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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第十章 君の故 微かりせば
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ある士大夫の死

 陰麗華の膝に取り縋らんばかりに懇願する雪香に、周囲の者たちは言葉もない。ただ、鄧曄将軍がそっと、陰麗華を守るように雪香と陰麗華の間に割り込み、柳がずっとグルグルと喉を鳴らしている。


 しばらく呆然としていた陰麗華が、大きく息を吸ってから、言った。


 「陛下のお決めになったことに、口を出すことはできません」

 「でも! 陰貴人様のお言葉なら、陛下も聞いてくださるかもしれません!生きていくためには、どうしようもなかったんです! 夫を救けてください! 陰貴人様!」


 雪香は頬を流れる涙を拭うこともなく、陰麗華に向かって訴えかける。


 「……でも、あなたを売った男なのよ?」

 「仕方なかったんです! 戦と凶作と……わたしが、自分から申し出たんです。数か月の年季奉公という話だったのに、いつの間にか証文がすり替わっていました! 夫のせいじゃないんです!」


 雪香の両親はすでに亡く、夫と、夫の老親との四人暮らし。夫は最初、自らが出稼ぎに出ると言ったが、雪香がそれを止めた。――働き手を失えば、老いた親たちはさらに困窮するだろう。誰かが犠牲になるのであれば、自分が――。


 だが雪香の犠牲は、内黄の城を賊が襲ったことで無為に終わる。年老いて労働力にならない両親は殺され、夫は賊に攫われる。読み書きができたため、賊帥に気に入られて幹部待遇になっていた。それが、仇になった。


 王莽の支配が終わり、河北一帯は無政府状態に陥る。各地の武装した自警団が離合集散を繰り返しながら、漂うように食を求めて動いていく。生きるために他の郷里を掠奪して里民を吸収し、膨れ上がった武装集団が「賊」と呼ばれているに過ぎない。


 「賊の上層部に主上おかみは投降を呼びかけました。同時に雪香の夫も探していたので、同一人物と気づき、妻の存在を知らせたそうですが、雪香の夫は投降を拒否したそうでございます」

 

 陸宣が控えめに、雪香の背後から補足した。陰麗華は目を見開く。雪香の夫は、妻が文叔の軍にいると知って、それでも投降を拒んだというのか。


 「投降を拒んだ理由は聞いていて?」


 陰麗華の問いに、陸宣が無言で首を振る。


 「申し訳ございません。ただ、自分にはもう妻はいない。このまま消えても悲しむ者はないと」

 「つまりそれは――」


 雪香の夫は、死ぬつもりでいるのだ。


 「あなたの旦那様は、命を長らえるのを望んでいないの?」


 陰麗華の問いに、雪香がわっと泣き伏す。陰麗華は鄧曄を見、鄧曄も首を振った。


 雪香の夫はそれほど豊かではないものの、内黄でも名のある家の士大夫だった。そんな男が、両親を救うためとはいえ妻を売り、さらに盗賊に攫われて意に沿わない暮らしを強いられる。投降してまで命を永らえたいと、思えないのかもしれない。


 「でも、わたしたちにはどうしようもなかったんです! 陰貴人様、お願いです!」


 雪香の悲痛な叫びに、陰麗華は深く考えこむ。

 雪香の夫が何を考えているのかはわからない。ただ、雪香は今も夫を愛している。たまたま、権力者の寵姫の側近く仕えて、夫を救えるかもしれない位置にいる。


 「雪香の旦那様が投降を受け入れれば、命は助かるの?」


 陰麗華の問いかけに、陸宣が頷く。


 「雪香の夫は、人身売買に関与していたようです。売買関係の書類を作成できる人間は限られていますので。主上おかみは不当な人身売買を厳しく取り締まる方針で、雪香の夫は、その罪からは逃れられないのですが、投降すれば命は取らないと。ですが、雪香の夫は潔く罪を認め、士大夫として死にたいと」


 陰麗華が雪香を見た。


 「旦那様自身が投降を拒んでいらっしゃる。陛下に助命をお願いしても、旦那様がどう思われるか……」

 「でも!! どうしてあの人が死ななきゃいけないんです? 戦争でしょうがなかったんです! わたしが説得します! だから、あの人に会わせてください!」


 陰麗華が覚悟を決めて立ち上がる。


 「輿か馬車を用意して。……雪香の旦那様のところへ――」

 「陰貴人様!」

 「お嬢様、危険です!」

 

 陰麗華は首を振る。

 

 「わたしに、危険が及ぶことはないでしょう。この城にいる者は皆、わたしが誰だか知っているから」

 

 勝手なことをしたと言って、文叔自身から咎められるかもしれないが。


 「陰貴人様、女たちとは違い、賊の幹部ですから、荒くれ者ばかりです。万一のことがあっては――」

 「警備の人はいるのでしょう? わたしは獄の外で待つわ。雪香だけではきっと、面会を許可してもらえないもの」


 周囲の反対を押し切り、陰麗華は雪香を連れて賊の幹部たちが捕らえられているという、獄に向かう。輿の横には鄧曄将軍が騎乗して従い、護衛の羽林騎がついた。


 獄を管理しているのは、偏将軍の馮公孫だった。


 「陰貴人様? どうなさったのです、このようなところに――」


 馮公孫は一瞬、驚いたように大きな目をさらに見開いたが、しかし、輿の脇に控える雪香を見て、事情を察したらしい。


 「雪香の、旦那様がいると聞きましたの。会わせてあげて欲しいのです。陛下のお叱りは、すべてわたくしが責任を――」

 「いえ――その、陳昌……と申すのですが、男の方が、面会を拒んでおりまして。自分にはもう、妻はいないと、その一点張りで」


 馮公孫将軍の言葉に、雪香が唇を噛む。


 「ですが、ここまで本人が参ったのでしたら、会わせてみましょう」


 陰麗華を獄の外の天幕で待たせ、馮公孫将軍は自ら雪香を連れて獄内へと向かう。不安そうに振り返った雪香に、陰麗華は微笑んで頷く。


 「行ってらっしゃい。大丈夫よ、待っているから」


 雪香と、付き添いの陸宣の後ろ姿を、陰麗華はじっと見送った。


 

 



 その夜、宿舎に戻ってきた文叔は、馮公孫将軍から報告を受けていたのだろう、勝手に獄に赴いた陰麗華に対し、不機嫌に言った。


 「麗華、今回はもう、仕方がない。だが、二度とこういうことは――」

 「申し訳ございません」


 床に膝をついて頭を下げる陰麗華に、文叔は溜息をつく。


 「先日の、女の捕虜の騒動は君は巻き込まれただけだが、今回は違う。君が僕の寵愛を笠に着て、好き勝手していると、批判する隙を与えることになる」

 「申し訳ございません」


 陰麗華も考えなかったわけではない。それでも、もしこの機会を逃せば、雪香は二度と夫に会えないのだ。そう思ったら、迷うことはなかった。


 「わたしが彼女の立場だと思ったら、居ても立ってもいられなくて――」


 目を伏せた陰麗華を見て、文叔も気まずそうに視線を逸らし、そして尋ねた。


 「雪香はどうしている?」

 「先ほどまではずっと泣いていました。小夏が側についているはずです」

 「……かえって、残酷なことになったのではないか」


 結局、雪香の夫、陳昌は投降を拒んだ。――明日には、処刑することになっている。


 「なぜ、陳昌殿はああまで頑なに――」


 陰麗華の問いに、文叔は言いにくそうに言った。


 「五校の賊の賊帥ぞくすい高扈こうこ、という男だが、この男が陳昌を見込んでね。娘婿にしていたんだ」


 陰麗華がハッとして顔を上げる。


 「だから、陳昌はただの幹部ではなくて、賊帥の後継候補だった。そういう理由で、特赦は無理なんだ」

 「でも――陳昌殿は妻はいない、と……」


 文叔は眉を顰め、言った。


 「陳昌の立場では、賊帥の婿にと言われて、断るのは無理だろうな。めっぽう数字に強くて、それで信頼されていたらしい。両親のために、そして騙されて妻を売った。その上、新たな妻を娶る羽目になった。陳昌が女を踏み台にして何とも思わない性格の男だったら、きっと平気で投降して、雪香の縁で僕の下に仕えようと言い出しただろう。でも陳昌はそんな恥知らずなことはできないと考えたんだろうな。……高扈の娘、新しい妻の方は戦闘が本格化する直前に流産して、それがもとで死んだらしい」


 陰麗華が息を呑む。「賊」もまた家族を率いて転戦する。戦乱を渡り歩く生活に、栄養状態も悪く、医者も薬もない。とりわけ妊婦には過酷な暮らしだ。命を落とす者も多い。


 「荒くれ者ばかりの五校の賊の中で、士大夫の陳昌は毛色が違う。彼がこの数か月、どんな思いで生きてきたか知らないが、騙されたとはいえ売ってしまった前の妻のことは、ずっと気にしていて、行方を捜していたようだ。……だから、雪香の夫だとわかったんだけどね。もしかしたら、雪香が雒陽の後宮に仕えていると知って、ならば自分はもう、死んでもいいと思ったのかもしれない」


 文叔の言葉に、陰麗華は膝の上の両手を握りしめる。 


 「雪香の話では……陳昌殿は、〈他の男の慰み者になっていた女など、汚らわしい、近寄るな〉と、雪香を見もしなかったと。……自分で売り払っておきながら、あんまりだと、小夏もカンカンで……」

 「その話は僕も聞いた。雪香が泣きながら出て行ったあと、馮公孫が陳昌を詰ったら、頭を床に擦りつけるようにして、言ったそうだ。――これで、自分のような男のことは忘れて、新しい人生を歩める、雪香のことを頼む、と」

 「そんな――でも、どうして――」


 陰麗華はただ、絶句する。雪香の夫は、わざと雪香に冷たい言葉をかけたと言うのか。

 混乱する陰麗華の顔を、文叔がじっと見つめる。


 「雪香の夫は、投降して命を長らえたところで罪人となる自分では、雪香を幸せにできないと思ったのかもしれない。それならば、雪香を突き放し、自分はこのまま死んだ方が雪香のためになると考えたのか。……想像だけれど、雪香の消息だけが気がかりで、生きるために新しい結婚を承諾したのかもしれない。でも結局、それは雪香への裏切りだ」


 そこまで言ってから、文叔は陰麗華を見て複雑そうな表情を見せる。


 「――まるで、どこかの誰かみたいだって、思ってる?」

 「ええ、わたしも、状況がそっくりで――だから、旦那様と会わせてあげたいと思ったのです。何とか、命を救うことはできませんか。わたしからもこの通りお願いを――」


 陰麗華が両手をついて頭を下げるのを、文叔は自分も床に膝をついて陰麗華を抱き起こす。


 「ギリギリまで説得は試みるよ。投降さえしてくれれば、無駄に命を奪わずにすむのに、頑固で困る……」


 文叔は陰麗華の背中を背後から支えるようにして、窓辺へ導く。透かし彫りのまどからは、夕暮れの光が差し込んで、二人の顔を赤く照らしていた。陰麗華の華奢な身体を背後から抱き込むようにして、文叔はその頭に顔を乗せる。


 「僕も、聖通と結婚しろと周囲に言われて……鄧仲華だけはね、最後まで聖通との結婚を、僕と一緒に反対したんだ。僕にはすでに妻がいる。それなのに新たな結婚を強要するのは、孔子の教えに背くって。あいつは潔癖だから、新しい結婚のために、落ち度のない妻を離縁するなんて、おかしいって。……でも、周囲の意見を覆すことはできなかった。生き残るためには、手段を選んでいる場合じゃない、皆、家族を犠牲にして僕に命と人生を賭けている。その僕が故郷の妻を理由にすることは許されないとね。……それで……」


 文叔はそこで言葉を切ると、深い溜息をついた。


 「聖通との結婚を了承したら、今度は仲華が強硬に、君に離縁状を送れと言い出した。〈二嫡無き〉は人の道だと。重婚の罪だけは犯すな、君の幸せを考えるなら、一刻も早く事情を説明して離縁し、解放してやるべきだと。――でも、どうしても、僕は君に離縁の書簡てがみを送ることができなかった。離縁してしまったら、二度と取り戻すことはできなくなる。だから、僕は書簡を出したフリをして、最後の最後の可能性にしがみついていたんだ」


 文叔の両腕に力が籠り、陰麗華が思わず眉を顰めるくらい、ギュッと抱きしめられる。


 「河北を転戦しながら、僕だって心のどこかで、君を解放するべきだってわかっていた。どんな理由があれ、僕は君を裏切ったし、その事実は覆らない。……でも、僕はどうしても、君を諦めることはできなかった。……たぶん、雪香の夫の方が、はるかにまともだ」


 文叔が、肺腑の底から深い深い息を絞り出すようにして、懺悔した。


 「すまない。――僕は君がいなければ生きていけない。僕の人生に君を巻き込み、君を縛りつけている。僕の側にいるために、君は故郷から引き離され、誇りを傷つけられている。君が、僕から逃れたい、故郷に帰りたいと思うのも当然だ」

 「……文叔さま」


 まどから差し込む光は次第に変化して、遥か遠い空は藍色が広がり始めていた。


 「僕が雪香の夫ほど潔ければ、君は今頃はもう、鄧少君のものになっていただろうな。その方が、きっと幸せになれた。あいつは脳筋で、要するに馬鹿だけど君を裏切ったりしない。口だけ男の僕と違って、全力で君を守り切っただろう。――僕だって、それはわかっているんだよ? でも、ダメだった。君が育陽の少君のいえにいると聞いて、嫉妬で気が狂うかと思った。君が少君を選んで雒陽に来るのを拒んだら、たとえ育陽を焼野原にしてでも、君を取り戻すつもりだった」

 「少君とは、何でもないわ!……ほんとうに……」


 必死で首を振る陰麗華に、文叔が喉の奥で少しだけ笑った。


 「わかってる。あいつはそういう奴だよ。君のことを愛し過ぎて、無理に奪うことができないうちに、僕に掻っ攫われた、間抜けな男。……きっと今頃、奴は怒り狂っているだろうな。――六月にね、郭聖通の立后を各地に知らせた。雒陽に表向き服従している地方政権から、祝いの上奏が来ているけれど、少君からは何もない」

 「そんなこと……」


 陰麗華は目を伏せる。

 陰麗華は、文叔の「妻」の座を降りるのは嫌だったけれど、「皇后」になりたかったわけではない。そして後宮で生きて行くしかない以上、子のない陰麗華が「皇后」の地位に立つのは極めて危険なことだと、陰麗華は趙夫人から教えられた。


 するべき忍耐と、しなくともいい忍耐。

 後宮では、駆け引きが必要だ。引くべきところは引いて譲り、自分の最も大切なものは守る。

 皇后位は、陰麗華にとってどうしても譲れないものではなかった、それだけのこと――。


 「少君も、内心わかってるわよ。わたしが皇后なんて柄じゃないってこと。……もともと向いてないし、相応しい人がなるべきなのよ」

 「そんなことはない。君は本当に芯の強い、そして優しい人だ。苦しむ人には救いの手を差し伸べようとする。けして、君が皇后に相応しくないなんてことはないよ。ただ――」


 文叔は陰麗華の顔を背後から覗き込むようにして、秀麗な顔に微笑を浮かべる。


 「君にはあくまで、僕だけのものでいて欲しい。〈天下の母〉だなんて、誰かと共有するみたいでいやだなって……」

 「文……」


 陰麗華が目を見開くままに、文叔の顔をが近づいて唇を塞がれる。しばらく口づけが続いた後で、文叔は陰麗華の耳元で言った。


 「僕はきっと、この天下で一番、身勝手でどうしようもない夫だ。でもお願いだから、側にいてくれ。それ以上は何も、望まないから――」


 夕暮れの空が夜に飲み込まれてもなお、二人はずっと寄り添っていた。


  




 翌日、偏将軍の馮公孫が陰麗華の元を訪れた。いつも飄々としている彼の顔色が蒼く、陰麗華は嫌な予感がした。


 馮公孫は陰麗華の座る牀の前に跪くと、突如、冠を外して叩頭した。


 「! 将軍?! いったい、どうなさったのです、頭を上げてください!」


 陰麗華が慌てるが、だが馮公孫は額を床に擦りつけるようにして言った。


 「私の失態です!……陳昌が、自害いたしました」

 「何だって?!」


 陰麗華が息を呑み、背後に控えていた鄧曄将軍が叫んだ。


 「陛下は陳昌を殺すつもりはなく、ギリギリまで投降を説得するように命じられておりました。しかし、昨夜、ちょっと目を離した隙に――」


 面目ないとひたすら恐縮する馮公孫将軍に、陰麗華はかける言葉が見つからない。


 「そんな……陛下は何と?」

 「はい、お叱りは蒙りましたが、勝手に死んだ者はどうしようもないと……」


 陰麗華もどうしていいかわからず、溜息をつく。馮公孫が懐から、男の遺品を取り出した。

 向き合った鳥の意匠が刺繍された、使い込まれた男物の帯。


 「首を吊っていたのですが、懐に大事に抱えておりました。……こちらに、〈雪〉という字が縫い取りされておりますでしょう。雪香の縫ったものではないかと」

 

 陰麗華その鳥の図案を見て、呟く。


 「〈信期しんき〉、だわ……」

 「〈信期〉?」


 背後から尋ねる鄧曄将軍に、陰麗華がその帯を撫でながら言う。


 「燕の一種で、毎年同じ時期に渡ってくる……必ず、約束通りに……という意味を込めた図案よ」

 

 陰麗華も婚約時代、同じ模様を帯に刺繍し、文叔に贈った。必ず、約束が成就するようにとの、願いを込めて。その帯を抱くようにして、雪香の夫は逝った。 


 「……残酷過ぎるわ……」


 陰麗華の溜息に、馮公孫もやるせない表情で頷く。


 「ほんの十年前まで、我々は漢二百年の安寧を謳歌しておりました。劉氏の支配が潰え、王氏の世になっても、繁栄は変わるところがないと思っていた。……それがどうです? 飢饉に、流民に、叛乱に……私だってね、まさか自分が鎧を着て、馬に乗って戦場に出ているなんて、想像もしていなかった。県の小役人になって、いずれは長安で出世したい、なんて思っていましたよ」


 馮公孫も両膝を床についたまま、陰麗華の手の中の帯を見ていた。


 「かつて、我々士大夫は、〈よりよく生き、節義を守るために死ぬ〉べきでした。しかし今、我々は〈なりふり構わず生き残る〉ために、節義を犠牲にせざるを得ない。節義を捨てれば、士大夫でなくなる。節義を捨て、生に縋りつく自分は醜く、耐えがたいものです。……陳昌は、妻を売り賊に心を売る泥塗れの生活に、耐えられなくなったのでしょう」


 馮公孫はそれだけ言うと、もう一度自身の不手際を深く詫びて、帰って行った。






 陳昌の死を、雪香に伝えないわけにはいかなかった。陰麗華は勇気を奮い起こして雪香を呼び出し、馮公孫の持ってきた遺品の帯を、跪く雪香の前に置いた。


 雪香は、真っ赤に泣きはらした目を見開いて、その使い古され、刺繍も毛羽だった帯を凝視する。


 「……どう、して――」


 絞り出すような声に、陰麗華は何も言えず、視線を逸らした。嗚咽を堪えるような、雪香の声に胸が痛くなる。やはり、見せるべきでなかった。後悔が陰麗華の胸に去来する。


 「これは……婚約が決まった後で、わたしが初めて贈った帯です」

 

 雪香の言葉に、陰麗華がぼんやりと思い出す。

 陰麗華も、文叔との婚約が決まった後、もらった金釵きんかんざしのお返しに、刺繍の帯の贈った。まだ刺繍の腕の未熟だった陰麗華が、それでも一針一針、心を込めて刺した帯。


 ――雪香夫妻もまた、そんな当たり前の夫婦だった。


 「どうして――」


 もう一度、雪香が呟く。

 陳昌はなぜ、頑なに死を望んだのか。――妻を裏切った自分を罰するという、節義のために死んだのか。


 「わたし、幸せになりたかった……子供のころからの許婚で……わたしもあの人が好きで……愛されてるって、思っていたのに――どうして……」


 帯を抱きしめて涙を流し続ける雪香が、どこか焦点の合わない目で、ポツリと呟いた。


 「……わたしも、幸せになりたかったのに……陰貴人様みたいに……」


 その微かな声を聞いたのは、陰麗華だけだった。

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