重陽
「ちょうど今宵は重陽でございますから、菊を愛でながらひと時を楽しみたいと思いますの」
郭聖通が文叔の杯に酒を満たし、侍女や宦官たちが、料理の乗った案を運んで並べる。楽人が音楽を奏で、華やかな調べが始まる。謳者の美声が響き、舞伎たちが舞台に上がって、長く白い舞の袖を翻して、舞い始める。
陰麗華も富豪の出であるから、何かの祝い事の席に旅の一座が呼ばれて、舞や寸劇、軽業などを見たこともある。しかし、いわゆる宮廷舞踊は初めて見る。洛陽宮の舞楽は成周以来の伝統があるといい、さすがの技術と洗練ぶりであった。
目の前に並ぶ料理も、吟味を重ねた逸品ばかり。臛と呼ばれる、宴会にはつきものの濃厚なスープ。長時間かけて煮込まれた羊肉と蓮根に黍を加え、トロリとした風味に仕上げてある。洛水で取れた鯉魚の膾。蓼の酸味と生姜の辛味を効かせた鴨肉の菹、牛肉の炙り焼、山と積まれた新鮮な果物たち。豪華な料理に舌鼓を打ちながらも、河北で民衆の艱難辛苦を間近に見てきたばかりの陰麗華は、こんな贅沢をしていいのかと、不安に駆られる。チラリと文叔を見れば、文叔は穏やかな表情を崩してはいないが、どこか不機嫌そうに見えた。――結婚してからわかったことだが、文叔は贅沢を好まないというよりは、要するに吝嗇なのだ。この豪華な料理にかかった金額を頭の中で計算し、浪費だと考えているに違いない。
だが文叔も皇后には遠慮があって、表面的には穏やかに、郭聖通が耳元で囁いた言葉に頷いたりしている。――そんな二人の姿を見せつけられるのも、陰麗華には辛い。しかし、内黄では文叔を独占していたのだから、と強いて笑顔を崩さず、陰麗華は二人を見ないようにしていた。
何組目かの踊りが終わり、郭聖通が合図をすると音楽の調子が変わった。殿庭にいた着飾った女たちが立ち上がり、左右に分かれて階を昇ってくる。その数十二人。
「そろそろ来たわよ、陰麗華ちゃん。……さあて、陛下のお目に留まるような子がいるかしら?」
横から、趙夫人が囁き、悪戯っぽく笑いかける。
「ね、何となく、陰麗華ちゃんに似た雰囲気の子が多いと思わない?……露骨よねぇ」
いかにも楽しそうに喉の奥で含み笑いする趙夫人の声を聴きながら、陰麗華もハッとした。どこがどう、とは言えない。顔ではなくて、雰囲気を似せているからなのか、確かにそこはかとなく陰麗華に似ている女が何人もいて、曰く言い難い気味悪さに思わず身震いする。
文叔は不穏な空気を感じとって、郭聖通を見る。
「……これは?」
「八月に算人(戸籍調査)をいたしましたでしょう? その折に、雒陽城内から、未婚で、容貌と才徳、家柄の優れた者たちを後宮に呼び入れましたの。宮内に元から居りました者と合わせて十二名。陛下のご寵愛を受けるのに相応しい者たちばかりですわ。是非、ご寵愛になって漢の社稷を盤石なものに――」
ぶはっと飲みかけの酒を噴き出して、文叔がゲホゲホと咽る。
「なっ……勝手なことを! 私は女はもう――」
「天子の後宮には百二十人の女が妍を競うものですわ。わたくしと陰貴人の二人きりでは、あまりに寂しいと申すもの。せめて十分の一くらいは後宮にいなければ、格好がつきません。それこそ敵に侮られかねませんわ」
ニコニコ微笑んで、平然と言う郭聖通に、文叔がさすがに目を剥いた。
「百二十人って、私を殺す気か? だいたい、そんなにたくさんの女を囲う金も、体力もない!」
「ですからせめて十二人くらいは……」
「いらん!」
「全員とまでは申しません。せめて何人かは。……ねぇ、陰貴人?」
成り行きを呆然と見ていた陰麗華は、突然、話を振られてびっくりする。
「えっ……あのっ……その……」
「陰貴人も、いつご懐妊になっても不思議ではなくてよ? 他の方がいてくだされば、安心でしょう?」
「あ、安心?」
夫(一応)に他の女を宛がって「安心」する女がこの世にいるのだろうか、いや、いるんだろうな、と陰麗華は背中に冷や汗をかく。ここで迂闊なことを言えば、文叔は十二人のうちの何人かを側室にするよう、追い込まれてしまう。背中から撃つような真似はできなかった。だからと言って、他の女なんて嫌だという態度を示せば、嫉妬心と独占欲の強い女だと、批判を浴びることになる。陰麗華がどう、答えるべきか困惑していると、趙夫人が横から口を出す。
「陛下は生真面目なお方ですから、妻に気を遣っておられるのですよ。それに突然のことで。いかに長秋宮様のご推薦とはいえ、慎重になられるのも当然です。まずは宴を楽しんで親睦を深めてから、これはと思う者をお召しになればよろしいのです」
しかし、今度は逆側から郭主が言う。
「そうは申しましても。陛下は傍らの白い百合の花に夢中で、他の花々の美しさを認めようとなさらないではありませんか。なにせ、百合の花は香りが強うございますからねぇ。清楚な菊花では匂いに負けてしまいますよ。でも世の中の花は百合だけではありませんわ。桔梗も竜胆も、それぞれの美しさがございますよ、一度はお試しになられては?」
「お、お試しって!」
文叔が周囲を見回せば、女たちは文叔を取り巻いて、酌をしようとそれぞれ酒器を持って待っている。女たちはこの日のためにと装いを凝らして、焚き込んだ香が陰麗華の席にまで漂ってくるほどだった。
「ちょ、待て、そんなに酒を飲まされたら絶対、潰れる! だいたい私はこれ以上女は――」
「それは、もしかして陰貴人にお気を使っていらっしゃるの?」
郭聖通の柔らかな、しかし切り裂くような声が殿上に響き、陰麗華はビクっと身を震わせてしまう。
「い、いや――そういうわけ、では――」
文叔が視線を巡らして、ちらりと陰麗華を見る。陰麗華も皆の注目を浴びて慌てて首を振った。
「え、ええ、そんなことは――」
「だったらよかったわ」
ニッコリと郭聖通が微笑む。
「まさかお互いだけだなんて、そんな、市井の匹夫匹婦のような、天子にあるまじき約束事に囚われていらっしゃったら、どうお諫めすべきかと案じておりましたのよ? 陰貴人もご寵愛を独占するような狭量ではないはずと、わたくしも信じてはおりましたけれど。嫉妬と独占欲ほど、忌むべきものはございません。陛下の御代をお支えするにはまだまだお子が足りません。優れた女人を多く見出して、優れたお子をたくさん得る。それもまた、天子の為すべき務めでございましょう」
「皇后、あなたはそう言うけれど、もう二人も皇子がいて、私は十分だと思っている。無駄に子供が多くても、争いの元だ」
「わたくしと弟の長卿の間には、三人もの弟がおりましたのよ。でも皆早世して……縁起でもないと仰るかもしれませんが、子は何人いてもよいものですわ。わたくし、それを許容する度量のあるつもりでおります。……陰貴人だって、ねぇ?」
そうして郭聖通は女たちに命じて酌をさせる。文叔は仕方なく数杯、杯を開けたところで、次の酒を酌もうとした女を押しとどめて杯を置く。
「ちょっと待ってくれ、こんなにも飲み切れない。あちらに独身の男どもがいるから、そっちに注いでやってくれ。私一人に十二人も不要だ」
皇帝に近づく機会を奪われそうな女たちは抵抗するが、文叔は振り切って立ち上がると、女たちを押しのけて陰麗華の席にやってくると、文字通り転がり込むように陰麗華の膝の上に倒れ込む。
「陛下!」
「主上!」
一瞬、周囲は騒然とするが、文叔が手を挙げて制して、言った。
「宴は続けてくれ、だが私は限界だ。少し陰貴人の膝で休む。――女たちは朱仲先や耿伯昭に酌を……」
文叔は陰麗華に膝枕して、気分が悪そうに目を閉じた。周囲の女たちの、射殺さんばかりの視線に陰麗華は生きた心地もしなかったが、しかし文叔は文叔で梃子でも動きそうになくて、陸宣に命じて水を持ってこさせる。
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない。あれ以上飲まされたら、マジで死ぬ。……それに、香の匂いが。いろんなのが混じり合ったせいか、匂いがキツくて……」
その様子を可笑しそうに覗いていた、趙夫人が言う。
「ちょっと、張り切りすぎじゃあございませんの? 遠征から戻ってきたばかりの陛下に、浴びるほど酒を飲ませようだなんて。ご寵愛も大事でしょうが、何より陛下のご健康にも留意しなければ」
「それは……陛下はいつもはもっとご酒をきこしめしても、平然としていらっしゃるから」
郭聖通が言い訳がましく言えば、趙夫人が笑った。
「あの勢いで飲まされましたら、どんな酒豪でも潰れてしまいますよ。だいたい、陛下の周囲で壁を作って、せっかくの舞も見えなくしてしまって……一応の顔見世は済んだのですから、後はゆっくりお薦め遊ばされては?」
「ですが……」
結局、文叔は皇后の傍らを逃れて陰貴人の席に寝転がり、行儀悪く膝枕したまま残りの宴の時を過ごした。その様子は、陰貴人への度を越した寵愛を後宮に印象づけるだけであった。
「……そんな態度、批判の矛先が陰麗華ちゃんに向かうだけですわよ、わかっていらっしゃるの?」
ほんの小声で、趙夫人が文叔を非難すれば、文叔もぶすりと呟く。
「わかっている。……酔っぱらっちゃったんだから、しょうがないじゃないか」
「……ご気分がよくなられたら、あちらの席にお戻りになったら?」
陰麗華が周囲の女たちの殺気立った視線に辟易しながら言うが、しかし、文叔は頑なに首を振った。
「嫌だよ。これ以上飲まされたら、明日一日、潰れる。……明日も朝からやることが山ほどあるってのに……」
文叔が溜息をつく。郭聖通は仕事に追われる文叔を間近に見ていないから、後宮にやって来ない文叔が不満なのだろうが、文叔には実際、女たちに割いている時間など、ありはしないのだ。
だが、せめて今夜くらいは長秋宮に泊まるのだろう。陰麗華もまた溜息をつく。
「……ですから、もう少し長秋宮にお渡りになるべきと、申し上げておりましたのに……」
「自分のところに来ないからって、他の女を薦めてくるなんて、想像できるか!」
小声の早口でまくしたて、文叔は膝枕したまま視線を泳がせれば、下座の朱仲先と目が合った。朱仲先がギョロっとした目をさらに見開き、ニヤリと笑ったのを見て、文叔が歯噛みする。
「あの野郎、面白がってやがる!……今度、あいつにも十人くらい女どもを送りつけてやるからな」
「……陛下……」
そんな悪態をついている文叔に、気づけば大長秋の孫礼が近づいて、膝をついて言った。
「長秋宮さまが、お部屋のご用意ができたと仰っています。つきましては、どの娘を指名するかと……」
さすがに文叔が起き上って、孫礼を怒鳴りつけた。
「ふざけるな! どんな女もいらんと言ってるだろう! いい加減にしてくれ、私は種馬じゃない!」
瞬間、音楽が鳴りやみ、ざわついていた空気がピンと凍り付く。孫礼が弾かれたように恐縮し、頭を床に擦り付けた。
「も、申し訳――」
「帰る! 今度勝手に宴会開いて女を宛がおうとしたら、贅沢三昧を理由に廃后するぞ! 陰貴人!」
すくっと立ち上がった文叔が、呆然と見上げている陰麗華を呼んだ。
「却非殿に戻る。そなたも参れ!」
「……陛下? でも、今宵はこちらにお泊りになるのでは……?」
「飲みすぎて気分が悪い。部屋に戻る」
周囲の視線にドギマギしている陰麗華の腕を掴んで強引に引き上げると、そのまま陰麗華を引っ張って乱暴な足取りで堂を出て行こうとする。
「陛下! お待ちください、まだ……」
「陛下、今宵はこちらにお泊りと伺っておりましたが……」
孫礼と郭主が文叔を押しとどめようとし、趙夫人も文叔の軽挙を窘めるが、文叔は聞く耳を持たずに足早に出ていく。腕を掴まれた陰麗華が、半ば倒れ込みそうになりながら引きずられるように連れ去られ、その後を朱仲先や耿伯昭、そして黄門侍郎である陰君陵と郭長卿が慌てて追いかけていく。
「お待ちくださいませ、そんなに引っ張られては……」
「陛下、陰貴人様の腕が抜けてしまいます、もう少し歩調をお緩めになって――」
バタバタとした足音と、侍女や宦官の宥める声が次第に遠ざかるのを見送って、堂に取り残された郭聖通は思わず深い溜息をつき、それから慌てて笑顔を取り繕って周囲の者に声をかけた。
「……仕方ないわ。陛下は百合の香りにすっかり酔っていらっしゃるから。でも、陛下もご自分の為すべき責務にいずれは気づいて下さるわ。それまでにもっと、わたくしたちも精進しなくては……」
だが郭主がさすがに腹に据えかねるという風に言う。
「でも、いくら何でも長秋宮を蔑ろにし過ぎでしょう! あんな、子供も産めない女を!」
「お母さま……」
「だってそうじゃない、聖通。この半年以上、陛下の閨を独占していたと言うのに、懐妊の兆しすらないのよ? 大人しそうな顔をして、陛下が他の女に目を止めるのを邪魔しているのよ!」
「まあまあ。……そういう批判が陰貴人様お独りに集まるから、陛下が躍起になって守ろうと暴走なさるのよ。この後宮の主である、長秋宮となられたからには、もっとどーんと構えておられるべきでは?」
趙夫人がそんなことを言いながら、余裕綽綽な態度でゆっくりと立ち上がる。
「とにかく自分が守ってあげなければ、と思っていらっしゃるのですよ。攻撃したり引き離そうとしたら、逆効果じゃないかしら?」
「……わたくし、攻撃しているつもりはなくってよ?」
郭聖通が柳眉を逆立てれば、趙夫人もにっこり微笑む。
「もちろん、そうでございましょうとも。ですが、陛下からどう見えるのか、が問題ではございませんの? 陛下があなた様を皇后の尊位につけたのは、やはり後宮の安定を思えばこそ。皇后の責務は陛下に女を紹介することだけではありますまい。後宮を取りまとめ、後宮内での誹謗中傷や根も葉もない噂話を収めることこそ、真に期待されているのではないかしら? 陛下は見た目はお優しい風ですが、戦場では負け知らずの武人でございますもの。期待に添わないとなったら、あっさりお切り捨てになるでしょうねぇ、あの陛下は」
「!!」
ギリと奥歯を噛みしめたらしい郭聖通に優雅に頭を下げ、趙夫人は堂々とした足取りでその場を後にした。
「まあ、なんざましょ、あの女! あたくしの聖通にあんな――」
「お母さま!」
不満をあらわにする母親を窘めて、郭聖通は手を叩いて宴のお開きを命ずる。それから十二人の女たちを呼び寄せて言った。
「陛下は十二人も必要ないと仰った。……そうね、これからあなたたちを選抜して、五人まで数を絞るわ。そうして必ずや陛下のお心を射止めるのよ。それが、漢の社稷のためなのですから」
女たちは互いに顔を見合わせ、そして皇后に向かい、深く頭を下げた。
重陽:九月九日。陽の極まる九が重なるので。菊見の宴を催すことも多い。
*文叔がいつ行幸から戻るかは、『後漢書』などの史料から干支で日付までわかるのですが、そこまで細かく拘ると絶対にいつか自分の首を絞めるので、日付は敢えて見ないで月単位で考えています。(いちいち『二十史朔閏表』を見るのが面倒ということもある)




