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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第十章 君の故 微かりせば
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傾国佳人

 六月に郭皇后を立てたものの、皇帝の寵愛は陰貴人一人の上にあった。すでに郭聖通は皇子を二人も産んでいる。そして陰貴人が子のある郭聖通に皇后位を譲ったという話は前朝にも広まって、陰貴人への同情も集まっていた。それもあって、陰貴人の寵愛独占への批判はやや下火になった。しかし、今度は寵愛を独占しながら懐妊の兆しがないことに、世間の批判が集まりつつあった。


 八月、皇帝・劉文叔は河北、魏郡内黄県へ、五校の賊の討伐に向かう。その陣中には当然のように、寵姫・陰貴人を伴った。以前の脩武への行幸は、大司馬呉子顔将軍らの慰撫と軍議を兼ねていて、戦場に臨む予定はもともとなかった。今回は賊が相手とはいえ、文叔自ら戦陣に立つことになる。


 「不安? 五校の賊は賊だけあって命知らずだけど、軍隊として統制が取り切れているわけじゃない。たまには僕も戦争をしておかないと、軍隊を任せている部下たちに示しがつかないからね。大丈夫だよ、たいした敵じゃない」


 馬車の中で不安そうに溜息を零す陰麗華の、膝を大きな手で撫でながら文叔が余裕たっぷりに笑う。


 「君も、南宮ばかりにいたら気が滅入るだろう。君に危険は及ばないようにするから、旅行気分でのんびりしたらいい」

 「戦争に行くのに旅行気分だなんて……! 陛下はすっかり感覚が麻痺していらっしゃるのよ」

 「二人っきりのときは文叔と呼んでくれと言っているだろう?」 

 「そんなこと仰っても、誰が聞いているかわかりません」 


 陰麗華がもう一つ溜息をついて、白い手で馬車の垂れ幕を少しだけ捲り、外を覗く。外から覗かれないように、薄く目の粗い布で目隠しがされている。この季節、閉めきった馬車の中はかなり暑い。陰麗華の足もとで寝そべっていたリュウがピクリと頭を上げる。二匹の仔狗は乳離れして、狗監こうかんのもとでの訓練を始め、同行していない。


 昨夜は山に近いかいの離宮で一泊し、これから街道を内黄に向かって進むことになる。だから馬車の左手には太行山脈の峻嶮な山並みがまだ、間近に見えた。

 

 ふと、山の樹々が白っぽいような、薄緑色に染まっていることに気づき、陰麗華が首を傾げる。


 「……あれは、何の花かしら。こんな季節に――」

 「君は本当に花が好きだねぇ」

 

 文叔もまた背後から覗き込み、だがあまり興味もなさそうに言う。


 「だって、山中、花で覆われているなんてすごいわ。でも何の花かしら」

 

 文叔は車を止めると近侍を呼んだ。やってきたのは陰君陵ではなく、郭長卿であった。


 「お呼びですか?」

 「あの花、珍しいから近くで見たい。取ってきてくれ」

 「……花ですか?あの、黄緑の?」

 「陛下、わたしは別に……」


 だが郭長卿は素直な性格で、姉に皇后位を譲った陰麗華に好感を抱いているらしく、にっこり微笑んで言った。


 「構いません、ずっと馬車の中では退屈ですもんね。すぐに取ってまいります」


 だが、郭長卿は微妙な表情で戻ってきた。


 「それが……花ではなくて……その……女性に見せていいものかどうか……」

 

 おずおずと差し出したそれは、黄緑色の繭であった。


 「……これが、山一杯で……大発生なんですかね?」

 

 いかにも気味悪そうに眉を顰める郭長卿だったが、陰麗華はそれをまじまじと見て、思い出す。これは――。


 「文叔さま、これ! 野蚕やさんです! すごいわ、あの山一杯に?」

 「野蚕?」

 「ええ、子供の時、新野の近くの山でもありました。これから絹が取れます! 育てる蚕とは少し風合いが違いますけど、素敵な布が織れるんです!」

 「……絹?」


 考えたこともないという表情で、文叔が黄緑の繭を見て、大きな目を見開く。


 「あんなにあるのに放っておくなんてもったいないです! 今すぐにでも取りに行きたいくらい!」

 「……それは、里の女なら絹が作れるのか?」

 「蚕を飼っている家なら、誰でもできると思いますが……」


 文叔は郭長卿と陰君陵に命じ、近隣の里から人を集め、野蚕の繭を集めさせ、その収益は各自のものとしてもよいことにした。


 『後漢書』光武帝紀の建武二年の条は以下のように記している。


 初め、王莽の末、天下旱蝗し、黄金一斤もて粟一斛ぞくいっこくう。ここに至りて野穀旅生し、麻尗ましゅく尤も盛んにして、野蚕繭を成して、山阜をおおい、人びと其の利を収む。


 王莽の末年には旱魃かんばつと蝗害で深刻な飢饉に陥り、穀物の価格が上昇したが、建武二年には栽培していない穀物が勝手に実り、麻の実と豆が最も多く、さらに野蚕が山を覆うほど繭をつけて、人々はそこから利益を得ることができた、と――。

 

 


 



 内黄の城では、魏郡太守行大将軍事の銚次況ちょうじきょうが出迎えた。身の丈八尺二寸(約一八九センチ)と言えば、当時としては見上げるほどの長身である。


 「わざわざ陛下のご足労を願い、恐縮です」


 魏郡の郡中は五校の賊だけでなく檀郷にも悩まされていた。なかなか郡内を平定できないことを、太守として恥じているらしく、銚次況将軍は大きな体を直角に曲げて頭を下げる。その大きな肩を、文叔がポンポンと叩いて労う。


 「いや、気にするな。たまには私も戦場に出ないと、感覚が鈍ってしまうから」


 続いて馬車を降りた陰麗華を、銚次況は切れ長の目を一瞬開いて、だが表情を変えずにうやうやしく出迎える。


 「長旅ご苦労様でございます」


 銚次況は潁川の出身で、陰麗華が文叔の正妻であったことも知り、かつ河北で郭聖通と結婚するに至る事情も知っているので、寵姫として文叔に従う陰麗華に対し、思うところがあるらしかったが、口に出しては何も言わなかった。


 普段、陰麗華は却非殿で忙しく文書を扱ったり、群臣と協議しているらしい文叔の姿しか知らないから、凛々しく武装した文叔は頼もしくも、また少しばかり恐ろしくも感じる。何より、彼の率いる漢軍の威容に陰麗華はただただかしこまるばかりであった。脩武への行幸とは桁違いの軍団の数、青い空に翻る、深紅の漢軍の旗幟きし。文叔が馬に乗り、片手を上げて兵士たちに応えれば、大地を揺るがすほどの、怒号のような歓呼の声が響き渡った。


 「大漢皇帝万歳!」

 「万歳、万歳、万々歳!」


 漢の赤い旗と、将兵たちの赤い斗篷マントが河北の風にはためく。金属鎧と兜、そして兵士たちの槍の穂先が太陽の光を弾いて眩いほど輝き、輜重しちょうは終わりが見えないほど続く。


 内黄の城門の上から出征する文叔の軍団を見送り、陰麗華は天に祈った。


 無事で――ただ、無事で戻ってきてくれたら――。





 五校の賊の討伐自体はあっさりと終わった。やはり雒陽から皇帝が自ら出てくる、というのは敵に対してもかなりの威圧になるらしく、賊の多くは戦意を喪失して文叔の軍門に下ったのである。


 内黄の城に戻ってきた文叔を、陰麗華はホッとした気持ちで出迎える。


 「ご無事で何よりです」

 「心配はいらないと言ったのに。……まあでも、戦争は準備と後始末が大変なんだよね」


 五校の賊に囚われていた民を故郷に帰し、彼らが元の暮らしに戻れるよう、手を打たねばならない。戦利品の分配、五校の賊の幹部に対する処遇の決定など、戦が終わっても文叔仕事は終わらない。日の出とともに戎装を整えて出かけていき、夕刻、汗まみれで戻ってくる。文叔の着替えを手伝い、汗ばんだ背中を熱いお湯を絞った手巾でかいがいしく拭いて、陰麗華もかつての新婚の日々を思い出し、少しだけ心が軽かった。


 昼間何もすることのない陰麗華を気遣い、魏郡太守である銚次況将軍の妻と母親が軍旅中ではあるが、娯楽に誘ってきた。


 「旅芸人の劇だとか……」

 「行ってきたらいいじゃないか。君も退屈だろう」


 遠慮するべきかと躊躇う陰麗華に、文叔が気軽に言う。


 「芸人もこんな時代は商売あがったりで、ずいぶん苦しい暮らしを強いられている。彼らに金を落としてやるのも、上に立つ者の仕事の一つだよ」


 祝儀として渡す布なども携えて、陰麗華は小夏と于曄、護衛の鄧曄将軍とともに、銚将軍の臨時の宿舎に向かう。出迎えた銚将軍の母は五十がらみの白髪の老婦人、妻は陰麗華よりも数歳年上と見えた。


 「よくお越しくださいました。んまあ、噂通りお美しい方」


 太夫人に導かれて上席に案内され、挨拶を交わす。この手の社交も本来ならば()の仕事であるが、これまで陰麗華は免れてきたのだなと、改めて思う。

 招かれた一座は、平和な時代には河北一帯でかなりの人気を博した有名一座であったが、相次ぐ戦乱で男手を奪われ、また祭なども途絶えて収入の道を失い、今は亡き座長の妻を頭に、まだ若いその娘と弟、古くから一座の車引きをしていた、やや頭の足りない下男と数匹の狗で、細々と旅を続けているのだと言う。


 「本日は久しぶりのお客様で……」


 かなりくたびれた衣裳で丁寧に頭を下げる未亡人を見て、陰麗華は断らなくて本当に良かったと思う。昔は何人もの役者を揃え、荒事のある劇で名を馳せたというが、今は歌と踊り、力自慢の下男と狗の曲芸が精いっぱいだと、未亡人が儚く笑う。しかし、下男と狗たちの芸はユーモラスで満座の笑いを誘い、母親の弾くちく(*1)の伴奏に合わせた姉娘の歌と踊りは、哀愁に溢れていた。


 

 北方に佳人有り

 絶世にして独り立つ

 一たび顧みれば人の城を傾け

 再たび顧みれば人の国を傾く

 いずくんぞ知らず 傾城と傾国とを

 佳人 再びは得難し


 

 舞うごとに翻る、長く垂らした白い舞の袖。艶やかな筑の音色と憂いを帯びた調べに、陰麗華は少しだけ、時を忘れた。




 


 銚将軍らの宿舎と陰麗華らの宿舎は、歩いてもほんのちょっとの距離だが、皇帝の寵姫ともなれば徒歩での移動など許されない。田舎育ちの陰麗華は大げさなと思うが、僅かの距離でも馬車か輿に載らねばならないらしい。陰麗華は人が担ぐ輿というのが、とても申し訳なくて、まだ馬に引かせる馬車の方が気が楽であった。護衛の羽林騎に守られたご大層な行列であったが、しかし途中で、薄汚い女たちの集団に取り囲まれ、動けなくなってしまった。


 「下がれ! この馬車は畏れ多くも皇帝陛下の陰貴人様がお乗りだ! 下がらんか!」

 「あたしたちは故郷に帰りたいんだよ!」

 「貴人様だか佳人様だか知らないけど、皇帝の女なら何とかしてよ!」


 羽林騎が槍を振るって追い払おうとするが、女たちも気が立っていて、一触即発の緊張が高まる。


 「何事なの?」


 陰麗華が垂れ幕を少し上げると、馬に乗った鄧曄将軍が、馬車のすぐ横で警戒を強めながら早口に言う。


 「五校の賊から救出された女たちが、行き場がないから何とかしろと官舎に押しかけて、たまたま身分ありげな行列を見かけたからって、こっちに直訴することにして突撃してきたみたい」

 「……直訴って……」


 そもそも一口に故郷に帰りたいと言うけれど、おそらく様々な地方から攫われたり売られたりしてきた女たちを、それぞれの故郷に戻すのは簡単なことではない。皇帝の女だからって、陰麗華には何の権力もないのだから、何かできようはずはなかった。

 それでも、放っておけば武器を持たない女たちに、羽林騎が乱暴を働くかもしれない。それは避けなければならないと、陰麗華は考えた。


 「馬車を降りるわ」

 「陰貴人様!それはやめた方が……」

 「お嬢様、あの女たちみんな、カリカリしてるんですよ! 何を仕出かすか……」

 「でも、道を塞がれたままで宿舎に帰れないでしょ? 話を聞いて、陛下にお伝えはすると、言うしかないんじゃないかしら」


 陰麗華は鄧曄将軍に伝えて羽林騎の隊長の指示を出し、馬車ごと列の先頭へと進ませる。垂れ幕を開け、鄧曄将軍と于曄に助けられて馬車を降り立ち、女たちに対峙した。


 赤い刺繍の襟のついた白地に草花文様の曲裾深衣に、薄水色の透ける褶衣うちかけ。陰麗華の装いはけして華美ではないが、しかし、泥と汗に汚れた女たちの中では、掃きだめに鶴が降り立ったように鮮やかであった。


 「……わたくしにさしたる力はございませんが、いったい、どのような要求を陛下にお伝えすればよろしいのでしょう?」


 静かに問いかければ、先頭に立って羽林騎とやり合っていた大柄な女が、一瞬怯んだように見えたが、すぐに大声で言った。


 「あたしたちは故郷に帰りたいんだ。もう三日もここに閉じ込められて、食い物だって満足に来ない。こんなことなら五校の賊に囚われていた方がマシだ。あんた、皇帝の女なら何とかしておくれよ!」

 「貴人様に向かって、なんて口のきき方だ!」


 羽林騎の隊長が怒るのを陰麗華が手を挙げて宥めてから、代表らしき女に向き直る。


 「食事の件は陛下にも申し上げておきます。……今、陛下は五校の賊の幹部の処罰や、逃亡者を確保することから優先的に行っていて、あなた方にまで手は回っていなくて、ご不自由をかけているかもしれません。故郷と言われましても、でも、皆さん、それぞれ別の場所なのでしょう?」

 「あたしは河北の鉅鹿だよ!」

 「あたしは魏郡だけのハズレの県で……」

 「あたしは信都郡!」

 「あたしは――」


 口々に言い始める女たちに、陰麗華が両手を上げ、言った。


 「ではそれぞれ、同じ郡ごとに集まって、どこの県かわかるようにできませんか? そうすれば陛下や、魏郡太守の銚将軍が皆さんを故郷に帰す時、早く円滑に進めることができます。食料を分配する時も郡県単位で数が分かりやすいし、揉め事も減るかもしれません」


 陰麗華がその場で指示を出し、まず地元に近い魏郡の者、趙国出身の者、河内郡の者、……という風に郡ごとに振り分け、それぞれ責任者を一人決めて順次下がらせていく。


 「責任者の人は自分の郡の人数を憶えておいてくださいね? えーと次は鉅鹿郡の方は……」


 こうして郡ごとに振り分けていくと、だいたい大きいもので十五人ほど、少ない場合は三人ほどのグループが出来上がるので、陰麗華は少数のグループは隣の郡にくっつけたりして、二十人以下のグループに纏めていく。もちろんこんな交通整理が陰麗華一人でできるわけはなく、主に声を張り上げて指示を飛ばすのは鄧曄将軍の仕事であった。こうして半刻ほどかけてグループ分けをして、陰麗華はそれぞれの責任者に対して約束をした。


 「食事については満足な量が行きわたるか、わたくしからは確約はできませんが、不公平のなく皆さんに届くように、陛下にお願いいたします。それから、魏郡の、特に内黄県に近い地域の方は、周辺の後始末が終われば故郷に戻ることができるのではないかと思います。なるべく早く故郷に帰れるよう、郡太守の銚将軍にも掛け合ってみましょう。他の方々も、それぞれ次の指示が出るのを、割り当てられた場所でお待ちください」


 陰麗華が手を叩くと、女たちはそれぞれのグループの責任者に従い、ぞろぞろと元の場所へと帰り始める。陰麗華は羽林騎の者たちにも礼を言い、ようやく帰路に就くことができた。


 



 そんなわけで、陰麗華が宿舎に戻った時には、すでに予定の時刻を大幅に過ぎていて、文叔の方が先に帰りつき、まだ戻らない陰麗華を迎えに行くと息巻くのを、耿伯昭将軍に留められているところであった。


 「陛下!……ただ今戻りました」

 「麗華! どうしたの! 今、銚次況のところに迎えに行こうかと思っていた!」

 「申し訳ありません、ちょっと……」


 陰麗華が事情を説明すると、文叔も、側にいた耿伯昭も絶句する。


 「そんな危険な……でもよく指示を聞いてくれたね?」

 「そうです。女とはいえ、万一、暴動でも起きていたら……」


 だが陰麗華は困ったように微笑み、いかにも豪族の娘らしく言った。


 「人間、特に指示もなく放っておかれるのが、一番、不安になるんですよ。故郷くにで、下戸こさくにんの女を集めて何か作業をするとき、ああやって組み分けして、責任者を決めていました。そうすると、指示が行き渡るんです。皆さん、大人しく戻ってくださいましたよ?――ただ、食料の分配が上手くいっていないようで、その辺りはわたしではどうにも……」

 「わかった、そこから先は僕が上手くやるよ。……伯昭、銚次況将軍に指示を出しておいてくれ」

 「承知いたしました」


 銚次況将軍の元に向かう耿伯昭を見送り、文叔は陰麗華の腰に腕を回し、奥へと入る。


 「……まだ、お着換えもなさっていなかったのですね。申し訳ありません」

 「君が心配で、着換えどころではなかった」

 「……そう言えば、なぜ、彼女たちは女性ばかりだったのです?」


 陰麗華の問いに、文叔が笑った。


 「男女は別にしているよ。いろいろと厄介が発生するし。男の方は暴動が起ると危険だと、注意していたけど、女は大人しいものだと思って、監視が緩かったのだろう。――君に何事もなくてよかった」


 文叔がホッとしたように言い、陰麗華の頬に口づけた。


 




 翌日の昼間、明るい場所で文叔の絮衣を縫っている陰麗華の部屋の外から、ざわざわとした言い争いの声が聞こえた。誰かを陸宣が必死に止めている声だ。足もとの柳がグルグルと吼えながら立ち上がる。


 「何事かしら」

 

 于曄が立っていって戸を開けようとすると、バタン、とすごい勢いで開かれて、于曄を突き飛ばすように雪香が走り込んできた。


 「ウウー、ガウッ!」

 「何事か! 控えよ!」


 即座に背後にいた鄧曄将軍が走り出て、陰麗華を守るように立つ。


 「お待ちなさい、雪香どの! 陰貴人様の御前でございますぞ!」


 陸宣が必死に止めようと追いすがるが、雪香の方が足が速い。


 「お願いでございます! 陰貴人様! ……夫の、命乞いをっ……お助け下さいませ!」


 走ってきた雪香が陰麗華の前で身を投げ出し、頭を床に擦り付ける。


 「いったい、どうしたと言うの。……雪香? 内黄で、親戚の元に戻るのだとばかり……」


 陰麗華が茫然と雪香を見下ろす。


 例の、脩武で奴隷商から助けた雪香は、故郷が内黄県ということもあり、陰麗華付きとして行幸に同行し、故郷に戻すという話であった。――文叔は、攫われたり売られたりした者たちも、可能な限り故郷に返したいと考えていたからだ。


 「旦那さんが、見つかったの?」

 

 陰麗華の問いに、雪香が涙で潤んだ顔を上げる。


 「はい、でも――夫は、苦役をさせられていると思っていましたが、読み書きができたので、賊の頭に気に入られて、幹部の一人になっていたんです。それで、投降を拒んだ他の幹部とともに、明日にでも斬首されると――。お願いでございます! 陛下にお口添えを! 陰貴人様! 夫は攫われただけなんです! お願いです!」


 陰麗華の血の気が一気に引き、手にした針を取り落とした。


 



北方有佳人

絶世而独立

一顧傾人城

再顧傾人国

寧不知傾城与傾国

佳人難再得

  ――漢・李延年



映画『十面埋伏』(邦題:LOVERS)でチャン・ツーイーが歌いながら舞う場面が有名ですが、この曲と主題歌の「LOVERS」(キャスリーン・バトルが歌っているやつ)って、メロディーライン(?)というか、基本的なフシの流れ?が同じだと、最近気づいた(汗)


(*1)

筑:古代の楽器。弦楽器で、箏のような形態で、竹の撥で弾いて音を出した。

ちなみに、箏→琴柱がある(日本の十三弦はこのタイプ)、琴→琴柱がない

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