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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第九章 鴛鴦は梁に在り
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不敢当

 再び沈みがちになった陰麗華に、数日後、趙夫人が突然問いかける。


 「生きて行くってどういうことだと思う、陰麗華ちゃん」


 陰麗華は縫いかけの絮衣から顔を上げて、ぽかんと趙夫人を見た。趙夫人も息子の帯だと言って、持参した縫いかけの刺繍に針を運んでいる。


 「ええっと……どういうことでしょう」


 趙夫人が望む答えが想像もできず、陰麗華が首を傾げる。


 「あたくしね、ホラ、あのアホ亭主のおかげでしなくてもいい苦労をたっくさん、させられたでしょ? まあ、亭主のおかげで本来なら着られるはずもない、豪華な着物なんかも着られたわけだけど。……でも関中から武関に抜けるまでの道中はキツかったわ。末っ子がドンドン弱っていってね。このままじゃいけないってわかっているけど、休んでいる暇はなかった。赤眉の残党があたくしたちを追って来ていたからね。末っ子を援けるにはどこかで止まって、回復を待つしかないけど、そんなことしたら全員捕まって、間違いなく子供たちは皆殺しにされちゃう。……結局あたくしはね、他の三人のために、あの子を犠牲にしたのね……」


 しみじみ言う趙夫人に、陰麗華は息を飲んで言葉もない。――そう、けして無傷では、命を拾うことはできなかったのだ。


 「……末っ子が死んだときに、あたくし思ったの。生きるってのは……要するに死なないことよ」


 そう言うと趙夫人は顔を上げ、陰麗華を見る。口元にはいつもの、余裕のある微笑みが浮いていたが、それは心からのものではなく、訓練で培われた笑みだと、陰麗華は気づいた。


 「自分が死んでも子供が助かるならって、母親なら誰でも思うわ。でも、死んだら終わりよ。次に大きな危機が来た時、誰が子供を守ってくれるの。父親なんて当てにならないって、あたくし、ホント、骨身に沁みたわ。あいつらは、いざって時にはあっさり、子供を棄てて自分だけ逃げるのよ」

 「それは……そうかもしれませんが……わたしは……」


 すでにもう、守るべき子供もいないのだと、俯いた陰麗華を趙夫人が叱咤する。


 「あなたまだ二十歳を過ぎたところじゃない! この先一人も産まないつもり? 子供なんてね、もういらないと思ってもできるものなのよ。いつまでもうじうじして、将来、あなたが生むべき子供の命まで食い潰すつもりなの?」

 

 将来産むべき子供、と言われて陰麗華がはっと顔を上げる。


 「それは――う、生まれるとは限りませんし……わたし、もう……」

 「精一杯自分の人生を生き抜いて、その上で子供がいないならそれはそれでしょ。それこそ天の思し召し。でもあなたはうじうじしてるだけじゃない! ……そりゃ、結婚した男が正直ハズレだったのは否定しないわ。重婚した挙句、勝手に皇帝になって迎えにくるって、あたくしのあのクソ亭主とどっちこっちのひどさよ? でも結婚しちゃったものはしょうがないでしょ? 若気の至りだろうが何だろうが、今更なかったことにはできないの。人生ってのは、今ある駒をつかって、賽の目に賭けて生きていくしかないの。そう、死なない限りは生きていかなきゃならないの。つまり、死なないってことよ」


 趙夫人が銀色に光る針をチラチラ動かしながら言う。


 「あなたの状況が、理不尽だってのはしょうがないの。慣れない場所で戸惑うのも当然よ。……でも、戸惑う時間はもう、終わりになさい。いい加減、前を向くべき時にいると、あたくし言ったわよね?」

 「で、でも……どうしていいか、わからなくて……」


 陰麗華は俯いて、左手の薬指の指環を見下ろす。趙夫人の声が、陰麗華の耳朶を打った。


 「まず物理的に前をお向きなさい。下ばっかり向いてないの! ホラ、背筋を伸ばしてシャンとして!」


 びくっとして顔をあげ、姿勢を正した陰麗華の顔を、趙夫人はまっすぐに見つめる。


 「……あなた、今のままじゃあの女に負けっぱなしよ? それでもいいの?」

 「あ、あの女? ま、負けるも何も……その……最初から勝ち目は……」


 厳しさを孕んだ趙夫人の視線が痛くて、陰麗華は目を逸らし、忙しく視線を彷徨わせる。血筋も身分も敵わず、そして子供も満足に産めない自分は、ついこの前ものこのこ出て行って彼女の運命について教えられ、心を打ち砕かれたばかりではないか。


 「あなた悔しくないの? 真定王の姪だかなんだか知らないけど、綺麗ごとで誤魔化してるだけで、要するに妻のいる男に言い寄って、伯父の権力で奪い取った泥棒猫じゃないの。そんな女に正妻ヅラされて、まるであなたの方がぽっと出の愛人みたいな扱い。何とも思わないの? 陰家の兄弟は美貌の妹の寵愛を利用して、皇帝に取り入っているなんて言われて、悔しくないの?」

 「それは――」


 陰麗華が胸を押える。

 悔しくないわけはない。もともと文叔から望まれた結婚だ。郡大夫の横槍と戦乱で婚儀もままならず、ようやく結婚したら引き裂かれて――陰麗華がどれほど傷ついたか。先に婚礼を挙げていたことさえ公表されず、新参の寵姫として扱われることに、陰家のプライドがどれほど踏みにじられているか。

  

 「でも、今のままじゃ、あなた負け犬のままよ。陰麗華が劉文叔の最初の妻だったことも、陰家の屈辱も、青史には一言も触れられずに終わるのよ。……皇帝・劉文叔が戦場にも連れまわしたただの寵姫。せいぜいが、虞美人ってところねぇ。そんなんでいいの?」

 「それは……」

 「いいこと、陰麗華ちゃん。悔しいと自覚して、いつか跳ね返してやろうとする忍耐と、ただ漫然と耐えるのとは、全然違っていてよ? ちゃんと周囲を見て、するべき忍耐を敢えて忍んでいる? 何でもかんでも我慢していると、しなくてもいい我慢までさせられるわよ?」

 「えっ……?」


 陰麗華は意表を衝かれて目を見開く。するべき忍耐と、しなくてもいい忍耐?


 首を傾げる陰麗華に、趙夫人はなおも言う。


 「夫が他の女と子供を作って、正妻の座を奪われてしまった。……これは辛いわ。でも、離縁もできない以上、どうしようもない。辛いけど、今は我慢するしかない。――()()、ね。 これは、するべき忍耐ね。あなたが暴れたってどうにもならないんだから」

 

 陰麗華は渋々頷く。郭聖通の部屋で子供を見せつけられて胸が締め付けられたけれど、以前、皇子の彊を突然、見せられた時よりは、覚悟もあったのでまだマシだった。


 「でも、相手の女が正式な皇后に立てられないのは、あなたが裏で陛下に我儘を言っているせいだ、ってのは、少なくとも事実無根でしょ? それをも我慢することはないわ」

 「それは――でも、どうしたら……」


 陰麗華は下を向き、もう癖のように左手の指環を見る。正妻でもなくなった上に、謂われない誹謗中傷を受けるのは、あまりにひどすぎる。


 「これは要するに、陛下が郭貴人の立后を渋っているからよ。あなたに遠慮している、あなたとの仲が決定的に壊れて、南陽に帰ると言い出すのが怖いのね」

 「……南陽に帰るのは、もう、諦めてはいるのですが……」

 

 そうして、陰麗華ははっとして顔を上げる。


 「もしかして、わたしが文叔さまに、皇后になれなくても気にしません、拗ねて南陽に帰ったりはしません、って言えばいいのかしら……」

 

 期待を込めて趙夫人を見れば、しかし趙夫人は首を振った。


 「それではダメよ。……わたしのためを思うなら、郭貴人を皇后にしてください、と陛下にお願いなさい。それもできる限り大仰に、簪を外して髪をざんばらにして、泣きながら土下座して言えばさらにいいわ」 

 「え……それは……」

 「あ、しんしつで二人っきりとかじゃダメよ?……そうね、陛下が朱仲先将軍や耿伯昭将軍辺りをひきつれている時に突撃して、衆人環視の場でおやんなさい。陰貴人はその身を擲って郭貴人の立后を陛下にお願いした、ていう証言が必要なの」


 陰麗華はぎょっとして、大きな黒い瞳を瞬く。

 

 「でもそれでは……」

 「大事なことよ。皇后になれなかったんじゃないの。自らその地位を()()して、天下国家のために相応しい相手に譲った、その()()が必要なのよ。……あ、言っておくけど、これはとにかく数日内のうちにやらないと効果がないわ。郭貴人の立后はそれだけ差し迫った課題で、おそらく、毎日のように陛下は群臣から訴えられて、それを拒否し続けている。……もしここで、陛下が自分の意志を押し切って、あなたを皇后に立ててしまったら、どうなると思う?」

 「ど、ど、ど、どうって……世論の批判がわたしに集中?」

 「甘いわねぇ、陰麗華ちゃんたら……」


 甘いと言われ、陰麗華が落ち着かなく視線を彷徨わせる。ふと、目に留まった狗の柳は、日当たりのいい場所に寝転がり、暢気に欠伸をした。


 「ど、どうなります?」


 陰麗華が尋ねれば、趙夫人は首を傾げる。


 「昔――宣帝陛下が民間から皇帝位に上ったのは知っているわよね?」

 

 陰麗華は頷いた。宣帝は武帝の曾孫で戻太子れいたいしの孫だが、生後まもなく、祖父の太子が謀反の冤罪をかけられて一族が皆殺しにされ、ただ一人命を拾った。その後は民間でひっそり暮らしていたが、武帝の後を継いだ昭帝が死んで、後継者として迎えられ、即位した。


 「その時、宣帝陛下には民間で結婚した妻がいたのよ。時の権臣、霍光かくこうは、自分の娘を皇后にしたいと思い、群臣もそれを支持した。でも宣帝陛下は自分の意志を押し通し、妻を皇后にした。――結果、どうなったか知っていて?」

 

 陰麗華は記憶をたどり、思い出す。宣帝の最初の皇后、許氏は――。


 「――毒殺!」


 趙夫人は頷く。


 「邪魔者は消されるの。それが後宮のやり口よ。――このまま、陛下があなたを無理に皇后に立てたら、きっと許皇后の二の舞ね」


 はっきりと断言されて、陰麗華は震えあがる。


 「で、で、でも! 宣帝陛下は即位の最初は霍光に権力を握られていて、何もできなかったと聞いております。自力で皇帝になった文叔さまは違うのでは……」

 「政治のすべてを霍光にお任せだった宣帝にも毒殺を防げなかったのに、毎日忙しい陛下に、あなたを守る暇があると思ってるの? 臘祭の時だって、結局頼りにならなかったでしょ。自分の命を守る算段くらい、自分でも考えなさい! 甘えないの!」


 趙夫人に叱責され、陰麗華も覚悟を決める。


 死が怖いとも少し違う。妾として生きるくらいなら、死んだほうがマシだという気もする。でも――。


 陰麗華を皇后にするのが文叔の愛なのかもしれないが、それは歓迎もされず、何より陰麗華の命を縮めてしまう。文叔にそんな愚挙を犯させるわけにはいかないのだ。


 





 実は、この決断はタイミング的にはギリギリであった。趙夫人の説得が一日遅れていれば、陰麗華は何の心の準備もなく、流されるままに次の事態に飲み込まれていたに違いない。


 その日の午後、裏庭で狗たちを撫でながら、文叔に訴えかける言葉とタイミングを一人、ブツブツと考えていた陰麗華は、珍しくワンワンと表に向かって吼えるリュウの声に、はっと我に返る。


 表の、堂が妙に騒然としている。


 「リュウ、どうしたの。吼えてはだめよ」


 陰麗華が柳の首輪に手をかけて撫でてやり、立ち上がって建物の中に入ると、陰麗華を探しにきた小夏と鉢合わせする。


 「お嬢様、陛下がっ!」

 「文叔さまが?……こんな時間に?」


 昼間、できうる限りびっちりと仕事を詰め込んでいる文叔が、陽のあるうちに帰ってくるのは滅多になかった。――何か、胸騒ぎがして、陰麗華はまっすぐに堂に進む。そして、その場にいるのは文叔だけではないことに気づいて、思わず足を止めた。

 朱仲先と耿伯昭、衛尉の李次元に、太傅たいふの卓子康、侍中の傅子衛、偏将軍の馮公孫に祭弟孫、そして陰麗華が初めて見る、四十がらみの男(*1)。文叔の後ろには遠慮がちに控える、黄門侍郎の陰君陵と、郭聖通の弟・郭長卿。


 明らかにただ事ではない雰囲気に、陰麗華は周囲を見回す。陰麗華の堂の入口には、まるで陰麗華を守るように、鄧曄将軍と于匡将軍が武装したまま立っていた。


 「陰貴人様、陛下のおなりでございます」


 陸宣が仰々しく両膝をついて頭を下げる。


 それは見ればわかります、そうじゃなくて――。


 何事が起きているのか、教えて欲しいのだけど。


 そう思いながら、陰麗華もまた、文叔に向かい拱手して、無言で頭を下げた。――何か言うべきかもしれないが、突然のことで頭が回らない。


 「麗華、頭を上げてくれ。……ぼ……いや、その……コホン」


 文叔が僕、と言いかけて、慌てて咳払いして誤魔化す。それから大きく息を吸って言った。

 

 「……私は陰貴人を皇后にしたいと考えている! 陰貴人は南陽の名家の出で家柄もよく、またその人柄も皇后に相応しい。故に関係官吏は即座に冊立の手続きに入り――」


 陰麗華はポカンと口を開けて何やら滔々と述べている文叔の顔を眺めるが、言っている内容は半分も頭に入ってこない。文叔の背後に立つ群臣の表情を眺めれば、これが歓迎された帰結でないことは、特に耿伯昭と名前を知らない官僚の、苦虫を嚙み潰したような表情から窺い知れた。


 (――え、……皇后って……え、ちょっとまって、わたしを皇后にするってこと?) 

 「……以上、陰貴人は私の意を汲み、皇后として私を支えることに同意して欲しい」


 長い言葉をほとんど一息に言い切った文叔が、どうだ、と言わんばかりに背後の群臣を振り向いて睨みつける。


 「……陰貴人様、跪いて答礼を」


 最も老齢の太傅・卓子康が小声で言い、陰麗華は弾かれたように両膝をついて、次の瞬間にこれは非常にまずいことになったと思う。


 (このままでは、許皇后の二の舞一直線――とにかく、ここは断らないと!)


 「不敢当めっそうもございません!」


 陰麗華の口から出た言葉に、取り囲んでいた人々がぎょっとする。

 

 「え……麗華?……」


 断られると思っていなかったらしい文叔の、呆然とした表情を見て、むしろ陰麗華は落ち着きを取り戻した。


 (そうよ、かんざし! 簪類は外さないと!)


 陰麗華がその場で金釵や漆塗りの笄を抜き取ると、そのたびに綺麗に結い上げた黒髪がバサリバサリと崩れ落ちて肩を滑って床にまで届く。


 「お、お嬢様?」


 背後で小夏が焦った声を上げるが、陰麗華は構わず髪を解いてしまうと、両手をついて深く深く頭を下げた。


 「……わたくしのような者に、天下の母たる皇后の位など、とんでもないことでございます! わたくしは子もおりませんし、陛下の大業を援ける徳も力も欠けてございます。陛下がわたくしのような者にお心をお留め下さることには感謝の言葉しかございません。しかし――」


 陰麗華は必死に、さきほど考えていた言葉を思い出す。――断るだけじゃダメ。郭貴人を皇后にと、泣いてお願いしないと。でも、こんな状況で嘘泣きなんて無理――。


 「陛下のご厚情はただただもったいなく、ありがたく……ですが……わたくしのような非才では、とても皇后の重責にえません。憐れに思し召されるなら、どうか陛下のお子を上げられました郭貴人様をこそ、尊位にお付け遊ばすべきと存じます」


 正妻だったはずの自分が、裏切った夫に向かって膝をついて頭を下げ、夫の子を産んだ女を正妻にしてください、と頼まねばならないとは、何と言う皮肉だろうか。あまりの理不尽さに、陰麗華は急に涙がこみあげてきて、ポロポロと泣きながら文叔に懇願する。その様子は、それが趙夫人の入れ知恵であると知らない群臣たちに、非常な衝撃をもたらした。


 もともと陰麗華が文叔と正式に結婚していたことを知る者は、彼女自身の口から辞退の言質を取ったことに安堵すると同時に、朱仲先は罪悪感で陰麗華の顔を見ることができず、下を向いていた。耿伯昭は陰貴人冊立反対の急先鋒ではあったが、陰貴人自身をここまで追い込む前に、何とかできなかったのかと、やりきれなさで顔を歪めた。

 周囲も認める正妻で、皇子を二人も産んでいる郭貴人を差し置いて、子のない陰貴人の冊立など認められるわけはなかった。陰貴人が寵愛を独占している今、もし彼女に男児が生まれれば、皇帝は必ず、陰貴人の子を跡継ぎにと言い出すと予想され、そうなったら郭貴人を支持する河北勢と、陰貴人を支持する南陽勢とで家中が二つに割れるのは間違いなかった。争いの芽を摘むためには、一刻も早い郭貴人の立后と皇子彊の立太子が必要だと、声を嗄らして主張する耿伯昭に対し、ブチ切れた皇帝が「そんなに皇后が必要なら、陰貴人を立后する!」と叫んで陰麗華の部屋へと飛び出していったのである。綸言りんげん汗の如し。皇帝に大々的に宣言されてしまうと撤回は難しいが、さりとて止める手段も思いつかず、なんとか軽挙妄動を押しとどめようと、群臣がゾロゾロついてきた、その面前での陰貴人自身による「固辞」。――いや、「不敢当めっそうもございません」と言う言葉は、皇帝の耳には「拒絶」に聞こえたかもしれない。


 地に頭をこすりつけ、髪を振り乱して泣きながら郭聖通の立后を懇願する陰麗華の姿を、皇帝・劉文叔はしばらく茫然と立ち尽くして見下ろしていたが、やがて震える両手をぐっと握りしめて何かを堪えているようであった。それからようやく気付いたように背後の群臣を振り返ってから、叩頭する陰麗華に歩みより、自ら膝をついてたすけ起こした。涙で濡れた頬に顔を近づけ、陰麗華にしか聞こえないように耳元で囁く。


 「……すまない……僕にとって運命の人は君だと、天下に告げたかった。もう君を、あんな風に泣かせたくなくて。……でも僕が間違っていた」


 床まで届く黒髪が陰麗華の肩を滑り落ち、黒い河のようにうねり、流れる。陰麗華が涙で滲んだ瞳で文叔の顔を見つめれば、文叔も陰麗華をまっすぐに見た。その顔が辛そうに歪んで、口元がもう一度「すまない」と言うように動いた。

 陰麗華を立ち上がらせ、駆け寄ってきた陸宣と侍女たちに委ね、文叔は群臣を振り返って立つ。


 「皆も、陰貴人の訴えは聞いたと思う。陰貴人は皇后に相応しい徳があるが、しかし、その徳ゆえに皇后の尊位を辞退し、子のある郭貴人に譲ると言う。――私も陰貴人の懇願を思い、彼女の希望に従おうと思う。……郭貴人立后のために吉日を選び、立后の準備に入るように命ずる」


 文叔の発言に、即座に李次元が膝をつく。


 「まことに聖王の御代みよに相応しきご決断。即刻、関係官吏に命じて準備に入ります」

 

 朱仲先が大きな声で叫んだ。


 「大漢皇帝陛下万歳!」

 「陛下万歳! 万歳万歳、万万歳!」

 

 その場の群臣たちが万歳を唱和する歓呼の声が、後殿に響き渡った。 



*1

陰麗華は見たことはないが、大司空の宋弘。この時、三公のうち雒陽にいたのは彼だけ。(大司徒鄧仲華→長安、大司馬呉子顔→南陽遠征中)



不敢当:現代中国語では、ほめ言葉に対して「とんでもありません」と謙遜する時に使うけれど、『後漢書』の用例を見れば、何か役職を固辞する時に使っている。「滅相もございません」と訳したけれど、「お断りします!」と訳してもいけるかもしれない。断固辞退するときに、謙遜の意味を込めて使う。

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