彼岸へ
建武二年(西暦二十六年)二月。
皇帝・劉文叔は武装集団討伐のために河北に駐留する大司徒・呉子顔将軍ら諸将を慰撫するという名目で、雒陽を発って河北に行幸した。その際、初めて陰貴人を軍旅に伴った。
古来、戦争に女性を供なうことは珍しくはない。楚漢戦争の折りに項羽が寵姫虞美人を、高祖・劉邦が寵姫戚夫人を、常に傍らに侍らせていたのは有名な話である。皇帝クラスでなくとも、妻子や妾を伴って従軍する諸将軍も多く、それ自体はとやかく言うべきではないのだが、これまで戦陣に女性の影を見せなかった劉文叔が、明らかに女乗りの馬車に乗り込むのを見た将兵たちは、皆、何となく顔を見合わせる。
皇帝が、南陽から迎えた新しい寵姫に夢中だというのは、本当らしい、と。
馬車の横に騎馬で付き従うのは、二十代半ばの細身の男と、二十歳そこそこと見える、大柄な若者。どちらも大きな黒目がちの瞳と整った容貌に共通したところがあり、兄弟だと思われた。
「あれが、南陽の陰将軍――ほら、あの車の中のご寵姫様の兄弟だそうだ」
少し離れた場所で、兵士たちがコソコソと話しあう。
「まだ若いなあ、あれの妹ってことかあ。……そりゃあ、さぞかし……」
「陰氏って言えば、南陽でも一番の金持ちで、娘は郡一番の美女だって噂だ。それを皇帝に献上して、自分は高官に任じられる。たいした功績もないのに、あの若さで陰郷侯だぜ。……持つべきものは美人の妹だな」
「弟は黄門侍郎……まだ二十歳くらいだろうに、大した出世だよ」
皇帝の配下の兵士は潁川から河北一帯の出身者がほとんどで、彼らは陰麗華が南陽で劉文叔と正式に結婚していた事実など知らないし、政府側も公にしなかった。――文叔は不満ではあったが、重婚の事実を宣伝するわけにいかない、と李次元らに止められたのだ。そのしわ寄せは美人の妹を「献上」したと噂される陰次伯に向かうが、次伯は何を言われても馬耳東風と受け流していた。
雒陽を出た皇帝の一行は建義大将軍朱仲先と建威大将軍耿伯昭、偏将軍馮公孫の軍、そして皇帝直属の羽林騎の約五千騎と歩兵で、小平津の津から分かれて船に乗り、黄河を渡る。
渡河のために馬車から降りる女を、皇帝が自ら扶けおろす。馬車の周囲を守る兵士たちの目に、毛皮の縁取りのある白い斗篷を纏った華奢な女の姿が晒された。旅先のことで黒髪は控えめに結い、うなじのところで赤い紐で一つにまとめて、それが背中をするりと滑り落ちる。耳朶に白玉の耳璫が填められ、真珠をいくつも連ねた垂珠が揺れる。
ふわり、と光が舞い降りたかのような気がして、兵士たちが目を瞬く。陰麗華の髪に挿した金釵が光を弾いたのか、それとも女の美しさに目が眩んだか。
皇帝は腕の中の女を地面に下ろすと、腰を抱き込むようにして、ゆっくりと船を見る。女は珍しそうに、周囲を見回していた。長い睫毛に取り囲まれた大きな黒い瞳に、透けるような白い肌。儚げで可憐な雰囲気と、ほんのりとただよう色香に、周囲の兵士たちは、これは皇帝が連れ歩くのももっともだと、内心納得する。
「陛下、乗船の準備はできております。お早く」
建威大将軍の耿伯昭が皇帝を急かし、皇帝は頷いて腕の中の女を促すが、女は桟橋の脇に咲く蠟梅の、薄黄色の花に目をやって動かない。
「花が――」
「どうした?」
皇帝が尋ねれば、女が花を指さし、一枝強請ったらしい。
「陛下、刻限が――」
耿伯昭将軍が急かすが、皇帝は背後の背の高い、目鼻立ちがどことなく女に似た若者を振り返り、枝を指さす。若者が頷いて、桟橋の脇の蠟梅に向かおうとしたところ、ちょうど蠟梅の側に立っていた偏将軍の馮公孫が綺麗に咲いた一枝を折り取り、若者に差し出す。若者が馮公孫将軍に礼を言って、戻って女に手渡した。
「ありがとうございます」
恥じらいながら周囲に礼を言う声までが甘く匂うようで、見守る兵士たちも頬が緩んでいる。耿伯昭は一人、イライラと声を荒げた。
「陛下! お早く!」
「わかっている。――麗華、行こう」
「はい、申し訳ありません」
女は皇帝を急かす若い武将にちょっとだけ頭を下げ、蠟梅の枝を持って皇帝に寄り添って船に上っていき、その後ろに朱仲先以下、側近の将軍たちが続く。新顔の于匡将軍の後には、侍女らしき若い女が二人と宦官が一人、おずおずとついていく。――幼少期に南宮に没入されて以来、宮外に出たことのない陸宣は、緊張のあまりギクシャクとした歩き方になって、すぐ後ろについた鄧曄将軍にバシンと背中を叩かれ、ビックリして飛び上がる。
「落ち着きなさいよ! 取って食われたりはしないって」
「は、はあ……何しろ二十年ぶりに外に出るもので……」
鄧曄将軍が男装の女将軍だと、気づいた者がはたして何人いたか――。
黄河を渡る船の上で、耿伯昭はイライラしていた。
そもそも、陰貴人を河北に伴うと皇帝が言い出した時も仰天したし、反対もした。戦場に夫人を伴うことは別に珍しくないが、女の影をちらつかせない文叔を伯昭は好ましいと思っていたし、尊敬もしていた。
『何故、今更。陰貴人を河北に伴うなんて、危険だし、雒陽に残して行かれる方が――』
反対する耿伯昭に、文叔は一瞬、眉を顰め、言った。
『二年前、私が彼女を残していったことで、大変辛い目に遭わせてしまった。二度と同じ過ちをくりかえしたくないし、今度こそ自分で守りたい』
『ですが、お独りだけをお伴ないになるのですか? 郭貴人様はよろしいので?』
『聖通は赤ん坊もいるし、第一、妊娠中じゃないか。無理をさせる必要はない』
その素っ気ない言い方に、たとえ妊娠中じゃなくても連れていくつもりはなかっただろうと、耿伯昭は思う。懐から戻ってこのかた、郭貴人の住まう和歓殿には用があると呼ばれた時しか足を向けず、夜は必ず後殿の陰貴人の部屋に戻る。――一応、郭貴人が妊娠中だからと言い訳しているが、いくら何でもあからさまに過ぎる。
皇帝が新しい寵姫に夢中だという噂は、前朝にも広まっていた。
劉文叔が河北の兵力を糾合し、河北の雄として皇帝に即位したのも全て、真定王の姪である郭聖通と婚姻を結び、河北豪族の支持を取り付けることに成功したせいで、言うならば妻の郭聖通は、劉文叔を皇帝に押し上げた最大の功労者である。だが、真定王の謀反の一件もあって、郭氏を捨てて陰氏を皇后に立てるのではないかと、言い出す者もいた。
――皇帝陛下もただの男だったってことことか。
――やっぱり故郷の女は格別なんだろう。
――狡兎死して走狗煮らる。皇帝になっちまえば恩のある正妻なんて邪魔なだけさ。それより新しい女が可愛いのさ。
ヒソヒソと囁かれる噂を耳にするたびに、耿伯昭はギリギリと奥歯を噛みしめる。
河北の情勢はまだまだ流動的だ。河北の豪族が文叔に味方したのは、何と言っても真定王の姪の郭聖通と結婚したからで、その恩を仇で返すように郭氏を捨て去れば、河北の豪族たちは文叔に対して不信感を抱くだろう。
遊牧騎馬民族と境を接する西北辺境では、前漢武帝の曾孫を名乗る劉文伯という男が、匈奴単于(*1)と協定を結び、漢帝としての即位を狙っているとか。耿伯昭の父が太守として守る上谷郡や隣の漁陽郡は、常に匈奴の脅威にさらされてきた。匈奴が北辺から手を伸ばせば、河北の豪族たちも一挙に寝返るかもしれない。――河北の豪族を陣営につなぎとめるためにも、郭聖通の立后は必要だ。なのに肝心の文叔ときたら!
新しい寵姫に夢中なら、まだましだ。陰麗華は文叔の最初の「妻」で、郭聖通との結婚後もずっと彼女だけを想っていたのだ。しかし、陰麗華が最初の「妻」だったことは公にできない。――重婚の事実も明らかになってしまうからだ。だから陰麗華は、表向きは最近、南陽からやってきた新参の寵姫との触れ込みであり、その陰麗華を皇后にして、河北での苦難を共に乗り越え、皇子も産み、何の落ち度もない郭聖通を捨てれば、文叔の評判が地に堕ちてしまう!
文叔が打ち合わせのために船室に入ったのを見届け、耿伯昭は不測の事態に備えて甲板に残り、茶色く濁った黄河の流れを見渡していた。水音と、風の音、櫓を漕ぐ音と、漕ぎ手たちが歌う舟歌と――上空を白い鳥が飛び交い、対岸は白くけぶっている。
ふと見れば、甲板の手すりに女たちが固まって、河面を覗きこんでいる。
(何をしてるんだ、あんな端近に寄って……落ちたら大事だ!)
耿伯昭は眉を顰め、揺れる船の上を大股で歩み寄る。鎧の上から羽織った朱の斗篷が河風をはらみ、大きく広がるのを靡かせて近づいていくと、女たちはさきほど文叔が折らせた蠟梅の枝を、さらに手折って、小さな枝を河に投げ捨てていた。
それを見た耿伯昭は瞬間的に頭が沸騰した。
(陛下にわざわざ折らせた枝を――!)
陰麗華の黒髪が河からの風に嬲られて、白い斗篷がはためく。白く美しい横顔に思わず視線が吸い寄せられるけれど、何を考えているかわからない――。
大股で近づこうとする耿伯昭の肩を、誰かが掴んで止めた。
「何を――」
振り返れば、それは偏将軍の馮公孫であった。彼が耳元に顔を寄せるようにして、小声で言った。
「伯昭将軍、待たれよ。――陰貴人は二年前、子を死産されて、その遺体を黄河に流したそうだ。その子を、悼んでおられるのでしょう。しばらくそっとしておかれる方がいい」
「子を――」
耿伯昭ははっとして、船べりに佇む陰麗華を見た。
――陰麗華の頬は、涙で濡れていた。
次から次へと流れ落ちる涙を拭うこともせず、陰麗華は蠟梅の枝を折っては河に投げ入れ、全ての枝を折って流してしまうと、その場に膝をついて祈り始めた。侍女二人と小柄な宦官も、同様に河に向かって祈りを捧げ、男装の女将軍である鄧曄がそれを見守る。
「二年前、陛下は南陽に身籠った妻を残しているから、郭氏と結婚はできないと仰った。それを、河北豪族の支持を得るためだと、結婚を強要したのは我々です。その時の御子がもし、無事に産まれていれば、我々が主君の跡継ぎとして仰ぐべきはその御子だったかもしれない」
馮公孫の言葉に、だが耿伯昭は鋭く反論する。
「でも、無事に産まれなかったということは、要するに、郭貴人が天子を産むという予言が正しかったということじゃないのか? つまり運命というやつさ」
「そうかもしれない」
馮公孫はあっさりと同意し、だが祈り続ける陰麗華を懐かしそうに見て、言った。
「それが運命かもしれないが、陛下は陰貴人と、彼女が身籠っていた子を愛して、誕生を願っておられらた。子を失った陰貴人の目の前で、子があるからと郭貴人を皇后に立てるのを躊躇うのも、男として当然の迷いだと思う。私はね、洛陽での仲睦まじかった二人の様子を憶えているから、そんな風に迷う陛下のことを悪く言えないのですよ」
長い睫毛を伏せ、祈り続ける陰麗華の横顔に、いつしか耿伯昭は見惚れていたのだが、本人はそれに気づかなかった。
「何をしている?」
耿伯昭が我に返れば、船室から出てきた文叔が、陰麗華たちの方に歩み寄ってきた。鎧の上に黒い戦袍を着、さらに赤い斗篷を靡かせ、揺れる船上でも全く歩みは乱れない。その背後には側近の朱仲先と、陰麗華の兄の陰次伯。文叔が船端の陰麗華と侍女たちを見、それから、少し離れて立っていた耿伯昭と馮公孫の方を見たので、耿伯昭と馮公孫は頭を下げる。文叔は二人の将軍に向かって軽く片手を挙げてから、陰麗華の側に寄って行った。陰麗華が立ち上がろうとした時、船が揺れて陰麗華が体勢を崩す。あっ、と思った次の瞬間、文叔が素早く走り寄って、陰麗華を抱きしめて支えた。
陰麗華の肩を抱いたまま、文叔は背後の朱仲先を振り向いて、手を振って下がれと合図する。
「河風が強い。あまり長く当たっていると、傷寒をひく。少しだけだぞ?」
朱仲先の注意が風に乗って耿伯昭の耳にも聞こえ、侍女や鄧曄将軍らの護衛も二人から距離を置く。寄り添い合って河を眺める二人の後ろ姿を、少し離れて警護しながら耿伯昭は気づいた。
――もともと、二人はどこにでもいるただの夫婦で、身籠った妻と、妻を残して出征する夫でしかなかったのだ、と。
わずか二年、黄河を隔てている間に、二人を取り巻く状況がここまで変わってしまうなんて、誰も思わなかったに違いない。
「子供は、河に流したと聞いた」
「ええ――申し訳ございません」
文叔の言葉に、陰麗華が睫毛を伏せる。
「なぜ、謝る。謝るのは僕の方だ。君も、子供も守れなかった。……すまない」
文叔が陰麗華の華奢な肩を抱き寄せ、背後から抱き込むようにする。
「陛下、こんなところでは――」
「別にこのくらいどうってことはないだろう。……捕まえておかないと、君が河に落ちてしまいそうで怖い」
陰麗華が文叔を振り返るようにして見上げ、微笑んだ。
「そんなことは――ただ、あまり強く捕まえられると、鎧が痛いです」
「あ、ああ、すまない――」
黄色く濁った大河は滔々と流れ、どれほどの深さなのか見当もつかなかった。
「――河を、渡るのは初めて。前に見た時は向こう岸すら見えなくて……」
陰麗華が対岸を眺めながら言う。対岸はけぶってはっきりとは見えなかったが、生まれ育った南陽とは異なる、乾いた大地が広がっているはずだ。二年前、どれほど焦がれても越えることのできなかった黄色い大河を、今、陰麗華はやすやすと渡るのだ。
誰か河を広きと謂えるや、一葦もて之を杭らん
(いったい誰が、黄河を広いと言ったのか。
わたしの思いの強さがあれば、一本の葦さえあれば渡り切ってみせる)
「星は見えるのに、向こう岸は見えなくて……河の向こうのあなたは星よりも遠いと――」
「麗華……」
背後から抱きしめる文叔の腕に力が籠る。
「もう二度と、そんな辛い思いはさせない。だから――」
文叔の唇が陰麗華の、白玉の耳璫を填めた耳朶に触れる。
「また、僕の子を産んでくれないか。今度こそ、僕は絶対に君を守ってみせるから」
耳に滑り込む言葉に、陰麗華の息が止まる。思わず視線を逸らし、睫毛を伏せる陰麗華の耳元で、文叔がさらに言う。
「焦らなくていい。でも、僕は諦められない。一度も抱けなかったあの子をもう一度、呼び戻したい」
「それは――」
陰麗華は辛うじて、声を絞り出した。
「無理です。……もう一度生まれても、それはあの子じゃないわ」
「たとえそうでも、僕は君の子が欲しい」
強請るようなその甘い言葉に、だが陰麗華がゾクリとするものを感じて、思わず身じろぎする。
「……もう、あちらにお子様もいらっしゃる。そちらを可愛がって差し上げれば――」
「麗華。……やっぱり僕のことが許せない?」
陰麗華はただ、目の前に広がる、黄河の濁流を眺める。――あの日、小さな亡骸を籐の籠に入れて、陰麗華は流した。……産声すら上げなかった陰麗華と文叔の子を。
陰麗華があの痛みを乗り越えるのに、一年ほどの時が必要だった。……厳密に言えば、まだ、完全に乗り越えたとも言えないのかもしれない。
だが、文叔はその間に――。
許すとか許せないとかではなく、この人はもう自分のものではないのだと、郭聖通と対峙して感じたことが忘れられない。陰麗華は文叔の腕の中で身体を捩り、拘束から逃れようとしたが、文叔はさらに抱きしめる腕に力を籠める。
「離してください……」
「嫌だ。離さない――」
肩越しに振り返れば、陰麗華を見つめる黒い瞳と目が合う。
「言い訳はしない。僕は君を裏切った。君が、許せないと思うのも仕方がない。でも――」
文叔の黒い瞳がギラリと河を照り付ける陽光に煌いて、陰麗華はドキリとする。
「たとえ許されなくても、僕は君を愛しているし、手放さない。君にとっては不本意かもしれないが、君とは夫婦でい続けたいと思っている。君との子供も諦めるつもりはない」
「文……」
文叔さま、と言いそうになって、陰麗華は声を飲み込む。河風が強く吹きつけ、陰麗華の黒髪を巻き上げる。
「もう、陛下の正妻はあちらの方です。わたしを閉じ込めて囲い込んだとしても、わたしはあなたの妻ではいられない」
文叔が口で何と言おうが、傍から見れば陰麗華は正妻ではない、ただの寵姫。惨めな、妾と同じだ。
「麗華、二人きりの時は他人行儀はやめろと言っているのに……。僕が君を皇后にしたいと望んでいるのを、信じてくれないの?」
「もう、あちらに跡継ぎがいらっしゃるのだから、諦めて――」
「嫌だ」
文叔はそう言うと、陰麗華の肩口に顔を埋める。
「君は意外に頑固だね。――君も子を産んでくれれば、君を皇后にするのももっと楽に――」
「やめて!」
陰麗華が鋭く言って腕から逃れようとする。
「わたしは、側室になるのを承知した覚えはありません。この上、後継者争いに巻き込まれるなんて、絶対に嫌!」
「麗華、僕はそんなつもりじゃ――」
そこへ背後から朱仲先の声がかかる。
「文叔――じゃなくて、陛下。そろそろ接岸します。下船のご準備を」
「――ああ、わかった」
文叔はしぶしぶ陰麗華の肩口から顔を上げると、背後の朱仲先を振り返り、陰麗華をようやく解放した。
陰麗華がホッとして、船の進行方向に目を転じれば、黄河の対岸がすぐ間近に迫っていた。
――あの岸に下り立ってしまえば、戻ることはできない。このまま、文叔のただの寵姫として生きるしかないのだ。
陰麗華はふと、そんなことを思った。
*1 匈奴単于
漢と西北辺境を接し、中央アジア北方の草原を支配した遊牧騎馬民族国家。単于はその王の称号。前漢初期には冒頓単于が出て強盛を誇ったが、武帝時代に衛青・霍去病らの将軍との壮絶な戦争を経てしだいに分裂・衰退し、前漢の宣帝末、呼韓邪単于の時に漢に服属した。王莽の蛮夷蔑視の外交政策に反発して漢との関係が一気に悪化し、呼戸而尸単于の下で勢いを盛り返している。新滅亡後の内乱に乗じて劉文伯を支援して漢に親匈奴政権の樹立を狙っていた。
劉文伯:武帝の曾孫を自称して甘粛に割拠した。曾祖母が匈奴の渾邪王の姉で武帝の皇后となり、太子、次卿、回卿の三子を産むも、江充の乱によって太子は誅殺され皇后は死亡、次卿は長安の長陵に逃げたが、後に霍将軍が次卿を皇帝に立てた。回卿は匈奴の左谷に逃げて、子の孫卿を産み、さらにその子が文伯であると称した。(次卿は漢宣帝の字。宣帝は実際には武帝の子ではなく曾孫であるし、武帝の皇后が渾邪王の姉というのも事実と異なる。)甘粛の地は長安から隔たっているので、微妙な情報でも人々は容易に騙されたものであるらしい。




