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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第十章 君の故 微かりせば
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離叛

 重陽の宴から数日後、九月望日(十五日)の長秋宮での朝請には、あの宴に出ていた十二人の女たちが、やはり着飾って居並んでいた。


 「ひとまずは采女さいじょ、という官職につけましたの。ここから、陛下の恩情を蒙ることができたら、宮人、あるいは美人へと位を進ませて、場合によっては貴人位までも出世させてもよろしいと、考えていますのよ」


 妖艶に微笑む郭聖通の言葉に、陰麗華はどう答えていいのかわからず、曖昧に頷く。


 前漢時代には昭儀を頂点とする十四階の後宮女性の位階があって、それぞれに妍を競っていたが、文叔はそれを無駄だとバッサリ切り捨て、皇后の下には貴人を置いて、ここまでを別格の、家族を外戚として扱うレベルの側室とした。その下には美人、宮人、采女の三階級を作ったが、貴人とそれ以下には厳然たる壁があって、これら下位の側室は単なる女官という扱いである。しかし、文叔はポストを作っただけで、実際に人を任用するつもりはなかった。王朝の創始者の責任として、制度の枠組みを作っておかなければ、将来の皇帝が困る。――そのポストを、郭聖通が事後承諾で埋めてしまったのである。


 権力者の周囲で女たちが寵愛を争うのもまた、この国の歴史には繰り返されてきたこと。容姿やその他の条件に合致して後宮入りした女たちは、雒陽から河北一帯の支配者である、皇帝・劉文叔の寵愛を得る夢を見て、花に群がるミツバチの如く集まり、文叔の興味を引こうとしている。彼女たちにとって、差し当たって眼の上のたんこぶは、陰麗華――皇帝の寵愛を一身に集める美貌の貴人であった。


 郭皇后の主催した重陽の宴は、千載一遇のチャンスであったが、皇帝は多くの女に突進されたことで機嫌を害してしまい、結局、寵姫陰貴人の膝枕から離れず、陰貴人への寵愛を見せつけられるだけで終わった。


 皇帝が河北に遠征していた八月中に後宮に入って一月弱。女たちの目にも、後宮の現状が明らかになると、女たちの不満はムクムクと湧き上がる。要するに皇帝は陰貴人だけをご寵愛で、他の女に目もくれないのだ。


 ――確かに美人だけど、地味よね?

 ――南陽の田舎の出なんでしょ?

 ――でも、あの耳飾りの真珠、すごいわぁ。

 ――どうせ、陛下が贈ったんじゃないのぉ?


 ひそひそと囁かれる声を背中に聞きながら、陰麗華はいたたまれない気持ちでいっぱいだった。その日の陰麗華は艶やかな紅い練絹ねりぎぬに金銀糸で刺繍をした豪華な白い襟のついた曲裾深衣を着て、金糸を織り込んだ透ける絽の白い褶衣うちかけを羽織っていた。大きなフワリとした袖を持つ桂衣、と呼ばれる形の、上流女性だけに許された贅沢な衣裳で、全面に精緻な草花文様の刺繍を散らしてあり、陰麗華の儚げで清楚な雰囲気によく似合ってはいた。しかし、身分柄、強要される贅沢に、陰麗華は着飾っただけですでに疲れていた。髪は控えめに結って、露わにした耳には明月璫と呼ばれる白玉の耳璫みみだまを填め、その孔から細い糸で真珠をいくつも連ねて垂らしている。――理由は知らないが、文叔は真珠に拘りでもあるのか、彼が用意する耳飾りはいつも真珠だった。


 ――でも、ご寵愛を独占してもう、半年以上よ? 懐妊の兆しもないなんて、〈うまずめ〉なんじゃないの?

 ――〈うまずめ〉のくせに、陛下の閨を独占って、どうかと思うわぁ~。



 子供ができないのは当たり前だ。再会して以来、接吻キス以上のことをしていない。そして、郭聖通の部屋にも通ってくれと、文叔には口酸っぱく言っているのに、文叔が拒否するのだ。


 背後を振り返って、そう、早口でまくしたてられる性格なら、ここまで苦労しないだろうに……。


 陰麗華は溜息をつきそうになるのを懸命に堪えて、大人しく皇后の訓示を聞いている。


 「――と、やはり後宮は陛下の安らぎの場であらねばなりません。陛下の癒やしになれるよう、皆さまも精進なさって――」


 ああ、もうすぐ終わるのね、と陰麗華がホッとしたのもつかの間。


 「時に――清涼殿の方」


 突然、呼びかけられて陰麗華は飛び上がりそうになり、はっと顔を上げる。


 陰麗華の部屋は却非殿の後殿にある。後宮内では住まう殿舎で呼び合う風習があったが、陰麗華は皇帝の居宮でもある却非殿に住んでいるため、呼びにくかった。それで、かつての前漢未央宮の前殿北側の宮殿(前漢諸帝の居宮であった)の名にちなんで、後殿の北側にある陰麗華の住む部屋周辺を、清涼殿と呼びならわすようになった。誰が最初に呼んだのか知らないし、慣れないが文句を言う筋合いでもないので、陰麗華は黙ってされるがままにしているのである。


 「はい、長秋宮様」


 陰麗華が答えると、郭聖通はことさらに優美に微笑みかける。


 「この間の重陽の宴、陛下はどなたか、お心に留められた方はいらっしゃるかしら? あなた、お話は聞いていなくって?」

 「それは――」


 背後の、女たちからの視線が一層、鋭く背中に刺さって、陰麗華は懸命に背筋を伸ばす。


 「さあ――いかがでございましょうか。あの夜、陛下は遠征のお疲れか、普段よりもご酒のまわりが早くて。特別にどなたかをお心に刻むほどの余裕はなかったのでは――」

 「あなたもお薦めになったのよねぇ?」

 「え、ええ……どの方もそれぞれにお美しくて、わたくしからはどなたを特にとも、申し上げられず……」


 郭聖通が白い手を口元に当てて、ホホホと笑う。


 「陛下と最も長く過ごしておられるのはあなたなのだから、陛下のお好みもあなたが一番、把握なさっているでしょう。後ろの者たちに、よくよくご教示して差し上げて」

 「は、はあ……」

 「やはり髪型とか、耳飾りはそのように長く垂れたものがお好みなのかしら。香りは――」

 「香は、あまり強いのはお好みではないようで……わたくしも控えめを心掛けております」


 次に文叔が女たちに襲撃された時、せめて香り責めにされないよう、陰麗華はそれだけは何とか言った。背後の女たちが、すん、すん、と盛んに鼻を鳴らして香の具合を確かめている。


 「宴がダメならば、一度、音楽の集いでもしようかと思っていますのよ。その折には清涼殿の方も是非――」

 「ありがたいお言葉に存じます」


 するりと立ち上がった郭聖通が、陰麗華の横を通り過ぎるのを、じっと頭を下げたまま見送る。陰麗華の鼻先を、いつもの沈香じんこうの香りが通り過ぎた。







 「まったく、次から次へと邪魔くさいことだ」


 文叔が不機嫌そうに、庭園のあずまやの欄干に肘を置いて言う。

 秋の気配の濃くなった庭園は、枝の先の方から赤く色づき始め、まだ秋の花々の咲き誇るのと、鮮やかな色の競演を見せている。陰麗華は文叔と並んで亭に腰を下ろし、池を取り巻く秋の風情を眺めていた。文叔の大きな手が陰麗華の膝の上に落ち、さっきからしきりに撫でまわしている。


 「……陛下、くすぐったいです」

 「ほら、またやった。二人っきりの時は文叔と呼べと言っているのに」

 「二人っきりではありませんわ。亭の影には陸宣や侍女たちも控えておりますのよ?」

 「ああいうのはもう、いないも同然と思うしかないね。――本当に、どうして皇帝なんかになっちゃったかな。うまく鄧仲華あたりを騙して皇帝位につけ、自分は家来のフリして操った方がうんとよかった」

 「馬鹿なことを……仲華さんはお元気ですの?」


 その話に文叔が凛々しい眉を顰める。


 「あんまり。……まさかあいつが、あんなにも戦争に弱いとは思いもしなかった」

 「……戦況が芳しくありませんの」

 「あいつは潔癖過ぎるんだよ。意地でも掠奪しないのは立派なんだが、長安を押さえたはいいが、食い物が足りない。――逆に、当たり前のように掠奪する奴もいるし、足して二で割りたいくらいだな」


 文叔がはあ、とため息をつく。

 鄧仲華のいる長安も、また呉子顔のいる南陽の戦況も思わしくない。賈君文将軍率いる南方派遣軍は一月ちょっとで戦果を上げ、今は淮陽から汝南郡のあたりを転戦中で、また虎牙将軍蓋巨卿も、東方の劉永と対峙している。そんな状況下で、文叔が何人もの女を侍らすなんて、彼らの耳に入ったら総スカンを食うに違いない。


 「後宮でどんちゃん騒ぎをしている暇が、僕にあると思う? 前線にいる将軍たちが、俺たちが苦労している隙に!って思うに決まっている」


 昨日も長秋宮に呼び出され、香の匂いをプンプンさせた女を並べられ、どれでも好きなのを、などと言われて、怒って帰ってきた。


 「でしたら、わたしとこうしているのも、よろしくないのでは……」

 「君と過ごす時間だけが僕の癒やしなんだから、つべこべ言わせない」


 文叔は陰麗華の華奢な肩に腕を回して抱き寄せ、白い首筋に口づけを落とす。


 「はあ、本当に好きな女からは拒否されて、好きでもない女を抱け抱けとうるさく言われるとは、皇帝ってのは因果な稼業だよ」

 「……でも、御子をたくさん儲けるのも、皇帝の大事な責務なのでしょう?」

 「今の僕は、天下の半分も支配できていない。南陽を確実に押さえ、そうして初めて長安の赤眉と対峙できる。でも、ほんのちょっとの舵取りの失敗で、河北も雒陽も失い、全部パアになることだって、いくらでもありうる。……ちょうど、劉聖公のようにね」


 久々に耳にした名に、陰麗華がびくりと震える。


 「長安の赤眉の劉盆子。その奥の漢中、巴蜀には公孫述。北では劉文伯とかいう、僕と伯升兄さんの名前を足したみたいな奴が、匈奴単于きょうどぜんうの支援を受けて威張っている。甘粛も何やら怪しい。天下統一まで、あと、十年はかかるだろう。……将来を見据えれば、子供が必要だという、部下の言い分はわかる。でもその子供を得るために後宮に引きこもっていたら、周りの者は僕を見限るに違いない」


 文叔はそう言って、陰麗華の背中に手を這わせる。


 「彊も輔も、まだ生まれたばかりで、どんな大人になるかさえわからない。彼らのあやふやな未来に賭けるよりは、今、僕自身でできる限りのことをしておきたいし、それ以上のことは責任が持てない。――麗華」


 不意に名を呼ばれ、陰麗華が見上げると、文叔の黒い瞳と目が合った。


 「僕はそんな未来の子供ではなくて、君との今を大事にしたいんだ。――君を愛している。こんな面倒くさい皇帝なんてやっているのも、何もかも全て君のためだ。君を奪われたくなくて叛乱を起こし、引き裂かれた君を取り戻すために、皇帝になった。僕に必要なのは、君だけだ。正直なところ、天下なんで二の次だから」

 「――文叔さま……」


 真剣な目で見つめられて、陰麗華は息を飲む。 

 

 「……仮にも皇帝陛下が、そんなことを仰るべきではないわ。まるでわたしが、陛下を惑わす傾国の女のよう」


 その言葉に、文叔が困ったように眉尻を下げる。


 「惑わしているのは本当だな。……でも、君を傾国の女にしないために、僕も努力している。すべて、君のためだよ」


 もう一度陰麗華を抱き寄せ、唇を塞ぐ。陰麗華も素直にそれに応じて、文叔の堅い胸に身を預けた時。


 「申し上げます、こちらにただ今、建威大将軍閣下が、陛下に火急の要件であると――」

 「伯昭が?」


 文叔がギョッとして身を起こし、陰麗華が慌てて居住まいを正して少し離れるとほぼ同時に、耿伯昭が武官の赤い袍に大冠を被って小走りにやってきて、亭の中で片膝をつく。

 

 「よい、そこまで畏まる必要はない。今日の仕事は終わったはずだが、何かあったか」

 「はい、宛の大司馬閣下から、これが――」


 そうして耿伯昭は小脇に抱えていた漆塗りの函を捧げるように文叔に差し出す。文叔がそれを受け取って紫色の紐を解く間、耿伯昭はちらりと陰麗華を見て、気まずそうな顔をした。


 「陛下、もし機密の上奏でございましたら、わたしは失礼して……」

 「……いや、僕も戻るから、一緒に却非殿に帰ろう。……伯昭、ご苦労だった。このこと、仲先は?」

 

 文叔は編綴へんてつされた竹簡を読み終え、もとの通りに巻いて函にしまい、それを耿伯昭に返す。伯昭が受け取り、頭を下げた。


 「朱仲先将軍は別件で大司空閣下と協議中ですが、すぐに呼びにやりました」

 「……そうか、衛尉の李次元と、偏将軍の馮公孫らも招集してくれ。緊急に禁中議を開く。伯昭は先に戻れ。私もすぐに向かう」

 「はっ」


 耿伯昭が函を抱えて速足で戻っていくのを見送り、文叔は脇で控える鄭麓と陸宣に帰還を命ずる。陰麗華の手を取って、庭園をゆっくりとこしの止めてある場所まで歩きながら、文叔は無言であった。


 政治向きのことは口を出してはいけないと思っていたが、どうにも胸のざわめきが抑えきれず、陰麗華はてぐるまの中でつい、文叔に尋ねた。


 「――なにか、あったのですか?」


 陰麗華の腰に回していた文叔の手が、ギュッと、陰麗華の手を求め、握った。

 文叔はしばらく逡巡していたが、溜息をついて言った。


 「そうだね、ずっと隠しておくことはできまい。――育陽の脳筋男が、ついにキレた」


 陰麗華の体温がすうっと下がっていく。文叔に強く握りしめられている指先が、ひどく冷たい。


 「――少、君が……?」

 「以前から、君を皇后に立てなかったことで、不満を抱いてはいたらしい。彼にしてみれば、ひどい裏切りだ。そしてさらに――呉子顔が……」

 「呉子顔将軍が?」

 「――もともと、あいつはすぐに掠奪するんだ。でも、あいつの故郷は宛だから、さすがに大丈夫だと思っていたのに、少君と揉めて、その腹いせに――」


 文叔がほとんど声にならない声で、囁くように言った。


 「――新野を掠奪して、少君がそれに怒って――」


 陰麗華は文叔の腕の中に頽れるように、倒れ込んだ。



  挿絵(By みてみん)




 建武二年(西暦二十六年)秋、南陽郡育陽を守る破虜将軍鄧奉が、雒陽に対して反旗を翻した。

 

 もともと、南陽諸県には更始帝の残党がうろついて情勢が定まらなかった。さらに、黎丘れいきゅうに拠る秦豊が楚黎王を自称し、董訢とうきん堵郷ときょうを、許邯きょかん舂陵しょうりょうにも近いきょうに拠って、それぞれ自立していた。皇帝・劉文叔は大司馬の呉子顔を派遣して南陽の平定を命じていたが、呉子顔率いる漢軍は南陽で相当に素行が悪かった。


 「その……きっかけは、()()なんだ」

 「うち?」


 新野の被害について尋ねる陰麗華に、陰君陵が俯き、唇を噛んだ。


 「呉子顔将軍は、新野県のわが陰家に対し、糧食と戦費の供出を要求した。……それは、兄さんも同意していてね。その、書きつけも渡してはいたんだけど――」


 挙兵以来、陰家が舂陵しょうりょう劉氏に供出した財産は莫大な額に登る。さらに娘の陰麗華を皇帝・劉文叔の後宮に差し出し、陰次伯、陰君陵兄弟は皇帝の近侍として要職を占めている。だが、南陽に待つ陰家に、十分な見返りがあったとは言えない。


 数年にわたって続く凶作と、戦乱。広大な田畑を所有する陰家は、また抱える下戸こさくにんも膨大であった。豪家として彼らの生活を守りながら、荒れ果てた新野の家を維持する。陰家とてギリギリの状態にあった。しかも――。


 正式な婚約の元に正妻として娶ったはずの陰麗華を、劉文叔は二年も捨て置いたあげく、相談も詫びの一言もなく、河北で新たな妻、郭聖通を娶る。陰麗華を解放するならばまだしも、六月には郭聖通を皇后に立て、陰麗華は貴人として、妾の地位に落とした。これが、陰家にとって屈辱でなければ何であろうか。

 

 だから、あんな男に嫁にやりたくはなかったのだ!鄧夫人は何かの折には、文叔への不満を漏らしていたという。文叔に尻尾を振っている、陰次伯も、陰君陵も、鄧夫人は裏切り者と感じていただろう。


 そもそも、あの劉家の奴らが叛乱を起こしたために、今も新野は戦乱に喘いでいるのじゃないか。

 要するに、劉文叔こそ、諸悪の根源――。


 南陽に進駐してきた呉子顔将軍の、食料の供出を求める使者を、鄧夫人は叩き出した。


 一応は、皇帝の貴人を出した南陽の富豪として、呉子顔にも遠慮はあった。それで、呉子顔は配下に入っていた育陽の破虜将軍・鄧少君を呼び出す。


 ――親戚のよしみで、説得してこい。


 だが、皇帝・劉文叔に不満を持つことで言えば、おそらくこの世で鄧少君を超える者はいない。


 彼の愛する陰麗華は、皇帝・劉文叔の妻であったはずなのに。あれだけ陰麗華を苦しめた男だけれど、陰麗華が愛した彼女の夫であるのだから、とはらわたの千切れる思いで身を引いた。なのに――。


 劉文叔は、陰麗華ではない、別の女を皇后にし、陰麗華を屈辱的な寵姫の地位に置いている。

 許しがたい劉文叔への恨みが、呉子顔との会見で噴出する。

 陰家が供出を拒むのももっともである。皇帝は陰家に泥を塗り、踏みにじっておきながら、厚顔無恥にもさらに財産を求めるか。鄧少君は散々、罵倒して席を立ち、育陽に帰ってしまったという。

 陰家への説得が不首尾に終わり、鄧少君への腹いせも込めて、呉子顔は陰家を含めた新野県の掠奪を命じたのだという。


 ――それが、この八月の末。


 この掠奪に鄧少君が激怒し、ついに文叔への反旗を翻すに至る。

 南陽を混乱の渦に巻き込み、南陽の富を収奪して雒陽に覇を唱える裏切り者。それこそが劉文叔であると、南陽全体の鬱屈した怒りと恨みに火が付いた。鄧奉は呉子顔将軍を撃破して漢軍の輜重しちょうを奪い、育陽に拠って南陽の各地に散らばる諸賊を糾合し、瞬く間に一大勢力を築き上げたのだ。


 現在、揚化将軍の堅子伋と右将軍の萬君游が、決死の覚悟で宛を奪還して備えているが、危機的状況にあるという。


 南陽が、背いた。

 文叔と、陰麗華の故郷である、南陽が。


 それだけでも、陰麗華には衝撃であった。

 そしてさらに、その叛乱の頂点にいるのは、陰麗華の幼馴染、鄧少君――。


 陰麗華が皇后位に就けなかったことに、少君が怒って兵を挙げた。


 「そんな――わたしは、納得しているし、君陵も、お兄様だって――」


 六月の郭聖通の立后に関して、賈君文将軍について南方を転戦する兄・陰次伯からも書簡があり、陰麗華を慰めつつも文叔の気持ちを疑うな、という内容であった。


 あの気の強い兄が、妹が寵姫に落ちたことに何とも思わないはずはない。それでも、陰麗華の辛い状況を酌んで、遠い戦地で耐えてくれている。だが南陽の人々は――故郷の人は、母は、少君は。


 皇后になれなかったことが、叛乱の引き金になった。陰麗華はその事実に打ちのめされた。



堅子伋:堅鐔。潁川襄城の人。揚化将軍として南陽に派遣されていた。

萬君游:萬脩。扶風茂陵の人。右将軍。この後すぐに宛の軍中で病没。

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