淑女たち
甚哉、妃匹之愛、君不能得之於臣、父不能得之於子、況卑下乎!
――『史記』外戚世家
甚だしき哉、妃匹の愛。君 之を臣より得る能わず、父 之を子より得る能わず、況や卑下にをや!
妻への愛情とは特別だ。君主はこれを臣下から得ることはできず、父親はこれを子より得ることはできない。なおさら、卑しき者たちからは得られるはずがない。
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後宮内の長秋宮と呼ばれる皇后の居宮。その前殿の広壮な堂で、皇帝・劉文叔は北側の大きな牀に独坐して脇息に凭れかかり、何か言いたげに周囲の者を見回していた。脇息は漆塗りに金の象嵌で羽の生えた仙人が空を飛び交う意匠が施され、優美に湾曲した脚といい、逸品であるとわかる。皇帝の座る席は金襴の縁取りが施され、五色の組紐の飾り房が四隅から垂れていた。背後の屏風は深山に雲がかかり、飛龍が大きな口を開けて、それを神仙が御している、いわゆる昇仙図。漆に螺鈿や金象嵌で装飾された、華麗なものだ。
皇后・郭聖通は東面する西側の牀に座り、その横には母の郭主が控えている。対面の東側の牀には建義大将軍の朱仲先と、建威大将軍の耿伯昭が並んで座り、コの字型の開いた場所で、大長秋の孫礼が跪いて頭を下げていた。その背後に立ち並ぶ着飾った若い女たち。意匠を凝らした高髷に垂珠の揺れる金の釵、手の込んだ刺繍や織の衣裳を纏い、皇帝に媚びを売ろうと必死に微笑んでいる。香は控えめにしろと陰貴人にも言われていたが、気合が入ればついつい焚きこんでしまうもの。さっきからその匂いが混じり合い、耿伯昭などは露骨に顔をしかめていた。
「こちらの五人は選りすぐりでございますのよ? いずれも雒陽と長安の名家の出身で、教養も豊か。幼少から詩書を嗜み、それぞれ楽器と歌が得意でございましてね。……畏れながら、清涼殿の方は女工(手仕事、縫物など)はお得意のようですが、楽器はお嗜みではないようで……よい音楽は仕事の疲れを癒し、心を和らげてくれるものです」
にこやかに女たちを薦める郭聖通の言葉に、文叔は眉間の皺を一層、深くした。それをちらりと見て、耿伯昭は溜息をつきたいのをギリギリで堪える。
(ったく、なんでいちいち陰貴人を腐すようなことを言うかなあ。臍を曲げるだけなのに……)
寵愛を独占している陰貴人は、しかし、いっこうに孕む兆しがない。耿伯昭は彼女が死産したと聞いていたので、あるいは身体がよくないのかもしれないと、密かに同情していた。とはいえ、後宮の女は子を産んでこそ。問題はむしろ、陰貴人を取り戻して以来、一度も皇后と閨を共にしない皇帝の方だとも思っていた。愛する女を手に入れたから、これまでの女房はもういらないなんて、あんまりではないか。
(表面的に温和なフリしてるくせに、なんつーか、鬼畜だよなあ。生来のクズって言うかさ)
耿伯昭が文叔に仕えてもうすぐ三年になるが、こんな厄介な性格だと気づいたのは、ここ最近のこと。見事な猫を被っていて、すっかり騙されていたのだ。
側近としては、再び郭皇后の閨にも通い、適当な時期に三人目、四人目くらいを儲けてくれればそれでいいような気もする。文叔政権は純然たる軍事政権で、既得権益を抱え込んだ貴族層もいないし、何より実力主義である。陰貴人の兄の陰次伯とて、一将軍として南方征伐に駆り出されている。女を後宮に差し出したところで、大きなメリットがあるわけでもない。結果、後宮政策に乗り出そうという者も今のところいない。女を勧めるよりも、自分で戦争に行って、手柄を立てる方が早いし、確実だ。
だから耿伯昭や衛尉の李次元らの側近たちも、陰麗華の不妊については、特に問題にしていなかった。そのせいもあり、郭皇后自身が妃嬪候補を集め始めた時に、対応が遅れた。
郭皇后は皇帝が内黄への遠征に出ている八月中に行われた算人(*1)に、特に後宮から宦官数人を派遣し、容貌と家柄の優れた二十歳前の娘たちを後宮に召し出したのだ。これは当初、かなりの数に上っていたために、命令が発令される直前で李次元が気づき、大司空を通じて待ったをかけた。
いきなり大人数を後宮に入れても養えないし、混乱するばかり。下手すれば宮女狩りの悪評を立てられかねない。
『まだ、後宮に女たちは必要ないと、陛下は考えておられる。陛下の不在時に勝手は控えるべきだ』
大司空の宋仲子(*2)は剛直の士で、皇后に対しても怖じることなく正論を吐いてくれたので、郭皇后は不満そうではあったが、とりあえずは命令を撤回してくれた。
『ですが、陛下の後宮はあまりに閑散として、火の消えたようなありさまです。貴人がたったの一人だけとは、あまりにおいたわしい。優れた名君の時代には後宮も華やかでなければ。市井に隠れている、優れた女性が陛下のお目に留まる機会を潰したくない』
李次元は、皇帝は陰貴人にしか興味はないとわかっていたが、それを口にすることはできず、ただ、雒陽の現状を淡々と語った。
『この戦乱と飢饉で、雒陽の人口も大きく減っております。未婚の女はさらに少ない。雒陽の平和が実現して、世の中もそろそろ落ち着いて、新たに所帯を持とうと思う者も出てき始めています。その時に、宮廷が若い女を根こそぎ後宮に入れたらどんなことになるか。結婚にあぶれた男どもの、怨嗟の声が城中に満ち溢れることになりましょう。それは陛下の聖徳を大いに損なうのではありませんか?』
皇后もこれには納得して、しかしとりわけ容貌の美しかった数人は、特に皇后からの使者を遣わして後宮入りを薦め、うちの何人かが入宮した。それと並行して、後宮内の女たちから、容貌が美しく素行のよい者たちを選抜して、新たに入宮した者とともに采女とし、皇帝の側室候補として礼儀作法などを教え込んだのである。こうして選ばれたのが、菊見の宴で皇帝に突進した十二名であった。
しかし、皇帝は十二名も必要ないと突っぱね、それならと、皇后は十二名から絞りに絞り込んで五名を選び抜いた、というわけである。
「ですからこの者たちは皆、容姿才能ともに優れ、人柄もよく、陛下のお子を産むのに相応しい、いずれ劣らぬ淑女たちですわ。是非、この者たちにも陛下の恩寵を分け与えになり、漢の宗廟を継ぐべき御子をお上げになるべきです」
滔々と述べる郭聖通の言葉を聞きながら、耿伯昭も居並ぶ女たちを眺める。
歳の頃はいずれも十代の後半。白い肌には流行りの化粧を施し、華やかに装った姿は、確かに美しいけれど、期待の籠った瞳でギラギラと皇帝を見つめる視線は、あからさま過ぎていただけない。耿伯昭の目にも、いかにも皇帝の寵姫になって玉の輿狙いと映り、これはダメだろうと思う。何というか、肉食というか、狙いを定める猟犬みたいで、どんな美女でもちょっと引く。それに――。
(うーん、確かにどれも美人なんだが……好みの問題かもしれんが、陰貴人の方が美人だな……)
主君の寵姫というのもあるが、耿伯昭も内心密かに、陰貴人は今まで目にした中で一番の美女だと思う。「国色」というべきか。田舎育ちだから、豪族の三男坊である劉文叔の妻に収まっていたが、三輔(首都圏)あたりに生まれていたら、未央宮の後宮に入れられていたに違いない。容姿が整っているだけでなく、清楚で、その上、ほんのりとした色香もある。性格も嫋やかで優しい。――そりゃあ、陛下が執着するはずだ。
だがそうなると、郭皇后としては面白くないはずで――。
(陛下の寵愛が移れば幸い、そうでなくとも子を産めば陰貴人の後宮内の地位は低くなる……)
自ら寵愛を獲得しようと奮闘するのではなく、他の女を薦めるやり方がいやらしい。――そりゃあ、陛下も寄り付かなくなるって……。
耿伯昭がぼーっとそんなことを考えていた時。
突然、文叔が脇息を身体の前に回し、両肘をつくようにして女たちに向かい、もっとよく見ようとでもいうように、身を乗り出す。
「……ということは――全員、処女なのか?」
いきなり!
耿伯昭がギョッとして、思わず文叔と五人の女たちを見比べる。隣の朱仲先もギョロ目で女たちを検分するように見て、言った。
「そりゃ、そうじゃないのか? 年齢的にもまだ若いようだし――」
郭聖通も一瞬、虚を衝かれたような表情をしたが、すぐに隣の母親を見て、互いに頷く。
「当然ですわ! 容姿、才能だけでなく、身持ちもよく、貞潔な娘たちを選んでおりますし……ねえ、皆、そうでしょう? あたながたは全員、純潔よねぇ?」
郭聖通が女たちを振り返って尋ねれば、女たちは全員、声を揃えて言った。
「「「はい、わたくしたちは乙女でございます」」」
「陛下のお子を産もうというのですから、それくらいは当然――」
勝ち誇ったような表情で文叔を振り返った郭聖通に、文叔の声が響く。
「素晴らしい! だが私は遠慮しよう!」
「そうですか、ではどの娘から――ええっ? なんと仰いました?」
「このご時世に、三十過ぎの妻子持ちが若い処女を何人も侍らせるなんて、天の怒りが恐ろしい! 雒陽にも地方にも、嫁のいない独身男がウヨウヨいるんだぞ? その恨みと妬みがきっと天に昇って陰陽の秩序が乱れ、天変地異が起るに違いない。――ああ、この五人は皇后が選りすぐった優れた乙女たち。是非、雒陽で独身を託つ将軍や官吏たちから相手を選び、嫁がせるように」
文叔はそう命じると、横の朱仲先に言う。
「まず仲先からどうだ? 特別に最優先で選ばせてやるぞ? どの子も可愛いなあ! お前は色の白いのが好みだったっけ? 前の奥さんはどうだったっけかな」
「いやいや、俺は陛下より年上なんだ、十代の小娘となんて、話が合わん。それに俺は処女厨じゃないから、処女は遠慮しとく。……伯昭、お前、そろそろ結婚したいと言っていたではないか、こんな好機は滅多にないぞ?」
いきなり振られて、耿伯昭も慌てて首を振る。
「勘弁してください、俺は故郷に許嫁がいますから!結婚したいのは許嫁とってことです!女は間に合ってます!」
「なんだーじゃあどうする? でも独身者を選んで、李次元らと相談の上、嫁入り先を決めさせよう! いやー男たちも喜ぶぞう? 皇后が選りすぐった五人の美女、しかも処女ときたよ! 戦で命を懸けた甲斐があったと、男泣きの感涙に咽ぶに違いない!」
「名案だな! まさに聖王の御代来たれりって感じで! 合同結婚式とかいいかもしれん!」
勝手に盛り上がる男たちを前にして、皇后以下、女たちは茫然とする。
「ちょっと、お待ちください! わたくしは官吏の妻ではなく、陛下のために……」
郭聖通が慌てて言えば、文叔は美麗な顔に蕩けるような笑みを浮かべ、言った。
「いやいや、官吏や将軍たちの嫁不足は深刻な問題だったんだ。さすが皇后、天下の母として世の男たちの悩みをわかっている! こうして雒陽に結婚が相次げば、戦と飢饉で減った人口が持ち直し、漢の社稷も安泰だな。いやー本当に素晴らしい娘たちを選んでくれた! 感謝するぞ!」
文叔は早速、中常侍の鄭麓を大司空の宋仲子の元に派遣し、李次元らと相談の上、上手く計らうようにと命じた。
「あ、彼女たちの名前を聞いておかないといけないな、それは大長秋の孫礼が心得ているのかな? 名前、出身、父親の名、年齢……ああ、容貌の特徴なんか書いておくと、お見合いには便利かもしれんな。ではすぐに身上書を作って大司空府に提出しておいてくれ、細かいことはそちらでやるから!」
文叔は満足そうに手を叩き、「懸案事項が一つ片付いたな」とにこやかに言って、そのまま帰ろうと立ち上がりかけた。しかしそこで、呆然としていた郭聖通が我に返る。
「陛下! お、お待ちください! それでは肝心の件は何も解決しておりません!」
チッと露骨に舌打ちして、文叔は渋々座りなおす。
「あの五人がダメだと言うなら残りの七人を――」
「処女には手を付けない。その七人も身上書を提出して、同様に官吏たちの嫁に――」
「陛下!」
ワナワナ震える郭聖通に向かい、文叔は言う。
「皇后、あなたはこの戦乱の世を見ても何も思わないのか? 多くの者が家族や故郷を失い流浪し、日々の暮らしにも困る有り様なのを。今我々が把握している人口は、平帝末の戸口調査に遠く及ばない。特に若者が減っているし、何度も包囲戦に巻き込まれた雒陽の疲弊もすさまじい。ここ一年ほどの平和で、ようやく盛り返してきたところだ。そんな時期に、私が若い女を何人も侍らせて後宮に籠れば、世論が何と評価しようか。各地の戦場で敵に相対する、将軍たちが何と思うだろうか」
もっともな指摘に、郭聖通も唇を噛む。
「しかし、御子がわたくしの産んだ息子二人だけでは、あまりに頼りのうございます。清涼殿の方は懐妊する様子もなく、何やら、陛下の思し召しを拒んでいるとかいう、噂もございます。……お願いですから別の女性をご寵愛くださいませ」
「そのことだが――清涼殿より申し出があり、とある女を私に薦めてきた」
「陰貴人が?」
皇后が目を見開く。皇帝が鷹揚に頷く。
「この話は清涼殿からまず、あなたの方にも申し送りをするはずだったが、生憎、彼女は今、体調を崩している。私の口から耳に入れることになってしまったが――」
「どんな女ですの? もしやあの、礼儀知らずの若い侍女ではありますまいね?」
皇后が柳眉を顰めるように言えば、隣にいた郭主も同調する。
「まさか、いくら何でもあの礼儀知らずの南陽女に、陛下の閨が務まるとは思えませんわ」
「清涼殿が推薦したのは、河北の、内黄出身の許氏だ。――たまたま事情あって清涼殿付きの侍女をしている。士人の出で、同じく内黄県の士人、陳某に嫁いでいたが、先の五校の賊の乱で命を落とした。つまり、寡婦なのだ」
「寡婦ですって?」
皇后と郭主が同時に叫ぶ。
「出身は確かだが戦乱で家族を失い、身寄りもなく、生活のために後宮に仕えている。士人の妻だけあって教養もあり、また苦労をしているので人柄もよい。私も十代の処女を囲うのは気が引けるが、夫や家族を失った女の生活を守るということなら、世間にも言い訳が立つ。何より、苦しむ者たちに思いをかける清涼殿の優しさに絆されてしまって……」
照れ臭そうに頭を掻く仕草に、わざとらしさを読み取ったのは、おそらくその場で朱仲先だけだろう。
「そ、そ、それは……まさかもう、その女をご寵愛に?」
驚愕して声の裏返る皇后に対し、皇帝は困ったように眉を寄せて首を振る。
「いや、それが、清涼殿は推薦はするが、やはり長秋宮様のお許しが出ないうちはと言い張るのでね。彼女はいろいろと物堅いから」
咄嗟に顔を見合わせた郭主と皇后は、頷きあって皇帝に言った。
「その女は致し方ありませんが、その女だけでは不安がございます。前の夫に嫁いで数年、子などは生していないのでしょう? もしかしたら〈うまずめ〉ではありませんの?」
「そんなことを言い出したら、さっきの五人の女たちだって同じだろう。すでに子を産んだ女を連れてくるつもりか?」
「そういう訳では――」
皇后はしばらく目を伏せ、それから皇帝をまっすぐに見る。
「ならば、もう少しお時間をくださいませ。わたくしの方でも、陛下に相応しい寡婦を――」
「まず、宮外から女を納れるのは禁ずる。邪な考えを持つ者が、よからぬ思惑の上で、妻を離縁して送り込むかもしれない。この宮内で、今後、結婚できそうもない問題を抱える女で、私の側室にしてもよさそうな容姿・教養・生まれの者がいたら、考えてもよい」
皇后は息を飲んだ。皇后の探す女の基準は、どこに嫁に出しても恥ずかしくない女だ。結婚できそうもない女とは、全くベクトルが異なっている。
「若く健康な女には、それぞれ独身の優れた男に嫁いで子を産んで欲しい。それこそが、この国のためになる。天下の母たるそなたが、それに気づかぬはずはないのだがな」
皇帝はそう言うと、まだ何か言いかけた皇后を無視して、立ち上がった。
*1
算人:漢では毎年八月に戸籍調査を行い、これを「算人」と言う。毎年、全員が郷の役所に出頭して戸籍を改め、人頭税の数を数える。ちなみに漢の会計年度は十月から開始される。
この時、後漢の雒陽では、宮女になるべき女性も集められた。『後漢書』皇后紀に、「漢法常因八月算人、遣中大夫與掖庭丞及相工、於洛陽郷中閲視良家童女、年十三以上、二十已下、姿色端麗、合法相者、載還後宮、擇視可否、乃用登御。」とあり、算人の時に掖庭から宦官と人相見を派遣し、洛陽城内の良家(この良家は七家謫と呼ばれる賤民でないの意)の娘から、13歳から20歳以下の娘の容姿端麗で人相が良いものを選んで後宮に入れ、審査の上で夜伽のご用に上した、とある。常識的に考えれば未婚の美少女を選んで後宮に入れたと思われる。もちろん、賄賂なども横行した。
算人は全国で行われるが、後宮に入れる女性の選定は、『後漢書』の記載が正しければ雒陽だけである。
*2
宋仲子:宋弘。




