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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第十章 君の故 微かりせば
65/130

遠雷

 幸せ――。


 そう言われて、陰麗華は硬直する。

 わたしは、幸せなのか?


 何も知らない者から見れば、「幸せ」なのかも、しれない。


 麻のごとく乱れた天下で、雒陽の都を拠点に天下のほぼ半ばを領有しつつある、皇帝・劉文叔。その彼が軍旅にあっても片時も離さない、寵姫。


 単純に、衣食住に不自由はない。ここ数年の飢饉と戦乱を思えば、餓えと寒さに苦しめられていないだけで、どれほど感謝しなければならないか。


 陰麗華は自らが纏う、刺繍の散らされた白い練絹ねりぎぬ褶衣うちかけを見下ろす。陰家は大富豪ではあったが、官途につかないため身分的な制限もあり、これほどに豪華な衣裳は許されなかった。そして耳元で揺れる真珠の垂珠。遠く、南の海で採れるこの美しい宝石は、一万個の貝から一粒、得られるかどうかの貴重品。陰麗華が自身で望んで着飾っているわけではないが、陰麗華の耳の真珠を見る者は皆、皇帝・劉文叔の富と権力を思うに違いない。


 何より、文叔は陰麗華を愛している。

 再会した頃は、文叔の裏切りに傷つき、郭聖通を愛しているのではと疑った。

 だが半年以上経っても、文叔は、「愛しているのは陰麗華だけ」と繰り返し囁き、それを証明するかのように、郭聖通の部屋には一夜として泊まっていない。長秋宮へは定期的に訪問しているが、夜は必ず、陰麗華の部屋に戻ってくる。

 

 まるで市井しせいの夫婦のように、文叔は陰麗華のしんしつで臥牀を共にし、早朝、まだ暗いうちに起きて陰麗華の給仕で朝食を摂り、陰麗華と鄭麓の手伝いで身支度をして、政務に出かけていく。夜は遅くまで仕事をして、夕食もまた、質素なものを陰麗華の給仕で食べる。五日ごとの洗沐の休暇には堂で寛ぎ、陰麗華や狗のリュウとのんびり過ごす。


 時折、文叔の衣に残る微かな沈香じんこうの香りが、陰麗華にもう一人の妻の存在を教えるけれど、月に二日の朝請以外は、引きこもった生活をしている陰麗華に、後宮の日々は嘘のように穏やかだ。


 でもそれは、幸せなのか。


 今の暮らしは、陰麗華自身が思い描いた生活と、似ているようでいて、まるで違う。

 南陽の、ごく普通の士大夫の妻になるはずだった陰麗華は、きっと毎日、さほど多くもない使用人を指図して文叔の食事を準備し、衣服を縫い、時には自ら畑を見回ったり、下戸こさくにんと相対したりしたに違いない。でもそんな毎日を夫と二人、支え合っていくのだと、陰麗華は思っていた。


 幼い日、二人で結婚を誓ったあの、白水の畔の家で、平凡な暮らしを続けていくのだと――。

 

 夕暮れに染まる茜色の空と飛び交う、つがいの鳥。ただ一人の妻として夫とともに生きるはずだった自分は今、翼を切られて飛ぶこともかなわず、豪華な鳥籠に飼われているだけではないのか。


 閉ざされた後宮の暮らし。豪華な衣裳に、見たこともないような装飾品。文叔は倹約家というよりは、吝嗇ケチの部類に入るが、それでも陰麗華への愛の証として、衣類や宝石類は金に糸目をつけずに贈ってくる。もう十分だと遠慮する陰麗華に、長秋宮の手前、それなりの仕度は必要だと言う。


 『君は皇帝の貴人なんだから、それ相応の装いをしないと。――僕も、君が着飾ってくれるのは嬉しいしね』


 文叔自らが、皇后・郭聖通に陰麗華が見劣りしないよう、細心の注意を払ってくれているのだと思えば、勿体ないと思いこそすれ、断ることなどできない。


 後宮で、皇帝の寵姫として守られることは、確かに女としては最高に名誉な恩寵に違いない。


 でも――。

 

 陰麗華がなりたかったのは、士大夫・劉文叔の「妻」だ。

 ただ一人の妻として請われ、嫁ぎ、生涯互いだけと誓いあった。

 今、「妻」ではなく後宮の一側室として飼われる暮らしは、陰麗華の望んだものでは、断じてない。


 文叔が「皇帝」として天下に君臨するならば、陰麗華もまた、文叔を「夫」としてではなく、「主君」として傅き、その恩寵を有り難く受け止めるべきなのだ。  

 

 なのに、劉聖公に犯された恐怖で、いまだに夜の営みを受け入れられない自分は――。





 九月、文叔は内黄県を発って雒陽に帰還する。

 馬車に揺られる旅は辛いこともあるが、南宮の後宮で息を詰めて暮らすよりはずっと、心も軽かった。


 ――また、あの毎日に戻るのか――


 実質は変わることはないと思っていたが、名実ともに正妻となった、皇后・郭聖通に仕える後宮の日々は、予想よりうんと、陰麗華の精神には負担がかかっていた。皇帝の閨を独占している今、郭聖通に申し訳なく、その嫉妬心が恐ろしい。この上、実は閨の行為を拒んでいることが知られたら、何を言われるかと、それも恐ろしくて気が気でない。それとなく漏れ聞こえる、「専寵のそしり」に、懐妊の兆しすらないことへの、非難。


 孟津から黄河を渡る船に乗り、甲板に座り込んで路傍の花を流れに手向け、濁流に揉まれて流れ下る秋菊と桔梗の花束を目で追いながら、陰麗華は溜息をつく。傍らでどっしりと寝ころび、陰麗華に背中を撫でられるままになっているリュウの体温が暖かい。

 

 不意に頭上が翳り、日光が遮られて、陰麗華がハッと顔を上げると、于曄の指図で日よけの傘が挿しかけられたとわかる。


 「――雪香」

 

 見れば、傘を掲げているのは雪香であった。


 「あなたは、内黄に残ったとばかり……」


 陰麗華が言えば、雪香は深く頭を下げる。


 「親戚も探しましたが、離散して、とても厄介になれそうもなくて……陸宣さんを通して陛下にお願いして、このまま雒陽の後宮にお勤めするのをお許しいただきました」

 「そうだったの……」


 雪香の亡夫は賊の幹部で投降を拒んだ罪人であるから、本来は官婢として官に没入ぼつにゅうされるか、あるいは地方の県の官衙やくしょで強制労働に処せられるのだが、夫の陳昌が事前に雪香を正式に離縁していたため、お咎めはなかった。だが生きて行く術もなく、内黄に置いていかれても悲惨な生活が待っているので、結局、雒陽に戻ることになった。


 「しばらくは陰貴人様の下で、お世話になります」

 「……そう。よろしくね」


 九月の河風は湿気を含んでどんよりと重く、西の山並みの上には厚い雲がかかり、ゴロゴロと遠雷が鳴っていた。――嵐の予感に、リュウが天に向かってウォーっと遠吠えをした。

 


 




 雒陽南宮に還御した翌日早朝、部屋で朝食を摂っている時に、大長秋(皇后付き宦官の長官)の孫礼がわざわざ正装して陰麗華の部屋までやってきた。


 「長秋宮さまが陛下のご帰還を祝い、戦勝の宴を開かれます。是非、陛下及び陰貴人様にはご出御いただきたいとのことでございます」


 文叔は昨日、ほんの少しだけ長秋宮に足を運び、子供たちの顔を見ただけで却非殿に戻ってきていた。仮にも皇后が主催する宴ともなれば、断ることはできない。


 「わかった、夕刻にそちらに向かう。だが、今後、そのような気遣いは無用であると、長秋宮には伝えよ。戦勝ごときで宴をしていては、キリがないからな」


 孫礼は深く頭を下げて長秋宮に戻っていく。 

 

 「……厄介だな。宴会なんてしている金も、時間もないのに」

 「そうは申しましても……もう少し、あちらでお過ごしになられるべきでは……」


 陰麗華が、文叔に褶衣を着せ掛けながら控えめに言えば、文叔が溜息をつく。


 「聖通は表立っては文句を言わないんだけどね。あの母親がねぇ……。もっとこちらに泊まれと煩いから、理由をつけて逃げてしまうんだよね。君の悪口を言われるのが気分が悪いというのもあるのだが……」

 「さぞかし、散々な言われようでございましょう?」


 陰麗華が眉尻を下げれば、文叔も肩を竦める。


 「ほとんどは事実無根なんだよ。君が仮病を使って僕を引き留めているとか、寵愛を嵩に好き放題しているとか。それをいちいち、聖通が『お母さま、そんなことは仰らないで』なんて、窘める茶番を見せられて、ものすごく疲れる。あのオバチャンが元気なうちは、あちらに通うのは無理だな」


 不平を漏らす文叔に、陰麗華が困ったように笑って、冠のゆがみを直す。


 「さ、できました。行ってらっしゃいませ」

 「ああ。……今日は夕刻前に戻るから、長秋宮には一緒に行こう」


 陰麗華が目を見開いた。


 「それは……あまりよろしくはないのでは……」


 郭聖通を無駄に刺激したくはなかった。しかし文叔は首を振る。


 「臘祭の時のように、君の席次を無理に下げられてはかなわない。だから一緒に行く」


 文叔はきっぱりと述べ、陰麗華を正面に向かせると軽く抱きしめて、頬に口づけしてから出て行った。





 夕刻前、陰麗華が宴のための仕度に大わらわになっていると、同行する趙夫人が、やはりかっちりと正装に身を固めてやってきた。髪は豪華な高髷に結い、華勝と呼ばれる大きな花を象った髪飾りをつけ、簪からは長く珥珠を垂らしている。――この時代、身分によって装いが規定されていて、位の高い女性の方が華やかな装いを義務づけられている。勢い、年配の女性の方が派手な装身具を身に着けることになりがちである。


 「あら、陰麗華ちゃん、ちょっと地味じゃないかしらぁ? もっと髪飾りは華やかなものを、ガッツーンとつけた方がいいわ。あんまり大人しいと、なめられるわよ?」

 「でもあまりに重いモノは肩が凝って……」


 趙夫人に指摘され、それで、陰麗華は渋々、少し大きめの黄金づくりの蝶を模した金釵を追加する。秋らしい、薄紫色の金糸刺繍の入った褶衣うちかけに、黒地の金襴の襟のついた、白い曲裾深衣。濃い紫の薄絹を重ねたスカート白玉はくぎょくと翡翠の佩玉を垂らし、刺繍の入ったくつを穿いて、文叔を待つ。


 趙夫人は陰麗華の装いを上から下まで点検するように見て、頷いた。


 「まあ、いいでしょう。かえって派手過ぎない方が、目立っていいかもしれないわ」

 「……いえ、わたしは目立つつもりは……」

 「馬鹿ね、陰麗華ちゃん。ある意味では今日の主役はあなたよ? 陛下とあなたが留守の間、後宮は大騒ぎだったんだから」

 

 悪戯っぽく笑う趙夫人に、陰麗華が意味がわからずに目をぱちぱちさせる。


 「陛下の留守の間に、郭皇后が側室候補の女を集めていたと知ったら、どうお思いになるかしらねぇ」

 「側室候補?」

 「郭皇后が、ですか?」


 それぞれも宴席の隅っこに控えるために、普段よりはおめかしした小夏と于曄が、互いに鏡を持ち合って簪を直していた、その態勢で振り返る。


 「ええもう、後宮中大騒ぎ! 特に、陰貴人に似たところのある女ってのが、次から次へと出てきたらしくって! 中にはたまたま名前が『麗華』ってだけの、似ても似つかない女までいて、もう、笑っちゃったわ! 八月中の算人(戸籍調査)でも、雒陽城内の未婚で見目のいい女たちを後宮に入れているし、陛下が知ったらなんて仰るか、本当に見物よね」

 

 いかにもおかしそうに趙夫人が言うが、陰麗華は気味の悪さに眉を顰める。

 

 「その女たちが、今夜の宴席に出てくると?」


 于曄の問いに、趙夫人が頷く。


 「だって他に引き合わせる機会もないでしょう? 陛下は滅多に後宮まで出向かないし。陰貴人の寵愛を奪うために他の女を宛がうなんて、皇后もなりふり構わなくなってきた、なんて噂されているわよ?」

 「……わたしの、寵愛を奪う……?」


 陰麗華が思わず胸を押える。その様子に趙夫人が陰麗華の肩をポンポンと叩いて言った。


 「心配しなくても、陛下のご寵愛がその程度のポッと出の女に移るようなことはないわよ。そういう男なら、今頃もう、他の女の二三人、後宮に囲っているでしょうからね。皇帝陛下はうちのアホ亭主と違って、一途な方のようだから、薦められたくらいでホイホイ、手を付けたりはしないわよ。むしろ、勝手に後宮の人員を増やしたことに対し、文句を言うんじゃないかしらね。……まあ、要するにケチだから」


 文叔が前漢の後宮制度に比べて、大幅に人員を減らしているのは、それが無駄だと思っているからだ。雒陽に入城してもうすぐまる一年。複数の女に手を出す十分な時間があったのに、それをしていないのは、つまりは他の女に興味がないということだ。


 「まさか本当に、愛人百二十人必要だと、思ってんじゃないでしょうね?」


 小夏が、いつかの郭聖通の言葉を思いだし、不愉快そうに眉を寄せる。


 「さすがに百二十人は多過ぎよね。陛下は拒否するに決まってますよ。だいたい、後宮にいっぱい女をかき集めないといけない、っていう、いにしえの聖賢の教えがねぇ。皇后も、跡継ぎならもう、自分の息子が二人もいるのに、夫のために女の品定めなんて、何考えてるのかしらねぇ。一人の男に複数の女なんて、いさかいが起るに決まっているのに。その諍いを自ら招こうとしているようにしか、見えないわね」


 さんざん、夫・劉聖公の女関係に迷惑を蒙った趙夫人が呆れたように言う。 


 「とにかく、どんな女が出てきても、一番の寵姫はあなたよ、陰麗華ちゃん。胸を張って、堂々としていらっしゃい。こういうのは、ハッタリなのよ。陛下はあたしに夢中なのよ、って顔で、どーんと構えていらっしゃい!」


 バシンと、背中を叩かれて、陰麗華が伸びあがる。文叔が執務から戻ってきたのと、ほぼ同時であった。

 



 


 陰麗華と文叔はてぐるまに同乗し、趙夫人は特に簡易の輿を許されて、長秋宮に向かう。宴の準備はすっかり、整っていた。


 華やかに整えられた長秋宮の前殿と、その殿庭。ちょうど重陽ということもあり、あちこちに菊花が飾られている。殿庭には篝火が焚かれ、軒から吊るされる灯籠にも火が入って、周囲は昼間のように明るく照らされている。中央には菊花で囲まれた舞台が設営され、舞台の脇には楽人が待機して、楽器の手入れに余念がない。劇か踊りか、催されるらしい。


 殿上には皇帝と皇后の座が並んで、そして一段下がって陰貴人の席が設えられていた。文叔は露骨に眉を顰め、陰貴人の席を一段上げるように孫礼に命じたが、しかし陰麗華自身がそれを固辞した。


 「文帝陛下の教訓(*1)もございます。わたくしはこの位置で――」


 文叔もそれ以上は何も言わず、その場は黙ってそれぞれの席に着いた。三人の背後には護衛として鄧曄将軍と于匡将軍が控え、数人の羽林騎が並ぶ。一段下がるものの近くて十分話のできる位置に、郭主や趙夫人、郭長卿、陰君陵らの親族、少し離れて朱仲先と耿伯昭ら近臣の席が設けられていた。


 「……ホラ、あそこに女たちがいるわよ? 陛下はまだ気づいていらっしゃらないみたいね。フフフ、見ものねー」


 陰麗華にだけ聞こえる程度の声で趙夫人が囁き、陰麗華がハッとして周囲を見回す。殿庭の階に近いあたりに、着飾った若い女たちが何人もひしめいて、殿上をそわそわと見上げていた。


 ――その視線がいずれも、異様な期待感に煌めいて、殿上の皇帝、劉文叔一人に注がれていた。


*1

文帝の時代、皇后(竇氏)と側室の慎夫人の座が同列に並んでおり、それを見た剛直の士が慎夫人の座を下げたところ、文帝が怒った、という事件。

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