君の躬 微かりせば
式微、式微。胡不帰。
微君之故、胡為乎中露。
式微、式微。胡不帰。
微君之躬、胡為乎泥中。
――『詩経』邶風・〈式微〉
ああ 微かりせば ああ 微かりせば
胡んぞ帰らざる
君の故 微かりせば
胡為れぞ中露においてせん
ああ 微かりせば ああ 微かりせば
胡んぞ帰らざる
君の躬 微かりせば
胡為れぞ泥中においてせん
ああ、あなたがいなければ
何故あなたは戻らない
あなたの為でなければ
どうして露に濡れていようか
ああ、あなたさえいてくれれば
何故あなたは戻らない
あなたの側にいられないなら
どうして泥にまみれていようか
(あなたの側にいられるならば
たとえ泥の中でも構わないのに)
************************
故郷の南陽の離反に、文叔も衝撃を受けていた。
文叔は政治向きの話を陰麗華にはしないし、表面的には普段と変わらず過ごしている。ただ、呉子顔将軍による新野県の掠奪については謝罪があり、厳重な注意をしたと報告は受けた。新野の母も、二人の弟たちも無事であると。
しかし、文叔がふと見せる表情に、陰麗華は南陽の状況の厳しさを知る。故郷に背かれる。それは、故郷を守るために兵を挙げたはずの文叔には、味方に撃たれたような気分に違いなかった。
夕食後、陰麗華は棗の蜜漬けを載せた漆塗りの小皿を差し出しながら、文叔に言った。
「その……わたしが、南陽に戻ることはできませんか?」
その言葉に、棗を指でつまんだまま、文叔が陰麗華を見る。
「君が……? 何の、ために?」
「その……」
陰麗華が躊躇いがちに視線を泳がせる。
「……少君を、説得できるかと……」
「ダメだ!」
即座に文叔が言い、不機嫌そうに棗を口に放り込む。
「そんなこと、できるわけないだろ、君は皇帝の貴人なんだぞ?」
「でも、少君は幼馴染ですし、彼が挙兵したのはわたしが――」
「違う!」
文叔が乱暴に否定し、ドン、と拳で案を叩いた。その様子に、陰麗華がビクリと身を震わせる。
「少君の挙兵と君は関係がない!あいつは、呉子顔の掠奪に怒って兵を挙げたんだ。君が気にすることはないし、今後、表向きのことに口を出すことは禁ずる!」
常にない厳しさで言い渡され、陰麗華は無言で頭を下げる。
忸怩たる気持ちと後悔だけが、陰麗華の中で渦を巻いていた。
(――わたしが、雒陽に来なければ――)
あの時、少君は陰麗華の雒陽行きに反対し、自分と結婚して欲しいと言った。少君の気持ちには気づいていたものの、応えられないと思っていた陰麗華は、育陽を離れ雒陽に向かった。
いつまでも待つ。……そう言って陰麗華を送り出してくれた幼馴染に、陰麗華は何一つ返すことができないまま。幼い時から側にいて、劉聖公の元から命懸けで救い出してくれた、恩人。
その彼が今、叛臣として陰麗華の夫に刃を向けた。陰麗華と文叔の故郷・南陽を率いて――。
(――どうしたら、よかったの。あの時、文叔さまの迎えをすっぱり断っていたら……)
そもそも、陰麗華が文叔を愛してしまったことが、間違いだったのか。天の望まぬ恋が、めぐりめぐって大きな悲劇を生んだのか。
夜、陰麗華の部屋に戻ってきた文叔が、疲れたようにどっさりと牀に腰を下ろす。柳が嬉しそうに足もとにじゃれつき、尻尾を振るが、文叔はおざなりに頭を撫でただけで、深い溜息をついた。
「お帰りなさいませ。……お食事は?」
「いや、今日はいい――長秋宮で食べてきた。酒をくれないか」
陰麗華は一瞬、目を見開いたが、小夏が運んできたお湯の盥を受け取り、入れ替わりに酒肴の仕度を命じる。文叔の足を洗おうと前にひざまずくと、文叔が言った。
「――君と、少君のことが噂になっている。僕の寵愛を独占しているのに、子ができる兆候もない。君の存在を疎ましく思う者にとっては、少君の反逆は恰好の攻撃材料になる」
陰麗華の手が止まった。
「本当に、少君とは何でもありません」
「……少君は、君のことが好きだった」
「彼は恩人です。でも、それだけです」
文叔は溜息をつく。
「少君のことはいいんだ。事実無根なのは知っているし。問題は、少君の件から、劉聖公の件が明るみに出るとまずい」
ヒュっと陰麗華が息を止めた。
「君は被害者だが、あれこれ言う者も出るだろう。それに、君が僕との閨を拒んでいると、どこからか漏れている。その原因があの件だと探られると、君の立場が非常に悪くなる」
「どこから――」
陰麗華は真っ青になった。
「でも、小夏や曄が漏らすはずは――」
陰麗華が文叔を拒んでいることは、厳重な秘密とされていた。
「思い当たるフシがないわけではないが、悪意のある噂が広まっているのは、僕が君以外を寵愛せず、郭聖通が薦める女を全員、拒否しているからだ。皇后から選ばれて皇帝の閨に侍れると喜んだのに、肝心の皇帝にその気がない。その不満が君に向いている」
すっかり固まってしまった陰麗華の手から手巾を取って、文叔は自分で足を拭き、牀に安座した。
「後宮の不満には、正直、打つ手がない。一度入宮させた采女を、再び市井に戻すわけにもいかない」
文叔は溜息をつき、陰麗華を正面から見て、言った。
「僕は君以外を抱くつもりはないんだ」
「それでは、彼女たちの恨みは深くなりましょう。それに、長秋宮様の面子も――」
「僕の留守に勝手に増やした宮女だ。そんなのの面倒まで見られない」
陰麗華は文叔の隣の腰を下ろし、向かい合って話を続ける。
「家族と別れ、まともな結婚も諦めて後宮に入ったのに、寵愛もなく、もちろん、子供もない。そんな人生、あまりにむごいと思いませんか? きっと数か月もしないうちに、わたしへの恨みを募らせるだけです」
指摘を受けた文叔は眉を寄せる。
「そもそも、勝手に僕の愛人になりたがった奴らだ。僕が君しか愛していないのは、後宮で過ごせばすぐにわかる。僕はそう、振る舞っているから」
「何としてでも、あなたの愛を手に入れる自信があるんでしょう。それこそ、わたしを殺してでも、あなたを振り向かせようとするに決まっています」
物騒な言葉に文叔が眉を動かした。
「じゃあ、どうしたらいい。僕は君を守りたい」
「子供ができない間は、わたしへの批判は止まないでしょう」
「君が僕を受け入れてくれれば――」
陰麗華が首を振る。
「洛陽の北宮には使われていない離宮があるそうですから、その一つでも頂戴して、隠居させてください。身体を悪くしたとか、何とか、理由はいくらでも――」
「それはつまり――」
陰麗華が顔を俯けて、溜息をつく。
「少君の叛乱からこの方、ずっと考えていました。やはり、わたしが雒陽に来たのが間違いの元だったと。少君はわたしを愛してると言って、いつまでも待つと言ってくれた。……わたしは、たとえあなたとの離縁が成立しても、少君のところへ戻るつもりはなかったけれど、でも、彼に何も返せないことが申し訳なくて――皇帝の貴人にまでなったわたしがもう、南陽に戻れないというなら、せめて嫉妬とも物思いとも無縁に、静かに過ごしたい。わたしがいなくなれば、あなたも他の方と――」
「嫌だ! そんなこと、許可できるわけないだろう!」
ちょうど、小夏と于曄が酒肴の載った盆と方爐、酒温器に満たした酒を運んできて、文叔は口を閉ざす。
彼女たちが酒肴を並べて下がるまで、堂は重苦しい沈黙が支配した。
温まった酒を杯に注いで、陰麗華がそれを差し出す。
「どうぞ――」
文叔は杯を受け取って一息に空けると、陰麗華に差し出し、陰麗華がまた満たした。それをも一息に呑んで、文叔は深い溜息をつく。
「君は――僕のことをもう、愛していないのか?」
陰麗華は、困ったように首を傾げて、泣き笑いのような表情で言った。
「育陽で、ずっとあなたからの便りを待っている間、だんだんと心が擦り切れていくような気がして……いつの間にか、待つのもやめていたの。だから、あなたからの迎えが来た時は、やっと離縁状が来たのかと思ったのに――」
「麗華、僕は――」
「愛していないわけじゃないの。きっと、あなたしか愛せないし、他の人なんて考えられない。でも――」
陰麗華は黒く長い睫毛を伏せ、それから儚い溜息とともに心情を吐き出した。
「あなたはもう、南陽の一士大夫じゃなくて、皇帝におなり遊ばした。天命を受けた皇帝には、皇帝の責務があるのでしょう? わたし一人のことで、あなたが皇帝の為すべき職務を蔑ろにしたと、そんな謗りを受けて欲しくない。……でも、わたしはどうしても、何人もの妻の一人として……いいえ、妻ではないわね、後宮の女の一人として、他の人たちとあなたを共有するなんて、やっぱり耐えられそうもない。何か理由をつけて距離を置かせて。そうすれば、子が出来なかった理由も皆、納得するでしょうし、あなたもわたしに気兼ねなく、皇帝の責務を全うできる」
陰麗華の言葉に、文叔はしばし凍り付いたように動かなかった。
「……麗華、僕は――君を、取り戻すために皇帝になったんだ。君を裏切って重婚した、その罪を押し切るためには、皇帝になるしかないと思って――」
文叔は陰麗華を抱きしめると、その肩口に顔を埋め、首を振る。
「僕はただ、昔のように暮らしたかっただけだ。君と僕が、二人きりの、本当の夫婦だった頃のように――その時間をどうしても取り戻したくて、僕は――僕は君がいないと生きていけない。何でもする。僕のそばにいてくれ。お願いだから、僕から離れるなんて言わないで――」
抱きしめられた腕の中で、陰麗華がもう一度、溜息をつく。文叔が他の女を拒めば拒むほど、周囲の批判は陰麗華に向かい、陰麗華の立場は厳しいものになる。
「でも、要するに子供ができない限り、長秋宮をはじめとする批判は収まらないと思うわ。……やっぱり、雒陽に来るべきじゃなかった」
俯く陰麗華の顎に手をかけて、文叔が正面から陰麗華を見る。
「君が、子供を産んでくれれば、全て解決するんだよ。……そうだろう?」
その黒い瞳に危険な煌きを見出して、陰麗華の全身が硬直する。狗の柳が不穏な空気を察知して立ち上がり、二人の周囲をぐるぐると回る。
「文叔さま?」
次の瞬間、文叔は陰麗華の身体を抱き上げ、房に向かうと、陰麗華を乱暴に臥牀へと放り投げた。
「きゃあ!」
悲鳴を上げた陰麗華の上に文叔が圧し掛かり、その四肢を押さえつける。真上から陰麗華を見下ろす、ギラギラと獰猛な黒い瞳――。
陰麗華の記憶の底から恐怖が湧き上がって、全身の血が沸騰した。恐怖で喉が凍りつき、やめてと懇願することさえできない。
「君が子を孕めば文句も言われまい、愛してるんだ!」
文叔の手で乱暴に帯が解かれた瞬間、絹を引き裂くような悲鳴が陰麗華の唇から溢れ出、全身が戦慄た。柳が文叔に向かって吠え、文叔が我に返り、異変に気づいて鈴を鳴らす。柳の吠え声と鈴の音が響きわたり、一時、却非殿は騒然となった。
「もう、いい加減にしてください!皇帝だからって、やっていいことと悪いことがあります!」
陰麗華が薬湯を飲んで眠りについてから、小夏が文叔に喰ってかかる。今回、初めて発作を実見した于曄は、主人の痛ましい心の傷に、涙ぐんでいた。
「……わかっているよ。僕が、一番悪い」
文叔が自分のやらかしたことの罪悪感で頭を抱えているのを見て、于曄が言った。
「事情はお察ししますし、子供が必要なのもわかりますが、このところ、お嬢様は鄧少君様の叛乱のことでずっと心を痛めておられて……」
「ああもう、わかってるって!」
文叔が溜息をつく。控えの間から駆け付けた朱仲先が、呆れたように言った。
「溜まってるなら、それこそ別の女を召し出すか、長秋宮に――」
「そういうのはもういいんだ!」
文叔はダン!と拳を牀に叩きつけた。
「僕は、麗華でなければ嫌なんだ。他の女で誤魔化すのは嫌だ」
「だが、実際問題、子供ができなければ、批判は陰貴人に向かうぞ?」
「男児が二人もいるんだ。他の女を召し出してまで、これ以上産ませる必要はないだろう」
「ならばせめて、皇后のところに行けよ」
文叔が眉根を寄せる。
「僕が留守の間に、聖通が麗華に言ったことを聞いたら……正直、あの女を抱く気にならない」
「だがそれでは、皇后の嫉妬と嫌がらせが陰貴人に向かうだけだぞ? 本当に陰貴人を守りたいなら、そこはお前が上手くやらないと」
朱仲先の忠言に、文叔が蒼い顔でぶんぶんと首を振った。
「……留守中に女をかき集めて、帰った早々、この中のどれでもって薦められた時に、背筋がゾッとした。あれなら嫉妬に狂って暴れられる方がうんとマシだ。別の世界の生き物にしか見えない。無理」
「『詩』に歌われる理想の皇后そのものじゃないか、何の不満がある」
「じゃあ、お前にやるよ。そもそも、独身のお前か仲華が結婚すればこんなことになってなかった。今ならついでに皇帝位もつけるぞ?」
「ふざけたことを……」
二人がそんな話をしていると、カタリと物音がして、文叔が顔を上げる。
「誰だ」
仲先が腰の剣に手を置いて厳しい声で誰何すると、キイと扉が開き、薄暗がりから雪香が顔をのぞかせた。
「……お酒をお持ちしました」
「ああ、じゃあ、俺が受け取ろう――」
朱仲先が入口に向かい、自ら酒肴の載った案を受け取ろうとすると、雪香がすっと中に入り、言った。
「お願いがあります」
文叔が胡乱な表情で雪香を見た。
「下婢に直接願い事をされるとは、皇帝も舐められたもんだな」
「……すべては陰貴人様の御為です」
「陰貴人の?」
朱仲先が警戒を露わに言えば、雪香は牀の間近まで入ってきて、酒を置き、膝をついて叩頭した。
「陛下、わたしを、采女に加えてください」
朱仲先も、小夏や于曄、そして陸宣も驚いて目を見開いたが、しかし文叔一人だけは表情を変えない。
「雪香?……何を言って……」
小夏がオロオロと言うのを無視して、雪香はまっすぐに文叔を見て続ける。
「わたしは下婢ではありますが、もとは士大夫の家に生まれ、士大夫に嫁ぎました。礼儀作法は一通り心得てございます。長秋宮が選んだ采女たちには負けません」
「それがどう、陰麗華のためになる」
文叔が警戒を緩めずに問えば、雪香はほんのり微笑んだ。
「わたしにとって、陰貴人様は命の恩人です。陛下の嬪御(*1)の一角に並んでも、その忠誠は変わることはございません。他の采女は全て、長秋宮が選んだ人ばかり。後宮内に陰貴人の味方は少なく、立場は危うい。陰貴人様を孤立させるのが、長秋宮様の狙いです」
朱仲先が文叔と雪香を見比べながら、首を傾げる。
「だが、采女は采女、たいした力はない」
「つまり――お前を寵愛して嬪御の一人として遇すれば、陰麗華を守る盾になると、そう言いたいのか」
雪香が頷く。
「このまま御子が生まれなければ、陰貴人様への批判はさらに高まるでしょう。批判を躱すために采女から嬪御に取り立て、その女に御子が生まれれば、後宮内の地位も高くなり、さらに長秋宮の手駒も同然。陰貴人様のお立場はさらに危うくなる」
「……私は采女に手を付けるつもりはない」
「陛下に御子が生まれぬのは、陛下の閨を独占する陰貴人のせいだと、すべての批判が陰貴人様に向いたとしても?」
「誰を寵愛するかしないか、私が決める」
「今ですら、陰貴人様は針の筵に座らされているも同然なのに、さらに厳しい中に置き続けられるのですか?」
文叔が唇をぐっと引き結んだ。群臣の要請に応じて郭聖通を皇后に立てた時点で、半ば予想されてはいたが、寵愛を独占しているくせに子のないことで、陰貴人への批判は日増しに高まっている。
「他の方をご寵愛になり、そちらに御子が生まれれば、陰貴人様を批判する理由はなくなります。陰貴人様が自ら、誰かを推薦して陛下の閨をお譲りになるのが一番よい」
「その誰かをお前が担うと言うのか?」
「他に、適当な者がおりません」
雪香が背後に控える小夏と、于曄とをちらりと見れば、文叔が一瞬、嫌そうに顔を歪めた。――二人は陰麗華の忠実な侍女だ。陰麗華を守るためとはいえ、それに手をつければ、夫婦の信頼関係は完全に壊れる。
「ちょっと、いくら何でも!あたしや于曄さんは論外として、雪香でもお嬢様は傷つくに決まってます!」
「でも、忠実な者でなければ、この役目は果たせません」
雪香が反論する。
「わたしの人生も子も、全て陰貴人様に捧げる覚悟はできております。このままでは陰貴人様は後宮暮らしに耐えられません。陛下は守る守ると仰いながら、いつもいつも後手後手で、そのたびに陰貴人様がどれだけ傷ついておられるか!」
まっすぐ顔を上げて文叔に訴えかける雪香を、文叔はじっと、値踏みするように見た。
「私は陰麗華以外は愛さない。だいたいお前の夫を自死に追い込んだのは私だ。本当に底意なく、陰麗華のためだと言い切れるのか? 天に誓って?」
「もちろんです!……夫のことは、思い切っています。もう、男もウンザリだし。わたしは後宮で、陰貴人様のために生きていきたいんです」
胸を張って答える雪香に、しかし小夏が言う。
「だからって……やめた方がいいわよ? 陛下の愛人なんて」
「そうです、お嬢様はそんなやり口は望まれません。いつも、雪香には幸せになって欲しいと……」
于曄も雪香を説得するが、雪香は頑として首を縦に振らない。
「陛下、お願いです。このまま手を束ねていれば、長秋宮が選んだ嬪御ばかりを取りたてるよう、追い込まれるでしょう。そうなったらますます、陰貴人様は孤立してしまいます」
「お前の言いたいことはわかるが、結局、私はお前を抱かなきゃならんじゃないか。私は陰麗華以外は要らないし、陰麗華だって傷つく」
「でも、他に方法ありますか? 陰貴人様がお子を産むのが一番の解決方法ですけど、今さっき、それが無理だと明らかになりました」
「永遠に、てわけじゃない。いつかは陰麗華だって……」
文叔が悔しそうに両手で顔を覆う。――自分の暴走が陰麗華の傷口を再び開いてしまった。
話を聞いていた朱仲先が雪香をじっと見て、文叔に言った。
「女を増やすのは避けられまいよ。そう思えば、この女の提案は一考の余地はある」
「だが!」
「陰貴人自らが嬪御を推挙するというのは、悪い手じゃない。というか、長秋宮からの批判を躱すにはそれしかないだろう」
「……どうしてそうやって、皆して寄ってたかって、陰麗華との誓いを私に破らせようとするんだ?」
文叔の苦い言葉に、朱仲先が肩を竦める。
「そもそも守れない誓いをするからだ。誓いと陰貴人と、どっちかしか守れないとしたら、どちらを守るか結論は一つだ」
数日後、雪香を采女にした上で嬪御として召すと言われ、陰麗華は頭が真っ白になってその場にずるずると崩れて落ちそうになる。文叔が支えて、抱きしめたまま辛そうな声で言った。
「すまない……長秋宮に押し切られた。だがあちらの推薦する女ばかりでは、後々、君がさらに孤立してしまう。だから、君からの推薦という形で、雪香を嬪御の一人に加えたんだ」
陰麗華が、真っ青な顔で文叔を見上げて、尋ねる。
「それは……雪香は……」
「雪香は、君を守るための女だ。……なに、形だけだよ。君が彼女を推薦すれば、閨を独占しているという批判も塞ぐことができる」
「でも……」
陰麗華は胸がどきどきして頭がガンガンとした。……覚悟していたはずなのに、文叔がさらに他の女を、それも自分の身近に仕える女をと思うだけで、絶望で胸が潰れそうになる。
「麗華……陳腐な言い草だが、本当に全部、君のためなんだ。僕は君のもとに戻るために、郭聖通と結婚し、君を取り戻すために皇帝になった。そのために君をを裏切り、何度も傷つけた。君がいなければ、僕は生きていくことができない、だから――。お願い、絶対にこれだけは信じて。愛しているのは君一人だけだ。本当に――」
耳元で囁かれる愛の言葉の虚しさに、陰麗華は目を閉じる。涙だけが音もなく頬を伝って流れ落ちた。
*1
嬪御…後宮の下位の側室。お手付き。
後漢では貴人とそれ以下の美人・宮人・采女でははっきり分かれている。
貴人は功臣名族の子女で、最初から貴人候補として入宮し、皇太后などの推薦を受けてお手付きになり、貴人になる。一族の誰かが以前に貴人になっている、という理由で貴人になったりするので、「家柄」がものを言うのは確かなこと。もしかしたら、貴人になってからお召しがあるのかもしれない。そして皇后は必ず、貴人の中から一人を選び、冊立する。
後漢書の皇后紀などを見ると、宮人は身分の低いお手付きと言う感じで、宮人が子を産むと美人に出世できるっぽい。が、ここから貴人にあがることはほぼない。死ぬ前に無理矢理、宮人を貴人にしてから死んだ皇帝がいたけれど、皇帝が死んだら皇太后(つまり死んだ皇帝の皇后)が嫉妬で貴人らを殺してしまった。いくら寵愛があっても、宮人から貴人に引き抜くのは後漢では非常識だったらしい。このように考えると、おそらく采女は最初の入宮時の身分でお手付き候補者。
というわけで、この小説で「嬪御」というのは、宮人・美人をひっくるめて指す、下位側室の意。
〇式微
この〈式微〉という詩は非常に難解というよりは、抽象的過ぎてよくわからない詩で、古来さまざまな説があります。まず冒頭の「式微、式微」からしてどう読んでいいのかよくわからない。
式は発語の助字なので、「ああ」とかそんな意味のない言葉。微は「衰」、「ああ衰えたり」とか、「かくて衰う」(吉川幸次郎訳)とか訳することが一般的です。ここから、「式微」は王朝の衰退を意味する使われ方も出てくるという、抽象的であるが故に、政治詩としても読まれてしまうという、そういう厄介な詩であります。
が、後に出てくる「微君之故」の微は無の意味で、「なかりせば」と読む。この詩の場合、普通に読んだら最初の「微」と後の「微」は同じ意味で採るべきじゃないのかと思うのですが、そうなると最初の行が滅茶苦茶、日本語にしにくい。「ああ、なかりせば」をそのまま「ああ、なかったら」って訳しても日本語として意味がわからないわけで。
次の、「胡不帰」(胡ぞ帰らざる)を一般的には、歌い手と「君」とは一緒に出掛けていて、「早く帰りましょう」の意味に解釈する。一行目の「式微」を衰える、の方向で読んだ場合、「ああ、こんなにズタボロになっちゃった、何で家に帰らないの、あなたの為じゃないなら、こんなつらい旅なんかしないのに、早く帰りましょう」という意味にとる。何かの理由で「君」と一緒に旅にでて、「君」が決定権を持っているので、歌い手は帰りたくても帰れない……そういう意味に取られる。歌い手は君主のお付きの人だったり、恋人と駆け落ちして零落しちゃったのを後悔する、そういう詩だと。(その結果、中露の露は路の意味だとか、泥中は街の名前だとかいう、解釈が発生する。)
でもそういうのははっきり言って、詩として美しくない。「胡ぞ帰らざる」は、離れていった恋人に「どうして」と問う歌ではないのか。その方向で解釈すると、「どうして帰ってこないのか、君の為でなければ、どうして露にぬれたりしようか」→「君の為なら、露に濡れるのも平気なのに(あなたは帰ってきてくれない)」という意味に取れます。その方が美しい。「微君之躬」も、上の「微君之故」と普通は同じ意味の言い換えと解釈するけれど、あえて「躬」と言っているのは、「あなた自身がいなければ」を強調すると読めるので、「あなたが側にいてくれないなら、どうして泥の中にいようか」→「あなたが側にいてくれるなら、泥の中でも平気なのに(どうしてあなたは帰ってこない)」という意味に読みました。
でも最後の難関、「式微」。「ああ衰えたり」であなたが帰ってこないから窶れた、でも読めなくはないですが、あんまり美しくはない。やはり「ああ微かりせば」と読みたいところなので、「ああ、あなたがいなければ」→「あなたさえいてくれれば」という方向で訳しました。もともと詩を作った人(2500年前くらいの中国人)は駆け落ちを後悔したのかもしれないが、詩の解釈としては、たぶん、こっちの方が美しいと思う。




