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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第八章 肅肅として宵に征き
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臘祭

慧彼小星、維參與昴

肅肅宵征、抱衾與稠

寔命不猶  

  ――『詩経』国風・召南〈小星〉

かすかなる彼の小星は、しんぼう

粛粛として宵に征き、しとねかいまきを抱く

まことに命のひとしからず



 かすかに光るあの小さな星は、オリオン座とすばる星

 冷たい冬の夜の空を粛々と動いていく星々のように

 わたしも寝具を抱きしめて旦那様のもとに急ぎ、妾の務めを果たす

 わたしの運命が、恵まれた人々には遠く及ばなくとも


*********




 再会して明らかになったことだが、陰麗華は閨の行為を受け入れられない。――文叔に求められると、劉聖公に犯された時の恐怖が蘇ってしまうのだ。恐怖心、罪悪感、嫌悪感……さまざまなものが一挙に襲ってきて、どっと脂汗をかき、全身を硬直させ、ガタガタと震えるだけ。文叔はそのたびに陰麗華を落ち着かせ、恐縮する陰麗華の背中を撫でては、辛抱強く語り掛ける。


 「大丈夫だから。君が受け入れられるまで、僕は無理強いはしない」


 そうして二人、ただ、並んで横たわって朝を迎える。――そんな夜が幾晩も続けば、陰麗華の方が耐えられなくなる。


 「……わたしはいいから、あちらの方に……たくさん、御子を儲けなければならないのでしょう?」


 郭貴人の部屋に行ってくれと言っても、文叔はただ笑って首を振る。


 「あちらはちょうど妊娠中で、抱いたところで子供は増えないよ。……愛している君が側にいるのに、他の女を抱けるわけないだろ」

 

 むしろ文叔と同衾することで、罪の意識ばかりが膨らんでいくのだが、文叔は陰麗華とともに眠ることに拘った。


 「……裏切った分際で言えることではないけど、僕の奥さんは君一人だと思っている。君の眠る場所が、僕の眠る場所だ。追い出さないでくれよ」

 「裏切ったと言うなら、わたしこそ――」


 長い睫毛を伏せて俯く陰麗華の言葉を、文叔は指で唇を塞いで、皆まで言わせなかった。


 「もう、そのことは忘れなさい。野良犬に噛まれた程度のことだ。――何もなかった」


 だが、現実問題として、皇帝の後宮に備わるならばなおさら、皇帝との閨が受け入れられない妃嬪など、要するに欠陥品ではないか。


 「でも本当に、わたしは文叔さまの……いえ、皇帝陛下の妻には相応しくないわ。だから、南陽に帰してください」

 

 どのみち、後宮の一員になるつもりはなかったのだ。


 「……麗華、君ねえ……君はもう、僕の貴人で僕の寵愛も受けているんだよ。さすがに、そんな女をおいそれと南陽に返せると思うの?」

 

 そう言われて、陰麗華は愕然とした表情で文叔の顔を見上げる。まだ、枕元の灯台ランプには火を入れているから、帳の中はぼんやりと照らされ、文叔の彫りの深い顔の影が揺れる。


 「でも! わたしはずっと離縁してほしいとお願いして!……そんなっ……」

 「僕は離縁しないと、何度も言っている。君を手放すつもりはない、とも。……確かに、僕は君を抱いていないけど、もう、幾晩もこの部屋で、一緒の臥牀で眠っている。傍からは、僕は君に夢中だって見えるだろうね?」


 文叔の整った顔が陰麗華の顔に近づき、頬に唇が触れ、するりと滑って首筋を這う。


 「文……」

 「離さないよ。……君は僕のものだ。もう、諦めなさい」


 両腕で包み込まれ、息もできないくらい力を込めて抱きしめられる。思わずその硬い身体に両腕で縋りなからも、しかし、これでいいわけはないと、陰麗華は思う。


 「……でも、それじゃあ……御子が……」


 郭貴人が生んだ皇子と、現在、彼女が妊娠中の赤子と。――皇帝の子が、たったそれだけでいいわけはない。


 「まさか、君は永久に僕を受け入れない決意を固めているわけじゃないよね?」

 

 文叔が不安そうに眉尻を下げて問えば、陰麗華は慌てて首を振る。


 「そんな……つもりは……でもっ」

 

 でも、このままズルズルと側室に落とされて、飼われる覚悟まではできていなかった。――そんなことになったら、兄の陰次伯や、故郷の母は何と言うか。そして鄧少君は。


 「……わたしは、ただの南陽の一士大夫であった、劉文叔の妻になったのです。皇帝の側室なんて――」

 「側室にするつもりはないと、前から言っている。……少し、根回しが必要だから、しばらくは中途半端な立場を君に強いてしまうけれど、耐えてくれないか」

 「皇后なんてなおさら――」


 皇子を産んでいる郭貴人を差し置いて皇后になったりしたら、どんな非難を浴びるか。想像しただけで恐ろしくて、陰麗華は南陽に帰して欲しいと文叔に懇願する。だが、文叔は絶対にうんと言わなかった。


 「僕が愛しているのは、君だけだ。絶対に守るから、信じて――」


 文叔の唇が、陰麗華の唇を塞ぐ。大きな手がうなじを支え、貪るように絡め取られていく――。






 建武元年(西暦二十五年)の十二月。劉文叔が即位して、初めての年の瀬を迎える。漢の一年はろう祭で終わる。

 臘祭とは、冬至の後に百神を祭り、身分の上下を問わず、郷里の親族知人が正装して集まり、大いに飲食する習わしである。漢は五行(木・火・土・金・水)では火徳を重んじ、火徳はインに生じ、に盛んになり、ジュツに衰えるとされ、故に冬至の後の戌の日――つまり火徳がもっとも衰える日――に臘祭を行い、漢徳の再生を祈るのである。

 

 「漢」を復興した、という名目である劉文叔政権にとって、最初の臘祭は、さまざまな意味でも盛大に祝いたい行事だった。

 劉文叔は前朝、つまり正殿の却非殿前殿に百官を集めて酒食しゅしを賜い、その後、後庭に近親者を集めて臘日の宴会を開くことにした。劉文叔が洛陽の支配者となって二か月。河北や東海からの物流を何とか復活させ、洛陽市民が臘祭を細々と祝える程度には、食料事情も改善しつつある。耐乏生活を強いてきた臣下、民衆も、少しは羽目を外す日が必要だ。


 「主には南陽からやってきた僕の親類連中ばかりだよ。せめて年の瀬の臘くらいは祝いたいからね」


 臘祭の宴会への出席を遠慮しようとした陰麗華に、文叔は言った。気心の知れた者ばかりだから、と説得され、陰麗華は渋々頷く。


 「僕らは前朝での会を済ませてから向かうから、開始ギリギリになると思うけれど、先に入って待っていて」


 陰麗華は当日、正装して、弟の陰君陵と侍女の小夏、宦官の陸宣に付き添われ、却非殿後殿の部屋を出た。陰麗華の耳朶には文叔が穿った孔に白玉の耳璫みみだまめられ、細い孔に糸を通し、いくつもの真珠の垂珠が揺れている。


 「姉さん、すごい綺麗だよ……」


 弟に言われ、陰麗華は困ったように目を伏せる。


 「そ、そう?……ありがとう?」


 陰君陵は背が高く体格もよく、母方の鄧氏の血なのか、鄧少君に似た雰囲気があった。ふと、鄧少君が昔、自分は鄧氏の血を引いていないかもしれない、と言っていたのを思い出す。


 (君陵と少君が似ているのに気づいていたら、あの時、そんな杞憂を否定してあげられたのに……)


 もう、南陽に帰れない陰麗華を、鄧少君は諦めてくれればいいのだが――。


 なんとなく気まずくて、陰麗華は目を伏せる。

 正妻だったはずなのに、貴人という中途半端な地位に墜ちてしまった自分を、弟や家族はどう、思っているのか。――母は相変わらず、陰麗華を赦してはいないのだろう。きっと君陵を洛陽にやるのも反対したのを、兄の次伯や君陵自身が押し切ったのだと思うと、自分のせいで家族がバラバラになってしまったことが、申し訳なくてならなかった。

 

 てぐるまに乗せられて会場の嘉徳殿に乗り付ける。宴会の用意のできた堂は北側が数段、高くなっていて、一番上の段には百神への祭壇が設けられている。次の段、中央に南面する形で皇帝の席がしつらえられ、その左右に二人の貴人の席と思しきものがあった。皇帝から見て左側の席に、郭貴人らがすでに座を占めていた。当然、右側の席に案内されると思ったのに、出迎えた宦官が案内した場所は、堂の隅の方の、下座であった。


 「陰貴人様のお席はこちらにございます」


 その宦官は、二年前は趙夫人に顎で使われていた、掖庭えきてい令の孫礼で、言葉遣いは丁重ながら、どこか有無を言わせぬ雰囲気があった。陰麗華が何か言うより早く、陸宣が慇懃いんぎんに頭を下げて言った。


 「お待ちくださいませ。小官が主上おかみより承っておりましたお話と違います。この位置はおかしくございませんか」


 その返答に孫礼が露骨に舌打ちした。


 「和歓殿の太夫人様のご意向なのだ! お前はわしに逆らうのか?」


 強引に押し切ろうとする孫礼に、陰君陵も反論する。


 「おかしいではありませんか、姉は貴人です。あちらの貴人と同等の立場のはずです。陛下は、なんと仰っているのです?」


 長身の陰君陵に詰め寄られて、孫礼が鼻白む。


 「とにかく、お席にはご案内申し上げましたので!」

 「ちょっと!」


 孫礼が捨てセリフのように言い残してそそくさと去っていく後ろ姿を見ながら、陰麗華が陰君陵の袖を引っ張る。


 「……も、もういいわ、ここで……最初の乾杯だけ済んだら、早めに失礼しましょう……」

 「お嬢様、気弱に過ぎませんか? こんな、あからさまに貶められているのに……」


 小夏が呆れたように言うが、陰麗華は郭貴人周辺の悪意を感じただけで、もう、この場にいたたまれない気分になっていた。

 やはり来るべきじゃなかった。どれほど文叔が陰麗華こそただ一人の妻だと言い張ったところで、劉家の秩序から言えば、妻の座を失った惨めな女でしかない。こんな場にノコノコ出てきて、自分だけでなく、陰家をも貶めることになるというのに迂闊なこと――。


 陰麗華はもう、誰にも気づかれないうちにこの場から去りたいとだけ思い、抗議しようと言う弟たちを留めて、導かれた牀に腰を下ろす。周囲の人波が、ちょうど自分を隠してくれることを望みながら。

 

 「麗華!」


 しかし突然、背後から声を掛けられて、陰麗華ははっと顔を上げた。


 「なんでこんな場所に? おかしくない?」


 そこには腕を組んで仁王立ちし、いぶかしげに眉を顰める劉伯姫がいて、小夏が早速言いつける。


 「ほら、あの女狐が上手いこと言って追いやったんですよ。お嬢様ったら反論もできずに大人しく言うがままで――」

 

 伯姫は壇上の郭貴人らと反対側の空いた席を見て、だいたいの事情を察したらしい。


 「わたしから言ってあげようか? おかしいわよ。だいたい、あの空いた席はどうする気なの」

 「もう、いいの。騒ぎになったら……」


 俯くばかりの陰麗華に、伯姫が溜息をつく。


 「そんなんで、これから先、やっていけるの……って、やっていけないから帰りたいって言ってたんだったわね……」

 「陰貴人様の大人しい性格に付け込んだ、あちらの嫌がらせでございますよ」


 声を潜めて陸宣が言い、劉伯姫が嫌そうに顔を歪める。


 「ホント、陰険ねぇ。妻のいる男に無理矢理結婚を迫って、正妻を追い落としただけのことはあるわね」

 「伯姫、声が大きいわ……」


 陰麗華が伯姫の袖を引っ張るけれど、伯姫は歯牙にもかけず、ジロジロと郭貴人らを観察した。


 「だいたい、あの女、いくつよ? 麗華よりもうんと年上に見えるわよ?」


 伯姫の問いに、陸宣が答える。


 「次の正月で二十七とうけたまわっております」

 「ええー? 兄さんたら、そんな年増女に引っかかって!」

 「しいー! 聞こえますよ、伯姫さま声が大きいです!」


 さすがの小夏も伯姫を窘める。陰麗華も郭聖通の落ち着いた様子から年上と予想はしていたが、まさか五歳も上だとは思わなかった。


 「それにしたって、こんな下座に押し込めるなんて、悪意ありまくりじゃない。麗華も理不尽なことにはちゃんと立ち向かわないと、側付きの者が苦労するのよ?」


 劉伯姫の指摘の通りで、陰麗華は目に涙を溜めて俯くしかない。


 「ごめんなさい……わたしが……」

 「ああもうっ麗華の性格はわかっているけどさ! 兄さんもなんだって、もっとちゃんと――」


 劉伯姫が悪態をついた時、その上座の方から言い争いが聞こえてきて、皆、注目する。どうやら郭貴人らの集団に、着飾った中年の女が文句をつけているようだ。


 「……黄姉さん……」


 それは文叔の長姉・劉君黄であった。


 「だって、おかしいじゃない。どうして文叔のよめが、文叔の姉であるあたしより、上席についているの? よめならよめらしく、もっと下座について、酒運びの手伝いくらいしなさいよ」

 「な、なんですってぇ! あ、あたくしの聖通に向かって、なんて口のきき方を……」


 呆然とするだけの郭聖通に代わって、真っ向から反論しているのは、その母親らしき太った色の白い女であった。


 「あたくしの兄は真定王なんですのよ! 聖通はその娘で――」

 「シンテイオウ? ああ、河北の落ちぶれた王様ね? あたしの弟はコウテイヘイカってのになって、王様より偉いんでしょ? だったらその姉であるあたしの方が、上に決まってるじゃない」  

 「んまあ、何ですってぇ?!」


 劉君黄は腕を組んで傲然と肩をそびやかし、上から威圧するように郭聖通とその母を睨みつけている。郭聖通もここまで直接的に攻撃された経験はないのか、また仮にも夫の長姉に対しては反論もできずに固まっている。母親の郭主の方はぶるぶると身体を震わせ、今にも憤死しそうである。


 「伯姫……止めないと……」

 「無理よ、ああなった姉さんは誰も止められっこないわ」


 そう、長姉の劉君黄、普段は外面よく大人しくしているのだが、いったん、スイッチが入ると明後日の方向にぶっとんで暴走していくのである。孫礼ら、宦官たちも右往左往するばかりで、成り行きを固唾を飲んで見守っていた時。

 前朝、却非殿での儀式を終えた皇帝と側近官たちがようやく現れ、異様な雰囲気に息を飲んだ。


 「いったい何事です……黄姉さん? 義兄にいさんもお久しぶりで……」

 

 皇帝・劉文叔が戸惑いを隠さずに問えば、妻の暴挙を窘めようと、隣で必死で袖を引っ張っていた、顔色の悪い、小柄な中年男がぎょっとして飛び上がる。


 「ヒッ、文叔君……じゃなくて、皇帝陛下!……その、家内がその……」

 「あら文叔!やっと来たのね!聞いてちょうだい! 今日は劉氏の内輪の集まりなのに、よめが大きな顔して上座に座って、酒運びの手伝いもしないのよ! アンタ、嫁の躾がなってないんじゃないの?!」


 劉君黄は本気で郭聖通に酒を運ばせる気なのか、と周囲が真っ青になり、そこへ切り裂くように郭主の甲高い声が響きわたる。


 「陛下! どういうことなんですの! この南陽の田舎女、なんとかしてくださいまし! あたくしの聖通に酒を運べだなんて! こんな侮辱! 河北のあたくしの兄が聞いたら――」


 同時に左右から言われて、文叔がまあまあと両手を上げて宥める。


 「ちょっと待ってください、めでたい臘の宴会にいったい――」

 「真定王だか何だかしらないけど、妙にスカしててムカつくわ! アタシはこんな女、嫁とは認めないわよ!」

 「なんざましょ、田舎臭くてうんざりするわ! 同じ劉氏とは思えないわね! これだから傍系は!」

 「あら、真定王だって同じ景帝の子孫なんだから、たいして変わりゃしないわよ! ウチが傍系なら、アンタの家だって十分、傍系じゃない!」


 無駄に情報通な長姉の劉君黄は、真定王家の家系までちゃんと踏まえていて、伯姫が思わず吹き出す。文叔も姉の暴走には慣れているのか、少しばかり困惑した表情で周囲を見回し、本来なら陰麗華を座らせるはずの席を姉の劉君黄が強奪し、さらに郭聖通にまで喧嘩を売っている状況を理解する。さて、陰麗華はどこに、と視線を巡らすが、人波に阻まれて見つけることができない。

 文叔はコホンと咳払いすると、よく通る声で言った。


 「まあまあ、姉さんも太夫人も、落ち着いてください。……たしかに、これは劉家の内輪の宴席ですから、家族秩序に則った席順にしましょう。一番の上席は、叔父上か、本家の劉巨伯殿か――」

 「陛下それは――!」


 文叔のすぐ後ろにいたこう伯昭がぎょっとして留めるが、文叔は首を振った。


 「いにしえ、第二代皇帝の恵帝陛下は、家族秩序に従い、庶兄の斉悼恵王に上座を譲ったそうですから。――我が家には呂后のような恐ろしい母親もおりませんし」


 文叔が殊更に郭主に微笑みかければ、彼女も口を噤む。

 ――恵帝の生母呂太后は、庶腹の長男が上座につくのを許せず、悼恵王を毒殺しようとし、恵帝がすんでのところで防いだ、という故事がある。稀代の悪女呂后の名を出されては、郭主としてもそれ以上言えなかった。


 文叔は宦官たちに指図して、最上段を叔父の劉次伯の席とした。劉次伯は孤児となった文叔の面倒を見ていた功を誇るところがあり、かつ、もとより厚かましい性格だったので、嬉々として上席につく。一方、本家の劉巨伯は常識ある人物で上席を辞退した。次の壇を劉巨伯、長姉・劉君黄とその夫・胡珍の席、反対側に文叔と郭聖通らの席を設えれば、劉君黄も納得したのか黙って席についた。――ここで陰麗華を上座に連れ出せば、折角納得した郭主や劉君黄が再び不満を言い立てるに違いない。劉文叔は瞬時に判断したらしく、ひとまず宴会を開始させた。


 多少のすったもんだの末に、即位初年、建武元年の最後を締める、臘の宴がようやく始まった。





 


 陰麗華とその周囲の者たちは、乾杯がすんで座がくだけたあたりで、ひっそりと宴会を抜けた。夜の中をてぐるまに乗り、ふと頭上を見上げれば、冬の星座が煌いて、吐く息が白い。――こんな惨めな思いをするために、洛陽まで出てきたわけではないのに。自身の弱さが、周囲の者をも貶めている。それがわかっていても、どうやったら強くなれるのか、陰麗華にはわからなかった。

 

 後殿の部屋に戻って、方爐ひばちの火を掻き立てて冷えた指先を温めていると、兄の陰次伯が数人の宦官を連れてやってきた。文叔はすぐに陰麗華が座を外したことに気づいたが、自身は抜けることはできないので、料理と酒を宦官に運ばせるよう、陰次伯に命じたのだという。宦官らに命じていまに料理をならべ、酒を温めさせながら、次伯も少しばかり疲れたような表情をしていた。


 「……結局、大人しい陰麗華に全て飲み込ませて、誤魔化しているだけだったな」

 「抗議するべきだ。こんな屈辱的な扱い」

 

 若い陰君陵は腹に据えかねていたが、陰次伯は首を振る。


 「今回は文叔の詰めが甘かった。あの郭主とかいうオバチャンと、掖庭えきてい令にしてやられた。宦官があそこまで和歓殿に取り込まれてるとは、予想してなかったようだね」


 文叔の予定では、自分の両脇に郭聖通と陰麗華の二人の貴人を並べて、同等に扱うことを親戚連中に示すつもりだったが、席の並びを見て郭主がそれに気づき、陰麗華の席を強引に下げたのだ。


 「かつて、文帝陛下の時代にもあったらしいけど、正妻と側室の争いってのは怖いねぇ」

 「……ごめんなさい、お兄様……」


 陰麗華がしゅんとして顔を俯ける。自分がもっと毅然として、上席にふてぶてしく座っていたら。兄弟たちに申し訳なくて、陰麗華はいたたまれない気分になる。


 「あー、気にするな。どうせあの、文叔の姉貴がしゃしゃり出て、滅茶苦茶になってただろうから――」

 「宛から洛陽まで、ご一緒しましたけど、普通に親切な方だと思っていましたのに」


 陰麗華がせないという風に首を傾げる。小夏が手でほしにくを裂きながら、ふと言った。


 「もしかしたら、あの人なりにお嬢様に味方しようとしたんですかね?」

 「……だとしたら迷惑過ぎる」


 主従無礼講で料理を囲んで、陰麗華は胡餅こへいと呼ばれる、麥の粉を水で溶いて焼いた、西方由来の食べ物に肉醤をつけて食べる。


 「あんな場では食欲も出なかったから、ここで食べられるのはかえってよかったわ。――小夏も、陸宣も、あ、鄭麓さんも遠慮しないで食べてね?」

 「勿体ないお言葉でございます」

 「小官に敬称などは不要に願います。……このにこみはなかなかの味ですね」


 宦官や使用人をも巻き込んだささやかな宴に、陰麗華はこれはこれでよかったと思うことにした。



 


 深夜に戻ってきた文叔が、再びの土下座祭りだったことは、言うまでもない。



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