整が続いている。
魏宮人と許宮人の元には、皇帝の二度目のお渡りがあった。しかし、唐宮人のお渡りは設定されなかった。ただ、嬪御としての待遇と俸給だけはもらっているため、唐宮人は「手付かずの嬪御」として後宮内の嘲弄の的になっている。嬪御になってもお手もつかず、永遠に処女のまま置かれるくらいなら、皇帝が選んだ将軍に嫁いだ方がマシ、という声も次第に聴かれるようになった。もし、それを狙ってのことだとしたら、文叔は相当な策士である。朝請や何かの行事にたびに、唐宮人は周囲の侮蔑にさらされ、あからさまな嫌がらせも受けているらしい。陰麗華は気の毒とは思うものの、積極的に動いてどうこうしてやるわけにもいかない。そして、唐宮人という犠牲の子羊を得たおかげで、陰麗華への後宮内での批判はほぼ止んでしまった。
そうは言っても、陰麗華自身はまだ、文叔と他の女との関係を受け入れたわけではなく、気持ちが沈んで、夜はよく眠れなかった。
「あのね、陸宣、お願いがあるのだけど――」
掖庭令として忙しく働くようになった陸宣だが、それでも陰麗華へのご用を最優先に勤めてくれる。
「どういたしました、陰貴人様」
柳のおやつにする大きな牛の骨を、厨房から手に入れてきた陸宣は、ニコニコと微笑みながら言った。
「その――掖庭の宮人のことなのだけど……」
「はい」
柳はもう、すっかり骨に夢中で、前脚で抱え込むようにしてガジガジと齧っている。
「その、なるべく、彼女たちの話は聞きたくないの。……たとえばその、今夜、陛下がどなたのところに通われるとか、そう言うの」
文叔はどこに行っても、必ず陰麗華の部屋に戻ってくるのだが、陰麗華に言わせれば、他の女を抱いたその足で戻って来られる方が耐えられなかった。だが、立場上、来るなとも言えない。
「だからその……ずっと、お仕事だと思っていれば、まだ我慢できるかなって思って……」
「ですがその……」
陸宣が困ったように首を傾げる。
「ね、お願いね。――そうやって、耳を塞いでも現実が変わるわけじゃないけど……」
黒い睫毛を伏せる陰麗華に、陸宣が少し考えるような表情をしたが、頷く。
「承知いたしました。ただ、何か緊急の必要がございました時は、その限りにはありませんが、それでもよろしゅうございますか」
「ええ、それはわかっています。判断はあなたに任せます」
目を背けたところで現実は変わらないのはわかっているが、それでも、陰麗華は少しでも、夢の中に逃げ込んでいたかった。
天下の情勢は相変わらず混沌としていた。
河北では銅馬、青犢、尤来らの賊の残党が共同して、上郡で孫登という男を天子に擁立した。が、すぐにその麾下の一将軍である楽玄が孫登を殺し、五万の衆を率いて雒陽政権に帰順した。
長安に駐屯する大司徒・鄧仲華は深刻な食糧不足に悩まされ、士気は低下し、再び戻ってきた赤眉軍にも、そして関中で勢力を拡大しつつあった、新興の岑延の一派にも敗北し、まさしく連戦連敗というありさま。
さすがに批判を抑えきれなくなった文叔は、ついに決断を下す。
「仲華を呼び戻す。――だが後任がなあ……」
もともと、わずか二十五歳の鄧仲華に大軍を割いて、関中に派遣したこと自体、冒険ではあった。天然の要害でもある関中は、独自勢力が割拠しやすい。迂闊な者を派遣すれば、寝返るか自立するか、信用が置けなかった。文叔が信頼して大軍を預けられる将軍となると、人材は限られる。食料不足の甚だしい関中に、掠奪の前科のある呉子顔は送れないし、賈君文は鄧奉討伐のために南陽に派遣したばかりだ。いっそのこと親征も頭に過るが、南陽の問題が片付かないうちは、雒陽を長く留守にするわけにいかない。
文叔は考えた末に、偏将軍の馮公孫を抜擢した。
「それで、土地勘のあるあたしが副将に付くことになったんだよ」
いつもの堂で鄧曄将軍が何でもないことのように笑った。
「で、でも――あなたは女性よね? 女性を、戦場に送るなんて……」
陰麗華が愕然とした表情で言うが、鄧曄は捌けたものだった。
「あたしはもともと、自分で兵を挙げたんだよ。今さら、戦場なんて怖くはない。……于匡も一緒だしね」
普段、于匡はこの堂の中には入らないのだが、今日は特に許しを得て、陰麗華のもとに挨拶に訪れたのだ。その于匡も言った。
「俺を付けるのも、陛下の深謀遠慮ですよ。……俺は、お嬢様、いえ、陰貴人様の縁で、陛下の影の腹心扱いですからね」
馮公孫は河北を転戦して以来の腹心ではあるが、南陽出身で昔馴染みである鄧仲華ほどの近しさはない。于匡を付けることで文叔の信頼を担保し、鄧曄を付けることで関中の地理への不安を除くのだ。
「陰貴人様のもとを離れるのは少しだけ心配ですが、妹の曄もいますから――」
于匡と鄧曄が出征して、陰麗華の周囲が少し、寂しくなった。
十一月になると、文叔はしばしば、明け方近くになってから陰麗華の眠る臥牀に滑り込んでくるようになった。陰麗華の部屋で夕食を取る回数は、はっきりと減っていた。
――やっぱり他の方のところに……。
そういう物思いが嫌で、目を背けていると言うのに、ついつい余計なことを考えてしまい、狸寝入りを決め込みながら、そっと溜息を零す。
すると、背後から文叔の腕が絡んできて、抱きしめられた。
「!!……な、は、離してっ……」
「いやだ、離さない。……起きてたのに、つれないね、麗華」
文叔は陰麗華の身体を自分の方に向けようとするが、陰麗華はそれを拒んだ。
「最近、機嫌悪いよね。……怒ってるの?」
「べ、べつに……ただその……」
他の女を抱いた手で触れられるのが嫌なのだが、それを口にするも憚かられ、陰麗華は口ごもる。
「愛してる……」
背後から耳元で囁かれて、陰麗華は思わず目をギュッとつぶる。
以前なら、その言葉を聞けば、胸の中が暖かくなって、文叔に縋りつきたくなった。でも――。
愛しているのは君だけだと言いながら他の女を抱ける男を、どうして信じられるだろうか。
十二月の朔日の朝請に、陰麗華は重い足取りで向かう。
普段は耳を塞いでいても、この朝請の日ばかりは、文叔の噂が耳に入ってくる。
(……しょうがないわ。何を聞いても取り乱さないように……)
少しだけ高くなった壇上から見下ろせば、整列した女たちが嫌でも視界に入る。
三人の宮人たちの中、唐宮人はわざと手首を隠すような大きな袖の深衣を着ている。と、背後の采女の一人がさりげなくツイ、と唐宮人の左袖を引っ張り、何もつけていない細い手首が露わになる。
クスクス、クスクス……
「やっぱりまだお渡りもないんですって……」
「嬪御なのに処女だなんて。よっぽどお気に召さなかったのね」
「そんな女を押し付けられて、陛下もお気の毒」
あからさまに唐宮人を嘲笑する空気に、陰麗華が耐えきれず目を背ける。
「かたや、自分から陛下の閨を拒んでも、それでもしつこくお泊りになる方もいらっしゃるのにね」
「ほんとほんと、たとえヤらせてくれてもお前はいらない、なんて言われちゃったら、あたしなら生きていけないわ。……恥ずかしくて」
まさか自分のことまで引き合いに出されたことに陰麗華はハッとして、思わず両手で胸を押える。ちらりと見れば、悪鬼のような表情で陰麗華を睨んでいる唐宮人と目が合って、陰麗華はゾッとした。
ザワザワとした中に、皇后の来臨が伝えられ、一同は頭を下げる。大長秋の孫礼らを従えた郭聖通はもっとも高い壇上に登り、突如、陰麗華に言った。
「清涼殿の方。陛下の噂をご存知?」
藪から棒に郭聖通に尋ねられ、陰麗華がハッと顔をあげる。
「噂……?」
「最近、陛下は雒陽の城を抜け出して、微行に出ていらっしゃるとか」
「微行……?」
陰麗華がびっくりして目を丸くする。
確かに、文叔は最近、明け方近くになってから陰麗華の部屋に戻ってくることが増えたけれど――。
「まさか気づいていなかったの? 毎晩、陛下のお側に侍っていながら」
「え……いえ……その……」
厳しい調子で詰問され、陰麗華はしどろもどろになる。
「その、陛下は夜遅くまで、近臣の方々と政務をとられることも多いので……」
「それにしたって。十一月にはほとんど、掖庭宮の方にもお通いにならなかった。てっきりあなたのところに居続けなのかと思ったら、なんでも宮殿の門が閉まって締め出されて、こっそり戻ってこられるようなこともしばしばだと。あなた、何も気づかないなんて、信じられないわ。ちゃんとお諫めしているのかしら」
陰麗華が下を向く。
「その……お身体に無理をなさらないように、とは申し上げてはおりますが……」
まさか城を抜け出して夜遊びに出かけていたとは、思いもよらなかった。背後に控える趙夫人を振り返れば、趙夫人が微かに肩を竦める。――そう言えば最近、体調が悪いと言って、趙夫人の訪問も断っていた。
「申し訳ございません」
陰麗華が殊勝に頭を下げるが、郭聖通のイライラは収まらないようだった。
「まったく……今、雒陽の城中にだって刺客が横行しているというのに、たいした供も連れずに微行で遊び回るだなんて!あなたの弟が近侍としてついているはずでしょう? なぜ止めないのです!」
「申し訳ございません」
陰君陵だけでなく、郭聖通の弟の郭長卿も同じ黄門侍郎なのだが、陰麗華は反論もせずにいた。郭聖通の怒りは、三人の宮人にも向かう。
「許宮人、魏宮人。あなた方は、陛下のお心を射止める努力をしているの?」
二人は互いに顔を見合わせ、それから許宮人――雪香――が顔の前で拱手して頭を下げた。
「申し訳ございません」
「まったく、謝れば済むと思っているんだから!」
それから郭聖通は唐宮人に向かい、言った。
「あなたもよ! 唐宮人。……一度もご寵愛をいただけない嬪御なんて、聞いたこともないわ。わたくしの顔を潰したも同然よ? わかっているのでしょうね」
唐宮人は真っ青な顔で、その場に跪いて頭を床に擦り付ける。
「も、申し訳ございません!……ですが、わたくしはっ……」
「ああ、もう言い訳は結構。年内に一度もお渡りがないようなら、あなたの立場も考えなければね」
郭聖通がそう言い捨てると、周囲の唐宮人を嘲笑するような、ひそやかな笑い声がさらに広がり、唐宮人が床の上でブルブル震えている。普段、郭聖通は自ら苛めに加担するようなことはしないのだが、今日の郭聖通は虫の居所が相当に悪いらしい。庇ってやりたいのは山々だったが、下手に陰麗華が口を出すと、さらに唐宮人にとばっちりが向かいかねない。朝請が早く終わらないかと、陰麗華は祈ることしかできなかった。
「十一月に入って、掖庭にも通っていないなんて、知らなかったわ……」
陰麗華が呟けば、生姜を添えた醪の杯を陰麗華の前の案に置いて、陸宣が頭を下げた。
「申し訳ございません……小官がもっと気を付けておりましたら……」
「いいのよ、わたしが知らせてくれるなって頼んだんだし……でも毎晩、いったいどちらに……」
「狩猟でございます」
「狩猟……?」
陰麗華が目を丸くする。なんでも、雒陽の北の邙山周辺は絶好の狩場で、文叔は野山を駆けまわるのに熱中して、いつも、門が閉まるギリギリの時刻に戻ってくるというのだ。
「……危険ではないの。刺客が横行しているというような話ですのに……」
「はあ。その……朱仲先将軍が南陽に行かれまして、主上を諫められる方が回りにおられないようで……」
「そのこと、城内の者はみな知っているの?」
「はあ、いつも雒陽の東側の上東門からお戻りになるのですが、先日は上東門の候が気骨のある者で、門限を過ぎている、と陛下を追い返したそうで――」
結局、上東門から入れなかった文叔は、南側の中東門に回ってそこから入ったという。
「……お諫めしないわけにはいかないわねぇ……」
陰麗華は溜息をつき、その夜は房に入らずに文叔を待った。
だが、明け方近くになって文叔は一向に戻ってこない。
「いくら何でも遅いのでは――」
「陰貴人様、今宵は先におやすみになられては」
「でも――」
十二月初めの夜はしんしんと冷えて、綿入れの温袍を羽織り、方爐で指先を温めても寒い。陰麗華の足もとにうずくまっていた柳の耳がピクリと動く。
遠くからバタバタと乱暴な足音がして、陰麗華がハッと顔を上げた。柳が立ち上がってグルグルと警戒の唸り声を上げる。ワン、ワンと犬の吠え声も聞こえ、陰麗華が首を傾げる。
「お戻りになったのかしら?」
「ええ……でも、普段はこんなにバタバタとはしないのですが……」
陸宣が言い終わらないうちに、陰麗華の部屋の木戸を乱暴に開けて、郭長卿が飛び込んできた。その足もとには二匹の狗――畢と昴だ。
「陸宣はいるか? すぐに――ええ? 陰貴人? どうして……」
郭長卿は堂に陰麗華がまだ起きているのを見て、ギョッと後ずさる。
「どうかなさったのですか?」
「い、今、陛下が――」
やがて、大柄な陰君陵が文叔を肩に担ぐようにしてやってきた。
その文叔の脇腹のあたりが、血に染まっていた。
*1
この時派遣された八将軍は、
建義大将軍朱祜、執金吾賈復、漢忠将軍王常、武威将軍郭守、越騎校尉劉宏、偏将軍劉嘉、同じく耿植、そして建威大将軍耿弇。(『後漢書』岑彭伝)
が、ここで朱仲先と耿伯昭を両方、南陽に送ってしまうと、文叔の周囲に人がいなくなり(直後に馮公孫も長安に派遣されるので)、新しいキャラを出すといろいろ面倒くさい。そんな理由でなんですが、ここは史書の記述に敢えて反して、耿伯昭はこの段階では雒陽にいることにします。建武三年になるまで、南陽で耿伯昭は特に活躍してないっぽいので、とりあえずいっかなと……。
ここで賈復の下についていた陰麗華の兄さん・陰次伯はどうしたのか詳しい記述がないので、一旦、洛陽に戻ったことにします。
呉漢は南陽で略奪しくさって鄧奉怒らせて、この時はいったいどこで何をしとんねん、と調べてみたけどよくわからん。一応、雒陽に召喚されたことにしてますが(汗)




