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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第九章 鴛鴦は梁に在り
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運命の二人

 和歓殿からの帰り道、陰麗華はずっと、何かを考えているようだった。弟の陰君陵も于曄も、そして趙夫人も気にはしていたが、はっきりと尋ねることはしなかった。自らの心の殻に閉じ籠ったまま後殿に戻ってきた陰麗華の耳に、小夏の話声が響いてきた。


 「何それ、ひっどーい! 雪香さん、そんな男、心配してやる必要ないですって! いい気味!」

 「でも小夏さん……」

 「だって、勝手に雪香さんを売り飛ばした男でしょ?どっかの皇帝陛下だって、売り飛ばしてはいないわよ?」


 思わずはっとして顔をあげる陰麗華に、軒先で丸くなって眠っていた母狗の柳が気づき、「ワフン」と鳴いて立ち上がって尻尾を振る。仔狗たちもわらわらと転がるように出てきて、「キャンキャン」と鳴いて、小さな尻尾を懸命に振っている。

 

 その鳴き声で陰麗華たちの帰還に気づいた小夏が、慌てて出迎える。小夏の後ろにいるのは、脩武からの帰り道に、馬車道に飛び込んできた女であった。


 「ただいま、小夏。大きな声で、外まで丸聞こえよ?」


 陰麗華が窘めれば、小夏はペロリと舌を出し、肩を竦める。


 「だってぇ!雪香さんの旦那さんったらね、聞いてくださいよ!」

 「小夏、おしゃべりは後で。みんな戻ってきたんだから、まず趙夫人にお湯を」

 「はーい、今すぐに!」


 小夏がお湯の仕度に下がり、陰麗華は雪香と呼ばれた女に目を留め、首を傾げる。


 「……えーと……」


 女は陰麗華に向かって丁寧に頭を下げた。


 「申し訳ありません、留守中にお邪魔をしてしまいました」

 「いえ、そうではなく……」


 あの時の泥まみれの姿とはまるで異なる、小ざっぱりした曲裾深衣に黒髪を背中でまとめた、侍女風の女を陰麗華は眺める。河北の出らしく色は白くスッキリとした顔立ちに、右目の下に泣きぼくろがあって、それがほんのりとした色香を添える、そこそこ美しい女で、年の頃は陰麗華と同じくらいであろうか。元は魏郡の内黄県出身の書生の妻と聞いていた。文叔は五月に、人身売買によって奴隷に落ちた者は、望めば故郷に帰れるように、との詔を出していた。夫や家族によって不当に隷属身分に落とされた者を、救済するためのものだ。


 「あなたは、故郷に戻られたのだとばかり……」


 陰麗華の問いに、雪香が睫毛を伏せる。


 「それが……皇帝陛下が手を尽くしてくださったのですが、わたしの里は盗賊に掠奪されていて、夫の行方もわからないのです」


 陰麗華が黒い目を見開く。


 「まあ、なんてこと」

 「夫は、どうも五校の賊に囚われてしまったようで……里も盗賊の支配下で、帰ってもろくなことはないと」


 雪香のいた里は、河北に跋扈する賊(武装集団)の一つ、五校の賊の襲撃を受けて里人の多くが攫われ、夫もその中にいたと言うのだ。


 趙夫人や于曄に促され、一同は堂の中に移動して、それぞれ牀に座を占めた。陰麗華は雪香に牀を薦めたが、雪香は身分が違うからと、床に膝をつく。于曄が梅漿を配るのは、遠慮しいしい杯を受け取った。


 「どうぞ召し上がって。……それで、どうなさるの?」

 

 陰麗華が尋ねれば、雪香が頭を下げた。


 「はい、それで……このまま後宮で、陰貴人様の下にお仕えしたいと思って……」

 「わたしの?」


 陰麗華がびっくりして首を傾げる。


 「故郷くにに帰っても、両親ももう死んでおりますし、夫は攫われています。それに……」

 

 雪香は細い肩を震わせ、泣きはじめた。


 「……どんな理由であれ、夫以外の男の慰み者になって汚された女に、まともな人生は無理です。だから、このまま後宮で働いて、一人で生きていこうかと」


 陰麗華はヒュッと息を詰める。雪香が他の男に身を任せなければならなかったのは、そもそも、夫が売り払ったせいなのに――。汚された女という表現が、郭聖通との対面で弱っていた陰麗華の心を抉る。


 陰麗華の脳裏に、劉聖公の下卑た笑い声が蘇って、思わず胸を押える。そのまま息ができなくなって、ずるずるとその場に頽れていく陰麗華に、気づいた于曄が慌てて駆け寄る。


 「お嬢様!」

 「陰麗華ちゃん、どうしたの?!」

 「いえ、その……なんだか息が苦し……」


 周囲が慌ただしく陰麗華を奥のしんしつに運び入れ、薬を煎じて飲ませたりと、堂は俄かに騒然となった。



 



 「陰麗華が倒れたって?――まさか、また何かひどいことを言われたわけじゃあ」

 

 知らせを聞いて駆けつけた文叔が、周囲の者に問いただす。一人、落ちついて牀に座っていた趙夫人が立ち上がって頭を下げた。


 「申し訳ございません、あたくしがついていながら。ですが、鄧曄将軍のお話でも、特にお心を傷つけるようなことはなかったのですが――」

  

 ずっとついていた鄧曄も頷く。


 「郭貴人様の掌の文字のお話でした」

 「ああ、あの吉兆の――」 

 

 文叔も首を傾げる。たわいもないというか、陰麗華がショックを受けるような話でもないと思えた。


 「しかし、ただでも向こうに子供が生まれて、陰麗華の細い神経は限界だったかもしれない。やはり、無理にあちらに行かせるべきではなかった」 

 「でも、いつまでも閉じこもって暮らすわけにはいきますまい。麗華ちゃんが少し前向きになってくれたんですよ。……こういうのは一朝一夕ってわけにはまいりません。一歩一歩、強くなってくれると、あたくしは信じておりますわ」

  

 文叔は溜息をつく。そうして初めて、普段はいない女がいることに気づいた。


 「あれ、お前は――」


 雪香が頭を下げる。


 「申し訳ありません、わたしが余計なことをお耳に入れたせいかもしれません」

 「余計なこと?」

 「わたしの夫の話を……それで――」


 文叔は眉を顰め、言った。

 

 「そうじゃなくて、なぜ、ここにいる? ここは特別の許可を得た者しか入れないよう、手配してあるはずだ」

 「はい。永巷えいこう令の林光さんに許可を得て、陰貴人様にお目通りを願ったのです。……お留守だったので、小夏さんと少し喋っていて……」

 「林光に?」


 永巷令は侍女や官婢を管轄する宦官である。


 「故郷に帰る当てがなくなったので、できれば後宮で働きたいと。……雒陽らくようには何の伝手もないので……」


 雪香はどうせなら、自分を助けてくれた恩人である陰貴人の下に仕えたいと、林光に申し出たのである。それで林光は一筆書いた上で、掖庭右丞えきていうじょうの陸宣のもとに送った。しかし陸宣は陰麗華の伴をして和歓殿に赴き、留守であった。

 本来なら、目当ての人がいなかった時点で戻るべきなのだが、たまたま留守番で退屈していた小夏が、待っていればいいよ、と堂の内に入れてしまったらしい。


 文叔がはあ、と深い溜息をつき、鄧曄も于曄も、陰君陵もあーあという目で小夏を見る。


 「え、ええ? で、でも、身許は確かだし、気の毒な方じゃないですか、別に中で待っていてもらっても……」

 

 うろたえる小夏に、趙夫人が噛んで含めるように言う。


 「もう陰麗華ちゃんは田舎のご令嬢じゃないのよ。皇帝陛下の貴人様なの。そんな気楽に、人を中で待たせたりしてはだめ。人を見たら全員、悪いヤツと思うくらいの気概で……」


 そう言われた小夏が、キョロキョロしたあげくに文叔を指差し、


 「悪いヤツ」

 

と言い、思わず文叔が反論する。


 「誰が悪いヤツだ!……耿伯昭がいたら、その場で切り殺されているぞ?」

 「えー……でも、麗華お嬢様を一番傷つけているのは間違いなく……」

 「うるさい、黙れ」


 文叔が言い捨て、それから雪香の方を見た。


 「今のところ、陰麗華の下は人手は足りているし、これ以上増やすつもりもない。後宮じゃなくて、別の場所の方がいいんじゃないのか。働き口なら、誰かの邸を紹介してもいい」


 だが、雪香は首を振った。


 「できれば後宮で働きたいんです」


 きっぱりと言って、雪香は下がって行った。

 

 

 

 


 文叔はしんしつの牀に近づき、薄い絹の紗幕を捲る。陰麗華が黒く長い睫毛を伏せて眠っていた。


 「……麗華……」


 文叔は魅入られたようにその寝顔を覗き込み、そして顔を近づけ、そっと額に口づける。


 「ん……」


 陰麗華が身体を捩り、口づけから逃れるように顔を背け、目を開けた。


 「……文叔様……」

 「気分は?」


 パチパチと瞬きし、起き上がろうとする陰麗華の肩を押え、文叔は体重をかけないようにして、唇を塞ぐ。優しく食むように幾度も口づけていると、陰麗華が肩を押しやって抵抗の意を示したので、諦めて身体を起こした。


 「……聖通に、また何か言われた?」

 

 文叔の問いに、陰麗華は慌てて首を振って否定した。


 「いえ、何も……郭貴人様のせいではなくて……その……」


 陰麗華は身を起こす。


 「わたしが弱いせいで……申し訳ありません」

 「麗華は悪くないよ」

 「でも……その……」


 文叔は陰麗華の顔を覗き込み、尋ねる。


 「どうしたの」

 「掌の、文字の話を聞きました」


 陰麗華の答えに、文叔が目を見開く。


 「ああ、あの話。……くだらないよねぇ」

 「ええ?……でも、文叔様は……それを理由に郭貴人様と結婚なさったわけでは……」

 「まさか! ……そんなこと言ったの? 彼女が」


 文叔が不愉快そうに眉を寄せたので、陰麗華は慌てて首を振った。


 「い、いえ、郭貴人様は、そこまでは……でも、〈太后〉になる運命を負っているから、あなたこそが天子になる方だからって……」


 そう言えば、文叔はますます眉間に深い皺を刻む。


 「ああ、あれ。……勝手に決めるなって……まさか、彼女が〈太后〉になる定めだから、僕が彼女と結婚したって思ってるの?」

 「そうでは、ないのですか?」


 陰麗華がじっと、文叔を見つめた。郭聖通の話を聞いて思ったのは、文叔は皇帝になるために、〈天子を産む〉と予言されている郭聖通と結婚したのだろうか、ということだった。


 「違うよ。真定王家と親戚になれば、河北の豪族連中を味方につけられる、って耿伯山が言うからさ。……あのころ、河北の豪族連中は、みんな邯鄲かんたんにいた偽のご落胤の劉子輿に味方して、僕は追われて逃げ回るしかなかった。劉氏と言っても、舂陵しょうりょうなんて誰も知らない田舎だしね。最初は耿伯山の伝手で、真定王と話をつける予定だったのに、気づけば郭聖通と結婚する羽目になっていて……もちろん、僕は南陽に君という妻がいるからって断ったんだよ。でも押し切られてしまった。……掌の吉兆の話を聞いたのは、結婚した後だよ。知ってたら死ぬ気で断ったのに、そんな曰くつきの女」

 

 ブツブツ言う文叔に、陰麗華は首を傾げる。


 「でも、彼女は〈天子を産む〉わけですから、彼女と結婚すれば――」

 「だって、天子になる資格のない男と婚約したら、その男は死ぬんだぞ? とんでもないじゃないか。騙し討ちにあったようなもんだよ」


 もともと、許嫁に三人も死なれている、という話は聞いていたのだという。


 「ただの偶然だとしたら、気の毒にとは思っていたよ。でも、吉兆の話を聞いて、僕は真っ青になったよ。僕はまだ死にたくなかったし。……聖通の方は、伯山から僕の話をいろいろ聞いて、僕こそ運命の人だって、勝手に決めてたらしいけど。……確かに僕が生まれた時にも流れ星が現れたり、嘉禾かかが生えたりはあったけど、それが天子になる吉兆かどうかなんて、誰にもわからないのに」


 文叔はウンザリだと言わんばかりに肩を竦める。

 

 「それに僕は、たとえ聖通と結婚したら皇帝になれるって言われても、そんな理由で結婚したりしない。そうまでして皇帝になりたくなかったし……」

 「でも……運命だったのでは……?」


 少なくとも、郭聖通の方はそう思って、妻のいる文叔との結婚を決めたのだ。文叔は陰麗華の目をまっすぐに見つめる。


 「前にも言ったけど、僕にとっての運命は君だけだ。……郭聖通にもはっきり言った。南陽の妻を愛している。ただ、真定王の援助が欲しいだけだって。形だけの結婚でも本当にいいのかって」

 「でも……じゃあ、どうして……」


 実際に子供が二人も生まれているのに――。


 だがそれを問い詰めるのは、はしたない気がして、陰麗華は目を伏せる。その様子から、陰麗華の言わんとすることがわかったのだろう。文叔は溜息をついて、首を振った。


 「――今更、全て言い訳になる。子供ができてしまったのは、その通りだからね。……君を裏切ったことは確かだ」

 「……それは、もういいのです……」

 「よくないよ。君はまだ、僕を夫として受け入れることができないでいる。それは、僕の裏切りが赦せないからだろう?」

 「違います……そういうわけでは……」


 陰麗華はしばらく伏せていた目をあげ、文叔をまっすぐに見た。


 「もう、お子も産まれたのですから、あちらにもお通いになるべきです。きっと、待っていらっしゃるわ」

  

 その言葉に、文叔が眉間の皺をさらに深くする。


 「君の目と鼻の先で、他の女を抱けるわけないだろ。僕はそこまで面の皮が厚くない」

 「でもそれじゃあお子が――」


 文叔は陰麗華を抱き寄せ、髪に顔を寄せて言った。


 「君が生んでくれれば万事解決――」

 「しません!」

 

 ドン、と文叔を軽く突き飛ばし、陰麗華が文叔を睨む。

 

 「夫としての責任ってものがあります。……妻の務めを果たしてない、わたしが言うべきではないでしょうけど」

 「もう二人も産んだし、十分だろう」 

 「そんなわけ……」


 言いかけた陰麗華を文叔が長い腕で捕まえると、その胸に抱き込んで、褶衣うわぎの袖で包み込むようにして耳元で囁く。


 「じゃあ、もう一人仕込んでおくか。……腹に子供のいる間は、あちらもうるさいことを言わないし」

 「なっ……」

 

 あまりの言いぐさに、陰麗華がカッとなって暴れるが、文叔はその動きをやすやすと封じてしまう。以前から力では敵わなかったけれど、戦場で鍛えた文叔は人間を制圧するコツを掴んでいて、陰麗華は全く歯が立たなかった。


 「ひどい、そんな言い方……」


 陰麗華の目から涙が溢れる。いったい何が哀しいのか。他に妻がいながら、愛しているのは君だけだと言い張る男の不実か、それとも他の女を平気で抱けると言わんばかりの態度か。――あるいは、男の愛に応えられない、自分の不甲斐なさか。


 泣き出した陰麗華の頬に、文叔は唇を当てる。


 「ごめん、不用意な発言だった。……でも、君は僕に聖通を抱けと言うくせに、本当に抱いたら泣くだろう。君が嫌だと思うことは、したくない。郭聖通を離縁して、天下の非難を浴びたって、僕は何とも思わない。でも、その批判は君に向かうかもしれないし、君もそれを望まないと言う。……どうしたら、君の希望に添うことができるの?」

 「……南陽に帰りたい……」

 「里帰りなら、いつかはするよ。今は待って」

 「そうじゃなくて……もう解放して……」

 

 文叔が無言で、両腕に力を籠める。


 「無理だよ。手放すことはできない。……たとえ君が、僕をもう、愛してなくても」

 「愛してなかったら……こんなに苦しくないわ……」

 

 堪えようとしても堪えきれない、陰麗華の嗚咽交じりの言葉に、文叔が奥歯を噛みしめた。


 「すまない……君を苦しめるばかりなのはわかっている。でも、僕は君を失ったら生きていけない」

 「嘘よ……あなたが皇帝として本当に必要なのは彼女で、わたしじゃないわ」


 文叔が息を飲んだ。


 「……どういう意味? 僕は――」


 少し緩んだ文叔の腕の戒めから抜け出して、陰麗華が文叔の顔を振り仰ぐ。


 「だって、あなたは皇帝になるべき運命にあって、彼女は天子の子を産む運命だった。運命の二人の間で、わたしにどうしろって言うの! わたしは――」


 とうとう決壊して声をあげて泣き出した陰麗華を文叔は抱きしめて、必死に宥めるように囁く。


 「そんなわけないだろ、愛しているのは君だけなんだから! 彼女は僕の運命の相手なんかじゃない!」

 「嘘よ、嘘つき! 嘘ばっかり! ……だって……」


 陰麗華の子は産声を上げず、郭聖通は難産の末に二人目の子も無事に産まれた。その事実が心に棘のように突き刺さって、陰麗華を抉り続ける。


 どれほど文叔が愛してくれているとしても、自分は文叔にとって、天の望まない相手なのか。

 ただ文叔の胸で泣きじゃくる陰麗華の背中を、文叔はなすすべなく撫で続けた。


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