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幸せのかけら

 後宮、掖庭えきてい宮の一角では、新たに皇帝の嬪御ひんぎょに取り立てられた女が、皇帝の訪れに備えて湯浴みをさせられていた。

 大きな木の桶にお湯を張り、米の研ぎ汁をかけられて、白い水が肩から流れ落ちていく。

 お湯運びをするのは宦官たちだが、直接身体をに触れるのは、侍女たちが担当していた。かなり年齢の上がった、老女と言ってもいい女たち。


 痩せた身体を糠袋で丁寧に磨き上げられ、乾いた布で身体を拭うと、ほんのり香を焚きしめた白絹の襦衣じゅいを羽織る。洗い髪は何枚もの麻の布で丁寧に水気をふき取り、香油を塗り込んで艶やかに梳いて、漆塗りの笄でくるりとひとまとめにされる。薄く寝化粧を施され、仕度が整うと老女たちは女を白い薄布のとばりの下りた帳台に導き、頭を下げると後ろ向きにするすると下がって行った。ひとり残された女――雪香はほっと溜息をつく。


 雪香の提案を、趙夫人は二つ返事で頷いた。現状、陰麗華の妊娠が絶望的であるならば、代わりの女を推挙するのが一番のやり方だと。


 「陰麗華ちゃんは辛いでしょうが、これは耐え忍ぶべき忍耐よ。訳の分からぬ女たちを、一方的に押し付けられるよりは、はるかにマシ」


 もっとも趙夫人は雪香の耳にだけ聞こえるように、


 「あなたには後ろ盾は陰貴人様しかいないのよ。たとえご寵愛を得て、あるいは御子を産んだとしても、あなたが陰貴人様を超えることはあり得ない。ご恩に背くようなことがあったら、どうなるかわかっていてね?」


と脅しをかけるのを忘れなかったが。

 もとより全て承知の上であるから、雪香は神妙に頷いて見せた。

 何も寵愛を奪おうなどとは、考えていない。下婢の生活に些か疲れ、せめて物質的に恵まれた暮らしをしてみたい。皇帝のお手がついて嬪御となれば、待遇は一気によくなるはずだ。


 郭皇后に雪香を紹介するにあたり、下婢では体裁が悪いと、急遽、侍女に格上げされ、水仕事などから解放されただけでも、十分にありがたい。陰麗華には細かいことは伏せて、皇帝・劉文叔と朱仲先、陸宣らで根回しを進める。郭皇后が選りすぐりの五人の処女を紹介した時に、彼女たちを退けると同時に、雪香のことを通告した。


 文叔としては、これで郭皇后が諦め、雪香だけを嬪御に上す展開が一番理想ではあった。だが、郭皇后は意地になって女を二人推挙してきたので、結局、文叔は雪香を含めて三人を嬪御に取りたてることに同意したのである。


 魏氏、唐氏、そして許氏の三人の采女さいじょは即日「宮人」の官位をもらい、南宮の掖庭宮にそれぞれ部屋を与えられた。貴人クラスになると殿舎が与えられるが、宮人クラスは一つの殿舎を数人で分け合うことになる。それでも個室がもらえるだけ、数人で雑居する侍女の宿舎よりはるかにマシだ。衣裳の格も上がり、下婢まで付けられる厚遇ぶり。下婢には掖庭令・陸宣に頼んで、雒陽宮に入って以来、ずっと親身に世話を焼いてくれた、下婢仲間を選んだ。彼女もまた戦争で家族を失っていて、雪香の出世を泣いて喜んでくれた。寵愛などいらない。ただ、慎ましい暮らしが欲しいだけ。


 独立した殿舎に住む貴人以上であれば、そのしんしつに皇帝を迎え入れることも可能だが、みすぼらしい宮人の部屋に皇帝が尊い玉体を運ぶことなど、あってはならない。故に、皇帝の居宮に設えられた、嬪御が侍御すべき房――御寝――まで、お召しのあった嬪御が出向くのが本来の在り方である。が、もともと他の女など召すつもりのなかった文叔は、その部屋を大改造して陰貴人との愛の巣に作り変えてしまった。今さら明け渡せなどと言えるわけもないので、大長秋や掖庭令らの後宮の幹部が頭をひねり、掖庭宮にも皇帝の御寝を整え、召された嬪御はそちらの御寝で寵幸を受けることに決まった。


 二日前、まず唐宮人が皇帝の閨に侍御した。しかし、皇帝はすぐに却非殿に帰ってしまう。どうやら不首尾に終わったようだと、宦官や侍女たちがコソコソと囁いているのを、雪香も耳にした。初回で皇帝の機嫌を損ねれば、挽回は難しい。唐宮人はもう一度機会をくれと、掖庭令の陸宣に泣きついているが、果たしてどうなるか。寵愛を得られなかった場合、采女さいじょに格下げされてしまうのだろうか、と雪香も不安になるが、とにかく、当初の予定通り、順番に従って今夜は許宮人――雪香――の番となったのである。


 ざわざわと回廊に人の声がして、宦官の独特の声が響く。


 「皇帝陛下のおなり~」


 雪香は緊張して、衣紋を掻き合わせ、帳台の中で身を固くする。

 羽林騎の、鎧がガチャガチャと鳴る音がして、宦官に先導された皇帝・劉文叔が部屋に入ってきた。雪香はあらかじめ聞いていた作法の通り、帳台から滑り降りて皇帝の前に跪き、両手をついて叩頭した。


 「おもてを上げよ。許宮人」


 雪香が顔を上げると、文叔は一瞬、目を眇めるようにし、立ったまま雪香を見下ろしている。


 「君陵、ご苦労だった、下がってよい」

 「は」


 木戸のところに控えていた近侍の黄門侍郎・陰君陵が下がり、入れ替わりに入ってきた宦官たちが文叔の褶衣うわぎと黒い直裾袍を脱がせ、白い襦衣だけにする。佩刀は臥牀の脇に立てかけ、それぞれ丸めた衣類を抱えて後ろ向きに下がっていく。最後の一人、常に皇帝に近侍している中常侍の鄭麓がざっと臥牀の上を検分してから、言った。


 「問題ございません」

 「ご苦労。終わったらその紐を引くから、すぐに参れ」

 「畏まりました」

 

 鄭麓も房から下がり、二人だけが残された。文叔は床に膝をついたままの雪香をじっと見ていたが、無言で臥牀に近づき、たくし上げられた幕の間に腰を下ろす。そのまま、こっちへ来いとも立っていいとも言わない。夜のことで床は冷たく、ずっと膝をついていると寒さが浸みてくるようだったが、雪香はただ座って文叔を見上げていた。


 「お前だろう。私が麗華を抱いていないのを、外に漏らしたのは」


 文叔の冷たい声に、雪香がハッとする。


 「いえ――」

 「お前しかありえないんだ。陰麗華の周囲の者は厳選し、出入りも厳しく制限している。私たち二人の事情を知る者は少なく、外に漏らすような者はいない。お前は、内黄から戻った後、ずいぶん、あちこちをうろついていたようではないか」

 「それは――」


 自分の行動を文叔が把握していたとは想像もしなくて、雪香は息を飲む。

 

 「恩人だの、人生を捧げるだの調子のいいことを言って、その裏で彼女の秘密を暴露し、さらに鄧少君との関係も面白可笑しく吹聴して、後宮の批判が向くように仕向ける。彼女の立場が苦しくなってから、親切ごかして策を授け、嬪御に推薦してもらうつもりだった。……彼女に、恩を売ることも忘れずにな。だが、陰麗華が倒れ、事態が思うよりも切迫しているのに気づき、焦って私に直訴した。……あの直訴までは、五分五分だと思っていたんだが、あれで確信した。麗華を窮地に陥れて、何が目的だ」


 文叔の視線は氷のように冷たく、雪香は床についた足先ではなく、指先から冷えていくように思われた。

 

 「わたしが言わなくとも、いずれ漏れたでしょう。不自然ですもの。劉聖公との件だって、そのうち采女の誰かが嗅ぎつけて、騒ぎ出したに違いありません。それよりは、鄧少君との悲恋の方が、物語として美しいじゃありませんか」

 「だからって、主の秘密を暴露していいわけない。――目的は何だ?」

 

 文叔の問いに、雪香が目を伏せ、もう一度目を上げる。


 「……陛下の、ご寵愛がいただきたかったのです」

 「私の?」


 胡乱気に首を傾げ、雪香を見つめる。


 「私はお前の夫を死に追いやった。……もしかして、寝首でも掻くつもりか?」


 雪香は首を振った。


 「以前にも言いましたが、夫のことはもう、いいんです。わたしはただ――陰貴人様が羨ましくて……」

 「陰麗華が羨ましい?」


 文叔は目を丸くして、じっと雪香を見た。


 「だって、もともとの妻ではあるけれど、陛下は河北に渡って、そこで長秋宮と結婚した。棄てられたはずなのに、皇帝になった陛下に迎えられて、今は寵愛を独占。……ズルイと思って……」


 雪香が目を伏せる。


 「ズルイ? 麗華が? 結婚してたった二か月で夫が出征し、その後音沙汰もないまま二年放置され、その間に自分は劉聖公に囚われて死ぬより辛い目に遭わされ、身籠っていた子供は死産。夫は河北で別の女と結婚して――」


 文叔は首を傾げる。


 「お前はこんな結婚生活が羨ましいのか? 変態か?」

 「そういう意味じゃありません! この後宮の中で、陛下に愛されているのは陰貴人様お一人だけです!そんなの、ズルいです!」


 文叔は孔が開くほど雪香を見つめ、しかしわからないと言う風に首を振る。


 「陰麗華は別に卑怯じゃない。むしろ卑怯なのは私だ」

 「卑怯なんじゃなくて……みんな、陛下のご寵愛が欲しいんです。幸せになりたいから。……せめて、陰貴人様のご寵愛のおこぼれくらい……」

 「ご寵愛のおこぼれもなにも、私の愛は陰麗華だけで全部尽きるから、お前の分などないよ」

 「でも、お子がいないと困るでしょ。主に、陰貴人様が皇后に苛められるから」

 「あの女は子がいたらいたで、理由をつけて厭味を言うだろうよ」


 文叔が不愉快そうに顔を歪める。


 「……まあいい。お前が裏で彼女を陥れるような性悪なら、不幸になろうがどうでもいいしな。彼女の側から引き離すにも、都合がいい」

 「そこまでわかっていて、わたしを嬪御になさったのですか?」


 文叔は何を今さら、と言う風に笑った。


 「私はお前を愛していないし、愛することもない。でも陰麗華が寵愛を独占しているせいで、後宮に子供が生まれない、という批判を躱すためなら、他の女と子供を作るくらい何でもない。――でも、女は普通、夫や恋人を共有するのを嫌がるのだろう? 私が陰麗華を独占したいと思うと同様に、彼女が私を独占したいと望んでくれることは嬉しい。だから他の女は抱かなかった。それだけのことだ。……だが、郭聖通の考え方はかなり違う。夫に女を薦めて、嫉妬しないのが良妻のかがみなんだそうだ。そのくせ、内心は嫉妬心でいっぱいなのが透けて見えるから、実のところ辟易している。誰かが私の子を産むことで、陰麗華への攻撃材料が消えるなら、別に誰でもいいんだ。要するに、風よけだから。小夏や于曄にそんな役割をさせたら、陰麗華が悲しむ。お前でも陰麗華は悲しむだろうが、少なくとも真実を知っている私の胸は痛まないから、お前にする。愛を育むつもりもない男に、風よけのために子供を産まされるなんて、不幸極まりないが、自業自得だぞ?」

 「……下働きから解放されただけで、わたしは十分、幸せです」

 

 半ば強がりのように雪香が言えば、文叔はいかにも軽蔑した風に喉の奥で嗤った。


 「もし孕んだら、お前との関係はそこで終わり。孕まなくても滅多に来ないけどな。陰麗華と過ごす時間が減るから。わざわざ来たんだから、なるべく一回で孕めよ?」


 文叔の表情は、陰麗華に向ける顔とは別人のように冷たかった。


 「……わかっています。わたしの裏切について陰貴人様には……」

 「言えるわけないだろう。陰麗華はお前のことをずっと心配して、泣いていたんだ。……まったく、お人よしにもほどがある」


 陰麗華のことを思い出したのか、ふっと緩んだ口元だけが、普段、雪香が見る文叔の表情で、雪香はこの男が本当に、陰貴人以外の人間にはとことんまで興味がないのだと気づく。


 「――まあいい。とっとと済ませるぞ? この前の唐と言う女は、死んだ魚みたいに寝そべっているだけで、面倒くさくなって、帰った。男ってのは女と見れば襲いかかる野獣だとでも思っているらしい」

 「脩武で、あの人買いの男にずいぶん、仕込まれたんです。きっとご満足いただけると思います」


 雪香の言葉に、文叔は露骨に嫌そうな顔をした。


 「……昔、長安の市にいた遊び女みたいなこと言うな。萎えるだろ」


 それでも文叔は指で雪香を手招きし、自身は臥牀の奥に足を投げ出して座る。雪香は立ち上がり、幕を捲って張台の中に入った。







 夜明けにはまだ、間のある時間。

 文叔は枕元の鈴を鳴らして宦官を呼ぶと、自分で襦衣の衣紋を整え、帯を結び直して帳台を降りた。すぐにやってきた鄭麓に、


 「帰る」


と一言だけ言えば、鄭麓は直裾袍を文叔の肩にかけ、前に回って衣紋を整え、帯を締める。文叔は冠の乱れを直して紐を結びなおすと、着せ掛けられた褶衣を着、剣を佩いて、後ろも見ずに雪香の部屋を後にした。


 ざわめきが遠ざかり、皇帝が還御したのだと、雪香は知る。

 すると、今まで控えていた老女たちがわらわらと出てきて、帳台の外から声をかけた。


 「許宮人様。幕を開けましても」

 「……え、ええ、ちょっと待って……」


 雪香は慌てて起き上がり、脱ぎ捨てた襦衣を手にとって、身体を覆う。

 

 「いいわ。どうぞ……」

 「失礼いたします」


 女たちは手にした別の襦衣で雪香の肩を覆うと、「失礼いたします」と言ってから、雪香の身体を湯を絞った布で清拭した。老婆の後から来た宦官が寝台を確認し、また老婆にも尋ねる。


 「首尾は」

 「は、上々にございます」

 「おめでとうございます、許宮人様。今宵、陛下のご恩寵をお受けになられたことは、掖庭の記録にも残し、御子がご誕生になった暁には、その証となると存じます」

 「その……陰貴人様のしんしつではこんなことはないようですが……」


 いちいち宦官が行為の有無を確認したのを見て、雪香は思わず尋ねていた。宦官は顔色も変えず、言った。


 「あちらは貴人様でございますから。言わば正規のご夫人です。あちらはご訪問の記録だけで、生まれた御子は陛下の御子として扱われますが、あなた様の場合は御寝に侍るだけでなく、確かに陛下の恩寵を賜ったことが確認できまして初めて、御子と認められます。……もちろん、たとえご寵愛の記録がございましても、陛下が〈不要〉であると仰った場合は、こちらで〈処分〉することになっております」


 処分、と言われて雪香はゾッとして顔をひきつらせる。宦官は雪香の様子などまるで頓着せず、別の中黄門が二人がかりで敷布を交換する。


 「許宮人様におかれましては、明日の朝に迎えの下婢が参りますまで、こちらにお休みいただきまして構いません。ごゆるりとお過ごしくださいますよう」


 宦官たちが下がると、老女たちは雪香に襦衣を着せて褥に横たわらせて、帳を下ろす。


 「それではおやすみなさいませ。何かありましたら、遠慮なく鈴を鳴らしてくださいませ」


 老女たちも出ていき、雪香は一人ぼっちになった。






 かつて、夫との夜でも、あの、忌々しい人買いの男にいいようにされた時でも、男たちは朝まで雪香の横で眠り、時にはいぎたなくイビキまでかいていた。しかし、皇帝・劉文叔は事務的にすることだけ済ませると、一言の声すらかけずに部屋を出ていった。


 文叔にとって雪香は、愛する女への批判を一時的にでも躱すための、ただの道具、風よけに過ぎないのだ。


 あの日、脩武から孟津へ続く街道で、雪香は雒陽の〈皇帝〉の行列に決死の覚悟で突進した。

 故郷に帰りたい。夫のもとに帰りたい。――売られて汚された身であっても、たとえ侮蔑されても、それでももう一度夫に会いたい。


 男たちに捕らえられた雪香を救いだしてくれたのは、行列の主たる皇帝・劉文叔。

 凛々しく武装した護衛に囲まれ、豪華な馬車から降り立った整った容貌の男と、男が守るように馬車から下ろした美しい女。泥と砂に汚れた雪香とは対極の、煌びやかな衣裳に艶やかな黒髪を結い上げ、耳には真っ白な珠をいくつも飾って。まだ戦争が始まる前に見た、県令の奥方よりもさらに華やかな装いに、雪香の目はくぎ付けになる。――貧困と餓えと理不尽な暴力に曝されてきた雪香には、まるで別世界から降りてきた天人のように見えた。儚げな風情で、女が何事かを〈皇帝〉に囁く。〈皇帝〉が周囲に指示を出して、雪香は男たちの元から救い出された。女の言葉が〈皇帝〉を動かし、雪香を救ったのだ。


 女――陰麗華は雪香の恩人だ。

 初め雪香は陰麗華は当然、〈皇帝〉の妻なのだと思った。だが雒陽に向かう道すがらに、陰麗華は皇帝の〈寵姫〉だと知る。物堅い士大夫の家で育った雪香には妻以外の女と言えば、御婢ぎょひ(性的奉仕をする奴隷女)か情婦か。


 だが鋭敏な雪香はやがて、もともと陰麗華こそが劉文叔の最初の妻で、河北を平定する都合で真定王の姪・郭聖通を政略的に娶らざるを得なかったのだと知る。

 南陽郡の一書生であった劉文叔と、豪族の娘・陰麗華。戦乱で引き裂かれながらも劉文叔は河北を転戦して皇帝位に即き、雒陽城のあるじとなって陰麗華を迎えたのだと。


 もとが「妻」であったのに、その事実さえ伏せられて寵姫の立場に落とされた陰麗華が、どこか屈託した表情を見せるのは当然だった。同様に書生の妻だった雪香にはよくわかる。それでも物質的に恵まれた暮らしと、揺るぎなく見える皇帝の寵愛は、最底辺の生活を強いられていた雪香には、十分、眩しく見えた。


 後宮で息を詰めるようにして過ごした数か月の間に、雪香は密かに囁かれる噂を耳にした。

 寵愛を独占する陰麗華に対する、嫉み、やっかみの籠った、悪意のある噂。


 ――寵愛を独占して半年、いまだに懐妊の兆しもない。〈うまずめ〉じゃないの?

 ――更始帝だって、彼女に夢中だったって聞くわ。権力のある男を惹きつけるのよ、ああいう一見、儚げな女は。

 ――しいっ! その話はダメよ。陛下に殺されるわよ?


 声を潜めた噂話を耳にした時、雪香の中で糸が繋がった。陰麗華に対して何となく感じていた、違和感。

 それはほんのわずかなものだ。掃除の手伝いに入るしんしつの空気、朝方の陰麗華の様子。そして、ふとした拍子に文叔から陰麗華に注がれる、焦がれるような、飢えたような、ギラギラした視線。表向きは相思相愛に見えながら、どこか余所余所しい二人。

 陰麗華は文叔を受け入れていないのではないかと、かつて人妻であった雪香のカンが告げていたが、たぶんそれは当たりだった。


 陰麗華もまた、夫がいながら他の男に汚され、その時の心の傷が原因で、文叔との閨の行為を拒んでいるのだ。寵愛を独占しているこの半年、懐妊の兆しがなくて当然だ。それなのに陰麗華一人を深く愛している皇帝・劉文叔は、彼女以外の女を抱こうとしない。


 文叔がただの一士大夫ならば、夫婦二人の問題で終わる。

 しかし、文叔は〈皇帝〉である。陰麗華は皇帝の貴人である以上、本来なら閨の行為を拒むなど、許されない。とりわけ、皇帝の寵愛を求めて得られない、多くの女たちがひしめくこの後宮で――。

 

 雪香にとって、それは千載一遇の好機チャンスだ。

 夫も失い、身寄りもない寄る辺ない我が身。戦乱の続くこの天の下で、女一人が成り上がる、ほぼ唯一の機会。陰麗華は恩人だが、何も彼女を蹴落とそうというんじゃない。雪香が生きるために、少しだけ、ほんの少しだけ、陰麗華の幸せのかけらを分けてもらうだけのこと。


 陰貴人が懐妊しないのは、皇帝の閨の行為を拒んでいるから、との噂の一滴ひとしずくを落としただけで、それは瞬く間に、乾いた大地に水が浸みこむように静かに広まっていった。何しろ、この後宮は餓えているのだ。――〈皇帝〉の寵愛に。

 女たちが生きるための慈雨――〈皇帝〉の寵愛――は、ただ一人、陰貴人の上にしか降り注がない。他の女たちが餓え、渇き、息も絶え絶えになっているのに、その陰貴人が寵愛を拒んでいる。


 皇后を頂点として、女たちは爆発寸前。彼女たちの不満から陰麗華を守るためには、皇帝が新たな女を寵愛するしかない。――雪香はその機会チャンスに賭けた。


 目論見はあっさり上手くいって、雪香は今宵、〈皇帝〉劉文叔の寵愛を受けた。でもこの先に待つのは、愛のない砂漠。



 もぎ取ったと思えた幸せのかけらは、雪香の手の中で、砕け散った。



 

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